評価:★★★★★星5つ
(僕的主観:★★★★★星5つ)
🔳『桐島、部活やめるってよ』を見ようと思った時の問題意識
まずは、最近の話題作だった朝井リョウの『正欲』を見ました。この時に感じたものと、同じものを感じたんですよね。『桐島、部活やめるってよ』においても。問題意識としては、このように観客を挑発するような行為をなぜするのだろうと思ったんです。これを、抽象的にいうと、僕のあまり好きではないマーケッティング的なものに見えるんです。わざわざ、観客を挑発する行為。多分プロデューサーの川村元気さんなのかもしれないが、何かを挑発するようなことをして、人の購買意欲を増させているように見えてしまうんですよね。手法としては、わかるんですが、時代がズレると、毎回それをやられてもなぁっていう気分になってしまう。もちろん、これを問うことの意味は、わからないでもないので、この点についてマイナスだけに言えるわけではないのですが、僕はあまりマーケティング的な発想が好きではないので、どうしても点が辛くなってしまう。ここで問題(=時代の問題意識)になっているのは、ポリティカルコレクトネスの文脈で感情移入しにくいマイノリティーを見せることと、検事をしていわゆる普通と言われる生活をしている人間の役をやった稲垣吾郎の性格と対比することによって、どちらが本当に幸せなのですか?と問いかけをする構成に脚本はなっています。
ぶっちゃけていえば、稲垣吾郎の普通の生活自体が間違っている、と主張している。マイノリティー、この場合は、超マイノリティーの水に性欲を感じるということ自体が、「一般的な市民」である稲垣が演じる役の検事よりもっと幸せな紐帯を持っているという構成になっている。しかしこれは本当にそうだろうか?と僕は思ってしまう。確かにこれをポリティカルコレクトネスのマイノリティーに関係なく寄り添っていくとことが、正しいと言われている方向性から言えば文脈的にはわかる。でも、今の時代は、マイノリティの主張に圧殺されるマジョリティの中にも色々あるという、逆の構造が表に出てきている時代だと思うんですよね。この2024年ぐらいだと。ただ単に、マイノリティを押し出せば絶対正義になるという時代は既に終わっている。時代はその先に行っていると僕は思っていて、よくよく考えてみれば、この稲垣吾郎役の検事の差別意識(というかマジョリティの暴力)を持っているのが問題であるだけの話であって、一般に普通に働いて普通に生きていくと言うことをきちっと積み上げた人間たちが必ずしもこういった意識を持っていると、僕は思わないですよね。このなんというか、社会の中で中枢を担っている人たちとが、マジョリティーの暴力を持つ事は事実であるが、同時に必ずしも差別意識を持っているわけではなく、包容力があり、包摂する力があり、バランスを持ち、社会を支えている人たちが、そもそも大半であることもまた事実であるんだと思う。にもかかわらず、その人たちを告発して、その人たちの生きづらさを増してしまうような物語を増産する事は結局のところに秩序を分解して分裂をして人々を分裂させてる時代の流れを増しているだけなのではないかと思うのです。だからこそ、アメリカなどで行き過ぎたリベラルに対して告発があり、それでいいのかと反作用の形で、保守派がいっぱい出てきていると構造が起きていると思っている。反ポリコレというか、ポリコレの行き過ぎに対する反動がきているのは間違いない。
・・・・と言う流れから考えると、何だか、無理にマーケティング的に人を挑発をしているように感じてしまう。確かにこのコンセプト時代はとても文学的で時代に即しているものだと思う。なぜならば、水に欲望を感じると言う限りなく共感できないものに対しても、あなたたちは本当にポリコレ的な同胞の意識を持つことができるのか?と云う問題意識は非常に鋭いと思う。それを見せつける形で映画化して世に通うことと言うのは非常に同時代的な意味を持つ。
ただし、先ほど言ったように、これを稲垣吾郎的な一般の市民の生き方と対立させ、一般の市民のマジョリティーの暴力みたいなものに対して、その解体作用を考えると言うのは、もう既に古い考え方なのでは僕がないかと思っている。
もちろん、この辺りは「時代の認識をどこに置くか?」で正しさは変わってしまうのは、重々承知している。まだまだ「マジョリティの暴力」が、管理されず、野放図に放置されているのならば、もっと手綱をつけるべき挑発して解体を目指すべきだともいえる。そして、これは、まだまだ正しいと思う。でも、同時に、この攻撃、解体が、マジョリティが持つ包摂の機能を壊してしまうようであれば、社会自体が壊れてしまう。こういうプラットフォーム自体を壊す行為は、新しいプラットフォームをリフォーム、再生、創造できないとダメだと思う。もう2020年代の後半は、この新しいプラットフォームをどう作るかのフェイズに入りつつあると思う。
このようにつらつら考えたときに、ずっと古典として、もうすでに日本映画の中の重要な存在となっている、『桐島、部活やめるってよ』の映画を見直そうと言うふうに僕は思った。
🔳桐島くんの魅力について
桐島部活辞めるってよ、の魅力とは何だろうか?。上のところで説明したようなベースに基づいてこの作品を考えてみました。この映画の魅力を端的に言うと、主人公?の桐島くんが画面に登場しないことがとても重要だです。もちろん映画的な構成自体も、このことをベースに描いているので、素晴らしい傑作になっているんですけれども、もともとのオリジナルの考え方自体の魅力も、やはり桐島くんという、全てがうまくいっていて、頭も良く運動もできて、女の子にもモテてという形でスクールカーストの頂点に立っている人がいきなり部活を辞めると言う形で、そのピラミッドの頂点の役割を放棄したことによって起きる連鎖と言うのがこの作品の重要なポイントです。
なぜならば、基本的に野球部の東出くんがの役がとても重要なんですけれども、なぜならば、彼は、桐島くんの親友で、桐島くんとほぼ同じポジションにある人間であります。言い換えれば、女の子に持て、勉強もでき、運動もすごいできる。しかし、彼には致命的な欠陥があります、それは彼はそれだけ全てに恵まれていながら、自分が本当に好きなことを見つけ出して、それにコミットしてそれに邁進していくと言う動機が自分の中にないことです。なので、彼は野球部の試合に出ることができなくなっています。他の登場人物たちを人を細かく説明しても、全てが似た形で、欠陥がそれぞれある形で描かれています。その対比として桐島くんが存在しているんですね。つまりみんなにとって憧れの存在であり、なり得たかもしれない自分。しかし、「なれない自分」と対比で、もし彼のようになれれば世界は全てうまくいく自分の人生は最高になるということがわかっているわけです。
これをペトロニウス的な評価で言うなら、ランキングトーナメント方式のピラミッドの競争社会の中で戦っていると言う感覚だと思います。このピラミッドの競争をすることの意味と言うのは、頂点にあること、つまり勝ち残って最後にトップに立ったことが、最も価値があると言うことが前提になっています。しかし、この作品はその頂点である桐島くんが、そこに意味がない!と降りてしまったことによって、すべての人に動揺が走ると言う構造になっています。この波紋を描く、いいかえれば、ピラミッドの頂点を崩すことによって、その連鎖反応を見るという事は、『正欲』に対して、僕が言ったことと同じなんですけれども、とてもマーケティング的で挑発的でもっと言ってしまうと、ネガティブですけれども、下品だと言ってもいいかもしれません。これが大人が大人を描いた作品であると言うならば、まだわかるんですが、10代のまだ可能性があり、未熟である子供たちに対してこれを挑発するような形で表現すると言うことが、まぁかっこいいとはちょっと思えません。まだ大学生であった朝井りょうさんの若さがある時ならば許されるかもしれませんが。
🔳『桐島、部活やめるってよ』の映画の魅力とは?
僕は、テキスト、脚本からこの作品のスイートスポットとは何かと言うことを考えてしまいがちです。ペトロニウスの分析は、基本的に、そのやり方に偏っているいます。しかし、この映画の魅力と言うのは、多分原作の魅力(=この物語のテーマ、本質)ではなく、映画自体の作り方自体が非常に面白いところにあると思います。だから日本映画屈指の傑作として今にも残っているものだと思います。ノラネコさんが以下のように表現していますけれども、もともと原作でオムニバスのように書かれていたものを、桐島が突然消えてしまった金曜日から始まる5日間を別の人々の視点で繰り返し繰り返し描いていくと言うことで、桐島という万能の人間が象徴していたピラミッドの頂点が壊れたときに、そのピラミッドが壊れていく様を見ている側に感じさせるという部分が、素晴らしい映画なのだと思います。テーマ的にはこの下で僕が説明しているように、もう1歩、次の段階があるんだろうと思うんですが、映画は映画として非常に傑作として完成していると確かに思います。
吉田大八と喜安浩平の脚本は、どこか黒澤明の「羅生門」を思わせる。
原作は各章を別々の主人公に語らせている様だが、映画は桐島が忽然と消える金曜日から始まる5日間を、アンサンブルのそれぞれの視点で反復しながら描いてゆく。
例えば、涼也にとっての金曜日、かすみにとっての金曜日、亜矢にとっての金曜日といった具合だ。
同じ日の同じ学校という限られた時空にあっても、それぞれに訪れるドラマは違うし桐島の退部への感じ方も異なる。
若者たちの心に落ちた「桐島、部活やめるってよ」という一言は、彼らの心に大小それぞれの波紋を起こし、やがてそれらはぶつかり合い、絡み合い、学園という池を覆い尽くし、彼らの心に秘められたもやもやとした閉塞感を臨界へと導いてゆく。
語り部的なキャラクターを配さず、常に一定の距離感を保つカメラは、たくさんの登場人物を等身大の鏡として観客に自己の内面と対峙させる。
涼也は、かすみは、竜汰は、亜矢は、嘗ての私であり、大人の観客にとっては懐かしい、リアルタイムの十代には少々ビターな、観客一人ひとりの分身でもあるはずだ。
ノラネコの呑んで観るシネマ 桐島、部活やめるってよ・・・・・評価額1700円
🔳野球部のキャプテンこそ、最も正しい生き方なのではないか?〜2024年のいまから振り返ると2010年代の問題意識がよく見える
とは言え、これが公開された2012年、言い換えれば2010年代の前半であれば、このランキングトーナメント方式から降りると言う考え方を、世の中一般に対して意味があったのかもしれません。ただこれは『正欲』を見たときにも同じように思ったんですが、2024年の、今の時点から見るとやはり同時代的に意味があることであって、言い換えればマーケッティング的なことであって、時期が変わっても共感できる普遍性があるかと言うとちょっと微妙と思っています。2024年の今ではちょっと共感できない。もうすでに、ピラミッドの頂点が壊れることは、自明であって、これは当たり前の考え方になってしまっていると思うんですね。わかりやすくいえば、既に日本が完全に低成長のフェイズに入って、成長で勝つと云うことは、既に完全に信じられなくなっていると思います。
さてさて、桐島のオリジナルの原作及び映画の最大の魅力と言うのは、万能である桐島がピラミッドの頂点から降りたことによって、その下の、それを目指していた人たちが、目的意識を失ってしまうという事の動揺を描いた、その連鎖を描いていたところにポイントがあると思っています。
ここからは、ペトロニウスの人間の生き方として、正しい事は何かと言うちょっと哲学的な発想から話を持っていきたいと思います。と言うのは、僕が正しいと思っている生き方と言うのはどういうものかと言うと、自分の好きなことがわかっていて、その好きなことのクンフーを通して人生を積み上げていくということが大事なのではないかと思っています。この辺はベーシックスキルの回でずっと話してきていることなんですけれども、この好きなことにコミットすると言う事は、言い換えれば、依存をしないということ。もっと言うと自立した存在でになるということです。
例えば小豆洗いをすると言う形で、僕とLDさんがよくしゃべるんですけれども、僕らは物語が大好きで、その物語を見てそれを自分なりに解釈して、そして友達と話すという形で、自己完結のループがぐるぐる回っています。わかると思うんですが、ここは非常にコストが安くて他の人に依存していない。長い人生をサスティナブルに生きていこうと思うときに、最も重要な事は何かと言うと何か自分がコントロールできないものにコミットしないと言うことだと思っています。このコントロールしないできないものにコミットしないと言うことが、すなわち自立と言うことだと思います。なぜこんなこと言うのかと言うと、例えば他人の評価を気にして生きていたりとか、学歴であるとか、出世であるとか、そういったものを評価、そういった他者の評価を基準に生きていると、例えば年齢がたって退職をしたときに、出世が終わってしまったら何もできなくなってしまう。もしくは、まぁ出世できなくなったら生きている価値がなくなってしまう。つまり、組織の中でポジションを失ってしまうからですね。そういった何か他者に依存した生き方をしていると言う人は、人間としてはとても弱い生き物だと思うのです。
なんでこんな哲学的なことを言っているのかと言うと、これを桐島の周りにいる野球部の東出くん達と重ね合わせてみるとよくわかると思います。彼らは全員、自立して生きているわけではなく、他者の評価、僕の言葉で言うと、ランキングトーナメント方式のピラミッドの中の位置づけの中での競争をしているのであって、自分の内部から内発的に出てきた好きなものによって、自分自身を生かしているわけでは無いからですね。映画における、ゾンビ映画を撮った神木隆之介くんですらも、橋本愛の好意を得られなかった、その代償行為と言う形に描いているように僕は思えてしまっています。彼だけはちょっと位置づけは特殊だと思うんですけども、ただ基本的にすべての人間が桐島くんと言う万能の役割に対する憧れがあって、そこに自分が到達できないルサンチマンを抱えながら生きている。だからこそ、あの波及、みんなに動揺が走っていって、世界の日常が崩れていって、緊張が走っていく、ある種の怖さが映画の中で描かれるわけです。
こう考えると、僕がこの『桐島、部活辞めるってよ』と言う映画に出てくる登場人物の全てが生き方としてはだいぶ間違っていると言う評価になることがわかると思います。もちろんこれが壊れることによって、彼らは新しい人生を模索していくわけで、10代の青春映画としては非常によくできたものだと思います。ただこれが大人が作った、大人の視点から見るとすると、まだこんな甘っちょろいこと言ってるのかと言う甘えも感じてしまいます。僕らが生きる世界は、そんなに他者依存の人間ばかりがうごめいている。そんなだめな社会なんだろうか。2010年代の前半の日本は?と言うような気分になってしまいます。まぁ実際その通りだったんじゃないのかなとも思いますけど。なぜならば、『新世紀エヴァンゲリオン』に代表するような心のトラウマ、アダルトチルドレンの心性が非常に社会的な共感を浴びたアノミーの時代であったと言うのは明確だからです。そう考えると、まぁこの時代の代表する作品であると言う事はなるほどと思います。
だが、しかし、じゃあこの作品が、最も僕は重要だと思った点は、何かと言うと、野球部のキャプテンなんですね。これは。友人に自分の生き方の話を話していたときに、この中でじゃあ誰が1番依存してない、自立している、まともなやつ、かっこいいやつはなんだと言う風な話になったときに、2人とも、野球部のキャプテンじゃないかと思ったんですね。彼だけが自分の好きなことを通して自立して生きています。きり言って変人だし、馬鹿にした視点で書かれているので、多分、原作者も、映画監督も彼に対してプラスの評価をしていないのかもしれません。しかし、彼が、ドラフトが終わるまでは野球を続けると言う、明らかに意味のないことを継続していること、、、、これは先ほど僕が言ったように、好きなことにコミットして自立していることだと思うんですね。描き方としては馬鹿にされているような描き方になっていますので、彼自身も自分がドラフトで選ばれるなどと言うことを信じていないのかもしれません。しかし、自分が選択した野球と言うものにコミットすると言う強い意思が伝わってきます。意味を考えずに、無目的にコミットすることには、意味も、競争による勝利もないので、そこに依存は発生しません。
『正欲』でもそうですが、「告発している次元に止まるのではなく」と、この高橋周平演じる野球部のキャプテンが持つような自律、自立して自分の「好きなことにコミットして」、依存しないで生きるというのが、明らかにこの問題意識への答えになっていると思う。もちろん、この絵以外の描き方から言っても、一番大事なのは「野球部のキャプテンのようなバカが一番楽」という描き方なので、ネガティブに描いていると僕は思うけれども。
そう考えると、この物語の、本質は、彼にある気がします。