『魔法少女まどか☆マギカ(PUELLA MAGI MADOKA MAGICA)』 監督新房昭之 脚本虚淵玄 まどかは何を救ったのか?〜世界には解決すべきでないことがある

魔法少女まどか☆マギカ 1 【完全生産限定版】 [Blu-ray]

評価:★★★★★5つのマスターピース
(僕的主観:★★★★★5つ)

先程12話視聴終了。ガッツリ書こうと思うと、描けなくなってしまう昨今なので、思いついたことを寝る前に(いま真夜中の3時)メモしておきます。気力があれば、書き足します。ちなみに、物凄い傑作に出会ったな!と感動でいっぱいです。超面白かった!!。たった12話でここまで!!と思いと、虚淵さんってほんとうに『ファントム』で描いた「あの草原の向こう」を見れたんだなーと感動しきりです。彼にとって、FateZeroという作品は、ほとんど主張を変えず、絶望ではなく希望を語ることを可能にした素晴らしい出会いだったんだな、と思います。いやもちろん虚淵さんだけで作ったわけではないので、作家主義に還元しすぎるのは、なんだな?というのはありますが、そういう語り口、ということで。まぁ、虚淵さんの問題点を押さえていくと、このまどかマギカって、見通しやすいんですよ。

Phantom INTEGRATION Nitro The Best! Vol.1
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Fate/Zero(1) 第四次聖杯戦争秘話 (星海社文庫)
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視聴直後の感想としては、初期の「見立て」というか仮説は、正しかったと思う(自分的に)。この12話のアニメーションは、並行世界のループものという90−00年代にあった物語類型の総決算の一つであって、「その次」を見せてくれたものではなかった。切り口の良さとしては、まだ解体されていない「魔法少女モノ」というジャンルに焦点を当てた戦略は、見事だと思う。が、マーケティング的には予測できるものだ(まぁでも、そこに目をつける凄さってのは、あるよね。)。そういう意味では、かなりマイナス的な全体評価をしているようにみえる、↓下記の評価はほぼ正しかったと思います。並行世界のループ、自意識の告発からそこからの脱出というこれまで培われてきた物語類型の、12話程度の短い時間で過不足なくマクロもミクロも表現しきるその洗練度合いのレベルの高さを除けば、いままであった物語とそれほど変わりはありません。『ひぐらしのなく頃に』『マブラブオルタネイティヴ』『紫色のクオリア』などなど、これまで類型の代表例として語り続けていた作品と脚本構造はほとんど同じです。

基本的に一番アニメの中では分かりやすいのは、庵野秀明監督の『新世紀エヴァンゲリオン』の地球を守るためよりも自意識の肥大化の方が勝っちゃう「僕は乗らない宣言!」がこのテーマの典型的なドラマツゥルギーなんだけれども、、、、このテーマってこの20年間くらいでやりつくされて正直「次はどうするの?」ってステージに既に入っているんだよね。けどそれ故にこの自意識の肥大化を告発して、世界の不条理さを個人に還元して詰問してアノミーを誘う物語類型は、非常に洗練されてきているし、まだまだ十分に「逃げ込める場所がある」ところでの解体作業には、高い威力を発揮すると思います。だから、当然話題にはなるし、感情的にこれが「許せない!」と反発する人も多いと思うし、かつ、こういった自意識の解体を迫るものは非常に批評的視線を受けやすくて「みんながみんな語りたがる」ものなんですよね。この系統の話は、自己のトラウマや世界への姿勢を明確に表すので、感情的に「語りやすいモノ」なんですよね。だって、「命を賭けて戦いますか?どうしますか?」という問いは、人生における態度を非常に表すからね。


でも、物語の中身を「語る以前」の問題として、そもそも出し手はどういう意義や目的でこの脚本を出したのかな?って思います。いやまー上にあげたように、「戦闘魔法少女モノ」は、まだ自意識の告発による解体を受けていない残されたジャンルだったので、「それを解体して逃げ場を人から奪う」という作業は、注目を集めるし、やってみようぜ!と思うに不足のないテーマだとは思いますがねぇ。・・・・が、全体を俯瞰してみると、90−00年代でやりつくしていて、かつ「そんなふうにマイナスに世界を見ていても何も変わらないじゃないか?」とかかなり袋小路に入っているテーマなので、いまやる意義はなーと思ってしまうんですよ。まぁ、面白いテーマなのはわかるんですが。脚本家の虚淵玄さんは、こういう「文脈とは関係なし」に、悲劇を物語るのが好きな人なので、それはそれで期待はするんですけれどもね。そういう意味では、こうしたテーマを語る文脈的(というか時代背景的)には、一長一短だと思う。でもまー文脈論だけで物事を語るってナンセンスなんですけどね。物語は時代の反映であるべきではないものだしね、基本的に。



解体して逃げ場を人から奪うってのは、確かにショッキングだよね
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20110211/p1


がっ、しかし、、、、僕は視聴後の感覚が、素晴らしくいい!。大絶賛です!。これが見事な傑作だったんだな、というのは、そういった類型のパターンを見事にバランスをがとられていること・・・12話で押し込むのは見事しか言いようがない。ちょっと信じがたいくらいだよ。だって、マブラヴオルタやひぐらしのループものの、長さから考えると、信じられない省略短縮形であるにもかかわらずほぼこのテーン間を語りきっている。そしてにもかかわらずキャラクターたちへの視聴者の感情移入が決して損なわれない(マクロや説明に逃げない)。そういったバランスの良さが、いってみれば洗練さが、素晴らしいレベルをこの作品にもたらしていることが一つ。

マブラヴ オルタネイティヴ(全年齢版)
ひぐらしのなく頃に 第一話 鬼隠し編 (上) (星海社文庫)
ひぐらしのなく頃に 第一話 鬼隠し編 (上) (星海社文庫)

もう一つは、やはり虚淵さんが、Fate/Staynightの構造を徹底的に解体することで学んだポイントがこの作品に生かされていること、だと思うのです。以下、視聴同時にtwitterに書いたことを加筆しながらが説明してみたいと思います。ちなみに、過去の記事も援用してかなり省略しているので、全部ヒマなら、そして読む気があると思うのらば、ぜひ読んでみてください。僕が感じたことが、少しでも伝われば・・・。まぁベットラジオでもこれをすべて説明するつもりですけど。読んでおいてくれれば、確実に、理解度が高まると思います。



閑話休題(それでは、リアルタイムのTwitter+加筆より)



これ、10話は、『紫色のクオリア』だね。10話だけで、見事に完成しているよね。この告白タイムを、ぴっちり30分のアニメ枠で演出しきるのは、うまいなー。上手いとしか言いようがないよ。

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20091008/p2

紫色のクオリア (電撃文庫)
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虎よ、虎よ! (ハヤカワ文庫 SF ヘ 1-2)
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まどマギの11話視聴終了。いやーこれだけの話を、12話に詰め込んだ力量に感心。こりゃーへヴュー級の傑作だ。まだ終わり見てないけど(笑)。12話で、並行世界のループ類型の話を演出しきれちゃうってのは、この作品が、00年代のやはり集大成になんだろうなー。ひぐらしやマブラブオルタがあれだけ長いことを考えれば。短くても同量の熱量が持てるというだけで、それはそれで凄まじいことなのだと思う。こういう誤った一途さでも、貫くって、僕は好きなんだよなー。それにしても、希望を持つことがすなわち絶望につながるってのや、感情的に正しい動機がすべての過ちの根源になる構造とか、虚淵さん脚本の良さというかFateで学んだものを見事に脚本に溶け込ませているところは、素晴らしい。十分に出つくしてて、、、うーん、12話でも、出来る人にはできるんだなーと思う。いいなーこのストーリーへの感情移入がある段階で、主題歌とか、ぐっと来るなー。これって、「いい作品」なんだろうなー。リアルタイムで見た人が幸せな作品。『紫色のクオリア』でもなんでもそうだけれども、Fateの核心部分(セイバー編ね)というのは、その願いがどんなに切実でも、その動機がどんなに感情的には正しくとも、世界の改編自体は個人が行ってはならないんだ!ということ。それこそが真の絶対悪なんだ、ということ。虚淵さんが、、、絶望しか書けなくなったと言って、FateZeroに取り組んだ時の彼が見たものの、根本は、↓だと思うのです。まずこれは、世界のグランドルールだ、と僕は思っています。基本的に、物語というのは、「世界を個人の都合のいいように変えたい」という動機からスタートするのですが、そのよく得をすべてはぎ取って、衛宮士郎のように、その切実なる願いが、真摯で、感情的に否定できないほど、正当性のあるものであっても、、、、それは、世界にとって正統ではあり得ないというものなのだと僕は思います。さまざまな、世界改編の物語は、このグランドルールに対抗しようとする物語になります。不老不死の話や吸血鬼の類型も、この構造です。

Fate stay night』 人を本当に愛することは、愛する人の本分を全うさせてあげること、、、たとえがそれが永遠の別れを意味しても
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20080802/p2

フェイト/ステイナイト[レアルタ・ヌア] extra edition

さて『ファントム』で「草原のラストシーン」(めんどくさいの説明省く、知っている人は知っている)をもって、僕は、彼が、マテリアルな絶望を描く人だ、と書きました。世界の構造を「最悪のケース」で考えていくと、構造的に何もかもがどうしようもなくなっていく、、、それを、たんたんとあり得る最悪のケース(確率的に十分にあり得ることで)を、淡々と描いていくと、個人はどうにも救われないんだな、ということを、本当に職人のように淡々と描いていく(苦笑)。そして、彼は絶望しか描けなくなった。しかしながら、FateZeroに彼は出会う。


この構造が最高だったんですよね。というのは、士郎の父親であるキリツグ(漢字変換できないのでこのまま)の話なんですが、ほぼStyaNightと同じ構造で、全てに裏切られて絶望していく男の話なんですよね。見事に描けるんですよ、これが(笑)。全てが裏目に出て、人が最悪の絶望に追い込まれていくことは天下一品の脚本化なんだから(笑)。


けれど、この出会いが素晴らしかったのは、そもそもキリツグの絶望の物語は、士郎の希望の物語の「種まきの物語」なんだ、ということです。


この世界は絶望に満ちているけれども、絶望だけで終わる人生をキリツグは生きたいけれども、その「おかげ」で、士郎とセイバーは出会い、サルベーションを得ることになります。そう、絶望そのものであることは、希望の種であった、ということなんです。つまりこれは、、、、FateZeroは、絶望だけを描いたようでいて、真の救済、サルベーションへ至る「継承の物語」という構造を備えていたのです。それは、キリツグの苦悩と絶望をZeroのセイバーの絶望を描けば描くほど、真の希望へ紡がれる物語へと、リンクしていくことになったのです。たぶんここで、虚淵さんという人は、きっと、そうか絶望と希望は裏表なんだ、決して、片方だけで終わるとは限らないんだ、という「この世界が続いていくこと」の価値と意味を知ったのだと思います。それが、継承の意味。何かが続いていくこと、この腐った残酷でどうしようもない世界だけれども、そのグランドルールを曲げずに、絶望のみを紡いだ生が終わってさえ、希望に繋がっていくことがありうるんだ、ということ。。。。


http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20110227/p2


さーて最終話にとりかかります。


12話で問われるべき「問い」・・・「何を救うべきか?」という問いの「仕方」で、この物語の結末は決まる。まぁこの流れだと、こうかな、という仮説はあるが・・・。まぁ世界を救うか「誰を救うか?」という問いの差になるんだけどね。どうオチをつけても、作品としては、傑作となると思うので、というか、「ここまでの過程」で、もう充分なんだよね。。。。



さて、いくか、、、、最終回。



視聴終了。完璧だ。なるほど、こうきたか。。。。



それにして見事なショートカットというかわかりやすさ。

並行世界のループものとしての類型としてのポイントがこれでもかとまとまっている・・・ぱっと見ると、、、、



因果律のルールそのものを飛び越えて書き換えることを志向すること


「負の連鎖」である構造そのものを断ち切ること


愛する人を守る」という、直近の個人的関係性を世界と等価としてとらえること


このへんは、ここで書いてたり語っていたことなんですが、


ひぐらしのなく頃に解 皆殺し編』 全作品中これが一番面白かった。
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20090725/p3


ひぐらしのなく頃に解 皆殺し編 6 (Gファンタジーコミックス)


ようはね、並行世界のループってのは、その世界がいかに残酷で酷いかという「世界の構造そのもの」をすべての可能性の系を経験することで、その世界の持つ現実の「深さ」を深く視聴者に、ループする人(ここではほむらね)に、体験させることで、いかに世界が絶望に満ちている、過酷でヒドイところなのか!ということ(=世界の真実ですね)を、これでもかと体感させることにポイントがあります。今回は、きゅうべえが、この世界の、全く決断者主体をまってくれない、、、、視聴者の心の準備を待たない状態で、ガンガン、ひどい構造に主人公たちを追い込んでいくところの頃なんて、まさにまさにこのへんの、甘えた自意識の告発類型の正統なる後継者!って感じです(笑)。ある意味、LDさんがいうように、決断までちゃんと丁寧に説明してまってくれたマブラブオルタよりもはるかに、リアリスティツクです。まさに僕らが生きる日常そのもの。


そして、その可能性の「系」を全部見ると、これしかない!という解決ポイントが出てくるんですね。これまでの作品は。しかし、今回のまどマギは、それすらも出てこなかった。完全に袋小路です。BADENDしかない、ゲームのようなもの。そうした時に、それでも救いたいものは何なのですか?という問いが、個人に突き付けられるんです。


基本的に、そもそも袋小路の世界を改編するには、因果律自体を超えなければなりません。これも90−00年代の物語のパターンの果てに、ルール自体を上書きすることをしないと、同じルールの上で戦っていては絶対に勝てないという法則が見出されています。これは、世界のマクロに干渉するという意味ですね。ようやく弱肉強食の世界で戦うということは、独立の意思と理想を持って、他者を傷つけなければならないのです、というところまで考え方が到達した。。。


しかし、何のために?


世界を変えて(=ルールを曲げて)、他者を傷つけてまで、何のために戦うのか?。これに、エヴァンゲリオンのシンジ君はずっと悩み、



「僕は乗りません!」


と叫ぶにいたった。世界が滅ぶだけで、意味はないけど。しかしそれも、意思。


けど、、、、きみまるさんの『RETAKE』でもなんでも、結論なんて決まっているんですよ、、、、「この世界を守る」ということは、自分の身近な関係性を守ること、、、自分の愛する人を守ることでしかあり得ないんです。どこにも動けない袋小路の中で、



最後に動く理由を探すと、それしかなかった。それは、00年代の結論です。セカイ系のすべての結論もここに落ち着きます。単純なんですよ、人は、自分が「人」だと認識する他者の価値以上に重要なものは、見いだせないんですよ。


だから、守るべきは、自分の愛する人なんですよ。


だから、まどかにとって、自分の最も大切な友人である、ほむらを守ること、、、、自分がかかわったマミたち仲間を、救うこと、のみが彼女の、最後の動く理由になるんです。


はっきりと、彼女の救済のターゲットは、対象が決まっています。魔法少女の「決意」自体を守ること!それのみです。このへんのロジックは、LDさんが詳細に説明しています。僕も同感です。

魔法少女まどか☆マギカ』〜決意と祈りの物語
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/ef2fbf0795206d46fdfd052fd4c5f70c?fm=rss
今何処(今の話の何処が面白いのかというと…)
http://www.tsphinx.net/manken/ ←ここでマンガアニメの感想サイトやってます。


ただし、LDさんと違う(?のかな)のは、「世界を救うように見えないけど」と書いてあるんですが、ここの僕的な言い回しでは、「彼女は世界を救う気は全くありません」なのです。世界をそのものの条理を変えること自体は絶対の悪である!という、この世界のグランドルールに対して彼女は非常に良く理解を示していると思います。というのはですね、Fate/StayNightのセイバー編の本質と同じなんですよね。たとえば「この世界の条理を捻じ曲げる」という間違った手法によって、まどかを守ろうとしたほむらは、いっさい出口のない無間地獄に陥っています。また魔法少女という存在自体が、この世界の条理を曲げることによって、成り立つ醜悪で間違ったものであるのです。きゅうべいは、いみじくも、この世界はバランスであって、条理を曲げれば、それ以上の負が生まれるのは当然ではないか!といっています。まさに、けだしごもっともな発言です。そもそも、そんなことを望む魔法少女たちの方が間違っているんです。まあ、そういう可能性を容易したきゅうべえの罪はどうなの?といわれれば、彼は十分に契約の対価はあるでしょう?と答えると思います。いいかえれば、全ては等価交換なのだから。魔法少女という条理を曲げる可能性には、それと同等のレベルの負の連鎖が付きまとうのです。それが世界の理であって、当たり前のことであって、それを悲劇と呼ぶのは、笑ってしまいます。世界は、そういうもの、なんです。


けど、それでも、自分の愛する人を守りたい、救いたいと願った。


その最後の方法は、彼女たちの「決意を守ること」です。別に生きて残す必要は全くありません。そもそも「条理を壊す願いを持って世界に関わった」罪があるわけだから、死ぬことはもしかしたら当然すぎる結果かもしれません。だから生かす必要性はまったくない。けれども、その動機の正しさ、感情の重さ深さを、等価交換の虚無へ落としたくない。だから、世界の条理・・・世界のルールそのものを変えることにしたのです。魔法少女の決意がすべて、負の形で消え去らない形で。彼女たちの思いが、負に昇華するというか変化することを、拒否した。


・・・・にもかかわらず、最後のほむらの戦いのシーンは見事。


それぞれの、「個別の魔法少女たち」の決意は守られ、負に昇華しなかったけれども、けれども、この世界が等価交換の原則があって、やっぱり同じくらいの「負」・・・・マイナスと闘い続けなければいけないんです。まぁいってみれば、何を言いたかったかといえば、それまでの歴史上のすべての魔法少女は救われたけど、その負は違う形で表れて、違う形でそれと闘う魔法少女たちが生まれているということですね。どういう形かは、あまり言及がないけど・・・・。つまり、世界の残酷さ、世界の理は、一切変化がないんです。つまり、ルールを書き換えることは、やってはいけない最悪の罪なんだ、というグランドルールに対して、、因果律そのものを変えることを志向しながら、そこには全く手を触れないという終わらせ方。。。別の世界を創造しただけで、実際は、世界の残酷さはさっぱり変わっていないんです。世界を救ったことにならないですよね?。


何を救ったか?


そんなの、自分の大好きな仲間たちですよ。袋小路に陥ったほむらが、、、、自分のための時空を超えて戦ってくれたほむらが、残酷な世界の中でも「希望を持ち続けて」戦い続けられるように!(=戦いから逃げることは不可能)ってことです。たぶん、旧世界では、ここの魔法少女たちは救われたでしょう・・・けど、まどかが創造した新世界では、同じように魔法少女たちは、負をひきうけて殺し合いと戦いを続けているはずです。ほむらと同じように。けど、、、少なくとも、旧世界の決意は、負に堕さなかった。。。。希望を失うことはなかったはずです。「ただそれだけ」です。「ただそれだけのために」世界を滅ぼして、世界を再創造したんですよ。


次の、いつかの、希望を失わせないために。ただそれだけのために。



うーん、なんと見事なこの類型を理解した、結論、、、。しかも、グランドルールに一切手が加えられていない倫理的な態度。世界の残酷さという真実を、毛ほども変えない厳しさ。


という見立てでした。


ちなみに、これは真の解決とはなっていません。次善の策です。しかしながら、この問いに対しての答えは、「真の解決を目指してはいけないのだ!」ということです。なぜならば、世界の理を変えるのは、何人にも許されない絶対悪だから。


ばーーって書いたので、自分でも論理整合性がさっぱりわかりません。もう朝だーーー。やべーーー(涙)。


魔法少女まどか☆マギカ 2 【完全生産限定版】 [Blu-ray]