『日本にまだ近代国家に非ず』 小室直樹著

日本いまだ近代国家に非ずー国民のための法と政治と民主主義ー


小室直樹さんの『日本にまだ近代国家に非ず』読了。田中角栄を通しての政治家と官僚の違いについて。日本の検察の問題点がかなり明確に理解できた。この人の本を読むと、通常は簡単に理解できない「概念」がよくわかるケースが多く、本当に勉強になる。亡くなったのは本当に残念だ。


為政者の要件「ヴィトルフ(Virtue)」というマキャベェッリの中心的分析概念は、非常に興味深かった。政治的にいえば「徳」に該当するのであろうが、確かに訳がうまくいっていない。普通に「倫理上の美徳」と訳すと、概念の本質がまったく日本人には理解できないだろう。塩野七生さんの『わが友マキャベリ』を読もうとしていたので、非常によい補助線に出会えた。読み比べながら読書してみようと思う。


それにしても、政治家の要件は、「運命を下僕にできる」という表現は、なるほどと唸った。通常の政治家というよりは、傑出したリーダーの要件なんだとは思うけれども。政治家の本質概念は、「これ」なんだろうね。与件の中で最大効率を行う(官僚)ではなく、「変化する状況に対する決断」をする。マクロの経済を見ていると、個人にとって「運命」というのは変更できないものに思えるんだよね。運命(=変化する状況)ってのは、どうにもならないって無力感を感じる。庶民とか個人にとっては、世界は受け入れるものであって、変えるものじゃない。変えるのは「自分」って感じがする。けれども、ミクロのこのレベルでどうにもならないものを、変える力があるからこそ(=運命を下僕にする)その人はリーダー(=マクロの統率者・政治家)であるというのは、非常に良くわかる。そしてだからこそ、プロセスではなく「結果責任」が問われる。


孔子の政治に対する極端な過剰ともいえる期を昔不思議だなーと思っていたんだが、マキャベェッリの「ヴァーチュー」の概念で捉えなおすと、なるほど、理解できる。不可能と思えるようなマクロ変更の結果を叩きだせる能力の持ち主には、ある種、通常の倫理は適用する必要なしと考えているわけだ。同じヴァーチュー概念で、田中角栄の裁判を見直すと、そもそも政治家を、官僚と政府が裁くという近代国家の本義を無視した暴虐ぶりもさることながら、運命を改編する能力を持ったものを抹殺することが、小室さんには許せなかった、というのはよくわかります。