『キラ☆キラ』 この、くそったれな世界に、精一杯の愛をこめて

キラ☆キラ~Rock'n Rollshow~(通常版)

評価:★★★★星4つ
(僕的主観:★★★★★星5つ)

■高校生バンドものの青春物語〜青春物語ってなんで素晴らしいものほどこんなに哀切を感じるのだろうか

一言で言うと、そんなに大した物語ではない、ありふれたお話だ。しいてプレイしろ、ともえいない。個人的には、物凄い大ヒットだっったけれども。エロゲーといっても、このシナリオライター瀬戸口廉也作品は、ほとんどそういうシーンは少ないので、うん誰でも見れると思う。ましてやPS2版があるしね。完成度という意味では、『SWANSONG』が断トツだろう。けれども「入りやすさ」としては、こっちの方が格段に上。第三章の3人のヒロインの個別ルートに入る前の、バンドの青春物語のエピソードは、胸が掻き毟られるような、青春のにおいに満ちていて、僕はゲームをやめるのができなかったです。「マンガがあればいーのだ。」のたかすぃさんも書いていたが、最近漫画とかでは、吹奏楽とかそういった部活モノがたくさん出てきている。いずみのさんが、紹介してくれた『放課後ウインド・オーケストラ』もだし、何かそういうものを時代が求めているのか、それともただ単に供給側が狙っているのか・・・・。どうなんだろう?。ただ、そういった青春を感じる部活モノが多く出ていて、その甘酸っぱさにやられたくて、そういえば、海燕さんが薦めていたなぁ、と買ってみた。ちなみに、女性がやっても、ぜーんぜん面白いと思う。これは、性別や年齢、志向を選ばない作品だね。ジャンル的には、青春物語、と思えばいい。

改めて説明するまでもないかもしれないが、『キラ☆キラ』は高校生バンドもの。とあるキリスト教系の学校に通う前島鹿之助は、あるとき、ほんの偶然から見たロックバンドに魅せられ、自分でもバンドを作ることになる。

 半ば勢いと雰囲気で作ってそのバンドは、その名も「第二文芸部バンド」。メンバーは鹿之助以外全員女の子。そして成り行きから鹿之助も女装して演奏する羽目になる。

 有名インディーズバンドの一員である同級生の助言を受けた鹿之助たちはめちゃくちゃな特訓をくり返しながら、パンクロックの精神をみがいていくのだった。

 第一章はそんな第二文芸部が学園祭で喝采を浴びるまで。そして第二章では受験勉強を放り出したかれらが、名古屋、大阪と旅する様子が綴られている。

 どうにか動くおんぼろワゴンに乗りこみ、全国各地のライブハウスを訪ねてまわる展開は、まさにロードムービーそのもの。

 その場その場で大うけを取ったり、その反対に大失敗したり、けんかしたり、女性に誘惑されたりと、その展開には青春のあらゆるエッセンスが詰まっている



この、くそったれな世界に、精一杯の愛をこめて。/SomethingOrageより
http://d.hatena.ne.jp/kaien/20080513/p1

うーん、、、、なんという青春。また文章がシンプルで性質なことと、激しいトンデモ展開をしているようでいて、非常に現実を踏まえた感覚が常にベースにあるので、話がファンタジー的に飛躍しない。彼らのツアーの時間を決めるのはあくまでお金だし、、、、そういった地味な現実感が、逆に、すっごく感情移入を深めて、、、あり得はしないんだけど、ありえたかもしれない「青春時代」へのノスタルジーを喚起する。僕は、もう楽しくて、楽しくて仕方がありませんでした。寝れないで徹夜にゲームをするほどに。。。でも、ここまでトントン拍子名ことは無理でも、本当はいろいろなチャレンジは可能だったんだ・・・といまさらながらに、なんでもっと青春時代を楽しまなかったのか・・・と悔やまれる。まぁ「もう戻れない」という思いがあるからこそ、あこがれは強くなるのかもしれないけれどもね。



■ロックンロールとパンクの歴史が考え方が、物凄くよくわかっちゃって感心した

んでね、感心したのは、村上のウンチクが、もーよくわかってんなーと感心したこと(笑)。ちゃんと音楽の歴史の革新を抑えてあるのは、凄い。そしてなによりも、パンクを学ぶために必要な2つのこと、と言ってインディーズバンドの『Star Generation』のギタリスト殿谷が第二文芸部バンドに示したパンクになるための方法は、あまりの素晴らしさに感動した。新興宗教の洗脳だって、これほど見事に、自己を変える方法を見つけ出せないよ。まさに、パンクの核心を学ぶにふさわしい方法論だと思う(笑)。

物語は、素人の癖に文化祭で演奏することを決めた第二文芸部の面子が、友人のロック青年に指導を受けて何か勘違い気味の特訓(例:会話の語尾には「ファック」を付ける。でも相手を傷つけたら謝る)をくり返し、殺伐とした心になりながらパンクスピリットを身に付ける辺りまで進みました。

 最初は壊れかけのおんぼろベースやらドラム代わりのバケツやらで練習していた面々が、しだいに上達し、友達をなくしたりひとを信じられなくなったりしながらも上達していくプロセスはサクセスストーリーの味わい。


 『キラ☆キラ』プレイ日記その2。
http://d.hatena.ne.jp/kaien/20080118/p1

それと「ノーフューチャーの精神」(=未来を考えない)というのがある。「とにかく先ことを考えず衝動のまま動く」ということ。「これをしたら、こうなるかな?」とか「これを言ってしまったら人間関係が壊れるな・・・」とかそういう先読みは一切しないで、行動するということ。この中では学園日のお嬢様で美少女である女の子とかも出てくるんですが(笑)、それが、常に語尾にファックとかをつけて、あえて「それをやっちゃー」と思うようなことをして、、、、というエピソードは笑えて仕方がありません。



けど、流石だなぁ、流石に世界の残酷さ(=リアリティ)を剥き出しにとらえようとする脚本家だなーと感心した。それは、このやり方が、「インプロヴィゼェーション(=一回性)」の復活という実存の回復手法ととても似ていること・・・・たぶん80年代にはやった自己啓発改造セミナー(ニューエイジ?)とか新興宗教では、似たような人格破壊手法を使う洗脳のスキルは、ありふれたものだと思います。

というのは、毎回周りにファックをつけろ
とかいうのは、つまり「これまで安寧としていた人間関係を一度シャッフルして元に戻せ」ということなんです。そして、本当にその人を愛していくれているのならば、「なぜそういうことをするのか?」ということを聞くと思うんですよ、、、そして、そうでない上辺だけの関係の人は、離れていく。そういうことが、この行動で一発で分かってしまいます。つまりね、本音で、本当の自分を見てくれる人と付き合えって言っているだけなんですよ。

そして、それは慣れ合いと、表面だけの人間関係で付き合う今の人間社会の中では、自分がいかに孤独にさらされて生きているかを痛切に感じるきっかけにしかほとんどならないでしょう。そもそも家族から、正しい無償の愛をもらっている人、本当の正しいステップの友情をはぐくんでいる人、肩書きや金などではない心の奥底の価値を愛してくれる恋人、、、なんている人って、そもそもほとんどいない選ばれた人ですからね。そういう人は、そういった「ほんものの関係」の大切さを再認識できるし、そうでなければ、自分がいかに孤独な世界で表面だけで生きているかを痛切に感じるはずです。まぁたいていの人は、自分の孤独を感じるだけです。


とすると何が起きるか?


そう、大切なのは「友達なんだ!」、大切なのは「ほんとうの関係」を結ぶことなんだ!ってこと、それを求める欲求に自然にたどり着くんですよ。高校生ならば、絶対に、より深く、友達と関係を深めようと思うはずでしょう。また、ノーフューチャーの精神。これは「先回りして」「あれもできな、これも出来ない」という思考による行動の抑制を止めなさいということです。現代は、行動力も能力も実体験もないくせに、「頭や知識やイメージ」で先回りして、行動を封じてしまう臆病者の社会です。これは、そもそもかなりのルールや情報によって、自分が「初めて体験するであろうこと」の意味や価値やその先をすべて情報で先回りして持ってしまうという、インプロビゼーション(=一回性の体験)を封じられた社会です。こういう、情報を知ったことで、体験を軽視する姿勢を、ニヒリズムの一種と呼べるでしょう。


ある種の行動不能状態、、、もしくは動機のモチヴェーションが正のフィードバックを刻まなくなっている状態で、こういったノーフューチャーの精神は、あるい周の癒しと、回復のための薬であることは間違いありません。どういう風に日常生活に織り込むか?目的は何か?など、なかなか実践することは難しいですが、それでも、この行動が、実存や動機の正常さどう壊れてしまった人にとても価値のあるものであることは否定できません。

もちろん、パンクとかロックといわれるのは、こういった行動は、反社会的運動に、大衆行動的にはすぐ結びついて、その本当の価値をすぐ社会運動にからめとられてしまうので、マクロ的には何の意味もなくなってしまうただの反社会行動にしかならないので、これを単純に「いいもの」とはみなせません。相当に条件がそろわないと個人に実存回復の契機を与えるのも難しいとは思いますし、。実際にやるならば相当のカスタマイズがいるでしょう・・・が、過去のことテニスのことで実存、動機が壊れている前田鹿之助にとっては、このバンドが「失われた自分をもう一度見つけ出し、現実とのアクセス感覚を取り戻す契機」になって言うことは間違いありません。これが僕のいう、ヴァステイションからの再生です。


だから、このバンドのロードムービーと成長物語が成長した後、個別ヒロインの人生の闇に対して、深く分け入る勇気と動機がもたらされるのです。だって、この物語は、最初に、まったく相手の心に踏み込むことも踏み込まれることもしないで、「思いっきり見事に彼女に振られる」という悲惨な体験から始まります。またその理由が辛辣すぎて、ひどい(笑)。


内面がゼロで、生きる気力がない、といわれているのだもの。


しかし、それは事実。けど、なぜか第三章では、物凄いヘヴィーなものを背負った各ヒロインを簡単に攻略していきます。きらりの最後のルートなどは、本当に気合が入っているし、、、、なによりも、ほぼ同じ壊れ方をしている父親と違って、なぜ、彼が行動にコミットできたのか?というのは、このヴァステイション(動機が壊れてしまうこと=非モテの概念も少しずれるが同じだと僕は思います)の体験からの「回復」を、このバンドの成長物語を通して成し遂げているからこそ、できるのです。


そういう意味では、素晴らしい構造を備えた作品だ。



■ギャルゲーエロゲーというジャンルを選ぶ時にしなりをライターで選ぶという切り口をとると

そんなギャルゲーのキモと言える「シナリオ」を紡ぎ出すのが、有名シナリオライターの皆さんです。僕の尊敬する方を一部紹介しますと、『CARNIVAL』や『SWAN SONG』の瀬戸口廉也氏、『CROSS†CHANNEL 〜To all people〜』、『最果てのイマ』の田中ロミオ氏、『ファントム−PHANTOM OF INFERNO−』、『沙耶の唄』の虚淵玄氏、『この青空に約束を〜melody of the sun and sea〜』、『世界でいちばんNGな恋』などの丸戸史明氏、『車輪の国、向日葵の少女』や『G線上の魔王』のるーすぼーい氏、他にも健速氏や奈須きのこ氏、東出祐一郎氏などが挙げられますが、キリがないので割愛します。

 何が言いたいのかというと、この方々が紡ぎ出すストーリーはすでに「芸術」の域にまで達しており、もはや「文学」と言っても過言ではない、ということ。ギャルゲーのいいところって、シナリオライターでゲームを選ぶことができるという点だと思います(モチロン原画家でもOK)。たとえ、有名ではなく、世間の評価がイマイチであっても、自分が気に入ったライターの方を追っていけばいいわけです。




http://dol.dengeki.com/sp/2008-2009/gal.html


ああ、うんうん。最近エロゲ力が増しているのか、『SWANSONG』と連続で、シナリオライター瀬戸口廉也作品をやっている。まぁ、この人の作品をエロゲーと軽くひとくくりにしていいかは、なかなか疑問ではあるけれどもね。はっきり言って物凄く暗いしショッキングなものばかりだから。けれども、シナリオで選ぶと、このジャンル、かなり良作が見つかる。こういったシナリオがあるレベルを超えたものと、普通のポルノ作品を目指しているエロゲーとは、境はあいまいだけれども、違うものなのかもしれないなーと思う今日この頃。まぁ境は決められないだろうけどね。



■人が世に出る時〜全てをあきらめなければいけないごみ溜めで与えられたギフテット

椎野きらりの人生は、忘れられないだろう。ロックだよね。うん。パンクだと思うよ。なんというか、ロックンロールな人生だよね(意味不明・笑)。正直いうと、、、あまり個別の感想は言いにくいんだよね・・・全体感ではエラそうに神の視点で語れるけれども、個々の人間の「主観的な人生」って、他人がどうこう言えるものではないんだもの。その人の人生は、その人だけのもの。物語世界だって、ちゃんと成立すれば一人の人格だ・・・しかも、きらりみたいな生き方をしている人に、なんか軽々しく言えないなぁ、、、僕は。椎野きらという人間に申し訳なくて。。。。。

とはいえ、読んでいる人のイマイチ意味を為さないだろうから少し、憚りながら言ってみると、こういう「貧乏による選択肢の狭まり」っていうのは、もう許されない悲劇だけれども、、、そして往々にして悲劇だけで終わるので、言葉にしにくいものなんだけれども、物語やモチヴェーションとしてみると、こういう「制限」は人に覚悟を与えるよね。きらりの意志的な、そして行動力は、感動するよ・・・。


クズの父親の下で、そして、その生まれついた才能で、めちゃくちゃ卑屈にめちゃくちゃマイナススパイラルにモノを考える子だけれども・・・でも鹿之助に比べれは、「生きる楽しさ」を失っていない。この子は、どんな苦しみや鬱屈を抱えても、必ずいつか世に出ていく子だろう、と思う。もちろん、物質的な制限や病などは、そういう可能性すらも簡単に、芽を摘んで食い荒らしてしまうのが「世の中のリアル」ってやつだけどね。世界は残酷だもの。そして、物語になるのは、いつだって、可能性や能力が与えられているのにそれが発揮できない環境に追い詰められている人、なんだよね。そういう意味では、物語としては、陳腐だと思う。良くある話だもの。現実にもね。

けど、この物語類型がなぜそんなに、広まるかといえば・・・・たぶん、きらりのような才能に恵まれているのは一目瞭然なのに、すべてを環境によって奪われて消えていく人がたくさんいるからなんだと思う。そして、それは、その周りの人間たちに、深い哀惜を感じさせるんだと思う。なんかねーそんなことを思った。昔のロックやパンク、黒人のブルースとかの詩は、そういうものが凄く多いよね。こういう哀惜と悲しさが、世界にリベラリズムを・・・・人が自由に自分のなりたいものになれるように、と願う社会をつくる動機になっていったんだろうと思う。こういうの見ると思うよ、、、アフリカにだって、世界中に、まだこういう可能性から除外されている人がたくさんいる・・・かといって、一足飛びに助けるのは歴史のマクロ条件から不可能だし、そもそも自分の個人や家族を捨ててまでやる「義務」が人間にあるか?って思うし、、、、けれども、やっぱり、まず第一義的にできることは確実に一つだけある、、、それは「一生懸命生きること」、可能性を奪われている人の分も、自分が与えられている可能性の選択肢の中で努力して前へ進むこと、だと思う。それくらいしか、誠実なことってできなくない?と僕は思う。だって、個人がマクロや歴史の罪を背負う必要はないと断言したいし、、、、そもそも、無力な個人が、ミクロの領域で泣いても吠えても、マクロは変化しない。マクロを変えたいのなら、世界を変えたいのならば、マクロに手が届くまで、自分の手が届く範囲からスタートするしかない。。そして、そういう上昇が、個人の成長が、世界を豊にして、マクロを救うことにつながるのだろうと僕は信じている・・・・。個人には、ミクロにできることは、「まずは」それくらいしかない。本当は、その次はあるのだけれども、それは、まぁ簡単にできるとことではないからね・・・。


なんか、全然違う話になった(笑)?


■参考 SomethingOrangeより

『キラ☆キラ』プレイ日記その1。
http://d.hatena.ne.jp/kaien/20080115/p3


『キラ☆キラ』プレイ日記その2。
http://d.hatena.ne.jp/kaien/20080118/p1

『キラ☆キラ』プレイ日記その3。
http://d.hatena.ne.jp/kaien/20080123/p2


この、くそったれな世界に、精一杯の愛をこめて。
http://d.hatena.ne.jp/kaien/20080513/p1