『Lee Daniels The Butler/大統領の執事の涙(2013 USA)』  アメリカの人種解放闘争史をベースに80年でまったく異なる国に変貌したアメリカの現代史クロニクルを描く

大統領の執事の涙 [Blu-ray]

評価:★★★★★星5つ
(僕的主観:★★★★★5つ)


アメリカの人種解放闘争をベースに80年でまったく異なる国に変貌しアメリカの現代史を描く

『Lee daniels the butler(2013USA))』 邦題『大統領の執事の涙』 を見ました。アイゼンハワーからレーガンまでの7人の大統領に34年間仕えた実在のアフリカ系アメリカ人のユージン・アレンの生涯をベースにした映画で、非常な大作で見応えある作品でした。映画を見るときに、何を目的に見るか?という視点で楽しみ方が非常に変わってしまいます。僕の場合は、アメリカの歴史を知りたいというそもそもの軸と目的があります。その観点からすると、人種解放闘争という軸でアメリカの現代史を実在した人間の人生をベースに再構成し直している点で、とても分かりやすくアメリカの現代史を体感させてくれるので、素晴らしく感じました。アメリカの歴史に興味がある人には、『フォレスト・ガンプ/一期一会(1994USA)』に並んで現代史を網羅できる良作だと思います。

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そして、人種闘争の歴史を軸においてアメリカ社会を見るときに、冒頭で主人公のセシル(フォレスト・ウィテカー)は、母親をレイプする白人農園主に父親が抗議する、、、おい、と声をかけただけで、その場で撃ち殺されるシーンから始まります。そして、その白人の犯人の罪にも問われません。この場面は僕にとっても非常にショックなシーンでした。それは、アメリカの黒人奴隷の人生を主観体験で体験できる傑作、Steve McQueen 監督の『12 years a slave/それでも夜が明ける(2013USA)』を直前に見ていたのですが、そのあまりの過酷さと悲惨さに声もなく打ちひしがれていたのですが、それは日本で言うと明治維新前の1800年代の話であるから、ある種の過去の話という気持ちがあったんです。けれども、つい最近のオバマ政権の誕生まで主人公のモデルとなったユージン・アレンという人は生きており、言い換えれば、私は1970年代生まれの日本でいうところの団塊のJr世代なのですが、自分を基準に考えると、自分の祖父、祖母の世代に当たる人なわけです。僕はおじいちゃんの記憶はかわいがってもらったこともありよくあるのですが、その人と同世代の現在にまだ生きている人の子供時代である1929年の南部アメリカが、『12 years a slave』で描かれた世界と何ら変わらないのです。これは、正直衝撃でした。自分の生きている「現代」と直接に地続き(家族に関係者が生きている時代)が、まだそんなものだったとは!・・・・このセンスオブワンダーは計り知れないものがありました。一緒に見た妻も、絶句していました。えっ、こんなに最近まで、これほど黒人奴隷ってすさまじい差別があったわけ?、、、と。星5つを文句なく付けるだけあって、この作品は、骨太で素晴らしい上にアメリカの現代史の重要な流れを網羅できる素晴らしい作品ですが、そうした文脈読み的な見方をしなくても(言い換えれば知識がなくても)、娯楽としてもあきさせない素晴らしい作品出来ですので、なかなかのお薦めの映画です。ただし明確に現代史の人種解放の歴史を軸に描かれていることからも、『12 years a slave/それでも夜が明ける(2013USA)』と連続で見ることをお勧めします。どちらも決して短くない作品な上に重いですが、見応えと、センスオブワンダー(自分ではそうぞもできななにかに出会うこと)、アメリカという国の歴史の深さを感じられる、凄い作品です。


それでも夜は明ける12 Years a Slave(2014 USA)』 Steve McQueen監督 John Ridley脚本 主観体験型物語の傑作
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20150120/p1


12 Years A Slave/それでも夜は明ける


それにしても、1929年の南部の、あまりに現代の2000年代のアメリカと違うことに驚きます。主人公のセシルは、7人の大統領に仕えますが、大きく、ドワイト・アイゼンハワーが率いたいわゆるコンフォーミズム(思想的不寛容が蔓延り、社会の問題意識宇失い、ただ現状の豊かさを満喫すればいい、といわれる時代傾向の呼び名。アメリカの軍事大国化と対共産主義のための思想引き締めによって引き起こされたもの)が蔓延した繁栄の1950年代から、その反動で、社会的な問題意識が爆発したジョンFケネディらの公民権運動や、カウンターカルチャーベトナム反戦運動の1960年代、そしてリチャード・ニクソンの衰退の1970年代を経て強いアメリカの復権を掲げるロナルド・レーガン政権の1980年代と移り行く中で、それを眺め続けるだけの狂言回しの役に主人公のセシルは徹します。脚本が見事(というかセシルの人生そのものなのですが)で、主人のいる空間の空気になり切ることが要求されたハウスニガーの職業的な役割と、白人がなすことに何一つ言わない関わらない黒人の差別される立場という、主人公が内在的に抱えている役割と、映画の脚本上の「狂言回し」の役割を見事に重ね合わせて設計されているところは、さすがのハリウッド映画だと唸らせられます。そして、この壮大なアメリカの現代史というクロニクルを見た果てに、バラク・オバマ政権が誕生するわけです。人種闘争の歴史という軸で「これ」を眺めると、このことがいかに物凄いことであり、まだ生きている1920年代を知る黒人からすると、そしてその生きてきた人生を考えれば、とてもじゃないけれどもありえるとは思えないような出来事なわけです。しかし、それは現実に起きたのです。過去に、僕はアメリカのドラマや映画で、たとえばFOXのドラマ『24』なので叡智ある指導者としての黒人の大統領がたくさん描かれるようになっていて、アメリカも随分変わったよな、と語っていましたが、まさか本物が現れるとは思いもよりませんでした。

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ホワイトハウスオーバルルームという、ある種の会議室的な、最もアメリカの権力者の中枢で、外部からの波にさらされにくいはずの場所において、民衆のうねるような力が、それをじわじわと着実に変えてゆき、その果てに、アメリカは全く異なった国に変貌していきます。そういう意味では、アメリカがいかに民衆の力によって変化する究極のPeople’s nationでることがわかります。かつて、アメリカの建国の父たちは、アメリカを指してmore perfect unionと呼びました。これはいつまでも完全になることはない、絶えざる完全を目指す運動体としてアメリカを定義したということです。歴史家ランドルフボーンは、この国の歴史は常に未来にある、と書きました。普通の国は歴史というのは過去にあるものだけれども、アメリカの本当の歴史というのは「まだ訪れていない未来」に実在するのだ、という意味だそうです。

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ここでは現代史を見るという視点で映画を紹介しましたが、いつも思うのですが、日本のようなとても古い歴史を持つ国からすると、アメリカは若く歴史がない国だというような言われ方をします。しかし、これはちょっとおかしいな、と思うのです。アメリカに住んでいると、日本やヨーロッパ旧大陸に比べると、確かに、中世やローマ帝国もなければ古代史もありませんが、その代わりにアメリカには「近現代史」があるんです。アメリカの歴史博物館や、その価値を伝達させるための様々な施設や展示の仕組みを体験していくと、この国がいかに自分たちの歴史を大事にしているかがわかります。なぜならば移民によって構成されるために、アイデンティティが曖昧不明確になりやすく、過去の伝統を保守しようといってもそもそも建国の理念が「変わっていく未来にこそアメリカの本質がある」と憲法に定義してしまっているので、古い伝統に縋るというアナクロニズムがとてもやりにくい。なので、歴史とは何か?と問うと、この国「近現代史」こそがアメリカにとって歴史なのですね。そして、この直近の近現代史の保存、伝達に関するアメリカの情熱は、常軌を逸しているほどの気合が入っています。大枠な歴史がない分、細分化して、各移民ごとにだったり、もうものすごい細かい保存の仕方です。たとえば、ワシントンDCのスミソニアンアメリカ自然史博物館に行けば、その細分化のすさまじさが体験できるでしょう。日本が敗戦によって戦前の近代化の歴史を黙殺して教育に組み込まないことと比較すると、アメリカの歴史への情熱は、凄まじいものがあります。たとえば、Japanese American History musium(日系アメリカ人歴史博物館)がありますが、ここでは、第二次世界大戦の英雄であり、いまなおアメリカ陸軍の最大の模範となり教科書に掲載されている日系アメリカ人の志願兵のメモリアルがありますが、日系移民への恥ずべき差別を謝罪することが議会や大統領によってなされており、それを確実に残そうという意思が溢れています。もちろん、これはアメリカの恥部そのものであり、アメリカという移民を受け入れる自由と平等の社会においては、限りなく恥ずかしいことであるにもかかわらずです。そういうことから目をそらさない、ありのままに記述し続けようとするアメリカの強い原理を感じます。また、歴史が無意識に浸透するほどないアメリカにおいては、こうした博物館や映画などのシステムは、重要な価値伝達教育の媒体でもあります。アメリカの学校に通っていると、テーマに沿った課題で自分で調べてスピーチするという課題がアホみたいにたくさん出ます。その時に、たとえば、さきほどの日系人アメリカ人歴史博物館でもいいですし、空母が好きならば、NYなどに博物館(Intrepid Sea-Air-Space Museum)として退役の空母が設置されているのですが、そこに行ってみて、キュレイターや管理の人に、いろいろ質問することになっています。実際に聞きに行ってみようという課題ですね。そこに行くと驚きます。なぜならば、そういったキュレイターの人々はほとんどが、その展示物が、実在にかかわりがある人なんですね。僕が、質問すると「そうだんぁ、、、おれがナチとたたかっていたときでは、、、、」とか「この飛行機のレプリカは、俺が朝鮮半島で撃ち落とされた時に、、、、」とか、えっ????まじで????あなた退役軍事ですか?、つーかリアルに体験した人で、この展示物の内容って、あなたの体験ですかっ!!!!みたいな会話がすごくよく聞けます(笑)。これ最初は驚いていたんですが、こちらでは当たり前なんですね。なぜならば、移民で構成され、同じ歴史をもたない人々の、さらにまっさらな子供たちに「アメリカという価値を伝達していくこと」とは何か?といえば、「アメリカで実際に会ったこと実際に体験した人から子供に語らせること」が重要だ、という社会的な強い意志があるようなんですよ。なので、アメリカには歴史がない国だからというようなステレオタイプなことを言う人は、何もわかっていない人だと思いましょう。歴史の定義が違うのです。こと近現代史の保管、伝達に関しては、世界で最も進んで、かつ本気で行っている国家であるといえるでしょう。まぁ、アメリカの国内の歴史で閉じてしまうところが、孤立主義で引きこもりがちなアメリカらしいとは思いますが。そして、アメリカで閉じて引きこもっても尚、世界に影響が大きすぎて、世界史になってしまうところが、なかなかこの国の凄くかつ困ったところでしょう。


そして、そのような目で、この1929年から80年ほどの歴史を概観すると、アメリカという国は、まったく異なる国に変貌していることがわかります。この変貌のすさまじさを、感じるのに本当に素晴らしい映画でした。


ちなみに、アメリカ社会における「アメリカ的価値の継承」という問題テーマは、クリント・イーストウッド監督に強く表れています。なので、この問題が興味深い人は、なんといっても、『グラントリノ』がおすすめです。


さらにもういっちょいっておくと、日本は僕は素晴らしい成長・成熟を遂げて凄い国だと思うんですが、いやぁ、、、アメリカに住んでアメリカのことを勉強していると、もうほんと、さすがアメリカ対した国だよって、驚きあきれるほど凄いです。一昔前とは全く違った国に変貌している。この成長力、分裂と統合を振り子のように繰り返し、極端から極端に振れながら、前に進んで行く偉大な国家のことを、正当に評価し、よくよく理解しないと、本当にダメなんだろうな、と思います。井の中の蛙になることが日本のような、思い込みが激しい集団心理を持つ国には、最も危険なことだからです。偉大な、民主主義と資本主義を継続させる近代国家の先輩として、よくよく彼らを分析しなければ、本当に道を踏み外すと思います。

インビクタス/負けざる者たち』(原題:Invictus/2009年アメリカ) クリント・イーストウッド監督 古き良きアメリカ人から人類への遺言
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20100815/p5

グラン・トリノ・・・・・評価額1800円/ノラネコの呑んで観るシネマ
http://noraneko22.blog29.fc2.com/blog-entry-301.html

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アメリカという国家においての社会改良の運動はどうなされるのだろうか?

アメリカの人種解放闘争史を考える上で、様々な人々が強烈な当事者意識で社会を変えていこうと戦ってきました。アメリカの歴史を、特に現代史を勉強していて強く思ったことは、彼らは自らの手で社会をよりよく(とは限らない場合もあるのですが)変えていこうと願い、社会工学的プラグマティツクにそれを成し遂げているという実績が積み重なっていることです。古き伝統を持ち、社会的連続性が高く、様々なる社会の仕組みが古く保守されている日本という国に生まれた日本人なので、物事は「自分の手で変えられる」という意識はほとんどありません。日本の歴史、特に昭和の近代史を読んでいても、自分の手で何かを変えたという感じが何もしません(苦笑)(明治に自分たちの手ですべてを変えているのですが…そのあたりの話はまた今度)。とはいえども日本も様々な社会変革の運動はあった(いまもある)のですが、吉田茂がつくったアングロサクソンへのただ乗りスキームが長く機能していることもあり、主体性がかなりない感じがするんですね。まぁ、そういった日本の現在はさておき、アメリカはよく実験国家と呼ばれます。それは、この国が「人工的につくられた国」であり、その他の国家とは来歴が全く異なる国家で、建国の時点から、人々の意志によって建設され、メンテナンスされ、駆動するという「人工的」な国であるためです。

実験国家アメリカの履歴書―社会・文化・歴史にみる統合と多元化の軌跡

そうした国である前提を考えるまでもなく、アメリカでは、自分の国をよりよく変えようとした人々が、実際にそれを成し遂げていく過程がたくさん見れるのです。じゃあ『成し遂げる?』ってどういうことか、というと、実は「社会が実際に変わったこと」が成し遂げることでは、どうもないようなんですね。非常に微妙なことを言っていますが伝わるでしょうか?。ベティーフリーダンでも、マーティンルーサーキングJrでも同性愛でも進化論の教育論争何でもいいのですが、アメリカにおいてある集団が、既得権益を壊して社会の在り方を変えようと志した時に、ほぼ確実に戦略目標としてあることに集中します。そして、それが達成できたら、すぐ解散しちゃう感じなのです。それは何か、というと憲法改正です。もしくは事実上の憲法改正に等しい条文解釈の変更です。最高裁の判断を変えさせることですね。最高裁が司法が独立して機能しているからゆえのことでもありますね。アメリカの社会運動家は、ほとんどの成功ケースは、これを目指すんです。仮に、ジムクロウのように、奴隷解放宣言が出された後それを空文化させる法律ができても、30年、100年単位で、憲法を変えると、確実にアメリカは変わります。アメリカの歴史は未来にあり、人口国家であるところの拠り所は人々が社会契約した憲法にあるからです。現代国家とは、そういうものなのです。国家は社会契約と憲法によってできているわけですから。たとえば、黒人解放運動の歴史を紐解いてみると、W・E・B・デュボイス(1868-1963)は、黒人が差別されている構造が続くの白人がその基本的人権を踏みにじっているのだと考え、それを、変えるために全米黒人地位向上協会(NAACP)を組織します。この組織の最大目的は、1896プレッシー対ファガーソン判決で合憲とされてしまった、南部が主張する「分離すれども平等」というジムクロウ法を廃止に追い込むことでした。そしてこの法廷闘争が、公民権運動の導入部として機能していくことになります。本当に、アメリカという国の中での組織は、振る舞いが戦略的だな、といつも思います。社会を変えるということは、法律を変えて権力の仕組みを変えることだということが、徹底的に意識されていないと、こういう発想は全く出てこないと思うのです。これはやり西欧的なアソシエ−ショズムの伝統があるからできることなのか、とため息とともに羨ましさを感じます。


ちなみに、社会運動このような社会工学的プラグマティツクな行動と実績と、日本の社会運動家の在り方を比較するには、ぜひとも、日本の社会運動の現代的なありかたを透徹して内部から解体分析した本として、小林よしのりさんの『脱正義論』があり、これは必読だと思います。その差に驚くはずです。僕は、あまり小林よしのりさんが好きとは言い難いのですが、この体験型体当たりの手法のマンガは、本当に素晴らしい現代日本史のアーカイブになっていると思います。ゴーマニズムスペシャル版は、必ず読むようにしています。いつも素晴らしい気づきがあるから。そういう意味では大ファンかもですね(笑)。バイアス(=偏っていること)をちゃんと理解して読めば、これほど素晴らしい作品はないと思います。特に、この作品は、僕の人生の中でも目から鱗が落ちるもので、日本の社会運動が、なぜ社会工学的にまったく意味をなさない尻切れトンボですべて終わってしまうのか、よくわかりました。1960年代の安保闘争学生運動が、なぜほとんど意味もないものとして雲散霧消したのか、最後はあさま山荘事件や国際テロのような内ゲバテロリズムに出していったのか?の一つの大きな解釈として、僕はずっと意識しています。日本の在野の人々が、社会工学的な意識がなく、すべてが「自意識の空転とナルシシズム」に収斂して、「世界」に至ることなく「自分」に閉じこもる傾向があるのは、日本の市民社会の弱さの一つの特徴だと僕は思うのです。これは文学の私小説の発展の歴史も同じものだと思っています。

ちなみに、反対の部分を言えば、日本は権力の座にある体制側の人間には、こうした与党的当事者意識はとても強く、けっして夢ばかり夢想する国家でも民族でもないのですから、市民社会や体制側の「権力の扱い方」の伝統が非常にどこ間違っている証左だと僕は思うのです。また僕らサブカルチャーやエンターテイメント好きの人々にとっても、好きなテーマであり物語解釈の重要なポイントである「日本的自意識の在り方」、いいかえれば、ナルシシズムの檻や「自分探し」やルサンチマンの在り方から、それにリンクするビルドゥングスロマンに至る成長と、この話にストレートにリンクして重なるところに、とても興味深く観察しています。この小林よしのりさんの『脱正義論』は、大傑作です。日本の歴史を眺めるにあたっても重要な視座だと思っています。特に日本的文脈で社会運動を主導するリベラルや左翼の行動が、なぜ日本ではほとんど当事者意識を獲得できず、最終的な成果を獲得できず、体制側に参画して与党リーダーとなることができないのかの、日本的構造の答えの一つがここにあります。山本七平さんや司馬遼太郎半藤一利さんらが悩んだ、日本的空気の意思決定の問題点のあり方の理由が、ここにあります。

新ゴーマニズム宣言スペシャル脱正義論

ちなみに、この文脈では、高橋和巳さんの『邪宗門』も同時に読みたいところです。このテーマは、近代国家における社会改良、社会工学、近代国家建設がどのようになされるのか?ということの「実際的な部分」を考え抜いていくと、どうなるのか?。それが日本という土地の文脈であれば、どうすればいいのか?ということが考え抜かれています。『邪宗門』の主人公は、日本をよくするには、最後には宗教しかないのじゃないか、と堕ちていくことになります。もちろん、社会改良を目指す選良たる主人公は、最初は左翼でありマルキストです。日本においては、リベラルや左翼が、体制側に距離置いて社会をどう改良していくかと考える時に、基本的には、マルキシズムと宗教に頼るしかなかった厳しさがよくよく出てきます。そしてマルキシズムは、最終的に全体主義(=総力戦への準備)と侵略による経済権益の拡大での弱者の救済にとってかわられ(というか接続し)、宗教は天皇制に絡めとら(というか一体化して)れていきます。日本的文脈の中に、社会工学的な「国を実験場として人工的に改良していく」というヨーロッパ的な社会思想を導入する時に現れた具体的な変数がそれしかなかったからなのでしょう。日本の社会工学的な変数として、天皇という存在を利用して意識したのは、幕末から近代国家建設に至る時期ですが、これはすさまじい威力を持った社会遺産なのですが、、、、このパーツでだけでは、何かが足りないのでしょうね。

邪宗門 上 (河出文庫)


■体制内改革と体制外改革のどちらが世界を変えるの?〜キング牧師ブラックパンサー、マルコムXまで

社会がどれだけ激震に見舞われても、彼自身はほとんど変化しない。成長した長男のルイスが自分たちの未来のために公民権運動に身を投じる事にも、自らの役割に甘んずるセシルは、理解を示そうとはしないのだ。父親に拒絶されたルイスは、やがて武装闘争路線の過激な黒人解放運動、ブラックパンサー党の結党に関与し、一方の次男はベトナム従軍によって国への忠誠を示すという正反対の道を歩みだす。しかし、セシルが頑ななまでに主張しない生き方にこだわる間にも、彼の仕えた7人の大統領、即ち民意が、少しずつ、少しずつ社会を変革してゆく。国の成り立ちからの多様性故に、その葛藤の激しさは日本の様な比較的均質な社会とは比べ物にならない。何より、人々の強烈なまでの当事者意識の強さがある。マーティン・ルーサー・キング牧師マルコムX、そして多くの無名の若者たちの犠牲と献身によって生まれたホワイトハウスの外側の大きなうねりは、オーバルルームに決断を迫るのだ。
本作を見るとアメリカはやはり究極のPeople’s nationであり、民主主義の巨大な実験場なのだと感じる。 




大統領の執事の涙・・・・・評価額1700円/ノラネコの呑んで観るシネマ
http://noraneko22.blog29.fc2.com/blog-entry-718.html


さてさて、なぜ上記のアメリカと日本社会の社会変革の運動の在り方の違いを考えたかというと、僕はこの作品を見ている時に、主人公の二人の息子が、アメリカ社会をよくするために選んだ手法の差を、物凄くビビットに、この文脈で感じたからなのです。


長男のルイスは、武装闘争路線の過激な黒人解放運動ブラックパンサー党に入り、その後政治家になっていきます。次男は、アメリカという国家に忠誠を誓うためベトナム戦争に従軍するという道を選ぶのです。僕はアメリカのたくさんの映画を見て来たんですが、たぶん白人側の物語ばかり見て来たのでそう感じると思うのですが、ベトナム戦争に従軍したりそれを支えたいわゆるサイレントマジョリティーの層と、1960年代のベントナム戦争反対と公民権運動、黒人解放運動を支えたリベラル層は、全然別のもののように思っていました。どちらかというと、ベトナム戦争に従軍したりサイレントマジョリティーを構成するのは白人保守層だというイメージでいたのです。けれども、この次男が、国への忠誠を示すためにベトナム戦争への従軍を選ぶ姿勢を見ていると、単純な人種の違いだけではなく、もっと根深いものがあるように感じられたのです。これは僕は、日系2世のアメリカに忠誠を尽くしアメリカ人になるために、戦争に志願しヨーロッパ戦線で大活躍をして、アメリカ人として認められていくプロセスと非常に重なって感じます。ちなみに、サイレントマジョリティー的な最もわかりやすいイメージは、映画『フォレスト・ガンプ/一期一会(1994USA)』のガンプです。南部、白人、愚直なまでにまじめ、一番大切なものを理解して、それしか見つめていない、、、などなど。しかし、この次男の示す姿勢は、まさに、これです。この次男の生き方は、父親の生き方と重なります。

父親のセシルは、ハウスニガーとして執事のプロフェッショナルとして、白人社会に迎合し、支配され、順々に従い、その役割を得ることで、人生を生き抜きます。しかし、彼らは、その体制内部に食い込み、そこでプロフェッショナルな役割示し続けることにより、黒人の存在感を示し続け、その能力を示し続ける最前線の兵士でもあるわけです。またそれだけではなく、そのように体制に迎合して支配に従順でも、そこで高い給与を得続けるからこそ、二人の息子に高い教育を与えることができるのです。「次代の選択肢」として、次男は国家に忠誠を誓い、長男は国家に戦いを挑みますが、そのどちらも、父親が稼いだお金で、高い教育を受けたからこそ高い次元での選択肢が生まれているわけです。父が屈従の中で稼いだ金で教育を受けておきながら、父親の白人社会への従順さを責める姿勢に、セシルは激怒します。この辺りは古き価値観を背負う家父長的なセシルと、新しいリベラルな子供たちとの価値観の違いがありながらも、父親が1920年代の目の前で父親が純で撃ち殺されても犯罪にならない世界から這いあがってきたセシルの過去を知るにつけ、僕は非常に息子のルイスへの感情移入が難しくなりました。なぜならば、僕は団塊のJrの世代の人間なので、価値的にも気持ち的にも世代的にも、この息子の方に感情移入するのが普通なのです。しかし、父親のセシルの過去をずっと追っていれば、ほかにどうしようもなかったことは、よくわかるのです。むしろ、あの悲惨な環境から、ここまで息子を育て社会で認められるまで成長してのし上がってきたことは、賞賛に値こそすれ、それ以上を要求するのはもう不可能だと思うのです。また、あまりに仕事人間であり、仕事のことを話すことができないセシルは(ホワイトハウスに努めるので機密が守らなければいけない)、家庭的には「だまって俺についてこい」的な典型的な家父長的なものです。そのせいで、セシルにべた惚れの奥さんは(オペラ・ウィンフリーが熱演しています)、非常に寂しい思いをし、アルコールに逃げたり浮気をしかけたり(実際していたかは直接的な描写はなかったのでわかりませんが・・・・)、また二人の息子は激動の60年代にふさわしく、命があるかわからないような厳しい状況が続き、家庭は崩壊寸前に追い込まれています。でも、これをどうにかできただろうか?といえば、僕はNOだと思うのです。あの、1920年代の黒人奴隷のシステムが色濃く残る南部から、「ここ」まで来ただけで、それ以上、何を要求できるのだろうか?と思うって、僕は絶句してしまいました。妻と一緒に見ていたのですが、これは、もう父親が権威主義的で家父長的だからといって文句が言える問題じゃないよね。あの南部の綿花畑に奴隷としているのに比べたら、文句を言えないよね。どうしようもないよね、とつぶやいていましたが、非常に同感でした。時代、というものがあるのだなぁ、と思いました。1920年代から射程で歴史を眺めると、1960年代以降のリベラルなダイバーシティーが許容されるべきという我々の「常識」は全く通用しないだなぁ、と。歴史を、現在から断罪することがいかに醜く無駄なことか、と強く思います。フェミニズムリベラリズムは重要な価値観ですが、その視点でこの父親のセシルを断罪することは、感情的にとてもできそうにありません。時代には、時代の限界と制約があるからです。それがわからない人は、たぶん歴史を、人間的なるものを直視できないんだろうと思います。原理だけに生きる苛烈さもありますが、僕はそれは時系列の「時間」というものに対して、不誠実であると思います。


さて、ここで、公民権運動の指導者キング牧師を失ったあとに、黒人解放闘争が過激化していく過程を僕らは歴史によって知っています。大きくアメリカという国の根幹を社会変革していこうとしたときに、大きく二つの姿勢が黒人にはありえたと思います。非常にシンプルです。


それは、


1)非暴力で体制内改革か? 


2)暴力で体制外改革か?


の二つです。1)は、まさにMartin Luther King, Jr.です。2)は、マルコムXやブラックパンサー党です。ここでは個別の話はしないですが、アメリカにおける人種解放の歴史を知る上で、この3つはある程度でいいので知っていないと、話になりません。どれもすべて映画で見れるので、ぜひとも見てみましょう。キング牧師マーティン・ルーサー・キング・ジュニア)を中心に、1965年の公民権運動を描いた映画『Selma(セルマ)』もおすすめですね。あとこの辺の話だと、『ドライビングミスデイジー』とかですね。

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これって非常に大雑把に言って、何かを変えるときには、内部から変えるか?、それとも外部から変えるか?という二つの選択肢があります。たとえば、同じことが、日系人強制収容所キャンプでも、派閥争いになって日系アメリカ人のグループは二つに割れました。アメリカ軍に志願してアメリカに忠誠を近く究極の体制内改革の道を選んだグループと、アメリカとあくまで戦い日本と天皇に忠誠を誓おうとしたグループです。この過程は、山崎豊子さんの『二つの祖国』にでてきますので、ぜひ読んでみてください。興味深いですよ。別に、マイナーなことを穿り返そうとしているのではなく、日系アメリカ人は、模範的マイノリティーと呼ばれ、アメリカの敵である大日本帝国からの移民であり、当時アメリカとも恥部ともいえるような差別によって敵国の人間としてManzanarなどの強制収容所に入れられるという国からの辱めに受けがら、それでもなおアメリカ人たろうと究極の努力をし、真のアメリカ人だとアメリカ中から認められるようになった、アメリカの人の中かのアメリカ人の物語なのです。

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さて、『二つの祖国』は、この志願してアメリカ人になろうとした日系二世の人々のその後は描いていませんが、それはまさに、アメリカ合衆国陸軍の模範と呼ばれるヨーロッパ戦線での活躍となります。アメリカ合衆国史上もっとも多くの勲章を受けた部隊として知られるこの部隊です。僕は『二つの祖国』を読んだ時に、たしかタミヤという青年だったと思うのですが(うろ覚え)、こいつが凄いいやな奴なんですね(笑)。というのは、『二つの祖国』の主人公天羽(あもう)だったと思いますが、彼は大学も日本で出ていて(当時は為替レートの関係で日系人は日本でぢ額を卒業するのは普通だった)日本への思いとアメリカへの思いに悩み苦しみながらどちらとも答えが出せないで苦しむ誠実な人なんです。けれどもその『二つの祖国』の間で悩み苦しむ彼を馬鹿にして、俺はアメリカ人になるんだ!と強烈に自意識を振りまく男なのです。僕は日本人で、日本への忠誠を前提に物語を見ているので、このタミヤという男の尊大で確信に満ちた態度がすごく嫌な感じを受けたんです。でも、しかし、そんな態度の彼が、これから向かう先は、適性国人として差別されながらアメリカ軍に志願するという、凄まじく困難な道です。実際、日系アメリカ人部隊は、ヨーロッパ戦線の激戦区に投入され続け、ありえないような死傷率をたたき出しながら、最前線でナチスドイツ軍の精鋭部隊を撃破していくことになります。なので、僕は、彼がただ単にいやなやつなだけではなく、ある「覚悟」があった人間なのではないか?と読んでいて思い、その小説を読んだ時はテーマではないので、描かれなかった彼のその後が気になって仕方がなかったんです。何年も後に、ワシントンDCのスミソニアンのある地区のアメリカ歴史博物館のWW2において、アーカイブとして戦争の歴史で一兵士のインタヴューがたくさん残っていて聞けるのですが、そこに「ある兵士の記録」という一兵卒で片腕を失った兵士の録音があり、それを聞いている時に、、、、鳥肌が立ったんですね。その一兵士のインタヴューは、ダニエル・イノウエでした。名前も小さくしか書かれておらず、後にアメリカ合衆国上院議長になったことも書かれていませんでした。ただ素の彼は、アメリカに忠誠を誓い、自分の居場所は、祖国はアメリカだけなのだ、、、、自分に続くすべてのアメリカ人の子供が生まれによって差別されないために自分たちは戦うと、淡々とかたっていました。


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全米が賞賛した故ダニエル・イノウエ上院議員の生涯
http://matome.naver.jp/odai/2134957942416339301


もっとも出世した人は、442部隊出身のダニエル・イノウエ上院議員ハワイ州選出)ですね。最高位は、上院名誉議長。合衆国大統領、副大統領が死んだときに、継承権第三位のポジションです。また、日系人の初のアメリカにおける参謀総長である第37代のEric Ken Shinsekiの登場も、ダニエル・イノウエ上院議員の影響があったといわれます。アメリカ軍には、日系アメリカ人の将軍が多いので知られています。ようは、体制内部で、奴隷のように差別され蔑まれながらも、アメリカ人以上にアメリカ人らしく生き、アメリカ人であること認めさせていくわけです。先日彼がなくなった時に、オバマ大統領が哀悼のスピーチをしていますが、もちろんのこと、オバマ大統領はハワイで育っているので、彼にとって彼の地元も上院議員は、子供のころからダニエル・イノウエなわけです。そして、すべてのアメリカ人の子供にとって、生まれによって差別されることなく生きることができるアメリカを作りだした偉大なる先達でもあるわけなのです。アメリカの人種解放闘争の歴史を語る時に、日系アメリカ人の物語を抜きには語れないのです。ちなみに蛇足ですが、ダニエル・イノウエさんは、大日本帝国に叩き潰されたハワイを、合衆国最強の要塞とし、海軍の巨大な基地に作り上げ、二度と帝国にこの地は踏ませないと、ハワイに基地を誘致していく人になります。



ちなみに、ちょっとずれるのですが、『マスターキートン』を書いた浦沢直樹さんの作品で『パイナップルARMY』(という傑作がありますが、この日系アメリカ人の傭兵の話ですが、日系のアメリカ人で軍人といえば、442連隊とゴーフォーブロークン(当たって砕けろ)の合言葉で、敵に突撃していく勇猛果敢な軍人という意味があり、そのイメージや背景があると、こういった作品のことでもいろいろ連想が生まれますので、おすすめです。


パイナップルARMY コミック 文庫版 全6巻完結セット (小学館文庫)




話がずれてきましたが、戻します。そしてこのキーワード・・・・・体制内改革と体制外改革という言葉を見ると、僕には自分がずっと追い続けてきたある一つのテーマが浮かび上がってきました、



これです。この話は今後深くするつもりで、僕の考察の中心になっていくテーマなので、この辺は読んでおいて、いろいろ映画などを見ておいてくれるとうれしいです。さて、体制内改革と体制外改革を考えるときに、このセシルの二人の息子は、まさにこの真逆の選択肢を選ぶわけです。次男は、軍人となる道を選びました。そして、長男は、ブラックパンサーとして、暴力をいとわない過激路線に向かうことにあります。ここで僕は、見ていてすごい不思議な感じを受けたんですよ。それは、これまでの見て来た映画のイメージでは、アメリカにとって「正しい選択」をしたのは、1960年代にベトナム反戦運動をしたリベラルの選択だというイメージが強固にありました。僕が一番子供のころのイメージで残っているのは、少女漫画で成田美名子さんの『Cipher』でしたねぇ(笑)。この主人公たちの両親たちが、ベトナム反戦運動でデモをアメリカの良心と呼んでいたのが、なぜか忘れられなかったんですよねぇ。少年時代の僕には、アメリカに行ったの経験っていうのはないので、アメリカのイメージって『エイリアン通り』とか吉田秋生さんの『BANANA FISH』とかが強烈だったんですよねぇ(笑)。

Cipher (第1巻) (白泉社文庫)


また話がずれた。。。。えっとですね、アメリカの1960年代のリベラルの選択が正しかった、というイメージが僕には取ってもあったんですね。僕はアメリカ人ではないし、アメリカの情報を摂取していたわけではないので、とてもバイアスがかかったイメージではあるのですが、少なくとも、マルコムXやブラックパンサーなどの武力闘争を選んだ人々を支持するイメージはさっぱりなかったんですよ。キング牧師が白人い支持されたのも、アメリカ人になるとして、アメリカ人としての権利を強く訴え、キリスト教の牧師でああったキング牧師の意見は、アメリカの支配層や中間層(当時の白人のベビーブーマー世代)にとって受け入れやすかったんですね。一言でいえば、体制内改革ですよ。『同じアメリカ人なのに、同じ権利がもらえないのはおかしい!』という戦略。

けれども、ガンジー的な非暴力の内部から変える戦略を採るということは、我慢に我慢を重ねる行為でもありました。自意識や尊厳がすり減っていくんですね。あきらかに白人が不当な差別やありえないような過酷な暴力をふるってくるのに、それをなんで黒人が我慢し続けなければいけないのか?というのはとても理解できることです。このあたりの苦悩をリアルタイムの物語で追うと、胸がいたくなる思いです。公民権運動が進んだのは、当時テレビ放送で、非暴力の黒人をこれでもかと痛めつける警官や州兵、KKKの姿が映し出されたからでした。そこで非暴力の黒人尾姿勢は、たくさんの人(特に白人中間層)に共感と恥ずべき行為を自分たちがしているという意識をもたらしたのです。しかしながら、この激しい暴力はさらに激しさを増し、キング牧師の暗殺を機に、対向のために少しづつ武装闘争路線が選ばれていくのです。マルコムXは、イスラム教徒で、なぜ白人の暴力に黙って耐え続けなければならないんだ!と叫んだ人でした。もちろん、キング牧師のようなアメリカ社会に広範な支持を受けるということはありえませんよね。白人が奪ったものを返せ!と叫ぶようなことを、白人の今の世代が肯定することはありえませんから。ということで、僕は武装闘争路線を選んだパンサーやマルコムXは、どうアメリカ社会に受け取られているかよくわかりませんでした。しかし、この映画では、黒人が主人公で黒人の監督が撮影しているというのもあるのかもしれないのですが、長男の方に物語はクローズアップされます。いままでならば、マイノリティとしてアメリカ人になるために、ベトナムに志願した次男を「アメリカ人としての正しさ」として描いたと思うんですよ。けど、次男は、ほとんど描かれません。父親と息子の葛藤は、ひたすら長男と父親で描かれます。そして、あっさりベトナムで戦死してしまう次男とは別に、キング牧師と一緒に非暴力を戦い、その後ブラックパンサーの結党に参加した長男は、後にアメリカの下院議員として当選していく姿が描かれます。いろいろあったが、長男の方が、長く深くアメリカの社会の歪みたいしてコミットしているんだ、という話が描かれるのです。


これを見て、なるほど!!!!と思ったんです。


僕は、長期的な戦略では、非暴力による体制内改革にしか、世界は変えられないと思いこんでいる節がありました。別に暴力を使わないのが偉いのではなく、現状既に既得権益を持ってしまった層のマジョリティから譲歩を得るための戦略は、それしかないと思っていたからです。マクロを変えるには、時間が、最低一世代30年はかかるという思いがありました。どんなに過去、現在に権利を奪われ泥棒のように搾取されたとしても、一旦出来上がったマクロの仕組みを壊せば、多大な混乱とマイナスが社会全体のマクロを覆います。けれども、尊厳=ディグニティーの問題を考えると、我慢するのだけが解決手法だといわれると、それは、それで苦しい話だろうと思うのです。それは、僕は、ガンダム00の、記事を書いたときにLDさんが、ソレスタルビーイングは「わがままな子供だ」と評した問題と、僕自身が、地球連邦政府が形成されつつあり、世界が漸進的に進むのに、それなのに小数を救えないから!といってテロリストになるルサンチマンは、おかしいのではないか?という問題と、密接に絡みます。


この悲しい世界で家族を求めてさまよう物語類型〜スメラギ・李・ノリエガソーマ・ピーリスちゃんの遍歴
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20081228/p1

ルイ >> どうでしょうね。宇宙進出の段階に至っても、軌道エレベーターは三本生まれてしまった。そして国家的に宇宙産業に貢献できないなら、そこは切り捨てられていく・・そういう世界ではありますよね。まぁそれも眺めていれば数百年で解決、というか切り捨てられた国家が消えて終わるでしょうけど、今ある想いの話なんで、それは勿論マクロ視点からすれば糾弾されうるし、されたときに反論する言を持たないでしょう。でも、そこで声を上げる事をやめていいのかって・・・・・・・・・・・・・・・・・テロリズムの論理以外の何物でもないのは何故だw

中略

ルイ >> 最大多数の最大幸福、とやらに人間が皆迷いなく邁進できるなら、その種は人間なのかって話・・・なのかも。とにかく、CBがペトロニウスさんの理屈でもって論破されちゃうのは、さすがに意図してのものだとは思ってます。嫌いなのは、仮初の良い人っぷりをアロウズ作って演出してることだけでw



漫研より

http://www.websphinx.net/manken/


いま先ほど書いたように、奪われたものを返せ!といって武力闘争路線に進むのは、尊厳=ディグニティの問題だと、僕は書きました。逆にいうと、僕は、尊厳以外は全く価値がないと思っていたんですね。要は、ただのテロリストだと。僕は感覚的には、バーグの保守主義が正しいと思っている人なので、性急な革命は社会の連続性と成長を失わせるだけで、トータルではなにも意味がないと思っている節があったんですよ。なので、CB(ソレスタルビーイング)の問題は、尊厳だけの問題で、マクロ的にはただのテロリストだろうという思いがあった。しかし、アメリカの偉大な変化を見てゆき、その歴史において1960年代のリベラルが行った歴史的遺産の再評価が進んで行く現状を見て、その結果として出てきた、これらのアフリカ系アメリカ人の業績を見て、そうか、体制内改革(非暴力)の戦略と、体制外改革(暴力を含む)戦略とは、二つの両輪であって、どちらが正しいというものではないのかもしれない!と思い始めたんですね。これは、社会を変えようとする時に、この二つがバランスよく登場して、組み合わさって、世界は、社会は変わるのだ!!!と。僕にとってこれは驚きの大発見でした。


ここにおいて、僕がテーマとしてずっと掲げてきた体制内改革と体制外改革のどちらが正しいのか?という対立のテーマに新しい答えのがもたらされてきたように感じたのです。


もちろん、体制外改革で暴力を含むものがなければならないといってもテロリストを容認するという意味ではありません。しかしながら、アメリカの黒人解放の歴史は、リンチ(lynch)との戦いでもありました。リンチの伝統とその発動のメカニズムなどの歴史的な話は、下記の本が素晴らしいので、それを読んでほしいと思います。

性と暴力のアメリカ―理念先行国家の矛盾と苦悶 (中公新書)
性と暴力のアメリカ―理念先行国家の矛盾と苦悶 (中公新書)

黒人関連のこれまで上げてきた映画などを見れば、黒人がどれだけ日常的に白人の暴力にさらされ、いつ殺されるかわからない恐怖の日常の中で生きてきたかがわかるはずです。これは、対抗できる組織的暴力がなかったためでもあります。もちろんアジアの植民地の扱いだって、そうです。法律とそれを施行し強制できる暴力とはワンセットのものなのだと思うのです。アメリカ社会における黒人の地位向上というのは、過去に奪われた基本的人権(権益)を、「返す」ということになるとなると、現在の既得権益者(白人)は、その人が特別に黒人に何か悪いことをしたのではなく、生まれたときからそういう構造の中で生きてきたにもかかわらず、自分たちの利益を他者に明け渡さなければならないことになります。それって、非常に難しいことですよね。ましてや権力と暴力を独占している人々が、それを返還する必要性など感じるわけがないと思うのです。リンカーンの自伝や映画を見ても、なぜ奴隷解放宣言がなされたかといえば、倫理や道徳の問題よりもまずは、北部の産業にとって安価な労働力がほしくて、南部の綿花栽培のプランテーション構造を破壊したくて行っていることは歴史的事実です。

リンカーン [Blu-ray]

だとすると、体制内改革側(非暴力)の意見が強い意味を持つには、もしこれを受け入れていかなければ、どんどんテロリストや武装闘争路線の方向に人材がシフトしていって、たいへんなことになるぞ!という入れ子の構造の脅しが存在しなければ、前に進みにくいと思うのです。そういう意味では、社会の中で変革のプロセスが進むには、どちらの発想も同時にないとだめなのではないか?と思うようになりました。必要というよりは、尊厳の問題があるし、100年後や1世代後に仮に平等になっても、そんなことよりも、いままず自分の大切な人を何とか守りたいとか、あまりに踏みつけられてボロボロになった尊厳を自分が生きている時に回復したいというのは、必ずある一定の数が社会には存在するはずなのです。また包摂の問題もあります。もし社会が、差別される人々や弱者に対して、ある一定数の社会に影響を与えてしまうほどの数のテロリストや組織を生み出してしまうのであれば、それはその社会から健全性が失われているという証左でもあると思うのです。この辺の、ではそのグラデーションのラインはどこなのか?、どれくらいの比率のどれくらいのレベルを、許容できないか?というのは、まさに時代や環境の変数によって変動することだろうと思います。


常識的に考えてテロリズム武装闘争路線を許容するのは非常に厳しいし、僕の価値観や肌感覚的に合わない。それは、僕が「幸せに育った子供」だからだと思います。LDさんが、ガンダムOOでセツナに対して、下記のようなこと言っていました。

LD >> …でも、俯瞰してみると、セツナを中心とする「世界が平和的に一つにまとまって行こうとするから見捨てられる人々」ってのはいるんですよね。その彼らが「俺達を見捨てている事を思い知れ!」ってテロに走るのは実は分る話…だと僕は思ってしまう。

しかし、そうでない人々も社会にはたくさんいます。そうした様々な社会の矛盾を、様々な形で受け入れる器を作り、そして社会全体を正しい形で変えていく方向に向かわせるメカニズムがあって初めて、社会は漸進的に良くなっていくのでしょう。僕は、この『大統領の執事の涙』という映画を見て、今まで焦点が当てられていなかった(ように僕には感じた)ブラックパンサーなどの武装闘争路線を選んだ人々が、アメリカの多様性が認められていく社会環境の中で、再評価され始めているのだ、と驚きを感じました。もちろん、学者ではないのでブラックパンサーのその後を僕が詳しく知るわけではありませんが、このことは、公民権運動の時代、、、あの熱き1960年代のアメリカでの出来事が、きちっと歴史的に評価されはじめているのだろうと思ったのです。イスラム原理主義などの現実での行動を見ていると、国家機能が全く機能していない地域において、教育や様々な公的システムが提供しなければならないものを提供して地域を再生産することに資していることがわかっています。なので、現実に見捨てられた地域で支持があり、組織が拡大されていくのです。ブラックパンサーなどが、黒人の地位向上のために教育や踏みにじられた尊厳のケアに奔走し地元に教育を根付かせようと奮闘し行き、、その後、緩やかに武装闘争路線が力を失っていく過程で、有力な政治家として地元の支持されて、アメリカの権力機構に浸透していく様は、まさに、この映画で描かれている長男の生き方そのものでした。これが、一人の黒人執事の物語でありながら、幅広い年代のマクロの移り変わりを描いたクロニクル(年代記)的な描き方をしているからこそ、わかったことだったと思うのです。だって、この性急な長男は、30年以上の時間を経て、腰の据わった本物の政治家になっていくのです。それを描くのは、単発の物語でテーマが区切られていたらできなかったと思うのです。いろいろな状況が成熟しなければ、ありえないような深みのある映画で、オバマ政権の誕生によって、アフリカ系アメリカ人の映画が素晴らしく充実していくという背景もあってこそのものだったと思います。やっぱり、オバマ政権の誕生って凄かったんだな、、、と。思います。



自分の思考の履歴にとっても、この体制内改革と体制外改革の対立軸で、、、、日本的な表現で似た問題意識としては、キャリアとノンキャリアの対立(もしくは企画と現場の対立)、僕がずっとテーマの基礎に置いてきた『踊る大捜査線』の現場と会議室の話とストレートにリンクする話で、この問題意識に、時代背景が変わって、あきらかに『踊る大捜査線』の映画の表現が古くなってきた、その次ぎ、がどういうものなのか?ということをずっと考えていたので、この次の話題のための大きな材料を得たような気がしました。


この話は、また書くと思います。えっと、伝わってますよね???どうだろう、、、、青島刑事(現場・ノンキャリア)と室井さん(企画・キャリア)が、官僚的で現実の犯罪にうまく対処できなくなった警察という大組織を変えていこうと思った時、現場から変えるか?それとも、偉くなって(=体制内改革のことですね)変えるか?と問うたときに、その対立と止揚を描くことがこの物語の大きなテーマでした。そして日本的な根深い社会の構造とこれはリンクしていたので、非常に強い魅力を持ったのです。しかし、すでに、現場が!!!とか叫んでいる表現は当たり前になってしまい、古くなりました。現場ばかり叫びすぎ、現場の意思決定がリーダーの権力発動を縛ることによって(下克上)、日本は統一した行動ができないで崩壊するというのが、日本的なマクロの病であることはわかってきました。なので、現場現場言っているのは、実はむしろ害悪だったんだ!というのが日本においてはわかってきました。日本社会の問題点は、リーダーの意思決定が組織に貫徹しないこと、リーダーを選び組織を統合する運営ができないことが問題点なのだからです。そして、エリートにならなければ、組織は変えられないとかそういう古いエリート主義も実はなくなりました。現実具体的に言えば、日本社会において200年近く近代の建国を支えたブレスオブレージュである一高・東大・勅任官的な、科挙的な仕組みが、大学(エリート教育)の大衆化と社会の成熟化によって全く機能しなくなったからです。今の時代は、事件はどこで起きているのか?と問えば、みんなシンプルに答えることができます。事件は、現場と会議室の両方で同時におこっているんだ!と誰もが知っているはずです。そして、その両方が理解できるほどに、日本の一般市民レベルの教育水準は上がっているのです。エンターテイメントで人口に膾炙しているというのは、そういうことだと思います。


では、どうするんだ????というのは、僕にとっても重要な問いです。それは、日本の組織というものが持つ文脈をどう評価して変えていくか?というのは、ビジネスマンとしてとても興味ある問題設定だからです。ようは、日本社会において、なぜ明治建国以来、せっかく大成功(日清・日露戦争の勝利や50-70年代の高度成長)しておきながら国が迷走して崩壊するのかと問えば、明治建国時代にはあったのブレスオブレージュが失われて、そうでなくともリーダーが育ちにくく、統合した指揮権が発動しにくい日本社会の病をさらに深めているからなんです。そしてそれは、頑張って取り戻せるものではなくて、エリートとノンエリートが峻別されて、エリートに莫大な富と名誉のメリットがある代わりに、信じられないほどの重い責任を負わせるという英雄が英雄たること要求する社会構造だったからです。ノブレスオブレージュによる、リーダーとしての自覚とその役割が、極端な個人の成長をもたらすという立身出世主義のシステムが、機能しなくなり、それに代替するノブレスオブレージをこの大衆化して英雄、エリートが存在せず、いなくなった社会で、どのように作りだすことができるのか?ということが、いま現在の日本には問われていることになります。この話は、まさに脱英雄譚の英雄譚という文脈とかかわるのがわかると思います。



・・・・前の話と僕の中では繋がっているけど、なんか支離滅裂になってきた(苦笑)ので、今日はこれにて終わりにします。

東のエデン(2009 Japan)』 神山健治監督  ニート(若者)と既得権益世代(大人)の二元論という既に意味のなくなった二項対立のテーマの設定が失敗だった
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20141009/p1

GATCHAMAN CROWDS』 中村健治監督 ヒーローものはどこへ行くのか? みんながヒーローになったその先は?
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20131015/p1

海燕の『ゆるオタ流☆成熟社会の遊び方』
西暦2013年の最前線。『ガッチャマンクラウズ』がテン年代のコンテクストを刷新する。
http://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar322009

踊る大捜査線 THE MOVIE 3 ヤツらを解放せよ!』  本広克行監督  秀逸なテレビドラマの「続き」〜ただし、もうそろそろこのテーマでは限界があるよね
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20110318/p3

『容疑者室井慎次 THE JUGEMENTDAY』本広克行監督
http://ameblo.jp/petronius/entry-10003814797.html

交渉人真下正義』本広克行監督
http://ameblo.jp/petronius/entry-10001734077.html

現在官僚系もふ
http://ameblo.jp/petronius/entry-10012763386.html

物語を評価する時の時間軸として過去〜日本社会を描くとき
http://ameblo.jp/petronius/entry-10012793578.html


踊る大捜査線 THE MOVIE [DVD]