『ゆるキャン△』(2018) 京極義昭監督 原作あfろ どこにいても、独りぼっちであっても、一緒にいるという共時性

ゆるキャン△ 1 [DVD]

客観評価:★★★★★5つ
(僕的主観:★★★★★5つ)


さて同じ2018年の最初のシーズンに放映されていたこれ。毎週、『宇宙よりも遠い場所』と同時に二話見ていました。


宇宙よりも遠い場所』(2018) いしづかあつこ監督  僕らは世界のどこにでも行けるし、そしてどこへ行っても大事なものは変わらない!
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20180415/p1


この記事は、上記の記事の続きの記事です。これ同時代性がすごく感じられて、見ていて、興味深かったです。しかし、日常系の料理の仕方としては、全然違っているので、物語としては感触は全く違います。『ゆるキャン△』は、まさに日常系の典型的なもので、いってみれば女の子が戯れているだけなので、この文脈を体感できない人には、物語性がないので、意味不明に感じてしまうかもしれませんね。興味深いのですが、例えば10-20年後、『ゆるキャン△』や『けいおん』などの作品群を、文脈の同時代性なしに、わかるのでしょうか。というのは、物語におけるドラマ性がかなり配されているので、結局何が目的なのか?、何を目指して、何に収束するのかが、不明瞭なので、ある種の無意識の背景リテラシーがないと、この物語はいったい何の物語なのかと、理解できないのではないかと思ったりします。この辺は、感性もあるので、とても人の属性やその人の内的テーマによるとは思いますが、ドラマ性がないものは、かなり見る人を選ぶ気がします。


ゆるキャン△』がどういう話かといえば、『まんがタイムきららフォワード』(芳文社)にて、2015年から連載されている漫画をベースにしています。オフシーズンの一人キャンプが好きな女子高校生の志摩リンが、キャンプを楽しむ日常を描くもの、といえると思います。そこに、転校生の各務原なでしこに出会い、彼女が同好会である「野外活動サークル(野クル)」に入部して他のメンバーたちとの交流も描かれる、といったところでしょうか。特筆すべきは、snsでいろいろな情報がやり取りされていて、一人キャンプが好きなりんは、必ずしも他のメンバーたちと一緒に行動しているわけでも、群れているわけでもないのに緩やかにつながっているさまが描かれているところでしょう。


と書くと、これが日常系なのがよくわかると思います。というのは、ドラマ性が非常薄いのがわかりますよね。どこかに行こうという目的もないし、サークルを結成して、何をするという目的があるわけでもない。今この時の関係性や、やっていることを楽しんでいる「その感覚」を描写しているだけです。だから、ドラマの展開力が非常に薄い。『よりもい』が、そもそも不可能に見えるティーンエイジャーの女の子が、南極に行くという強い目的をもって、そこに体当たりしていく困難を描くドラマ性と比較すると、この両作品のドラマ性の差が如実にわかると思います。

ゆるキャン△ (1) (まんがタイムKRコミックス フォワードシリーズ)


■『ゆるキャン△』に示された、どこにいても、独りぼっちであっても、一緒にいるという共時性


ゆるキャン△』は、なので日常系・無菌系の文脈なしでは、いまいち何をいっているのわからない系譜のものになると思うのですが、この作品の日常系としての出来の良さ以外のポイントで、文脈として注目したポイントは、SNSの使い方です。前回の『よりもい』で関係性について到達した結論は、結局、一周回って、心の中に絆があれば、どこにいようが(ばらばらで一緒にいなくてもいい)問題ないということでした。ましてや、SNSなどのサービスが共時的に体験をできるシステムが整いつつあるので、それが「目に見える」。えっと、順番は逆じゃないんですよ。りんちゃんとなでしこの関係が、LINEで描かれていて、遠くにいても「同じところにいるような」関係性が、生まれた!のではないんです。関係性が内在している、、、言い換えれば絆が生まれていれば、仮にSNSのようなサービスがなくても、そこに絆の共時性はあるはずなんです。今までそれが見えなかったし、記録に残らなかっただけ、なんですよね。それが、あぶりだされて、目に見えるようになっただけ、なんです。この絆の「目に見える」というところの演出が、とても素晴らしかったのが、『ゆるキャン△』のアニメでした。そして、これは演出だけにとどまらず、大きな文脈の中のある種の結論として、機能していると僕は考えます。


これは、ぼっち、というテーマのアンサーです。


上で話しましたね。ぼっちであるのは、一人でいることとか「状態」ではなくて、心の在り方なんだということ。りんちゃんは、あれだけ仲良くなっても、ソロキャンをやめません。なぜって、一人でキャンプするのが好きだからなんです。一人でいるから、独りぼっちというわけではない。それが端的物理的に最終回で描かれているのは、りんちゃんとなでしこが、特にお互い連絡もしないで、個別にソロでキャンプに出掛けて、行き先が一緒で出会ったことは、彼らの関係性が絆までレベルアップしていて、もう特に言葉で語り合わなくても、とても思考や行動がシンクロしやすくなっているさまを描いているんですよね。あそこに、SNSいらないと思うんですよ、実際は。ただテクノロジーがあるので、それが目に見えるように炙り出されている現代性を見せているだけ。


関係性の確認や強度が増すことを、最後の締めに持ってきていること、それが内面の問題だけで決着をつけるのではなく、行動の結果として目に見せるというのも、演出の特徴でした。キマリと親友のめぐっちゃんの最後のシーンは、まさにシンクロしますね。『ゆるキャン』と。


ここで何が問われているかといえば、「友達」との「関係性」の行きつくところは何なのだろうか?ということ。その結論としていきついた友達との関係性の「絆」というのは、目に見えもするし、見えなくもあるが、『ゆるキャン△』ではっきりと明示的に描かれているように、同質的で、同調圧力的で、みんなと一緒に行動ること「ではない!」というのが重要です。なので、ぼっちに見えることは、何ら怖いことでもなければ、実際には、ぼっちですらない。前回の記事で語ったように、順番は逆なんですよね。友達をが欲しいというのが先に来るのではなくて、自分の好きなことの内発性を突き詰めていくと、「それ」を通して他の人間とつながる可能性が生まれて、それが蓄積され積み重なることによって、絆に変わっていく。絆に変化した関係性は、本物だから、同調圧力などとは関係ないところにあるので、どこへ行っても、一緒でなくとも、何の問題もありません。それはある種のセーフブランケットになる。


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■『広く弱くつながって生きる』ことの認知

佐々木俊尚さんの最新の本が、『広く弱くつながって生きる』でした。少し前に、この言葉は出てくるようになりました。『弱いつながり』。もともとは、アメリカの社会学者マーク・グラノヴェッターが1970年代に提唱した「弱い絆”The strength of weak ties”」ですね。1970年代当時は、実際に分析したときには、日本では強い絆のほうが転職に効果的との結論が出たらしいです。同調圧力が強烈に機能していれば、それはそうだよな、と思います。けど、それから、40年以上たって、アメリカ型のアソシエーション社会になりつつある日本において有用な概念だと思う。日本的な中間集団は、企業共同体が強固に維持されている時は、機能したのですが、それが壊れてくると、中間集団的な共同体の存在しない日本では、むきだしの個人が、現実にさらされる恐怖空間になる。これは、日本が、成熟先進国のステージにどっぷりつかってきていること、またアメリカが持つ宗教共同体などの中間共同体構築の伝統や、欧州のような再帰的な努力が全くされていないがゆえに、起きることなんだろうと思います。だから、むき出しの個人が、さびしくてさびしくて仕方がない。結果、自殺率が急上昇したりして、高止まりする。


上記の話をした、絆ってのにも、要はレベルがあるって話ですね。あと、何を通して絆を維持しているか?という話。


強固な関係性を持つ絆は、まぁいってみれば、特徴的なのが家族ですよね。夫婦とか、、、、、ということで、恋人とか親友というのが、みんなほしくなるんです。強い絆が崩壊しているから。ちなみに、80年代以降の20年間は、まさに家族の絆、家族の関係性が、崩壊していく様を描く物語が頻出していました。そこで製造された感覚が、アダルトチルドレンですね。要は基盤となる絆を持っていない人は、スタート時点で、相当のハンデを背負ってしまう。実際のところ、社会は回っているので、こうした最低限のリソースは、僕は社会にはまあそれなりにあるんだろうと思います。なので、実は、社会全体に共有されるテーマではないと思うんです。実存を脅かすくらいに、尊厳のリソースが少ない人は、社会のある程度のパーセンテージでそれ以上は増えていない気がします。ただし、1990年代ぐらいから、特に『新世紀エヴァンゲリオン』のブレイクの頃は、これまで日本社会では誤魔化せていた、個人が現実に直接、ブランケットなしで向き合う恐怖というのが、いきなりむき出しに感じられたパラダイムシフトの時代だったんだと思います。この辺はよく考えなければいけないポイントですが、明らかに会社共同体の崩壊(永遠の年功序列や終身雇用の幻想が維持できなくなった)ことや、家族の絆と思われていたものが、単に奴隷のように拘束されていただけで、特にさしたる理由もなくて、お金やきっかけがあれば解体してしまう思い込みだったことも、この辺りでは意識されます。この辺りはまさに映画や様々な物語で激しく描かれましたね。


けれども、それひと段落つきつつあるのが、いまなんじゃないかな、と思います。これは、個人の孤独が感じなくなったとか、貧困層が減っているということではありません。むしろ逆で、じわじわとこれらの物理的な厳しさは激しくなっているとは思います。けれども、既に、こうした個人がむき出しの現実に孤独に向き合わなければならなくて、そこには家族とか恋人とかの幻想の関係性は、ナチュラルボーンにはもらえないんだ、そんな世界は甘くないんだという、個人の自立の認識が、ある程度自明的になってきたんじゃないかあな、と思うのです。


じゃあ、、、、個人は孤独だ、家族とかナチュラルボーンに、生まれついて持っているものは、あまり期待することはできない。しょせん幻想だから。


という環境が当たり前だと思うようになった環境下で、どうすれば、幸せに生きれるだろうか?ということ。


それはやっぱり、目標(=好きなこと)を持つこと。目標は、別に社会的成功や立身出世などの功利的なことと結びつく必要はない。ただ単に、好きなこと、それをやっていると楽しいと思えること。これならば、そこには、それをなくしてしまう「変数」が存在しないから。いいかえると、恋人とか家族とかは、期待に裏切られるということがありますが、、、、好きという内発性は、裏切られにくいのです。僕は、アニメや漫画が好きです。読んでいると、幸せな気分になります。それは、社会的な成功や成長とは何にも結びつかないし、誰にも評価してもらえません。けれども、期待していないので、裏切られることがないんです。なので、凄く重要な、僕の「根源」となります。そして、それは、まさに尊厳。セルフエスティームであり、自信。自分が、自分であることは、好きなことを喜んでいるという反応の中にあります。そして、そういうのが同じように好きな人たちが、集まると、、、それは、自覚的共同体だと思うのです。共同体というには、小さいかもしれないですが、それを弱く緩やかにつなげたり、誰かがアンカーとなって場を形成したり育てたり。そういうのが、結局、楽しさの手ごたえとなり、それが自信と自尊心を涵養し、同じものを持った自家発電できる人同士の緩やかな絆になっていく、、、というのが、現代の絆の在り方じゃないの?って気がします。


もちろん、絆にはグラデーションがあります。確固とした家族の絆、恋人との絆、会社での絆、とか過去にあったものがなくなったわけではありません。僕の中のイメージは、タコ足みたいなもの。軸足を強いものに強烈に依存するような、一本足打法ではなくて、様々な軸足をもって、一つ二つ折れたり曲がっても、全体が倒れてしまわないという感じです。


近代社会では、むき出しの個人がリアルに触れて、家族や国家などの共同体の幻想がぶち壊されて、ボロボロになるというモチーフがたくさん出てきます。それは、これが事実だから。これにどうあらがうのかが、現代社会の最重要テーマの一つ。大体の政治家が、家族の復活を解くのですが、これはすなわち、旧来の差別構造など温存でもあるので、けっこう微妙。かといって、リベラルに様々な差別構造を是正していくと、すべてがフラットになって、関係性がタイトに結びつく契機がどうも失われていくみたいなんですよね。そうすると、近代の理想である「入れ替え可能性」は、いいかえれば、誰でもいいので、あなたでもなくていい、という実存感覚や自尊心の喪失を招きやすい。。。。という中で、あなたはどうやって、自尊心を確保しますか?そして、どうやって、他者とつながりますか?というようなことが、実は我々の生きる世界の大きなテーマなのかなーと思います。


という中で、『よりもい』みたいに、特別な目標を、頭をひねり出して、仲間と共有して、唯一性を獲得するってのも一つの手法。やってやれないことはない、ってやつですね。ちなみに、ここで重要なのは、世界で初めて南極点に到達する!とかいった社会的意義のある事じゃなくていい、ということですね。ここではもっぱら心の問題を解決すること、友達との関係性を深めることのために、目的や目標が使われています。逆じゃないのが、現代的ですね。目標が優先するならば、友達や大事な人を切り捨ててでも、そこへ到達するのが正しいことになります。これは、デヴィッド・フィンチャー監督の『ソーシャルネットワーク』(最近見た)とかまさにそうでしたね。部活ものでよく描かれる葛藤ですが、目的と仲間とどっちが大事なの?という問いかけ。ちなみに、『よりもい』は、もともと日常系からきているので、日常系の答えは、目的と仲間ならば、目的レスの仲間のみ、というのが結論でした。けれども、そこにスパイスとして目標が困難でチャレンジングであればいいとしたところに、なかなかのスパイスがあると思うんです。これ、古き成長主義路線に戻っているんですが、単純じゃないんですね。ようは、優先順位が逆転しているんですよ。ちなみに、『ソーシャルネットワーク』のFACEBOOK創業者のマーク・ザッカーバーグとかピーターティールなど、こうしたビリオネアが、ガンガン周りを切り捨てて、何を目指しているのか?というのは興味深い論考で、それは今度書きます。


そんでもって、『ゆるキャン△』なんですが、これは、日常系の学園の中で無時間性という問題に対する答えですね。


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あずまんが大王』の呪いと僕らはよんでいますが、学園の中の時間が止まった状態を、卒業というエンドポイントを仕込むことで、時間が止まれない罠をこの作品は作りました。けれども、学園の中の「繰り返される日常」は簡単に永遠的な、回帰的な時間に回収されてしまいやすい。けれども、そうじゃない!とする物語の展開を考えるのならば、卒業してお仕事的なものに向かう『『NEW GAME!』』や『SHIROBAKO』に分岐しうるし、また僕はこの趣味系統のものにシフトすると、ちゃんと自立して大人になって卒業して、時間は流れていても、それでも同じ趣味でつながっていられるという意味で、なかなか座りがいいものだと思っています。ちなみに、佐々木俊尚さんがロングトレイルにはまっているという話をしていましたが、緩やかに回帰的な、明日もそれほど変わらない日常を黄昏的に生きていくという意味では、こういったキャンプやロングトレイルなどは、非常に親和的があるテーマなのだろうと思います。とても似ている日常が繰り返されていくが、そこにはじわじわと、時間は流れていて、そして、たぶん、彼らが大人になっても、その絆は緩やかにつながっていて、なかなか途切れない、、、、。途中で、彼らが大人になったという、夢落ちでしたが、シーンがありましたが、社会的地位がどう変わろうと、数年に一度だろうと必ず会うだろうという、緩やかな関係性の感じは、まさにこのテーマにふさわしい感じでした。


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■参考
やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』 渡航著 (2) 青い鳥症候群の結論の回避は可能か? 理論上もっとも、救いがなかった層を救う物語はありうるのか?それは必要なのか?本当にいるのか?
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130603/p2

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』  渡航著 (1)スクールカーストの下層で生きることは永遠に閉じ込められる恐怖感〜学校空間は、9年×10倍の時間を生きる
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130406/p2