リテラシーの問題をどう考えるか?〜ゼロベースで考えるか記憶で考えるか?

天元突破グレンラガン 9 (最終巻)天元突破グレンラガン 9 (最終巻)
柿原徹也.小西克幸 今石洋之

アニプレックス 2008-03-26
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25話視聴終了。基本的に、24話とワンセットのお話、という感じ。が、こっちのほうが、非常に好感が持てた。同じことを演出しているんだけれども、なんでだろう?。キタンにスポットライトが浴びる、というのが実に胸を熱くさせた。こういう「熱さ」や「気合」が売り物の話は、ともすれば、主人公ばかりの凄さがすべてを解決するみたいな演出になりがちだが、


「あんたが支えたから・・・・あんたが下から押し上げたから・・・・」(うろ覚え)


という影で深く努力をしている人が、高く高く評価される演出というのは、僕は凄い好き。しかも、ある種の制約があるから、特攻しかないという手順もそうだし、ギミーが「特攻するのが怖くないのか?」という質問を事前に投げているところも、凄く丁寧な演出で、よかったなー。あれならば、なるほど、彼が自分の命をかける意味もよくわかる。


リテラシーの問題をどう考えるか?〜ゼロベースで考えるか記憶で考えるか?


尺が短いせいで、SFの設定が大味になっしまった
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20080319/p1


ここで、いずみのさん(id:izumino)さんとコメントしていたので、ちょっと思ってのは、ある物語・・・情報でもいいのですが、それを見る時に、「過去の記憶」を前提とするのか、それとも「白紙のゼロの状態」で見た時の評価をすべきか?というのは、実は大きな分岐点かと思いました。僕はすべからく、自分の世代と好みの記憶を「基本ベース」にものごとを語っているのですが、その背景を分解しながらでないと、なかなか意見って伝わりにくいですよね。自分がどういった「基礎知識」もしくは「テーマ」を見ているかを、分解しながら話をすると、ただし長くなりすぎちゃうんですよねー(苦笑)。

結局の所、回り回った結論は「それでも自分に酔って死ねるようなバカがいてもいい」「簡単に利口になれるやつに螺旋力は宿らない」ということを描いているという読み方をすることになると思うんですけどね。トップ2で特攻批判を一度通過したガイナックスですから、そういうメタな合理性や政治性はとっくに(送り手側の頭の中で)一周していると見るのが当然で、「でもこの犬死にを描くんだ!」という選択をした事実を読み取らないと、送り手に対して悪いなーと思います。それは「ただのお涙頂戴から一周している」ということなので、批判ならその後でって感じですね。言い換えると、「どう言い訳しても庇いきれない」というのは一周していない批判なんですね。やるなら「たとえ言い訳できないことだろうと、キャラにやらせるんだ」という現場の意志に対して批判しないと(送り手側が真に訴えてほしいのは、その「一周後の批判」でしょうし)。


このいずみのさんの発言には、


1)ベタにものごとを一直線に突っ込む
(物事を素直に信じる)

2)ベタにはできずに立ちすくむ、批判やニヒリズムに陥る
(物事を単純には信じれない)

3)2)を経由した上で「あえて」それでもベタにものごとを一直線に突っ込む
(物事を素直に信じる)


いずみのさんの言わんとしていることは、ガイナックスの演出陣は、この2)を経由した上で、1)に回帰しているので、その部分を前提に見ないと、単純に批判できないって主張しているんですね。基本的に、グレンラガンというアニメメーションの全体すべての位置付けとして、いずみのさんの主張する意見は、僕も肯定します。これは、70年代から00年代への物語の類型への大きな流れをよくとらえている意見で、基本的に90年代以降の物語は、2)を経由して3)に行こうとする志向が見え隠れしています。時代的な文脈ともシンクロすると思いますね。


ここで、実は大きな疑問が二つ生まれます。


一つ目は、そもそもこの「前提」を最初から込みで見ている層と、そうでない層がいるわけで、その層別に物事を論じないと、一般論として一周回った後のベタさ、という部分は評価できないと思うのです。ちなみに、脚本は「一周回った」部分が顕著に出ているところと、ベタになりすぎている部分があるので、僕としては、全体すべてを肯定的にはとらえることはできません。


僕の個人的意見としては、現代・・・いまの時代で物語を作る時は、2)を経由しない演出や脚本は、駄作だ、と断言します。普遍的にいいきれるわけではないでしょうが、そもそもこの複雑怪奇な現代で生きていく子供たちに対して、ある種のメッセージやロールモデルになるという前提が、こういった子供向けのアニメにあるとするならば、複雑な世界で、その複雑さを経由しながらも1)に回帰する生き方を学ばせるべきで、なにもなしにバカのように1)にストレートに行く子供は、この資本主義の社会で食い物にされてつぶされるのがオチだからです。また、単純に1)だけの物語は、少なくとも僕は好きではないし、自分の子供にも見せたいとは思いません。世界はそんなに甘くないので。また、もっとぶっちゃけていうと、この2)を経ない物語は、薄くて何度も鑑賞に耐えるものでない場合が多いのですよね。ようは、エンタメとして面白くない場合が多い。1)だけで、すげぇ!という作品は、僕は思いつかないなぁ。


まぁ基本的にある程度年齢のいった僕らは、物事を見る時に色メガネのフィルター(=リテラシー)を持って物事を見ているので、その色めがねの構造を説明しないと、他人とコミュニケーションギャップが生まれて、意思がうまく疎通しないな、とこの24話では思いました。



もう一つこちらの方が論理的のは大きい問題で、作品の評価を行う時に、受け手が、1.「前提あるなし」を文脈として評価すべきなのか、2.「ゼロの状態」で評価すべきなのか?どちらが正しい批評の在り方なのだろうか?って問題です。


たぶん答えは状況による、というふうになると思います。


ただし、よい感想・批評・・・・よりよく物語を楽しむためには、この1と2は、別々に論じて考えるといいと思うのです。なぜならば、作り手は、当然のごとく一世代くらいは前の「大人」が作るわけですから、彼らの記憶や問題意識が、作品に如実に影響するのは当然で、その文脈から分析するのは、とてもオーソドックスだし、なによりも作り手側の論理をちゃんと解明できます。文脈的にも、その設定されたテーマや問題意識は、その作品が、より広範囲の世代に評価されるものであればあるほど、強いシンクロニシティを持つはずですから。逆に言うと、たとえば、ある特定の年代層やある特殊な志向を持つセグメント層に対して、狭い範囲でしか受け取られていない作品に関しては、その「受け手」がどういう文脈でとらえたか?のみが評価の対象になっても仕方がないのかもしれません。

このへんは、どこかでちゃんと作法みたいなものをまとめたほうがいいのかもなーとか思います。というか、たぶんきっと、どこかにあるはずなので、情報があったら、教えていただければ嬉しいです。きっと、はてなのどこかにあるさっ(笑)。


ちなみに、この「リテラシー問題」はとりあえず、抽出したかったので書きましたが、24話の問題の本質は、井汲さんの意見の方が正しい気がします。つまり、演出としてつまらなかった、というに尽きるのだと思います。そもそも、リテラシーうんうん以前の初歩的なミスなのでは?というのが、僕的に実感として近いです。

ちなみに、これが問題としてかたづいても、以下の問題がの残るわけです。


・SF的な設定が大味なのではないか?(全体の議論として)

・27話では短かったのでは?


こちらのほうは、別の問題の系のような気がします。ちなみに、この問題は、


そういうメタな合理性や政治性はとっくに(送り手側の頭の中で)一周していると見るのが当然


という意見とも絡む作品の根本テーマと絡むような気がするので、だから「ダメ」とは単純に言えない気がしますなー。むー。