『そして父になる(2013 日本)』  是枝 裕和監督  僕は、子供たちが10代後半になった時に何を思うのかを見てみたい

そして父になる Blu-rayスタンダード・エディション

評価:★★★★★星5つ
(僕的主観:★★★☆星3つ半)

まず最初に言うべきことは、大傑作である、ということ。個人的に自分の中の評価文脈として「家族をどうとらえるか?」について異論があり違和感があるので、微妙な判定の評価を上記でしているように見える。しかしながら、愛した息子がもし他人の子供だったらという、ありえないとは言い切れない設定を通して、あなたがにとって子供とは、家族とは何なのですか?という問いかけを鋭く投げかけ観客に迫る脚本、丁寧な演出は、見事な映画でした。ただし「あなたにとって家族とはなんなのか?」を根本からシミュレーションさせられて問いかけられるのは、とても重い作業であり、精神的に落ち着いている時に見るのが無難な作品だとは思います。しかしながら、逆にいうと、見る価値のある素晴らしい骨太の映画だといえるでしょう。おすすめの一本です。是枝裕和監督は、『ワンダフルライフ(1999年)』(★5つです)しかみていないのだが、普通の人が普通に抱える、しかしながら深くその人の人生をえぐるような葛藤を、丁寧にけれんみなく演出する様が強く記憶に残っている。この2作を見て、これだけのレベルを維持しているということは、他の作品も見る価値があるのは間違いないですね。機会をとらえてコツコツ見たいと思います。この監督は、たぶん監督しての力量が★5アベレージな人に思えるので、たぶん全作品見るべき価値のある邦画の監督だろうと僕は思います。素晴らしいです。


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この作品では、建設関係のエリートサラリーマンの野々宮良多(福山雅治)と、地方の小さな電気屋さんを営む斎木雄大(リリー・フランキー)の家族の対比の中で、家族とは何か?子供とは何か?父親とは何か?ということが、根本から問い直される構造になっている。


僕はこの脚本を素直に見て、どんな物語かを一言で問えば、「良多(福山雅治)が、父親に「なって」いく物語」といえると思いました。物語は膨大なものを含むので、シンプルにまとめるのがいいとは言えないのだが、僕はここをメインにこの作品を鑑賞した。そして、そうした場合、非常に納得がいかなかったことが2つあるのです。



一つは、良多(福山雅治)は悪い父親だったのか?


もう一つは、幸せの価値観が家族と一緒にいる時間や6歳の子供への共感と距離が近い関係性だけでいいのか?



という問題意識です。


はっきりいって、二つともぼくは映画が主張するところの価値観と真逆の意見を持つので、全編を通して非常に納得がいかなかった。


1)一つは、良多(福山雅治)は悪い父親だったのか?


まず、これです。妻も賛成していましたが、エリートサラリーマンの良多は、十分すぎるほどよい父親じゃないか?ということです。あれだけのレベルの仕事をやっていて、妻を専業主婦に押し込めている傲慢な押し出しの強いビジネスパーソンにしては、信じられないぐらい、良い父親だと僕は思いました。たとえば、そもそも、お受験にコミットしている時点で、かなりの時間を父親が割いているのは間違いありません。お受験が親のエゴ的文脈だというようなステレオタイプは、帝国的企業がグローバルに君臨する中での人材競争の厳しさを理解できていない甘い意見なので、僕はとても一面的な意見だと思っています。丁寧にやさしく姿勢の人を見る視点を物語に設定すると、教条主義的な左翼視点にすぐ視点が堕してしまうところが表現者にはあるような気がします。その方が無難で受け入れやすいし、マーケティング的に理解しやすくなる(特に日本の文脈では)ので。

たとえば「お受験」というものを、あたかも親のエゴ的な文脈で使っているあたりも古臭い感覚である。いまどきは貧しい家庭とて習い事や受験には熱心な時代だ。特にその究極たるお受験というものは、教養と知性をわが子に残したいという、親として最大の愛情行為であり、家族一丸となって戦わねば勝ち抜けない、まさに家族愛そのものである。この厳しい時代にわが子を守るのは、親亡き後は教育(によって身に付く実力)だけなのである。


超映画批評
http://movie.maeda-y.com/movie/01790.htm

あえて、是枝監督がわかりやすく文脈を作るためにステレオタイプを想像したのだろうという意見は、僕も賛成ですが、やはりここへの違和感は、ちょっと拭えなかった。そもそも、僕には、この厳しい競争の社会で、子供が生き抜くことを教えることが親の使命だと思っているので、その場合は、サバイバルに必要なポイントは2つです。一つは、1)まずは金を稼ぐ力。社会で生き抜くための立場を競争で勝ち抜く力です。そして同時に、これは斎木雄大(リリー・フランキー)の家族の方で示されているのですが、2)人生を受け入れて楽しむ力です。この二つはどっちがかけても、人生は不幸になりやすく、自立して生きてはいけません。後で説明しますが、2)の文脈に過剰に寄っていて、人生は競争であって、より高いスキルを身につけていかなければ、食べていくことも厳しいのだという過酷な現実を無視しているように僕には思えてしまうのです。そのために、お受験が有効かどうかは、正直微妙だしわかりません。けれども、親が、自分の人生を顧みて、自分が生き抜いていくのに価値があったものを考えて、それを子供に共有させようとするためにコミットする行為は、マイナスの文脈に置かれるものでは全くないと思う。そして、サバイバル技術の教育は、時に子供にとって過酷になる可能性が高いのも、否定できません。獅子が谷に子供を突き落す例えは、そこからきているわけです。


また、そもそも子供が起きていられる時間の帰ってきている描写が多々見られます。僕は忙しかった時期は、海外出張ばかりで帰宅も酔っ払って2時ぐらいが普通でしたし、子供時代を振り返っても小学校や中学校の頃、平日に父を家で見たことがありません。ほんとうに、仕事に捧げて子供を意識の外に置いている人は、そもそも子供とのアクセスポイントがほとんどないはずなんです。それに比べると、僕は、良多(福山雅治)は、かなり父親としては完成されちゃんとしている人だと思うのです。だとすると、物語脚本的には、良多を成長させるポイントを描くとなる、そもそも完成されていて問題点がない役割をコミットしている人に、さらに問題点を指摘して変化させなければなりません。僕は、それが理解できませんでした。もちろん、子供が取り替えられて、血がつながっていなかったというありえないようなイレギュラーなことが起きているので、葛藤が深く起こされ、通常よりもさらに深いレベルでの父親に「ならな」きゃいけない状況に追い込まれるのはわからないのでもないので、納得できないわけではないのですが・・・・これど、文脈的に、良多がそこまで告発される理由は、成長をさらに要求されなければいけない、構造的マクロの要件を感じられないのです。だって、良多と慶多の父親と息子の関係は、非常にちゃんとして愛情満ちていると思うもの。なんでも太陽のように輝く完璧な幸せ関係なんてありません。みんな、いろいろ限界や不満を抱えながらも、それでも、バランスで何とか家族をやっているもんなんであって、なんでもそんなにもっと、というのは、僕は納得できないなー。良太が、これ以上要求されるべき、ものがあるとは思えない。


また、

そして挫折を知らないような良多の内面を徐々に描き、一見冷酷にも感じられる彼の行動の“なぜ”を明かしてゆく構造はさすがに上手い。良多は幼い頃に自らも実母との別れを経験しており、それ故に慶多や琉晴がこれから乗り越えなければならない感情を良く知っている。彼は完璧な夫、父という傲慢な仮面の下で自分なりに葛藤し、苦しみながら内なる父親像を模索しているのだ。

http://noraneko22.blog29.fc2.com/blog-entry-677.html

ここでノラネコさんが指摘しているように、良多は、この登場人物の家族の中で、最も、まだ6歳の慶多や琉晴が、今後10台になり大人になっていき、物事をより深く理解していく過程で得るであろう葛藤と感情を先取りして理解しています。たぶん、彼の一見冷たいポーズには、これらの時間が解決し、時間が熟成して乗り越えなければいけない苦しみを前提に考えているので、それについてクール(客観的で距離を置いた形)になってしまうのであろう。しかし、それは、僕からいわせれば、まごうことない本物の愛情である!と思います。いまは、斎木雄大(リリー・フランキー)の家族のほうが、楽しく関係性の温かさに満ちているかもしれませんが、僕は成長して年を取ると、この感覚は逆転する可能性が高いと思います。ましてや子供が取り違えられ、6年間異なる親に育てられたという過去の出来事(トラウマ?とは言わないかもしれませんが)がこの二人の人生を複雑に重くします。ましてや、電気屋さんとあの年齢であれくらいのマンションに住めるスキルを持つ父親とでは、あまりに世界の生き方が異なるので、その差も、この二人に大きな葛藤を呼び起こすでしょう。どっちに育てられるのが幸せだったのか?と。比較の対象がなければ、そんなことは関知せず、自分の世界の中に閉じこもって完結すればいいのでしょうが、慶多や琉晴には、それはできないでしょう。そもそも斎木家族の年収レベルで3人の子供がいれば、そもそも大学に行けるかかなり厳しくなると思います。そういったことが、今後の人生で、ずっと「ありえたかもしれないもう一つの人生」として常に物理的な差を見続けなければいけないのです。それは、大きな葛藤を呼び起こすと僕は思います。



2)もう一つは、幸せの価値観が家族と一緒にいる時間や6歳の子供への共感と距離が近い関係性だけでいいのか?


もう似たようなことを上でざっくり言っているので、わかると思うのですが、僕は、


建設関係のエリートサラリーマンの野々宮良多(福山雅治)

と、


地方の小さな電気屋さんを営む斎木雄大(リリー・フランキー)の家族


の対比


上記の対比構造を見たときに、優劣が見いだせない!と思っているのです。


えっともう少し敷衍して説明しなければいけないのですが、僕は日本の表現には戦後の左翼の影響が色濃く残っているために、イデオロギー的な視点が色濃く反映していると思うのです。『蟹工船』でもなんでもいいのですが、そうしたレフトサイドのバイアスは、貧富の差が激しく、しかし高度成長によってそれ解決帰結する方向へ進んで行く時代には、メインであることは当然の帰結であり、人々の過半の意識だったのはわかるんです。なので、通常は、こういう家族の対比を描くと、斎木雄大(リリー・フランキー)の家族
の貧乏だけど、愛情に満ちていて、家族が常に一緒にいて仲良しという家族の方が、より正しくあるべき姿だ!というバイアスがかかるように思えます。とはいえ、さすがに現代の作品なんで、斎木夫婦にも粗野なネガティヴなイメージを付加していて、どっちが単純にいいかわからない風にしていますが。


しかし、全体を通して、仮に脚本の本筋が、福山が「父親になる」=成長しなければ、変化しなければならないというポイントに置いた時点で、福山の問題点をつつくシナリオにならざるを得ません。でも、先ほど言ったように、福山の父親像が、問題点があるとは僕には思えないんです。


そして、この二つの家族が優劣がないとすれば、次に問われるのは、異なる価値観のもとに生きている家族(=ユニット)を解体して別の価値観と接続することはいいことなのか?という問題意識が、僕の中にあると思うのです。とても難しいことを語っています。総論としてこのブログでも世の中の思想でも、多様性(ダイヴァーシティー)を受け入れることが最も大事なことである。かつ、日本人は極度に硬直して、それを拒否る傾向があって、それが様々な問題点を引き起こすので、多様性を接続することが重要であるとこれまで何度も言って来たことと反対のことを言っているからです。


個人としては、そうです。けれども、家族として、本当にそうなのか?とこれを見ていて思ったのです。


家族の重要な価値の一つは、価値観を伝達すること、であると思うんですよ。いや、究極の個人主義は、SF的にいうとチューブベイビーで家族と切り離すことによって成立するというのは、もうSFのディストピアモノの重要な思考実験ですよね。まっさらな個人というのは、まず家族という価値伝達装置を切り離さないと生まれないと考えているわけです。その価値伝達の部分を、どこまでも平均的に薄めていくのは、どうなんだろうか?なかなか悩みます。


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逆に言えば、共同体的なものを破壊するのに、家族を壊すのがもっともいいわけです。全体主義スターリニズムですよね。価値観や生活様式が全然伝達しなくなるからでしょうね。そんでね、、、、僕は、この二つの家族の優劣が見いだせないとすると、にもかかわらず。どちからというと、リリーフランキーの家族の方に福山が引きずられている印象を受けるんです。ようは、仕事ばかりしていて、子供のことをちゃんと時間を取っていなかった的なステレオタイプなね。でも、優劣がない(と僕は思う)ので、どっちかに染まるのは、非常に納得がいなかかったんですね。僕の価値観が、福山の家族の方と近いので、あれだけちゃんと父親をやっている状態で、長期の子供の心も見ている(=福山の自分の過去の父親や母親との関係は、くすぶりながらも大きなテーマとして自分のなかで意識されています)状態で、斎木ファミリーの価値観や生活様式に染まっていく必要がどこにあるのか?って。


ましてや、高度成長期の時代は、そうした「幸せに生きること=成長を捨てること」というイデオロギーは、既に僕の中では消滅しました。時代が変わったのです。


本当の豊かさとは、選択肢があることだ、と僕は知っています。


成熟も成長も、どっちも選べるし行ったり来たりできるのが、真の幸せです。なので、どちらかが「真の幸せだ」というイデオロギーは害悪あって一利もありません。これが、成長至上主義の真っただ中の1980年代までの日本ならば、迷うことなく「真の幸せ」は、成長を否定するところにある「何か」になったと思います。時代が成長しか選択肢がない中では、その反対をオルタナティヴに選択する可能性を示唆することに意味があった。けれども、その後、成長の反対(と僕がここで仮定する)成熟に時代は振れました。そして、どっちも選べる時代状況の中で、成長の反対、成長の否定だけを選択肢として正しいとする方向性は、なんだかとても古臭く感じてしまいます。もちろん、まだ団塊の世代の人々は社会の支配層に残っており、日本社会はまだまだ色濃く高度成長期のアンシャンレジームを残しています。なので、社畜的リーマン男性が、もう少し会社ではない何かにコミットすべき時間を、大切なものは何か?と考えコミットするべきというテーマは、十分生き残っているとは思いますけれども。でも、この世界は競争です。この減d内後期資本性の中で、帝国化しつつあるグローバル社会の中で、ちゃんと生きていこうとすれば、福山の家族のようなライフスタイルは、決してひどいとは思いません。


ということで、ここは、僕の中の思い込みとはまで極論じゃないと思うけれども、感情的にとても違和感を感じるところだったんです。なので、うーん、なんか、ちょっとイデオロギー的なものを見せられた納得しがたい感覚が残ってしまいました。映画としては、素晴らしいし、脚本も、わかりやすく、見やすくまとめるという意味で、絶妙なものですし、そこは評価を下げるまでにはならないんでしょうが・・・・僕は、家族関係の話には、もう少し先や新しいものが見たいという文脈的動機が強いので、どうしても評価が下がってしまうのでしょう。


福山の家族とリリーフランキーの家族のどちらが、より幸せの「あるべき姿か?」というのは、僕は等分に思えるので、なんか、福山が成長してしまう(=変化するという物語の根幹ポイントは、わかりやすいけど陳腐だと思ってしまったんです。それは、価値基準として、選択がなされてしまっている、と思って。価値基準は、優劣がないなら、選ぶものであって、押し付けられるのはおかしいと思うんですよね。まだ6歳という絶妙な年齢で、親に価値判断を委託させているところも、なかなか考え抜いている状態だと思うんですよ。もう少し大きくなって、中学や高校で、自分の選択肢の幅を考えたときに、どっちがいいか?って非常に話は逆転すると思うからです。小さいときは、そりゃー親がいっぱい同じ目線レベルで遊んでくれる方が、いいにきまっていますからね。でも、何でもいいところ取りはできない。それが現実ってやつだと思うんですよ。



閑話休題





さて、あともう一つは、ノラネコさんが下記でいっていたポイントがとても興味深かった。

むろん、なぜ登場人物が子供たちに真実を伝えないのか、伝えた上で答えを共に探さないのかという疑問もある。真実を明かさない事で生まれる矛盾を、端的に表現しているのが、子供を交換した後で良多が琉晴に自分を「パパ」と呼ぶようにと言うシーンだ。「パパちゃうよ?」と言う琉晴に、良多はそれならばと「向こうはパパとママ、こっちはお父さんとお母さんと呼ぶんだ」と子供からすれば意味不明な事を要求する。だが「なんで?」と聞き返す琉晴に、良多はきちんとした答えを返せず「なんでだろうなあ・・・」と言葉を濁すことしか出来ない。真実を語っていないのだから当然である。しかし、大人にも重すぎる事実を、子供に全てをオープンにして、彼らにも責任を負わせるという選択は、日本人の多くにとってリアルには感じられないのではないか。生みの親と育ての親、血縁と歳月、そのどちらも真実には違いなく、何をどうすれば正しいのかという明確な線引きは難しい。最も残酷な事実をうやむやなままに、可能な限り状況を繕おうとするのは良くも悪くも日本人の国民性と言えるだろう。この映画の、優しすぎて真実を語る事を躊躇する大人たちもまた、リアルな日本人なのだ。終盤の良多と慶多の長い散歩は本作の白眉だが、彼らの心が通じ合う様も良い意味で曖昧で、決して明快な言葉が紡がれている訳ではない。その意味で、この映画は極めて日本的な物語であって、実に邦画らしい邦画だと言える。海外での相次ぐ受賞は、むしろこの辺りのドメスティックなテイストが評価されたのではないかと思う。


ノラネコの呑んで観るシネマ
http://noraneko22.blog29.fc2.com/blog-entry-677.html


子供に真実を話すかどうか?というポイントは、確かにあると思う。


尚、あまりに素晴らしかったので、次の日に妻と二人で、往年の大傑作『クレイマー、クレイマー(Kramer vs. Kramer 1979 USA)』を見直しました。取り違えという葛藤がないですが、仕事人間であったテッド・クレイマー(Dustin Hoffman)が、妻が出て行ったしまったことによって、強制的に子供の面倒を見る過程で、父としての愛情と自覚に目覚めていく脚本の構造は、とても似ていると思います。

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評価:★★★★★星5つ傑作
(僕的主観:★★★★★5つ)


そこで、ダスティンホフマン扮する父親のクレイマーは、子供に明確にすべての真実を説明しているシーンがあります。母親が自分の可能性を求めて出て行ったこと、それは父親である自分が妻を一つの型に当てはめて強制がしたために反発が起きてしまったこと、それは明確に自分の罪であることなど、赤裸々に「わからないかもしれないけれど」と真実を語ります。これをもって、欧米の文化と日本というステレオタイプな図式にできるかどうかは、まだ類例が少ないぼくにはわかりません。けれども、少なくとも、クレイマークレイマーに置いては、父親が息子に理由を明確に一つも隠さず説明しています。しかし、『そして父になる』で福山も、リリーフランキーの家族も、どちらも明確には話していないようです。また福山が子供に「なんでだろうなー」というシーンは、真実は話すべきではないという態度が、全家族に共通している表現を示唆しています。


このあたりの家族に対するアプローチ感覚の違いを、日本的なもの?なのか、それとも、時代的に固有のものなのか?はまだ僕にはわかりませんが、現代の日本人の平均的な発想は、確かにこの『そして父になる』の映画だろう、と思います。そういう意味で、本当に邦画らしい邦画であって、これは見るに値する素晴らしい作品でした。見れてよかったです。