『放浪息子』 あおきえい監督 女の子になりたかった男の子のビルドゥングスロマン

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評価:★★★★★星5つ
(僕的主観:★★★★★5つ)

LDさんにすすめられて、先日に一気に見てみました。そして感心しました。素晴らしい出来の作品だ、と。一番の素晴らしさというのは、演出と編集の力を見せつけられたことです。岡田さんの脚本力なのか、あおきえいさんの監督としての力量なのか、それはわかりませんが、とにかく素晴らしい出来でした。何が素晴らしいかというと、志村貴子さんのオリジナルのマンガの中の、一つのエピソードである「学園祭の演劇」という舞台を軸に、主人公の二鳥修一くんの成長物語に再構成しなおしているからです。このことによる効果は明白で、物語が、物凄くドラマチックになっているのです。


物語がドラマチックになっている


言葉で書くと簡単なことですが、これは凄いことなんです。それを考えるにあたって、志村貴子さんの描く物語世界のコアの部分を考えてみたいと思います。そこから順序立てて説明しないと、このすごさってのが伝わりにくい。漫画のオリジナルの作品では、学園祭のエピソードは、ほんの一つのエピソードにすぎません。というか、そもそも志村貴子さんの物語の世界は、物語が「ほとんど進みません」。もう一つ付け加えれば、誰が主人公かもわからないくらいキャラクターが、テンプレート化やドラマツルギィ−の主軸に据えられるのを拒否します。漫画を読んだことがある人はわかると思うのですが、凄い群像劇(というか、各キャラクターの存在感がとてもあって、誰が主人公だとは言い切れないくらいに作者の愛情が個々のキャラクターに注がれているのがわかる)で、千葉さんや、あんなちゃんや、しーちゃんなど、二鳥君以外のキャラクターの個性も素晴らしいのです。なので、この感覚を言葉に直すと、群像劇というのはもう少し熱血的なイメージがあるのでふさわしくないかもしれません。なんというのだろう、ある程度の数の関係性が複雑に織りなす関係性の縁の束を、そのまま、フレームで切り取って「垂れ流している」ような感覚です。


これをLDさんと話している時に、二つのフレームワークと言葉を、教えてくれました。一つは、この「外側から客観的に世界を眺めていて」それで「個々のキャラクターのドラマや内面を描くこと文脈づけることを拒否する」ようなショットやシークエンスの撮影の仕方というのは、まさに小津安二郎監督の作風にそっくりだ、と。もちろん、LDさんと話していて、小津監督のほうが、徹底的にキャラクターの感情の表現を排除して、観客にすべてをゆだねてしまう度合いは、徹底されているので、それに比べるともう少し情緒的かもしれません。けれど、非常に似た表現技法というか、世界観の切り取り方だよね、というのは非常に同感しました。


たとえば、有名どころで言うと『東京物語』などを見ていただければ(とても面白いですよ)さんざん映画批評では言われてきていることですが、両親が子供に対してどう考えているかを表現する場所は全くありません。そういう作風の人なんだ、と思ってみてみると、なぜそういうことを監督はしたのだろう?この表現技法は世界中の映画監督に影響を与えいますが、なぜそう南端だろう?というシネフィル的な趣味で映画芸術を楽しめるようになるので、ぜひともチャレンジを。名俳優といわれる笠智衆さんや原節子さんも出てくるので、ちょっと古い映画は、、、とか、実写はそれほどでも、という人でもぜひ見ておくと自分の映像いや物語体験のとてもいい杭になると思うので、おすすめします。



ちなみに、この物語は、1953年の作品で家族の絆が壊れていく様を描いた作品なのですが、この物語三昧ブログの批評の流れを追ってくださっている人は、僕が絆の崩壊と再生と思考の軸を持って、いろいろな作品を語ってきたことが思い出されると思います。昨今のサブカルチャーのヲタク作品なの作品で関係性が壊れていくことをずっと追ってきて、ふと小津安二郎監督の作品や黒澤明監督の作品を見直した時に、実は戦前から戦後初期にかけても同じテーマで、大家族が壊れて核家族化していくことで、家族の絆が崩壊していくことへの愛執や、新しい家族の携帯への希望や、さまざまなことが、ほとんど同じ文脈で語られていることに気づいてびっくりした、という発見の流れがありました。そういうトレンドの中で文脈読みでみるのも楽しいかもしれません。なんといっても古い作品で、なので共通の時代性や背景知識が、現代のわれわれ日本人(2014年の)ですらかなり異なります。また現代のわかりやすい物語カルチャーに慣れきった頭では、なかなか「導入部で入り込む」のは難しいかもしれないですが、時には少しチャレンジして、古い巨匠の作品を経験してみるのも、良い経験になって、より深く物語を楽しめるようになると思いますので、おすすめです。

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さて、話を戻します。この「外側から客観的に世界を眺めていて」それで「個々のキャラクターのドラマや内面を描くこと文脈づけることを拒否する」ようなショットやシークエンスの撮影の仕方というのが、志村貴子さんの物語世界の作成の仕方と似ているという話でした。漫画を見ていると、物語が淡々としていて、ドラマトゥルギーが先に進まないのですね。ここで僕が言っている「ドラマトゥルギーが先に進まない」ということの意味は、仮に、二鳥修一くんという主人公が、主人公であったとしたのならば、彼の持っている「本質の課題を解決していくこと」が、ドラマトゥルギーを進めるということを意味しています。物語ではなく、ドラマトゥルギィーと僕が特別に意味不明なことばを持ちだしているのは、物語の世界に内在している、「時間を前に進めて行くポテンシャルのエネルギー」のことを指しています。


よくわからないかもしれないので、具体的に言うと、二鳥修一くんは、「女の子になりたい男の子」という設定がされています。これこでいう、主人公の本質のことを僕は、よく動機、と呼びます。ここでの、動機は「女の子になりたい」です。それが、この物語世界の中での、主軸のドラマトゥルギーになります。主人公の側の視点で、二鳥君の立場に立てば、これは動機と呼べますし、外から観察すると彼の持つ本質、とか、ドラマトゥルギーというような言い方で僕は捉えています。


物語世界は、時系列に従って進んで行ってしまうので、「昨日が今日の様にある」ということは、おかしいです。前に、涼宮はるひのアニメーションで、延々と同じ話を繰り返す脚本があったと思いますが、あれって、それ自体が違和感があること、であるのはわかると思います。小説でも、文字を読み始めてページをめくれば、端的に、「進んで行ってしまいます」。進んでいるのに、「前と同じまま」であれば、読んだり見たりする意味がないですよね?。この物理性が、「物語の内在世界に、読み手がいるのだから、読み手の時系列の進むスピードに従って、物語が変化していかなければならない」という圧力が、物語というもの本来には存在しています。まぁこのへんは、実はそうじゃない!という派もあるとか、いろいろ抽象的なレベルでの議論ではあるのですが、オーソドックスに、基本から考えましょう。この時系列の問題を逆手に取ったり、ぶっこわしたりしたのが、ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』(1939年)とかですね。まぁ、どうでもいいんですが、どうせこれ読むの無理だし(笑)。

フィネガンズ・ウェイク 抄訳

さて基本で、物語には、内在的に「前に進めて行かなければならない」という圧力があるという話です。その時の、主軸になるのが主人公の動機です。基本的に小説は、視点を設定して、その視点をリーダー(率いるもの)として、僕らに時空間の状況を説明していく叙述形式をとります。なので、その視点が、何を望んでいるか?ということが、すなわち「その物語」の落とすべきオチ、最終到着地点を指し示すことになります。僕が批評をするときに、主人公の動機というものの構造(=ミクロ環境)と、彼を取り巻く外部環境(=マクロ環境)のリンクの仕方を問うというのが常に一番目にある基準なのは、この発想から来ています。


さて、そうすると、「女の子になりたい男の子」という動機のドラマトゥルギーが設定された時点で、当然、二鳥くんが主人公であるし、最終的に、彼は女の子になれたのか?、それともなれなくてどういう納得(=これも解決の一つ)をしたのか?ということが必然的に、物語の最終地点で問われることが、この物語の価値を決めることになる、と考えてもいいはずですよね?。そして、すべてのエピソードや関係性が、この主軸とどう関連付けられているか?によって、評価されていいはずですよね?。通常のベーシックな評価はそうされるはずです。


さて、ところがところが、小津安二郎的な「世界があるがままにあってキャラクターの個々の感情を明らかにしないで観客にゆだねてしまい排除する」という撮影技法が、非常に矛盾を孕む手法だというのがわかると思います。そうです。観客に、キャラクターの、主人公の動機が全く説明されないってことな上に、それがわからないように徹底的に排除するのです。もうこれは、通常の映画批評で言われるような「観客に評価をゆだねる」というよりは、僕は観客に内面を見せないように、動機側からにように攻撃している技法である、とさえいっていいと思っています。


志村貴子さんの作品って、全編に、この匂いがするんですね。そもそも、何が結論であるかが全然わからない。ネタバレになりますが、『放浪息子』の最終巻(たしか終わっていたはずだよね?)全然結論が出ていません。物語評価的に言えば、全体の構造としては駄作でした、といってもいいのかもしれません(もちろん違いますよ!)。


ちなみに、LDさんが教えてくれた、もう一つのフレームワークは、これが女性作家に多い作風だ、ということです。よしながふみさんを、例に挙げておりました。なるほど、とうなりましたね。たしかにそっくり。


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もちろん、個性の違いは相当違うのですが、人間を眺める視点が、とてもクールで外側から見ていて、主人公視点をベースに動機を追い詰めて成長・熱血的なドラマトゥルギーの展開を拒否していく流れは、まさにです。なぜ女性作家に多いのか?というのは、単純には言えないかもしれないですが、男性作家は、どうして物語を進めなければいけない!、主人公の動機を全うさせなければならない、成長しなければならない、という圧力が強く内面に存在しているようです。

LDさんは、この特徴の作家としてよしながふみさんの『フラワーオブライフ』を指していました。「the flower of life」は英語で生涯の最盛期などの意味ですが、LDさんは、どこかで見た意味で、フラワーの連なりが重なって世界ができているというような意味があって、よしながふみさんは、その一つ一つのフラワーに注目して、その重なり合いでできている「世界」を描きたいんじゃないか、というようなことを言っていました。言い換えれば、関係性の構造を注目して、そこを描くんだけれども、ドラマトゥルギーの主軸(=主人公)を置かないで、そこにいるキャラクターの存在感の密度を上げる、、、キャラクターそれぞれをテンプレート化しないで描くというようなことだろうと思います。僕はこの話受けて、バラバラのドラマツゥルギーの偶然のつながりからなるものを、「縁のさざ波」という風に読んでいて、僕の言葉で言えばそういうことかなーと思いました。ちなみに、この主軸を置かないで、個々のキャラクターの深堀をして、そのつながりで世界そのものを描こうとする作品は、『マグノリア』とか『クラシュ』とかのアメリカの映画を思い出します。そう考えるとこの手の映画って、日本ではないかな、、、、?。

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また彼は、男性作家は、天地創造・・・・言い換えれば「世界」を作りたがる思考形式をしがちだが、女性は「まち」を作りたがる傾向があるというようなことをいっていました(うろ覚えの上に僕の意訳が相当は言っているので、LDさんの本意とは違うかもしれませんが・・・・)。これは、僕の言い方に帰ると、男性作家は、マクロの設計から世界を描こうとする傾向があるのに対して、女性作家は、ミクロの設計(=関係性の構造)だけで物語世界を描こうとする傾向がある、と言い換えることができると思います。あくまで傾向です。栗本薫でも紫式部でも、アガサクリスティーでもいいですが、女性で「世界そのものを丸ごと天地創造する」物語作家の傾向が多いのも事実で、端的に言えることではありません。けれども、女性のほうが関係性を重視するカルチャーが近代では特に強いのは、近代では特に言えることだろうと思います。核家族の男性が外で仕事をするということで女性が家を守るという基本構造が、社会にかかわらない生き方を強制したがために、社会から(=マクロ構造から)規定されにくい関係性で閉じた共同体を作って自己の幸せ感や現実の強度を上げるという様式が長く女性を閉じ込めていた?というか、楽しませてきた?、なんというか、そういう部分が、あるのは、あるかもなーと、、、

これは、最近ちきりんさんが話してた、ピンクの門と普通の門の話や、シェリサンドバーグのこの前僕が記事に書いた話なんかと関連すると思うんですよ(あれ?書いたよね、、、)。この辺は、面白いので、しかもこういうジェンダーーを扱った物語を読むときには、このへんの感覚や世の中の流れを理化していると、センスオブワンダーが味わえます。性の差というのは、世界がどんな違いに見えるのか?という話です。自分は他人になれません。けれど、他人から見た世界を感じるとき、世界は豊穣になるのです。それって、物語を楽しみ真の醍醐味。三昧です。

http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20140103

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さて、では、志村貴子さんは、漫画で、では何を描いているのか?という僕なりの視点を、書いてみたいと思います。二鳥君の「女の子になりたい男の子」という動機を熱血、成長的にビルドゥングスロマン(=成長物語)で描かないとしたら、何を描くのか?。僕は、僕の言葉で言うところの「〜の自由と役割からの固定の拒否」をここで強く連想しました。ビルドゥングスロマンが、〜への自由への方向性で自分を高めていく動機展開を選ぶ物語とすれば、その逆です。


というのは、二鳥くんを見ていて、全編で僕は思うのは、自然なまでの「テンプレートの拒否」です。まずね、なんといっても、彼がこれだけ女の子の服に興味があって女の子になりたいって言いまくって行動しているにもかかわらず、彼はゲイじゃないんですね。LDさんが、


「息を吸うように、アンナちゃんを落としています」


といっていたのが、印象的でした(笑)が、よくよく考えると、このなよっとした、少女のような男の子は、物凄いプレーボーイなんですよね。本人に男性視点がないので、ハーレムメイカーとは言えないですが、まさにウハウハのハーレムといえるぐらい、女の子に好かれています。よしのちゃん、千葉さん、あんなちゃんって、ウルトラ級の美少女次々に陥落させていきますよね(笑)。ほんと、息をするように自然に。しかも、お前、女の子になりたいっ!って言った直後に、モデルやっている美人の女の子と軽々口説き落とすなよって、見てて思います(笑)。僕の中では、二鳥修一という主人公の本質というのは、テンプレートを受け入れない人、というものです。わかりやすく(これは本当はここまでわかりやすくないのですが)いうと、今の二点です。1)女の子になりたい、2)けど、女の子のことは好きって言う点。これ、言葉に書くと、非常に矛盾しているし、いろいろつっこみたくなってしまうんのはわかるんですよ。千葉さんが、女の子として女の子が好きなの?と質問をするのはわかるんですよ?。人間は、はっきりさせてほしいんですね、どういう存在なのか?というのがわからないと、どういう振る舞いを選べばいいのか、どういう未来を考えればいいのかがわからなくなってしまうんですね。千葉さんが、彼を好きで恋人になりたいとか、もう少し前に進もうと思うと、女の子として女の子に接するのか、男としてなのか、、、とか、わけがわからなくなるんですね。


そして、重要なのは、シュウもそれを分かっていてんです。本人自身もわかっていないんですよ。そりゃーわからないでしょうね、テンプレートにない思考をしているわけですから。自分は男だ!と決めきれてもいないし、、、、ということは、ようは、彼は「外から決められた役割のテンプレート」に従う気はゼロなんですね。かれは、常に彼の内面の「その時に起きた感情」に従っているだけ。


これは、何か、というと、これをして僕が言う、内発性、というやつです。自分の心の中にある価値基準や感情のほうが、常に現実よりも優先される人のことです。ニーチェは、超人、とこれを呼びました。


まぁそれはさておき、二鳥くんって物凄い勇気があるんですよ。


アニメのほうで、最終回で、あんなちゃんが、しゅうくんにメロメロになった理由をすごく端的に説明しているんですが、これが、彼の周りの人間、特に女の子が次々に彼に陥落させられる理由ですよね、まさに。あんなちゃんは、自分は見た目がきつくて、常にそのキツサで敬遠されることを、そういうものだから仕方がないとあきらめていたところを、、、シュウくんは、軽々と、そういう外からの評価を飛び越えて、自分お言いたいことw主張するからですね、それが達成できるかどうかはともかく、世間からすごく強い反発とバッシングがあるにもかかわらず、彼は勇気だけで、自分の心の中の価値基準が、世間や、そのほかの外側から決められる役割のテンプレートよりも上回ること示すんですよね。確かにすごくかっこいい。


志村さんの、あえて主人公を二鳥君と考えると、彼女の作る世界のなかで、彼の本質って、ここです。では、これを本質=動機、とすると、どうなるか?というと、「こういうものだと決断を下して決めること」をしない!!!ことが、二鳥くんの本質なんですよね。つまり、ドラマトゥルギーが、解決やエンドへ収束しないってことです(笑)。僕はそう思うんですよ。この辺の役割論の話は、ランドリオールの記事で書いたなぁ、、そういえば、、、参照できるようにしたいけれども、どこに置いたかわかんないので、、、いいいや、、、。


なので、全編、二鳥くんが何を求めているかは、あいまいですっきりしません。けど、決して曖昧には感じないですよ。僕はシャープで、非常に決断力に富む人物だと思います、彼は。曖昧なのは、そういう自分の矛盾する感情や価値を、きちっと尊重し、それが社会とぶつかることがあっても都度戦う勇気を持つということです。


それが、漫画版の僕がいいな、と思う部分です。「物語が進まない」、ある意味で言えば、永遠の日常のように「時が止まった時間」に感じるかもしれないのですが、まったくそんなことはありません。ここで指している「時」というのは、熱血・成長的なドラマトゥルギーの展開のことで、そういう「物語を進める」こと自体は、テンプレートにはまる人生なので、そういうのは、それが「〜への自由」という責任の話につながるとしても、少なくとも彼はこの時点で拒否しているんです。そして、日常に生きていくということは、人としての成熟があるためには、これって重要なんだと思うんですよ。常に、自分の内面に声を傾けること、、、マクロの要請から役割のテンプレートにのって、マッチョイズム的に勇者になることだけを望むのは、「〜への自由」という美名の中に隠された家畜となり下がる行為だ、ということ。・・・おおっ、いつもの僕の発想と真逆の価値観だ!これは、凄いいい展開のロジックだ。。。。


このことを、以前、ゆうしぶやはたらくく魔王様の話を、LDさんとしている時に、勇者の物語を描くときには、


ワナビーブレイブですね


と、LDが話していて、僕はこれをワナビーブレイブ症候群と呼んでいます。これは、男の子的熱血・成長の価値観の体系の中には、勇者にならなきゃいけない(=ものごとを熱血的に成長的に解決してマッチョイズムを目指せ、世界を救え!!!)という価値軸が存在しているようで、それにしたがって、何もかんがえずに向う見ずに飛び出して戦わなきゃいけないと思うような感性があるんですね。けど、できないと屈折してルサンチマンを抱く。ワナビーって、小説家になりたい!とか、なにかにないって!言い続けているけど何も達成できない宙ぶらりんの状況の人を揶揄して指す言葉なんですが、勇者になりたい!って言いながらもなれないルサンチマンを抱えることを、この言葉で指しています。僕の定義とLDさんの定義は、全部微妙に違うので、今度、ラジオでも話してみましょう。

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さてさて、、、、主人公である二鳥くんの漫画版での主軸の価値は、ドラマチックにわかりやすいビルディングスロマンに二鳥君の動機を回収して再構成しない、というところにありました。そう、僕は思います。


さて、一番最初に戻りましょう。



あおきえいさんの作ったアニメーションは、見事な二鳥くんのビルドゥングスロマン(=成長物語)として再構成されて、その中の1エピソードにすぎない学園祭の演劇をドラマトゥルギーのクライマックスに持ってくるように演出・構成をすべて組みなおしたものです。


?????おかしいでしょう?。


ようは、オリジナルの作品と、まったく逆の手法を選んでしまっているんですね。まぁ、アニメーションの読者のほうが、薄く広く観客層を想定しているので、こういう改悪や選び方の安易な逃げ道はよくあることです。。。。。といいたいところなのですが、そうじゃないんですね。これ、考えに考がえ抜かれてこの構成を選択されて、大成功しています。


LDさんは、ラストのシーンで泣いてしまった、といっていましたが。僕も同様です。


これは、二鳥くんの本質を描いているからです。そして、この脚本だけで、二鳥くんのその後の社会で生き方もわかってしまいます。基本的には、外から規定されていくのをずっと拒否している姿勢を描き続けているので、漫画版では、意を組まないと(一つレイヤーを下げて考えてみないと)二鳥がどうやって社会で生きていくのか、わかりにくいです。それは、単純にいって、ストレートに答えを書いていないからですね。でも、千葉さんの社会での生きづらさに比べれば、二鳥くんの行動力や意思決断力、内発性は、ずっと社会で適用しやすいものだと僕は思います。


アニメの脚本は、小学校から長くある時間の中で学園祭の演劇のエピソードに集中して、ピークの盛り上がりが最終回に来るように、脚本と構成が組み直されています。


そこで表現したいことは、二鳥修一君という女の子になりたかった男の子のビルドゥングスロマン(=成長物語)です。


では、どんな成長が描かれているかといえば、それは、彼自身が社会に受け入れられるポイントを見つけ、そして、そこで生きていく覚悟を決めた、というのがはっきりわかるドラマトゥルギーになっています。LDさんが、感動したと僕に語ってくれた部分は、僕も聞いているだけで涙が出そうでした、、、それは、ラストシーンで、演劇の舞台に上がる時に、観客は万雷の拍手を二鳥くんに向けてしてくれています。・・・・・しかし、この同じ人たちが、二鳥くんが女装して学校に登校に来た時に、それを脱がし、排斥した人たちなんですね。別に、彼らは二鳥くんが嫌いなわけですらありません。社会のコモンセンスや空気に従って、異物を矯正して直そうとしただけです。別に、普通にどこでも行われていることだし、ほぼほとんどの人は、この社会の無言の強制という常識に、従って生きていて、それで特に痛痒もないのです。けど、だとしても、二鳥くんの存在を矯正し、壊そうとし、排斥しようとしたのは間違いありません。その同じ人たちが、二鳥くんの、魂の奥底から出る内発性に対して、演劇という「場」、特別なフィールドでそれを表現するときに、万雷の拍手をもって迎えるのです。


ラストシーンは、舞台に上がる時に、きっと、真摯に前を向き、何かを決意したような表情で終わっています。


何を決意したかは明白です。彼は、「ここ」で残りの人生を生きていくことを決意したんです。


「僕は笑われるために、女の子の服は着ない」


と、二鳥くんはいっていました。笑われる存在として、社会のなかのある種のスケープゴートやマイノリティとして、その存在を受け入れてもらえるという方法はあるかもしれません。たいていのマイノリティは、そういう道を歩まざるを得ません。ザ・世間!!というのは、とても怖い存在なのです。けれど、二鳥くんは繰り返します。


自分の存在を、笑わせない!、と。


しかし、ザ・世間は、強いです。高槻君やしーちゃんの男装は許されても、男の子が女装することをまだこの世界は、社会は受け入れてくれません。だから、彼は表現者の道を選ぶのです。もちろん具体的な職業は、わかりません。けれど彼が、自分の魂の中にある思いを、人に笑わせずに強引に認めさせるには、、、、世間の常識のラインから逸脱した彼の在り方を、それでも評価させるのならば、単純に生きているだけではだめです。そしてはっきりと、彼はその道を見出しています。漫画にもあるエピソードですが、それにフォーカスしておらず、淡々とそれを流しているので、このドラマチックさが、なかなか伝わりません。たぶん作者の表現手法からずれることだからだと思います。志村貴子さんは、たぶん、なにも、二鳥くんのこの成長の部分だけを表現したいわけではないからです。彼女が描きたいのは、LDさんがいうところのフラワーオブライフ。僕が言うところの縁のさざ波で構成されたミクロの関係性、だと思うのです。


しかし、この非常にコアを見出しにくいオリジナルのマンガを、こうも劇的にドラマチックにして、そして、二鳥くんにフォーカスるすることで、わかりやすい成長物語再構成しつつ、ビルドゥングスロマン的な、自分のミッション、使命を受け入れて「〜への自由」と責任を認識していくという流れのシンプルストーリーとしながら、その逆の、自分の役割を外側から決めることを強く拒否する二鳥くんのコアを、表現しきった、、、というのは、本当に見事な脚本でした。


ぜひとも、見ることをお勧めします。★5つのマスターピースです。できれば、漫画版の起伏を作ることも、焦点を作ることもなく、ドラマトゥルギーが駆動していくのを拒否していく物語を味わった後に、これを体験してみると、その差異のセンスオブワンダーに驚くことになると思います。


いい作品でした。


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