もう読み捨てられる作品とは思わない・・・・

魔法先生ネギま! 28 (少年マガジンコミックス)

最近、ちょっと10巻位から読み直して、、、、、そのあまりのおもしろさに、衝撃を受けた・・・・。


何度も書いていますが、僕の物語としての最高評価を与える基準は、マクロ(=その世界の謎)とミクロ(=登場人物の動機)がリンクされていること、です。


28巻まで読み進めると、そのバランスの良さに驚く・・・・。基本的には凄く構造のバランスが悪い作品であるにもかかわらず、、、よくぞ、、、、なんか、素晴らしく面白いけれども、連載が終わったら読み捨てられて見向きもされない系統の作品です・・・なんて、思っていた自分が恥ずかしい。これは、、、たぶんナギの話と世界の謎が前面に出てきたから、何だと思うんだよね。この「構造(=世界の謎)」が出てくると、その面白さは、その時に消費されるってレベルを超えると思うんだ。ちょっと前に書いたけれども、それはとても古典的で骨太の作品ということだもの。


これならば、ほぼ万人に薦めて、絶対面白い、面白くない奴は、読解能力がないやつだ!と断言できる(←いいすぎ?(苦笑))。ううーん、、、すごい、、、凄い面白いよ、これ。なんというか、ある意味、アージュの『マブラブオルタナイテイヴ』を連想させるんだよね。内容ではなくて、その同時代まで培われたアーカイブのパロディともいえるような、すべての断片というかすべてのパターンを「すべて取り込む」という形式が、しょせんパロディ・・・に一見、見えるんだけれども、「すべての断片を盛り込みまくった上に」「それを力技で統合する」ということをしているうちに、とんでもないスケールの作品ができていく・・・・って印象


ああ、、それしても、今週のちうっちは、かっこよかったなー。僕は、パロディ同人誌の千雨の話であるきみまるさんの『ねぎまる』を読んでいるだけに、あれを背景に見ていると、もう、、思わず涙ぐんでしまう(笑)。いやーほんと、スケールの大きい作品になったなー。連載的には、ナギの過去話や、こういった世界のマクロの話は難解だし、読者が付いてくるか微妙なので、連載「その時点」での人気としては、僕はよくわからないとは思う。けれども、それと引き換えに、アーカイブに残っていくような骨太で古典的なスケールの大きな作品になる、と思うんだよね。何を持って「価値」とするか?は、なかなか微妙なところで、ある基準を超えると、必ずしも部数や人気や金だけでは測れないものになっていくと思うんだよ。ある基準を超えない限りは、部数、人気と金がすべてだと思うけれども。


うーん、、、なんというか、この面白さ破格だな、、、と思う今日この頃です。


こんな凄い作品を作り出した作者とスタジオに、惜しみない賞賛を、と思います。ちなみに、僕の一番の感謝は、もちろん、ゆえゆえの造形を作り出した人に(笑)。


追記

そういえば、アンドロイドである茶々丸の仮契約の話があったと思うんだが、、、あれはあれ単品で面白かったんだが・・・・この物語の基本を貫くのは、アスナとネギの物語だと思うですが、あれって、アスナの物語と二重になっている話なんだなーとしみじみした。

茶々丸の魂の問題は、「何を持って真の自我とするか?」「存在の本物とは、なにをいうのか?」「オリジナルの魂とは何なのか?」…等々、ようは、オリジナルと偽物では、どっちが本物か?って問う話なんですよね。アスナは、過去の本当の自分と、学園での偽物記憶と、どっちが本当か?ということを問いかけられている。もちろん、本当はどっちも本物なんだけど、存在の意味としては、過去の自分から、「その存在の本質」から逃げることはできない・・・・学園の記憶はそこから「逃げて」できたものだけれども、、、、でも、たとえ逃げたことによるものであっても、偽物であっても、、、、それが、「ほんもの」かどうかは、自分が決めるのであって、それを「本物」にする努力こそが、そこになる意味を変える・・・って、そういう話なんだなーと、、、。


ううーんええはなしや。



あっと、ちなみにこの作品の、最も素晴らしいポイントは、やはり、、、、主人公が、「幻の父親」を追い求めながらも、「父親自身に同化できない(=同じ道を歩めない)」という問題設定に対して、「異なる道で同じものを追求する」ことにより、父親が越えられなかったものを、、、、「超えるのではなく」、父親とともに越えていく・・・つまりは、最後には、父親と横に並ぶものになる・・・という成長の本質の本質が、描かれていることだと思う。ネギの天才が、開発力だ!というシーンはしびれるどころじゃなかった。あれは、もうすげー感動したよ。


勝つ、、、とか、成長、、、とか実は間違っている。そこにいる父親も目標の人も天才も、敵なんかじゃないんだ。それは、「同じ目標」を、つまりはこの複雑で正しさが分からない世界で、「それでも善をなし世界を変える」という「生きていく上の最前線(=フロントランナー)」の同盟者なんだ。それがわらないやつは、きっといつまでもナルシシズムの折から抜けられないだろう。

成長とは、誰かに勝つことでも追いつくことでもない、、、、、「この世界に生きる」という難しさを知る「最前線」に立つまで(=ナルシシズムを超える)までをいうことなんだ。最前線に立ったら、もう人は何も悩まないはずだ。それは、マクロの使命を知るということ。たとえ、自分がわき役であってもかまわないはずだ、、、この世界に「為すに足るものの最前線」に立てるのならば、きっと、喜んで自己犠牲をできるはずなんだ。そこで本当に大事なものは、「自分」ではなく、「自分の信じたものと仲間と共有すること」だから。仲間というのは、共同体の仲良しクラブではなく、、、「この世界の最前線の過酷さを解決する」ことを共有する同盟者だけを、きっと仲間と呼ぶ、、、。最前線に立てば、おのずと自分の役割と使命が分かるはずなんだ・・・。