『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』 渡航著 (2) 青い鳥症候群の結論の回避は可能か? 理論上もっとも、救いがなかった層を救う物語はありうるのか?それは必要なのか?本当にいるのか?

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 (ガガガ文庫)

最近、アニメをホンワカみています。1話は、説明過多で、なんかセリフを読んでいるだけに見えてしまって、大丈夫かなーと思ったんですが、その後はこなれていい感じです。これって、ヒッキーが、とっても文学少年(←実はそうだよねっ!)なので表現が「書き文字」の表現描写や観察経過が多いんだよね。彼って、凄く文学少年だと思う。なので、アニメーションにすると、実はちょっと難しい気がする。普通に小説をそのままキレイにアニメーションに再現しているので、特にひねって演出していないので、このへんは少しとっつきにくい感じがします。ほかのもう少し若い、、、中学高校生の小説のファンは、どう感じているんでしょうかねぇ?。僕は、そもそもこういう文学系の表現ってとても慣れているし、原作付きのアニメーションに強い期待はほとんど持たないので、特になんとも思わないのですが・・・・。


とはいえ、主題歌すきですねぇ。。。。ゆいちゃんも相変わらずかわいいしねー。なんといっても彩加が一番かわいいけどね!。って、ホンワカ、見ていると、、、その青春がとてもまぶしくて、、、良いなぁ、、、と思って、、これってやっぱり学園青春モノになってしまうんだなーと、最近、このテーマの話を掘り下げて考えているので、思ってしまうのですよ。。。さすが、LDさんは、目の付け所が見事だ、と。

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』  渡航著 (1)スクールカーストの下層で生きるこ
とは永遠に閉じ込められる恐怖感〜学校空間は、9年×10倍の時間を生きる
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130406/p2


ヒミズ』 (2012年 日本) 園子温監督 (1) 坂の上の雲として目指した、その雲の先にいる我々は何を目指すのか?
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130419/p1


ロマンチックラブイデオロギー解体の視点で恋愛を描いた物語を眺めてみる(1) あなたにキラキラはありますか?
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130405/p1

『ドキドキプリキュア』 東堂いずみ著 11−12話 自立と依存の比率のバランスについて


ちなみに、コツコツ書いているので、このテーマ関連は、上記の記事ですね。


■絆などという「ほんもの」の関係性は本当に存在するものなのか?〜幻想の青い鳥ではない何かがあるのか?

LDさんに、この「友達欲しい系」の話をしたところ、たいていの友達が欲しい系の物語は、青い鳥症候群の結論に収束します、と説明された。それは『僕は友達が少ない』という物語を見ると、よくわかるとのことです。どういうことかというと、タイトルで、さも友達が本当にいないような設定に見えるが、たとえば、肉には、小鳩ちゃんには、理科には、友達がいないはずがない。というか、学園のアイドル級の絶大な人気を誇っているのが見え見えである。仮に、理科に友達がいないにしても、この子は、ゲームを作った経験があるということからも、社会で大人相手に必要とされて、それで大きなプロジェクトを経験している。人が必要とされて、多人数で何かを作り上げるという経験を、高いレベルで持っていることを示しています。それが、友達がないというのは、何を言っているかといえば、「残念系」というように、自己認識で自己評価が低いが故に陥る現象なんですよね。どうもここはキーのような気がします。これらの作品群のテーマとしているのは、友達がいないことよりは、実は、自己評価が低いことをがポイントであり根源なのでしょう。

それにしても、肉とか、あれくらいのレベルの高い人気になると、この自己評価が低いのいすらウソのようなものです。だって、彼女の気高いでしょう?。もうこうなると、設定のためにそうなっているとしか言えない、ただの勘違いですよね?。結局この系統は、意識すれば、あれ、私には友達がいっぱいいるじゃん!、というかそばにいる人が友達だった、という青い鳥と同じ結論になるんですよね。結局いろいろ旅をしたけど、幸福の青い鳥は家にいた、みたいな。その「気づくプロセス」を見るのがこの物語の類型。

僕は友達が少ない+ 2 (ジャンプコミックス)


第12話 「僕は友達が…」  そうか、恋人じゃなくて、友達が欲しかったんだ!これはびっくり目からうろこが落ちた。
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130329/p1


ただし、LDさんの言うように、主人公の小鷹と夜空は、確かに友達がいない上に、自己評価の部分も壊滅的に低いという超残念なキャラクターで、だからこそどんなにフラグを立てても、本来はこの二人が結ばれるドラマトゥルギーを持っているといえると思います。けれども、ここで前回僕が、アニメをみていて!うぉ!!と唸ったのは、ここで、小鷹と結ばれれば救済されるはずの夜空なんですが、大きな縛りがこの物語のドラマトゥルギーには隠れていて、それは、恋人よりも友達が欲しいんだ!という隠れた最も巨大な文脈がここに隠されていたわけです。これは小鷹の話ですが、夜空も同じです。やっとできた、友達(肉とかのことね。もう十分友達だよ)なんだけれども、恋人を選ぶことで、それを失ってしまう構造があるわけですね、さてどうしますか?という問いです。ああ、より文脈が、凄くクリアーになってきた。


スクールカーストの学校空間には、「ほんとうの友達」教という信仰が存在する。それは、きっとスクールカースト下剋上の万人の万人に対する闘争に疲れ果てた「あの丘の向こう」(笑)への希求が生み出した、絶対性への祈り(笑)。この幻想の絶対性のコロラリー(系統の枝葉)として、友達がいることがベストソリューションなんだ、という青春物語の類型が生み出されている。しかしながら、このシステムが、ラブコメの発展形態であるハーレムメイカーのフォーマットを利用して、描かれたために、友達と恋人とどっちが重要なんだ?という問いが生まれてきたわけだ。この問いは、厳しい。なぜならば、両立が非常に難しい構造の中で、二択が迫られているからだ。恋人か友達か?という端的な二択。何度も言いますが、二択は、二択に追い込まれた時点で負けです。二択は選べないのだから。



芥川龍之介カンダタのたらす糸はたくさん、実はたくさんある〜けれども、90%をカバーするものに漏れてしまう層を救えるのか?そもそもいるのか?

さて、先日LD教授と話し込んでいた時に、この作品群は、ターゲットとテーマがうまくかみ合っていないという話になった。より正確に言えば、最初は、ターゲットに設定していた層への疑問に答えようとするのだが、物語上それができなくなるというだ。

それはどういうことか?といえば、『僕は友達が少ない』などのタイトルがそもそも、友達がいないと感じている孤独を苦しむ層の救済とまでは言わないが、そのタイトルに共感を得る人間を対象にしているはずだったのだが、この物語のハーレムメイカー的なラブコメの構造から、実は、お前もてないって言って女の子にモテまくりだし、友達いないって周りにたくさんいるじゃん!と突っ込みたくなるような環境にどんどん変化していく。物語が進むということは、カタルシスに進むわけで、そうならざるを得ない。仮に最初に本当に友達がいないとしても、まじで一人もいなければ物語が進まないわけで、そうではなくなっていくところがこの物語のドラマトゥルギー(=物語が展開する力学)。極端なこと言えば、ただ気づいていないだけで、そもそも友達はいたんだよ!(=青い鳥症候群)な設定になっている。これはいいかえれば、本当に友達がいない孤独を経験している人からいえば、ああ、俺の求めているテーマや答えに全然リンクしていないで、離れていくのだな、と取り残されていく感覚を抱かせるはずだ、と。

ここでLD教授は、カンダタの話を出します。

蜘蛛の糸 (日本の童話名作選)

有名な芥川龍之介の小説ですが、カンダタは、生前悪い泥棒だったので、地獄で苦しんでいました。しかし、一度だけ小さな善行をなしたことがあって、小さな蜘蛛を踏みつぶさずに助けて生かしたことがあった。それを見ていた釈迦は、カンダタにチャンスを上げるように、小さな蜘蛛の糸を地獄に垂らして、助けようとする、、、という話ですね。

これは、どのような人間にも、蜘蛛の糸がありうることを示しています。まぁ無駄に使ってしまって、カンダタのように、他人を蹴落とそうとして糸が切れてしまうというのが、オチなんですが(笑)。でも、そんな細い糸が1本だけあっても救われる人はとても少ないじゃないか?と思うかもしれませんが、そうじゃないんですね。LD教授は、この糸って実はたくさんあって、90%ぐらいの人はって正確な数字が言いたいのではなくて、ほとんどの人は救われるための糸が垂れ下がっているんです。あとはそれにつかまればいいし、自分でその価値を壊してしまわない限りは救われるのです。この物語のように、大抵は自分で壊してしまうんですけれどもね。僕は、世の中は、ほとんどすべての人に、救済の道が細いながらも示されていて、実はほとんどの人には、糸がたらされているんだ、というのは同感です。

なにをいっているかといえば、先ほどの、これらの残念系青春ラブコメといわれたりする系統で主軸のテーマになっている「友達がいない孤独」ボッチの世界に、救いはありるのか?と問えば、それは、いくらでもあると思う、といっているんですよ。そもそも、ほとんどのケースが、友達がいないんじゃなくて、青い鳥症候群。いや、そばにいるじゃん?という話。もしくは、友達を作ろうとしていなかった、というだけ。そばに友達候補はわんさかいるのに、自分から拒否しているだけ。カンダタの糸はたくさん垂れ下がっている、というのはそういう意味のことです。


けど、もう少し前に戻ると、そもそもなぜこれらのテーマが、浮上して焦点があってきたのだろうか?。それは、下記の記事でも書いたのですが、やはり、ウィリアムジェイムスは、ヴァスティションの経験といっていましたが、ナルシシズムの地獄と僕が呼ぶような実存の苦しみが、強く認識されて、その自己の肥大化や空転が、共同体村社会の傾向が強い同調圧力の日本社会が凝縮された学校空間スクールカーストの秩序の中で物凄い生き苦しさと孤独感を感じるように人がなったという、1990-2010年代の20年ぐらいの強烈な外部環境があったからだと思います。この時代に日本の自殺率が急上昇して、先進国の中でトップクラスになっていた時期ですね。

宗教的経験の諸相 上 (岩波文庫 青 640-2)


1990年代から2010年代までの物語類型の変遷〜「本当の自分」が承認されない自意識の脆弱さを抱えて、どこまでも「逃げていく」というのはどういうことなのか?
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20100521/p1


ロマンチックラブイデオロギーに支えられた核家族像の解体
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130405/p1


ここで「マターなるなもの=母なるもの」からの脱出が「家族幻想の解体」に結びついいく様を僕は書いています。この辺は物語三昧のブログを長く読んでいる人には、僕の「ものの考え方」や「系譜の追跡」は、いつものパターンですね。この学校空間のスクールカーストというのは、この文脈に日本的社会構造の特徴である同調圧力の極端なムラ共同体志向の純粋空間であるがゆえに、そのガス抜きとして、構造上の特徴として、派閥抗争が激化して異物の排除を行い始める万人の万人に対する闘争的な下剋上サバイバル空間が現出することを、僕は、いじめ、と呼びます。

ビジネスマンの僕としては、身も蓋もないのですが、このいじめの構造は日本社会の権力闘争なので会社に入っても社会に出てもずっとずっと続きます。日本社会の特徴ですから。まぁ、ただし、学校空間ほど全然苦しくないのは、社会というのは、グローバルに、さまざまな階層にオープンに設計されていて、逃げ道がないわけじゃないからですね。なんでも、動きようがある。だから逃げ道がないどころではなく、自分の派閥や組織を立ち上げて反抗に出ることも、自分だけの王国を建国するのも、なんでもありになるので、そこまで同調圧力の空気による縛りが強くないからです。アソシエーション(=自由意思による目的の結社)という仕組みによって、我々の社会は、資本主義社会は形成されていますので、プチ革命でも何でも実力でこの同調圧力の空間・組織・階層を壊すことは可能なのです。だから、圧倒的に社会は気が楽ですよ。見てください、日本の会社共同体という超陰湿ないじめ空間は、絶対に長く持ちません。なぜならば、外部と、海外と、世界と競争しているからです。外部が存在してオープンな競争がされている限り、ダメなものはすぐ淘汰されるんですよ!。そういう仕組みに、あらゆる組織が設計されている。経済とかでいうのならば、参入・退出の自由というやつです。しかし・・・


学校空間のスクールカーストが苦しいのは、ひどく長い時間にわたって「異なる選択肢」をとる自由がほとんどないからです。壊れた組織が、機能しなくなって腐っても、ずっとそのまま維持されるんです。参入と退出の自由がないので、関係性が凄く腐敗するんです。こんなの組織論的には、凄い簡単な話で、参入退出の自由がない共同体にするので、いじめって発生するんですよ。

いじめの社会理論―その生態学的秩序の生成と解体
いじめの社会理論―その生態学的秩序の生成と解体


会社ならば、すぐ淘汰されるか、いやな人は出ていってしまいます。この苦しさに対する、どのように救済されればいいのか?どのように逃げればいいのか?どのように反抗すればいいのか?なぜこのような世界がつくられたのか?だれが作ったのか?自分には何ができるか?などなどの疑問が、このあたりの物語群を進める力となります。クリエイターにとっても、読者にとっても、これらの視点が重要な背景上の構造となります。


ただ、普通このような「救いがない」ような状況にあっても、かなり比率で救われる方法は存在しています。だって、我々の社会はまだ存続して、続いているじゃないですか?これはすなわち、そうはいっても、社会の大多数は、まぁ何とか救われていることを示しています。たとえば、学校空間のスクールカーストは、卒業してしまえば終わる、という逃げ道があります。僕は以前の記事で、我慢していれば、全然違う人生が待っていますよ!といったのはそういう意味です。自分の中の価値を磨いていれば、さまざまな可能性が、未来にはあるんです。なので、必ずしもこのスクールカーストの地獄が、真の地獄たり得ないのは、逃げ道があるからです。とはいえ、同じ記事に書きましたが、若い時の時間の密度とインプロヴィゼエーションは、とんでもなく「濃い」ので、その苦しさは比較しようがないほど苦しいので、それに耐えられなくて狂ってしまう人はたくさんいて、そのせいで動機や心が壊れてしまうのは、、、確かにわかるんですよね。。。


・・・・この設問、この状況下での救いとはどういうものか?というのを考えると、、LDさんはカンダタへの細い糸は、90%ぐらいの人にはたらされているんですよ、という話と重なると思います。しかし、、、、このほとんどの人が救われる糸さえも、俺はたらされていない!もしくは拒否するという絶対的な孤独を選択する層がいるんです、というのか、LDさんと話していたのは、本当にポーズではなく、そんな理論上は存在するけど、という存在はいるのか?という話でした。



■理論上もっとも救いがなかった層を救う物語はありうるのか?それは必要なのか?本当にいるのか?

とはいえ、こういった層は本当にいるの?というのが、LDさんはいっていたのですが、言い換えれば、どうもLDさんは、こういう層は都市伝説にすぎなくて、ほんとうはいないんじゃないの?というニュアンスでした。ちなみに、その時、僕が思ったのは、なるほど思ったんですよね。というのは、これっているいないの実在は考える必要性はなくて、このテーマを考えてしまったら、この究極の層は、確実に想定されてしまい、想定されれば、もしかしたら自分がそこに当てはまるのではないか?という不安が常に付きまとう可能性があるので、この層があるのと同じ機能をもたらしてしまうんだろうと思ったんですよ。



■ぼっちとは孤独を知るもの、孤独を知るものとは、孤高を知るもの

ではどうするか?というと、もう何度か書いているんですが、友達なんかいらない!という方向性がありえるよね、という話になりました。僕は、この『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』がいいなーと思ったのは、この友達がいらないという方向性が、やせ我慢ではなく、いい感じに展開しているところにありました。というのは、『湯神かうんは友達がいない』もそうなんですが、友達がいらないというのは、もしそれが弱者ではなくて強者の立場であると、どうなるか?といえば、それはやはり一人で自立できるということになんですが、その為には才能がいるんですね。別に持って生まれた財力でも何でもいいのですが、ようは力となる、、、ぼっちでも一人で生き抜ける力があるか?ということ。一つは、自分自身を支えることのできる確信力・・・とでもいおうか、要は自己充足ができて他人の承認を必要としない心の強さを持っているかどうか?その強さの度合い。


もう一つは、物理的にそういった「ぼっち」的な人間は、共同体の腐敗のスケープゴートでいじめの対象に狙われやすいので、この『狙われる同調圧力と攻撃』から身を守る『物理的な力』を持っているかどうか?です。ちなみに、どんなに自己充足できて周りの目を気にしなくとも、物理的に攻撃から身を守るスキルというか力がなければ、だめです。この力は、実際に暴力というか実際のパワー・・・いいかえれば、ケンカで相手を勝てる力でもいいけれども、ベターは、知力です。人が生きる世界で、組織的に「ぼっち」を血祭りに上げる方法は、とてもよく練り上げられているので(苦笑)、、、共同体の同調圧力というのは保守的な伝統スキルなので、もう凄い進化を遂げて相手を追い詰めるんですよ(苦笑)。これに対抗できるのは、これらの構造を知りぬいた「知力」でしかありません。自己充足できる、、、自分で自分の楽しみを見つけてマイペースに生きる人はたくさんいますが、そういう人が、すぐ血祭りにあげられてかられるのは、この物理的にぼっちを血祭りにあげて、それを祝祭として共同体の結束を高めるという伝統的な(苦笑)システムというかルールが存在するからです。これは、現状の行われているルールを熟知して、そのルールを逆手にとって壊すことでしか対抗できないので、相手のルールをよく熟知する知能が凄く必要なんですよ。


この『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』のいじめの対処が、物凄く秀逸だった!と僕が書いたのは、まさにこの点をついていたからです。いじめをなくすために、ヒッキーがとった行動は、いじめが起きてしまう構造そのものを叩き潰すことでした。その結果、通常のよくある道徳もので、そのさらに大前提となっている「みんな仲良く!」という共同体の同調圧力グランドルールを叩き壊すことも全く厭わないで、彼はそれを実行します。いじめの構造を壊すのは簡単です。その大元を崩壊させることは、別にむずかしくないのです。けれども、そこでは「みんな仲良く!」などの道徳的前提があって、この共同体の理想自体を守ろうとすると、実質的には壊すことはできなくなるのです。だって多数決ルールで、その場合は、より多くの「みんな」が仲良くするほうに、少数者が合わせる=同調圧力の奴隷となる=空気を読むことが、そもそも守られるべき基本になっているからです。

日本教徒―その開祖と現代知識人 (角川oneテーマ21)

けど、そこを躊躇なく壊すところは、さすが空気を全く読まないもの(笑)。ヒッキーさすがって思いました。ようは、共同体を形成すべく、「みんな仲良く」という「和」の伝統を守るために、そういった道徳秩序があって、空気を読んで弱いものを排除するのは道徳的に正しいことなんですよ。日本社会では。そうやって、下剋上の戦国時代は、自分たちの敵対者と壮絶な戦争を繰り広げて、日本社会は混沌の闇になったんですから。共同体主義の、行きつく果ては、となりの惣村との「万人の万人に対する闘争」(ラテン語: bellum omnium contra omnes, 英語: the war of all against all)ってやつです。


だって、「みんな」仲良くの「みんな」に入らない奴を調教、強制しろ、そうでなければ排除して殺してしまえ!という話なんだもの「みんな仲良く」って。これって、外側に参入退出の自由がない空間で「和」を強制すると、そうなるんですよ。どう考えても。これを壊すには、その多数者が信じている自分たち仲間の「みんな」という多数者の共同体を、いったん崩壊させてしまえばいいのです。そうすれば、個人に戻ってしまうので、同調圧力のために守るべき「仲間」「みんな」という結集ポイントが壊されてしまうんですよねー。そうすれば、いじめなんかおきません。だって、そういった「多数者のみんな」という逃げ道に隠れていたのが、そのベールをはぎ取られてしまえば、物凄く弱くて不信の塊で怯えている個人になってしまうからですよ。そして、ほんとうは、それが真実であるんですよ。誰もが一人ぼっちで、だれもが「ぼっち」なんです。この孤独を常に理解して生きている人は、とても孤高です。孤独なのは、ただ怖いだけですが、、、、孤高は、その孤独であることの意味と構造を「理解して」いるんですよ、それで、そのように生きている。ある種の諦めとともに。。。これわかりますよね。選択肢は2つあるんです。一つは、大多数という「みんな」を作ってそこを隠れ蓑にして弱いものを叩くんです。そうすれば、孤独を忘れることができるんです。デイビッド・リースマンの『孤独な群衆』ですね。もう一つは、人間が孤独であるということをよく理解して、群れを形成することを、機能と機会にとして考えて、それに依存してしまわないことです。それは、とても苦しい。孤独と、ずっと対峙し続けることですから。それが、僕的な感じでいうと、孤高の人

孤独な群衆


ほら、ヒッキーってあきらかに、そういう諦観の視点があるでしょ。僕が彼をとてもとても好きだなーと思ったのは、彼が、この孤高を生きている人だからです。


孤高を知るものは、自立して生きる空気の奴隷でないものです。だから、僕は、彼が好きなんですよねー。孤独を理解して糊口を生きているからといって、人間を好きになる心や人と仲良くする能力がないわけではありません。こういう人は、物凄く機会主義的に人間関係を捉えているので、何か共通の目的があるときだけ一緒になる、そういうものとしての感覚を持っています。なので、そうでない愛情などのボンド(=接着剤)を持って近よぅてくる人間が、なかなか理解できない。信用できないのではなく、理解しにくいのです。ヒッキーが、凄く愛情を持って近づいてくるユイに冷淡なのは、理解しにくいからなんですよね。信用していない、というわけではなく。もちろん、ヒッキーもまだ子供ですから、愛情に怯えている面もないわけではないですが、それ以上に、こういう孤高の人は、なかなか共同体(=目的を共有しないで一緒にいる強度を愛すこと)が理解できないんですよ。


僕は、ヒッキーのここに、とても興味深い、友達が欲しい系のテーマの到達点を見ます。特に、これがいいのは、ヒッキーが強者の武器をもっていないことです。友達がいらない!と言ってみたところで、それで生き抜ける・サバイバルできるだけの武器(才能や財力いや、、そういったもの)を持っている人が、孤高を貫いても、、、はぁ、と思うしかありません。だって強者なんだもの。強いものが、サバイバルできるのは当然です。そういった極端なチート的強さは、「和」のみんな仲良く共同体に対するただ単なるルサンチマン的発露の破壊者にしかなりません。ようは、単に恨みで復讐しているだけです。それも可能性の一つだし、物語として見てみたいですが、、、、現実性が薄いですよね。実際に、その方法だと、ヒーロー物語になってしまう。ヒーロー物語ならば、その力をもってして、できれば日本社会の「和」のルールである、みんな仲良くを達成してほしい、となってしまいます。そして大概、みんななかよくのフィナーレでカタルシスをもたらします。物語的には、それしかないんだもの。けれども、それって、強者の物語です。そういうのは、もう、大概見飽きているので、あまり共感できないですし、、、、先ほど設定した、絶対に救われない層に対する話としては、全然解決策の提示になっていません。


いまのところ、ヒッキーの解決策は、みんな仲良くの構造自体を破壊してしまえ、という全体的には「後味の悪い」ものでした。なぜならば、ヒッキーは強者たる武器が何もないので、その武器が、共同体の同調圧力の「外側から観察している」というその事実を利用した智慧でしかないから、それ位のことしかできないんですよ。もっと強者の武器があれば、みんな仲良くする方法を考え出すでしょう。あるならやれよ、となるからです。けど、そんな武器の無い彼には、せめてできること、、、、何も武器をもぅていない状態、強者でもない状態でできることは、彼の観察眼による智慧だけなんですね。でも逆に、それが、凄く可能性を感じさせます。だって、それは誰にでも、とは言わないですが、特別な才能を有さなくともできるスキルだからです。


そして、孤高を生きているヒッキーが、意外に人生を楽しそうに、一人で生きているのも、とても魅力的です。ガジェッド的に、あんなにかわいい妹がいたりするのとか、ハーレムメイカー的にゆきのんやゆいがそばにいるんだけれども、それは、このへんのライトノベルの基本フォーマットであるだけで、そこにドラマ的な関係性を僕はあまり感じません。特に妹がそうです。完全に読者サービス的な存在ですが、意外や意外、僕はとても普通の「家族」に感じるんですよ。アニメにすると可愛すぎてだめですが(笑)、小説だと、ああーこういうガキな妹っているよなーって思うんですよ。そんで、なによりも、人との関係性がとってもちゃんとしているヒッキーの距離感ならば、ああ、妹ともこの辺お愛情に満ちた適度な距離感になるよなって感じがして、ヲタク的な文脈を感じないんですよねー僕には。


少なくともまだ完結はしていないので、この方向をどうまとめるか?とか、本当にこのへんのポイントを追求するかはわかりません。けれども、ぼくは、なかなかこの設問に対するいい方向性だと思っています。まぁ、もちろん、既に7巻ぐらいで女の子に囲まれているので、青い鳥症候群としてオチを見出すのは、簡単です。けれども、それ以外の何かを見せてほしいな、と思う今日この頃です。



総対的に見て、やっぱりこの系統の議論は筋が悪い方向かもな、、、いじめの話に引き込まれると議論が歪むし、、、たぶん、やっぱり直感で言っているLDさんの「友達が必要ない」方向性への視点が、重要な気がする…。やっぱり、、、、いまの世の中の流れとか、そういうの考えても、『湯神くんには友達がいない』方向性の、孤高をどう扱うか?という方向が、抜け出る方向性としては、いい着眼点なのかもしれない・・・・。というのは、孤高を保つからって、孤独でいてはいけないんだ!。というのは、日本は特に共同体ムラ社会のハイコンテクスト社会(エドワードホール)なので、そういう一人でいるやつは狙い撃ちにいじめて排除して、集団の求心力を上げる作法が染みついているので、本人にとってだけでなく周りにもあからさまなのは迷惑なんだ。いや、いじめは、するやつが悪いんだけれども、マクロの構造なんで。その他大勢のやつらには逆らいにくいんだ、それを変えろって難しいし。なので、「変なやつ」というポジション付で、ムラ共同体に「席」を占めてしまうのが一番いい戦略的行動。ムラ共同体は、「席」があるかどうかが重要なので、席ある人には手を出しにくいのだ。


・・・・クイア(変である)ということは、難しい生き方だ。オリジナルな生き方というのは、オリジナルだけあって、誰も助けてくれないし、しんどい。けれども、「ほんの少し」それを努力しないと、その他大勢に埋もれて、価値がない透明な人間になるだけなのも事実だ。なので怖くて、空気を読むだけで人生を消費してしまう。時代も、既にクリエイティヴネス(=クイアであること・変であること)を要求している。だからこの方向はマクロにあっている。もう大量生産の企画消費社会じゃないんだもの。日本は。高度成長も終わった。みんなと同じ行動をしていても、絶対に成功しない時代だ。だからジョブスも言っているじゃないか。まぁ成功する必要はないんだけれども、せめて生き残りたいし、楽しくいきたい。


Stay hungry, stay foolish.


別にポジティヴマッチョども(=モンスターモチヴェーター)の言説に戻りたいわけじゃないので、そこを誤解してほしくないのだけれども、湯神くんとかヒッキーの方向性って、正しいんだよなーって思う。いいんだよ、他人の中に埋没しないで、どうやって生きていくか!って時に最も重要なのは、人と比較しなくていい自分自身の確信と日常のライフスタイル(=クンフー?)が形成されていないと、怖くなる。けれども、かといって、「つながりを拒否」しているのは、だめなんだ。それは、ただの孤独だし、孤立。ましてや日本社会のムラ共同体体質の中では分が悪し、あとやっとぱり、人間が群れの生き物ではあるので、つながりの技術はいる。けれども、ボンド(=接着剤)はあくまで、自分の意志と興味とやりたいこと、であるべきだ。


・・・・まだ1巻しか読んでいないけれども、湯神くんの着地点は楽しみです。



・・・・しかし、林山君の逆恨みしない姿勢に、めっちゃ感心した。こいつは、いい男だっ!



湯神くんには友達がいない 1 (少年サンデーコミックス)





「そのうち」なんて当てにならないな。いまがその時さ
人の目なんか気にしないで、思うとおりに暮らしていればいいのさ
大切なのは、自分のしたいことを自分で知っているってことだよ。


・・・・・スナフキン、あいかわらず、いいこといっている。