国立アメリカ歴史博物館(The National Museum of American History)〜アメリカの歴史展示物は、ミクロの再現を志向するのはなぜか?

http://americanhistory.si.edu/

自由の代償
やはり僕は、歴史が好きなようだ。自由の代償という独立戦争以前からアフガニスタン戦争までの全てのアメリカの戦争を追った展示物が、最も面白かった。

第二次世界大戦前後のアメリカの全戦線の写真を追っていると、本当に信じられないほど、世界中に軍隊が展開しているのが一目でわかって感心した。この展開力は、本当の意味での帝国でないと、できないだろう。それほど大きくない展示会場に集中して、ヨーロッパ戦線と太平洋戦線の二つを同時に展示すると、アメリカがなにを、どう、どのように戦っていたかが、一目でわかる。アジア太平洋という局地戦を展開している大日本帝国の末裔にはなかなか把握できない感覚だ。全部の説明は英語というのも、日本語に染み付いているイメージを失わせて、アメリカから見た視点になって、非常に良かった。

それと、やっぱり、アメリカの自身固有の歴史だけに、WW1から朝鮮戦争、冷戦、ベトナム戦争911アフガニスタンと全部が、バッチリつながっている感じがして、そこの繋がりの感覚はセンスオブワンダーだった。自由の代償という展示だけに、戦争に憧れた青年が実際体験してその地獄に苦悩するインタヴューや家族が引き離されて、父親が帰って来た時に泣いて飛びついてくる家族の映像など、ただマクロ的に戦争があったという記述ではなくて、それがすごく生々しい。もちろん戦争についての視点は、愛国的なニュートラルよりの右翼視点なので、いってみれば、自由に支えられる市民社会を称揚するスピルバーグ的な視点。バンドオブブラザーズと同じ、国としての公式見解は、確かにそれしかできないだろうな、というものだけど。まぁ、帝国の辺境に生きる周辺民族としては、なかなかアンビバレンツな気分にはなるが、ストレートにこの視点で、現代史を一気に説明されると興味深い。


ちなみに、ある意味で、日本にとっては、WW2以後の戦争は、どちらかというと、その良さも悪さも全てが自己責任というほどの主体的な感覚はないとおもう。けど、ああ、この展示から、アメリカ人は、いいも悪いも別に、歴史の紡ぐこと、世界を変えて行くことが、そのまま自己の主体と結びついている感覚があるんだな、とその現実感覚のリンクというかシンクロのよさに、感心した。現代社会だけに、単純に現実へのコミットが強いとは言えないのだろうけれども、それにしても、この感覚は、たぶん戦後の日本にはない部分の感覚だ。

■移りゆくコミュニティ Communities in a Changing Nation: The Promise of 19th-Century America

そして、上記の世界的に見ると傲慢な帝国の姿がどうしても見えてしまうアメリカだが、ミクロの部分で、アメリカ的にいえばコミュニティの部分では、苦悩が続き、いまだmore perfect unionに至れないその途上の、率直でストレートな展示物が並存する。この並存こそ、アメリカの強みだな、と思う。日本だと、どっちかの視点は、すぐイデオロギー的にカテゴライズされて灰汁が消えてしまうか、シニカルな笑で流されてしまうところが、生真面目に追求されている。この並存感覚がある限りは、アメリカは常に苦悩を抱えようとも健全であり、強さを持つんだよね。それこそが、アメリカだから。ここは、ユダヤ人社会や黒人社会などマイノリティの「生活」がどう変化しているかを、微細に追って行く。アメリカは歴史の浅い国だと言われるが、たしかに、長期間の悠久の歴史がないこと、それプラス、エリートが極端にいないこと、いいかえればロイヤルファミリーなど国そのものを代表するシンボルがいないがゆえに、大衆というか、「そこにいる人々」に焦点があっているんだよね。いつも思うが、アメリカの歴史展示物は、ウィリアムズバーグもそうだけど、非常にミクロの再現を志向する。

これは、使い古されているけれども、やっぱり草の根民主主義のグラスルーツの伝統がある国だから、そこに焦点が合うんだろうと思う。歴史学をかじった人はわかると思うけれども、テキスト中心の史観からデータを微細い事実をおうようになった時に見えて来たものが、マクロの公式見解の歴史、とはぜんぜんとはぜんぜん違うものだ、とわかった時の驚きに似ている。
 ニュアンスが伝わるだろうか?。

たとば、黒人のコミュニティを追ったこの展示物は、当時の黒人の女性が野菜をどんな風にしいれて売っていたかの売店が再現されていたり、その横で娘の小さな女の子が、豆を向いていて、どんなふうに洗濯したかなどの道具の細かい展示と説明がされている。しかも、それがどこの街のどこのストリートかまで、追求されている。このへんの、王侯貴族や国のマクロを動かすエリートではない、生活者の視点を追求する歴史視点は、全世界で、アメリカは非常に特異的なものではないだろうか?と僕は思う。アメリカでいう歴史を大切にする、というのは、コミュニティーそれの中核の家族の歴史、その生活の様式そのものを可視化することに注意が払われている気がする。



 その横の展示物では、17ー8世紀のコロニーの建物の構造が展示されていて、ある特定の街の、そこ位住んでいる一族や家族の名前も全て特定されている。まぁピューリタンは変態的に日記をつける癖があるので、こういうのができるんだろうなーと思う。なんというか、マクロの歴史を学びたい人には、ピンとこない歴史展示物なんだよね。けど、マクロがある程度わかって、さらに、現代の差や会やコミュニティー個人にとって、どういう履歴であったのかという具体的なルーツをプラグマティックに紐解こうとすると、これしかないんだよ。微細な事実市場主義の積み上げは、ともすれば、歴史のマクロダイナミズムの視点を失わせて、おもしろくないものとなってしまう。というか、有意味感覚がなくなるんだよね。おもしろくないでしょう、それでは。けど、アメリカのこのような生活そのものを再現するのは、複雑に絡み合ったコミュニティーの現代の問題を解決するために、構造をさがし、という意識があるように思えてならない。自然史博物館も、人類が一つの種であること強調する展示形式だったし。黒人の歴史と南アフリカ共和国の展示物が、そこに突如あるのも、おかしな話しで、これってアメリカにおける差別への戦い、人種統合の実験国家としての最前線を説明しているんだろうと思う。そういう、通常お歴史と言われるマクロだけではなく、アメリカに特有な人種統合をめざす実験国家であり、かつ、人種、文化、コミュニティーが混交してしまい、いったい現代が、自分たちがなんなのか?ということが、常に自明ではないがゆえに、歴史対する細かい強迫観念的な再現志向が生まれるではないか、と僕は思う。


そういう文脈で見ると、いろいろなことがわかってくる。なぜ二階の正面にボルティモア砦にかかっていた星条旗の実物があるのか?。これは、アメリカ国歌の作詞をした人物が、当時のアメリカで強い力を持っていたスペイン帝国から砲撃を受ける砦ではためく星条旗を見たという話しに基づいている。アメリカの超国宝だ。これは、アメリカの統合の象徴にしてシンボル。その右側には、アフリカンアメリカンに関する展示室があって、差別されて来た黒人の、公民権運動の時の、I am a manの写真が、全面の張り出され、そして、黒人のコミュニティが、自信を、自分は劣等な人種だと教育され扱われて来た数百年を、どのように自己のポジティヴイメージを獲得して行くかの苦悩のプロセスが展示されている。黒人たちのエンターテイメントやマルコムXのインタヴューで、自分には名前がない!なぜなら、大抵の黒人の名前は、送付の祖父のその前の奴隷主がつけた名前だからだ!だから、私は、アメリカ風の名前を使わない!と叫ぶテレビインタヴューが流されている。
 
  うん、ここまで自覚的だと、さすがだね。じっくりおっていけば、アメリカという実験国家が、どこから来て、いまどこにいて、どこへいこうとしているのかが、よくわかる。特にこの二階がわかりにくいだろうが、わかるとたまらないや。