『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』10-11巻 渡航著 この展開は悪手で袋小路で先がなく作者は苦しいだけ・・・・・だからこそ期待したい

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。11 (ガガガ文庫)

■時代の問題意識を正面から戦っている幸せな作品

10巻から11巻を読んで、迷走している、と思う。悪い意味で書いているのではなく、作者が真摯に悩んで物語が進まなくなっているのがわかる。もちろん僕の勝手な解釈だが、10-11巻を読んでいて、雪乃との関係が、奥歯にものが挟まったような感じで、歯切れが悪く、「作者が何が言いたいのか?」がぼかして語られる感じが半端ない。それは作者も迷っている、、、というか、この「悩みの揺れ動き」こそが、物語の最前線だから起きるんだろうと思う。2013年に賀東招二さんの『フルメタルパニック』を読んだのですが、この時に感じた驚きを思い出します。というのはこの時点でこれは既に古典的だった、その後パターンとなった類型なので、とても古臭く、しかも作者が泥臭く当時の最先端のテーマ(すでに踏破が終わった)を追っているのですが、その真摯な追及感覚、暗闇の中を行きつ戻りつしている骨太感が、素晴らしいのですね。なのでテーマやそれへの答えが色あせて古くなっても、それでも面白いのです。これぞ、物語だ!という感じがする。時代を代表する作品の持つ力だと思うのです。

フルメタルパニック ずっと、スタンド・バイ・ミー』 賀東招二著 なんて幸せな物語だろう
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130228/p1

フルメタル・パニック!戦うボーイ・ミーツ・ガール(新装版) フルメタル・パニック!(新装版) (富士見ファンタジア文庫)


■アンチリア充の物語類型(=リア充解体の工程)のその先は?


前回の記事で、2011年からはじまったこの作品には時代を代表するアンチリア充(=リア充の解体)を真正面からぶつかって、そして踏破してきたと書きました。しかし、ロングラン作品は、とても難しい側面がある。それは、時代の感性、時代が求めるものと、作品の主軸のテーマがずれてきているのだ。作品が時代遅れになったわけではなく、この作品こそが、新しい時代の扉を開きつつあるという意味で。しかしそうなると、なかなか難しい。対葉山のアンチリア充(=リア充の解体工程)は、既に終わりを迎えつつあるとすると、もう一つのリンクする主要テーマであった、雪ノ下雪乃由比ヶ浜結衣との関係性に物語は集中しつつあるのですが・・・・。最初から、僕はゆきのんのテーマはいずれどこかで決着をつけなければならないと記事で書いてきました。作者さんも明らかにここを強く意識していると僕は感じます。下記は引用ですが、この話は事細かくこの記事で書いているので、興味がある人は読んでほしいです。一言でいうと、この展開は悪手で袋小路で先がなく作者は苦しいだけだということです。

生徒会長にゆきのんがなることが解決になるかどうかわからない。


けれども、ゆきのんをめぐるドラマトゥルギーには、今この話では二つの前提がある。


それは、彼女も、ゆいちゃんも、ヒッキーも、奉仕部の空間、いいかえれば3人がいる空間を大切に思っていること


そしてそれがまだ、終わりを迎えていない、まだこの3人の関係のドラマトゥルギーが終わっていないと感じていること


2番目は、生徒会というテーマが出てきたときに、ゆきのんのお姉さんとの確執というドラマトゥルギー


とても前に進むこと。特に、ゆきのん自体が(わからないが)どうもやりたがっていたのではないか?ということ


彼女は、ヒッキーが気になると思う。それは、彼女が正統的なアプローチをする人で、搦め手からオリジナルな攻め方をするヒッキーは、人材としてとても補完性があって、一緒にいて凄く楽しはずなのだ。そして、正統的なアプローチをする人は、リーダーに向いているのだ。それも実務のにね。言い換えれば、たしかにお姉さんよりも、生真面目なゆきのんは、生徒会長に向いていたと思うのだ。


という2つの条件を考えれば、めぐり先輩が、いっていたように、ゆきのんが生徒会長で、副会長がゆいちゃんで、庶務がヒッキーであっても、おかしくなかったのだ。


というか、奉仕部でやっている、裏方のことって、まさにこれと同じことじゃないですか。


これが、絶対位唯一の解決方法とは思わないし、それがよかったかどうかもわからないので、


これが正しいとは言えないと思う。


けれども、すくなくとも、ゆきのんが、どうおもっていたのか?は話し合うべきだったと思うのだ。それが、責任、、、、言い方が悪ければ、偶然人生の縁を共有した対等な友人との真摯な対応だったと思うのだ。そこで、人と、他者と本気でぶつからないやつに、リアルは感じられない。


なぜ、一色さんに対して同じアプローチができたのに、ゆきのんにできなかったのかといえば、それは、ヒッキーが、〜からの自由に固執していて、〜への自由へのステージの転換を見誤っているからだと思う。ゆきのんとかかわることは、自分を制限して拘束することだからね。一色さんは、彼にとってはどうでもいい人であって、そういうのには制限されないからだ。


それは、明確な間違いだった、と僕は思う。



やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。8 』 渡航著 ヒッキー、それは確実に間違っているよ
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20131129/p1

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。8 (ガガガ文庫)


LDさんは、結衣ちゃんを選ばないなんてありないでしょう!といきまいていますが(うんうん、それはわかる)、僕としては最初から雪乃さんに注目している。それはこの物語類型ならば、『マリア様がみてる ハローグッバイ』で、それじゃあ祥子さんは、救われないよっ!といった話が、もしかしたらここで見れるかもしれないと思ったからです。僕にとっては、祥子さんとゆきのんは、同じ類型に見える。花ゆめ系でよく出てくるキャラクターだと思うのですが、過去に津田雅美さんの『彼氏彼女の事情』で有馬君の救済をどう考えるかと考えた時のテーマと重なると思うんです。

■マリ見ての本質

えっと、僕は柏木優って、スゴイ優秀な男だと思っている。

それはなぜかというとこの作品中で、ほとんどスーパーマン扱いされている赤薔薇さまこと小笠原祥子のことを、唯一の彼女の本質だけで、取り扱っているからだ。読んでないと分からない話の展開だなー(笑)それは、このスーパーマンみたいな、大金持ちの娘で、成績超優秀で、気が強く、美貌に恵まれた祥子が、実は、ものすごくか弱く弱い存在であるということを、一切の表面の肩書きや虚飾を無視して、柏木は、最初の最初から扱っているんですねー。


あーさすがだなーと思う。(←作者がね)


この祥子の弱さという本質に近づくことが、実は、祐巳の成長の本質であり、もともと圧倒的に祥子よりも劣位な存在であった妹(スール)である祐巳が、憧れという感情をバネに、彼女の弱さを知り対等な存在として精神的なパートナーとなっていくところに、その成長物語にこそ、この物語の本質があるのだと思う。

この場合、柏木優は、作中で唯一、本当の意味で祥子の本質を見抜いているのですが、それが、どうも理由はわからないが、恋愛感情でないようなのですね。(それとも育てているのか?)その祥子の精神的なパートナーとして、優は、どうも祐巳が相応しいと考えているている節があって、この部分が、上手く描ければこの作品は、アーカイブとして残るとまではいえないが、同時代として、人々(たぶん年齢層の低い人々)に読まれる価値のあるいい作品だと、思う。でも、そこに話を持っていくと、ここまでくると数巻で終わってしまうので、こんな儲け頭を(笑)編集部が終わらせるわけないので、そこでこういう中だるみが生まれているのだと思う。多少クライマックスまで薄めるのはありだと思うが、グインではないが(笑)、あんまり薄めすぎると、本質がぼやけてしまい、駄作になっちゃうぞ!って少し言いたい(笑)。まだ大丈夫だが。
http://ameblo.jp/petronius/entry-10007607835.html


マリア様がみてる―未来の白地図 (コバルト文庫)



と、こう書いている。この時は、この作品世界の中での柏木優の立ち位置に、あまり深く考えなかったのだが、最終的に終わってみると、祥子の内面の救済を深く本質的なところで達成できる力があるのは、彼だけだというのがはっきりわかってしまって、「そのドラマツゥルギーを昇華することなし」に終わってしまったのは、残念だ、という思いがあります。

例でいうと、津田雅美さんの『彼氏彼女の事情』の宮沢雪野編(前半)と有馬総一郎(後半)とほぼ同じ構造だと考えればいいでしょう。宮沢さんは、育ちが幸せすぎて、幼少時から、いや生まれる前から「家」の業を心にトラウマとして抱えている総一郎くんのことが、分からず先に救われちゃうんですね。その距離感の落差が、恋愛のうんまくいかなさにつながり、、、とドロドロ話が真っ暗闇の奈落の底へ落ちていくわけです(笑)。実際、少女マンガ誌に残る名作だと思うのですが、後半の有馬編は、とても人気がなかったそうです。

まぁ理由は分かるよね。そもそも漫画で、そんな「心底暗い話」なんか見たくないぜ、っていう需要層はそもそも多いと思うんだ。せめて物語だから、明るくて、癒される幸せな話ばかりが見たい、という意見は、とても重い重みがあると思う。またもう一つに、これってものすごいどん底から有馬が救われる話だけれども、それって、「天才のお話」なんだよね。だって、そんなどん底の人生から、急角度に未来が開けていくのってのは、「選ばれた人のおとぎ話」になってしまって、感情移入の広汎さを拒むと思うんだよね。たしかに、物凄いドラマティツクなお話だけれども、それはしょせん、自分とは縁のない話、と突き放して見てしまう読者は、とりわけティーンエイジャーやそもそも漫画を受容する層には多いと思うんだ。小説や漫画などの物語を語るメディアが好きなこと自体、現実とちょっと距離を置く傾向が多い人が多いと思うだろうしね。現実が好きな人は、物語を読む前に、自分という物語を生きてしまうもの。とすると、そういう人にとっては、感情移入の相手としては、敷居が高過ぎるんだ。

彼氏彼女の事情 21 (花とゆめコミックス)


これは、まんま小笠原祥子にも言えると思うんだよね。彼女の人生の問題点が、小笠原財閥の一人娘で直系であるということを抜きにしては語れません。いや、彼女の存在意義の過半を占めるといってもいい。それは何にも彼女自身に救いをもたらさないが、彼女の「人格」はこれによって形成されているし、彼女が「一人娘」である限り、この血の呪縛から逃れることはできないんですよ。



彼女という人格にとって、「本質的な自由」を得るためには、ここを乗り越え解決しなければならない。しかし、これは個人の気持ちではどうにもならないほどの、マクロの縛りなんですね。


そして、当然「このこと」が深く理解できるのは、身内だけなんだよね。ちょっと詳細は忘れてしまったけれども、一時期はフィアンセだったことを考えると、幼少時から柏木優は、小笠原財閥を継ぐ覚悟を求められていたわけで、一番その「意味」が分かっているのは、彼なんですよ。このドラマツゥルギー、いいかえれば、小笠原財閥の後継者問題と家の業を主軸テーマに考えないと、小笠原祥子の救済が描かれなかったも同等なんですよね。



マリア様がみてる ハローグッバイ』 今野 緒雪著 ついに祐巳・祥子編の終わり、大好きだが一点不満があります!
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20090110/p1


雪ノ下雪乃が救済されるためにはどうすればいいのか?


丁寧に書いていると、体力尽きて書かなくなるので、端折っていうと、ゆきのんが救済されるためにはどうすればいいのか?と考えた時に、既に詰んじゃっているんですね。この先が書けない。


ここで僕が思い出すのは、丸戸史明さんの『WHITE ALBUM2』(2010-11)です。ようはね、ゆきのんキャラクター設定を考えると、学校の中じゃ救われないってことなんですよ。これは、アンチリア充のテーマで葉山君を理解していく、関わっていく過程と同じなんですよ。葉山君自体の苦しみは、学校空間からきているわけではなくて、その外にある社会、自分の家庭からきているものです。ちなみにこの葉山君と雪のんの関係は、祥子さんと柏木君の関係とても構造上似ている。だから、葉山君の問題意識は、常に「学校の外」からきているので、学校空間が舞台の問題や人間関係の解消では全く意味をなさないんですよ。


ホワルバ2やハイスクールクライシス、冴えカノで丸戸さんが、このラブコメの問題意識をどうクリアしたかというと、「お仕事もの」へ展開を飛躍させて舞台を変えることでした。

そんでね、ここが、丸戸さんの作品のいいなーと思うんですが、このお仕事系の話が出てきたときに、ラブコメにおける問題点をだいぶ解消する射程距離があると思うんですよね、この人の発想には。それが色濃く出ていたのは、『ホワイトアルバム2』。これって、高校生の時に熱病のような恋愛が始まって、それが成就するというか一つの結末を迎えるんですよね。だけど、第二部というか、「その後」といって、大学を卒業した後の社会人になって「人生のやりたいこと」を目指し、社会人になったステージで、もっとドロドロした話が始まるんですよ(笑)。

WHITE ALBUM2(「introductory chapter」+「closing chapter」セット版)

えっと、ラブコメの問題点というのは、少女マンガの問題点と同じなんですが、恋愛が成就(=お互いが両思い)になった後に、それでも続く人生において、結婚や社会に出て金を稼がなければいけなくなったりして、「自分の実存」や「社会とのつながり、社会での価値」などが総合して押し寄せてきたときに、それでもその恋は、機能するの、意味を持つの?という問いです。もう少しいうと、恋と、結婚した後の愛は違うよねって話です。少女漫画の問題点には、肉体が抜けやすい、いいかえればSEXがちゃんと描かれていないという問題点があるわけですが、要は舞台がどこかってことで、そこは無視されてしまいやすい。だって、中高生の恋愛ロマンスを描いているのに、「そこ」まで書いてドロドロしても仕方がないじゃないか、ターゲットと表現したいものが違うんだよ、と言われてしまえば、そこで終わるからです。



でも、それ全部射程に入れたものを見てみたいよね?というのは、決しておかしくないと思うんです。ターゲットがぶれるし、キツイ現実を見せつけられるので、企画化されにくいと思うんですけどね。


なので、お仕事系は、お仕事系で別のカテゴリーとして描かれる傾向がある。

冴えない彼女の育てかた 12 (ファンタジア文庫)

冴えない彼女の育てかた』11-12巻 丸戸史明著  ハーレムメイカーの次の展開としてのお仕事ものの向かう方向性
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20170512/p1


学園の外から問題がやってくるのならば、学園の外(=社会・仕事)を舞台にしてしまえば、解決まで到達するのではないかと考えたわけですね。ホワルバ2がいい構造なんですが、ようは、第二部社会人編をはじめてしまおう!ということです。竹宮ゆゆこさんの『ゴールデンタイム』のように大学生活を舞台に、もう一度モラトリアムをやるというのも引き延ばし策としてはありかもしれません。そういえば、『とらドラ!』でこういう記事(下のもの)書いてたなぁ、そういう意味でも自分の問題意識も一貫しています。ゆきのんの問題を解決するには、学校空間の外を出なければならないんですよ。じゃあ、俺ガイル第二部をはじめますか?というと、そもそもこの問題意識は、最初の1巻からあるもので、作者は凄いこの問題意識の文脈に敏感だTぅタンだと思うんです。だから、今さら舞台を変えるのは、おかしいし、たぶん駄作になってしまう可能性が高い。人気がなくなるまでだらだらやるのも手ですが、いまの時代はそういうのがダメだというのは作家側でも消費者側でもよくよくわかってきていると思います。なので、やらないんじゃないかなーと思う。

ゴールデンタイム〈1〉春にしてブラックアウト (電撃文庫)

前に、羅川真里茂さんの『しゃにむにGO』と津田雅美さんの『彼氏彼女の事情』の感想で、「本当に幸せを求めることは、その人の本質を追及すること」だ、言い換えれば自分が自分自身に出会うことだ、というようなこと、、これは、幸村誠さんの記事でも書いたんだけど、それって、家族も含めないとだめだみたいなことを書いたこがあるんだよね。というのは、「その人」の人格は、その人だけで出来上がっているというよりも「連綿と受け継がれる」親から引き継いだものを引きずっているもので、「その親の持つ不幸(幸福も)の連鎖のドラマトゥルギー」を人はひきついでいるものなんだ、って、、、僕はそう思っています。だから、日本的な私小説では、日本の「家」の血のしがらみと、自意識の相克でこれを描くものが多いですが、このパターンのテーマです。ちなみに、こういうことは過去のものでもあるし、解決することはほとんどできません。けれども、直視して問題の構造がなんで出来上がっているか知ることはできます。せめて、それは自覚しないと、自己把握ができないと思うんですよ。「自分を知る」というのは、自分を構成した人々を読み解くことから始まると僕は思っています。「自分探しという趣味」(by岡田斗司夫さん)。

だから、竜児は、自分の母親のやっちゃんの問題を直視しなければならないし、大河は、自分の母親(父親はそれになりにわかった)との関係を直視しなければならないんですよね、、、これは、人生でも同じだと思うんですよね。


そうでないと、本当の幸せは訪れません(←ほんとか?)。近代の個を大切にする発想は、親の世代や過去の自分を切り捨てる発想が多く生まれがちだけど、それはきっと人の心にとって良くない発想だと僕は思うんですよね(ましてや日本の宗教観や世界観の文化風土だと特に)。ましてや学生は、自分で自立できないだけに、親の問題はストレートに自分の問題で、それを直視(=解決はできないことが多い)しなければならないと思うんです。「そこ」から目をそらしてはいけないんですよね。・・・ああ、ちなみに、自分で省みて、ちゃんと今では、僕は親族みんなと仲良しですよ(笑)。多大な努力と労力を傾けましたもの。自分の意見は、すべて通しても関係を絶たない、これがベストですねー。というか、吉住渉さんの『ママレードボーイ』のあのぶっとびまくりの両親の生き方が僕の理想んですねー。・・・ということで、この流れは、僕にはとても清々しいものに感じました。ああ、、、わかっているなーって。それに、一貫して、このとらドラ!という物語は、青春物語で、僕的な定義でいうと「居場所を探す物語」であって、恋愛物語じゃない気がしていたんですが、最後もそれにふさわしい締め方だったと思います。・・・何を言っているかというと、たぶん竜児と大河はすぐ結婚するんでしょうが・・・まぁこのパターンだと、みのりちゃんも亜美ちゃんも、まだチャンスをありますよ(笑)ってことなんだけど・・・でもこの話は恋愛がメインではないので、青春時代の大事な「仲間」という居場所を大事にするものなので、それはないでしょうね。まるで、いつまで行ってもそこにある、高橋留美子さんの『めぞん一刻』の一刻館や、那州雪絵さんの『ここはグリーンウッド』の緑林寮みたいなものですね。木原敏江さんの『摩利と新吾』とかも思いだすなー。


その選択は、正しい。
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20090313/p2


ってかんがえると、選択肢はかなり限られる。しかも、ゆきのんが生徒会長にならなかったせいで、いまの問題意識に対する答えの出口が失われている。ほとんど悪手な袋小路な状態で、なかなか次の巻が出なかったのは、わかる。


けど、クリエイターというのは、こういう構造的な問題を、驚くような手腕で軽々超えていく人たちです。僕は、どうなるか、とても楽しみです。もうすぐ発売ですよね!。