評価:★★★★★星5.0
(僕的主観:★★★★★星5.0つ)
🔳吉井虎永の天下取りの物語〜日の本に戦のない平和な世をもたらす
まずこの物語の軸となるものが何なのか?と言えば、吉井虎永(たぶん、真田広之)が、天下に何を求めていたかと言うことだと思うんですよね。この解釈でいいのか、僕にも一回しか見ていないのでわからないけれども、基本的に虎永が求めているものは、戦争のない世界を作り出すことと思うのだ。だからこそ、既に戦力差が定まってしまって、弟が石堂側に着いた時に、勝つことが不可能だと降伏を判断をしている。僕は、この判断自体は、勝てない戦をしてたくさんの人間を殺すよりも、自分ら上層部だけが死ねばいいという発想は本心だったのではないか?と感じる。このあたり、あとでひっくり返す工作があるから、本心を隠していたというよりは、彼のビジョン自体が、天下に争いのない世を作り出すこと、だったのではないかと思う。というか、そこまで初見では僕には読み取れなかったんだけど、「そうであってほしい」とペトロニウスは妄想するんですよね。
やはり、この作品の主軸は、戸田鞠子(アンナ・サワイ)と吉井虎永が何を目指して生きているか?
だと思うのですよね。戸田鞠子は、細川ガラシャ(明智光秀の三女)にインスパイアされているそうなので、考えてみればかなり史実に近いですよね。
散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ(細川ガラシャの辞世の句)
これは、石田三成側が人質に取ろうとしたことに抵抗して、自害し遺体が残らぬように屋敷を火薬で爆破したそう。あまりの壮絶な死に、石田側は、人質作戦を拡大することができなくなったそう。物語のドラマトゥルギーとして、この鞠子の壮絶な死に様や、彼女がずっと悩み続ける業の深さを、「支えるに不足のない」目標を考えると、また、そうまでして虎永に忠義を尽くす「重さ」がなんだったか?を問えば、やはり、戦争の時代で人質になり続け、仮面をかぶる生活を続けていた二人の、この世の中そのものへの怒りがベースにあると考えると、とてもしっくりくる。それならば、彼女が、虎永が命を、一族をかける意義がよくわかる。そして、あまりに大きいものであるがゆえに、この二人ぐらいしか、理解できないというのもまた、わかる。
実際この虎永の降伏の判断をひっくり返したのは、彼の息子、長門(倉悠貴)の非業の死のだったわけなんだけれども、これは明らかに狙ったことではないはず。あの時点で、わざわざ自分の息子を殺すとかけしかける理由がないからだ。この息子の死が、時間稼ぎにつながったのだと思われる。とはいえ、この時間稼ぎも必要なかったのかもしれない。なぜならば、基本的に、彼の戦略は、鞠子を大阪城に一人で特攻させることによって、大阪城側の石堂の大義を全て奪うというのが戦略だったと思われるからだ。このことを考えたら、結局最も大事な事は、鞠子の心をどのように動かし、動機づけるかということだけが虎永のポイントだったと言うふうに思われる。そう考えると、彼が鞠子を手元に置いて、ずっと彼女の意思を問い続けているのこそが、この物語の主軸だったのではないかと思う。
ちなみに、鞠子と虎永が「戦争のない日本を作る」ことが最終目標だと考えると、ジョン・ブラックソーン(按針)の役は、かなり弱くなる。原作に比べると、もしくは旧作に比べると、だいぶ按針が弱いという話を聞いたのですが(僕は旧作を見ていないので)、この構造だとそうかなと思います。
脚本構造のバランスと最後のセリフなどから考えると、イングランド人ジョン・ブラックソーン(按針)は、カソリックとプロテスタントの争いにおいて、プロテスタントと祖国(イ(イングランド)側に立って、自国側が有利になるように、強いナショナリズムを持って生きています。彼もまた「争いの中で勝利しよう」と考える人なんですね。その次元で常に生きている。しかし、戸田鞠子のカソリックへの献身も、明智の娘であり、この日本という天下の安寧に責任を持つ選良としての義務のために生きているので、この「争いの中で勝利する」という次元のひとつ上のレイヤーの物事を求めて生きている人なんですね。
だけど、鞠子は、このあまりに重い責任としがらみの中で、常に潰れそうになって生きている。
だから、このしがらみと全く関係がなくて、自由に生きているジョン・ブラックソーン(按針)に惹かれるでしょうね。ある意味、能天気で、馬鹿に見えるので、、、、ちょっと可愛く感じてしまったんではないでしょうか?。なんか、わかるなー。明らかに彼女の方が、はるか高いレイヤーの世界を着ている人なのですが、そういったことを、ぶったぎれる荒々しさと、「無関係さ」が彼女にとって救いだったのではないでしょうか。・・・・そういう意味では、そういう人を、鞠子のそばに置いた虎永の鋭さというのもまた、、、、いやはや深い。
🔳ラスト3話の怒涛の展開を見よ!〜身近な最も大事なものたちの死を利用して、大戦略を遂げていく虎永
怒涛のラスト3話が素晴らしかった。基本的に、それまでは、欧米人の視点から見た戦争オブワンダーみたいな、かなり賢しらなことを言っていたんですが、重厚な骨太ドラマとして、この部分が本当に怒涛で素晴らしかった。ドラマとして1番大きい部分は、この鞠子の部分だと思うんです。
彼女が1人で大阪城に乗り込んでいって、虎長のための状況を全てひっくり返す、ここに大きなドラマがあります。
もちろんそれは彼女が命を投げ打つことによって成り立つものです。7話の息子長門、8話の腹心戸田広松(西岡徳馬)、9話の戸田鞠子と、怒涛の虎永の大事な人の連続の死が、状況をひっくり返していくのです。この最後の3話の、これまで積み上げてきた重厚な人間関係とドラマが、ドッカンドッカンと動いていく様は、素晴らしい。
🔳樫木藪重(浅野忠信)の中間管理職の切ない悩みと、死の直前の々とした雰囲気が最高にかっこいい
🔳関ヶ原の戦いを直接描かないのは、欧米の宮廷陰謀劇の伝統?
🔳欧米から見える日本というファンタジーをどう裁くか?
『SHOGUN 将軍』では、漂着した船の船員への対応は、目を背けたくなるようなものだった。虐待し、たとえば血や臓物が混じったような液体を浴びせる。これを観て、スティーブン・キングの小説が原作のアメリカ映画『キャリー』(1976年)を思い出した。主人公の少女が豚の血をかけられる場面だが、これはあきらかに欧米人の発想である。
ほかにも、ジョン・ブラックソンは殴られ、蹴られ、小便までかけられる。前述のように釜茹でになる船員もいる。だが、記録には、ブラックソンのモデルであるアダムスが乗ったリーフデ号が現在の大分県臼杵市に漂着すると、地元の人たちは衰弱した船員の病気の手当てをし、食事をあたえるなど、親切に介抱したとある。
このドラマが、史実を厳密に追って作られてはいないのは、最初に書いた通りである。とはいえ、当時の日本の常識から目をそらし、劇的効果をねらって当時の日本人や日本人の風習を野蛮に描く姿勢には、不快感を覚えざるをえなかった。
中略
19世紀後半から20世紀初頭にかけ、欧米ではジャポニズムが大流行した。その際、欧米人にとって不可解な風習である切腹や芸者などが、いっそうのエキゾチシズムを添える要素として過度に注目されたが、その結果、彼らが抱く日本像は、彼らによる空想の世界に近づいてしまった。「SHOGUN 将軍」はそこから抜け出せていない。
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