頑張っても報われない、主人公になれないかもしれないことへの恐怖はどこから来て、どこへ向かっているのか?

ただひたすら走って逃げ回るお話 作者:残念無念
http://ncode.syosetu.com/n2302bh/

これ、僕の中で、凄い重要な感じがする作品です。最近はブログも書けてないし、ちゃんと思考が継続してテーマを追えて追及できていないので、うまく結晶化できていないのですが、自分の中で、タイトルにもあるような「頑張っても報われない、主人公になれないかもしれないことへの恐怖」って、重要な現象というか時代の大きな波な気がするんですよ。なんなんだろう、、、極端に日本的な高度成長期との落差かなとも思うんですが、アメリカで住んでいても似た感じをすごい感じるので、たぶん現代の先進国、中産階級(ミドルクラス)の都市の住人の共通の感覚なんじゃないかなぁと思うんですよ。


最近、ゾンビものにはまっています。
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20151007

『異自然世界の非常食』 青井 硝子著 めっちゃグロテスクで目が離せません(笑)。これ、凄いSFですね。
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20150418

異自然世界の非常食 2

これってここでも書いたんですが、人を成長に駆り立てたり、正しくまっすぐに変わっていこうとするエネルギーの根源が、動機、内発性(ゼロから出てくるもの)だとすると、それがない人はどうすればいいのか?という問題意識でした。僕のベイシックスキルというカテゴリーで、話してきた技術というのは、すべてこの動機をどれだけはっきりさせるか、先鋭化させるかとかいう、もともとあるものをどのようにうまく使うのか?というものであったり、動機というのはトラウマは心の傷とリンクしているほど濃くなる部分があるので、そのマイナスの負のエネルギーをどうやってマイナスではなくプラスに振り向けるか?という技術の話でした。今までの僕の話はすべてそうだと思うんですよ。また物語の主人公というものは、時間軸を前に進ませなければいけない物語圧力があるので、どうしてもこの動機をどう設定するかということで評価したり見たりすることが可能になるので、僕の物語評価は常に、この個人のミクロの動機がどういう構造になっているのか?、それが大きなマクロの構造の変化と同リンクしているのか?という問いでした。これはこれで普遍的な評価軸だと思いますし、人類を見る上ではマジョリティというか重要な視座であるのは、特に変更はないと思います。世界を社会を変え、運営するのはいつでも強い動機を(それが負であれ正であれ)持ってそれを行動に変えて世界に関わっていく人々であるのは、歴史で見れば一目瞭然です。しかしながら、高度資本主義経済であり、且つ、なんというかこの世界の人権とか民主主義とか、いわゆる現代の制度というのは、その社会の生産から外れる人間や貢献しない、、、言い換えれば動機が磨滅していたりしていることを、間違ったことだ!という強迫観念の元に存在を許さないベクトルがあるように思えるんです。いままでだったら、世界や社会から外れてしまって、かつ社会に害を及ぼさない種類の存在は、無視されて放っておかれたはずです。けど、どうも僕らの息苦しい、みんなが成長しなきゃいけないんだ!正しく報われなきゃいけないんだ!!という正しさに満ちた僕らの社会の建前は、そうした闇を許容しないようなんですよね。・・・・凄く息苦しい。人に凄い優しいようでいて、これは実はすごい厳しいのではないか、と思うんですよ。なぜならば、人間存在を、常にある一定の枠に、鋳型にはめるようなものだからです。それが過去の役割で決めつける封建制奴隷制度のような階級差ではなく、自由意思によって可能性がすべて許されている建前の元に語られることによって、すべてはその人自身の自己責任という形で、無限に成長し、いまの自分を変え続けなければいけないということが要求される。成長を悪い言い方で表現すれば、現在の否定、、、もっともっと次があるという文脈の元での自己否定になるわけですから。


最初に、現代の先進国、中産階級(ミドルクラス)の都市の住人の共通の感覚といったんですが、こうした、どこまでも自己否定をして成長していかなければいけない強い圧力は、貧病苦などの社会格差が非常に大きく(ここからぬけだしたい!という動機が巨大に存在した)、かつ、技術の進歩が社会の在り方を変えるような飛躍的な発明があり、かつ資本主義によってすべての人間存在が消費者という単位で社会のマクロに貢献する巨大なうねりになっている時、動機が凄まじい勢いで膨れ上がり、それが社会のほぼ大半の人々に目に見える物理的な豊かさと社会変化(成長という名の急向上)もたらしたんですよね。ベビブーマーなどの人口の一時代の急上昇とリンクした高度経済成長です。国が近代化、現代化するにあたって、100年か1-2世代ほどどれが続くようです。そしてそれが終わると、この報われた条件が失われてしまい、急速にその時代に構築された倫理や価値観、社会システムと、その後の落差が大きくなります。もともと、人類社会において、そうした経済的高度成長というのは、あまなく昨日と同じ明日を生きる永遠の日常を生きるのが普通でした。ここ最近の近代の方が極端に不思議な現象だったんですが、これが常識化して、あたりまえになっているんですね。この文脈で考えると、そもそも社会格差過去に比べると小さくなり、且つ成長の契機が失われている現代は、そもそも強い動機が社会大に共有されにくく、且つ報われる確率が非常に低いので、自分が成長にかけてめちゃくちゃ努力するリターンが、信じることが凄い難しい時代になっています。この背景で、動機が磨滅したり、動機を持ったとしてそれが報われないのではないか?という不安が極大化していくんですね。なぜなら、社会制度や社会の価値基準自体は、まだまだ努力すれば報われるという制度設計になっているので、報われなかった時のセーフティネットが物理的レベルにとどまらず、感情的なケアも含めて完璧にないからです。そういうマクロの背景による社会の急激な縮小や拡大の歴史的な例を見るならば、一番いい例が大英帝国です。イギリスは、こうした急拡大や旧縮小、また緩やかな衰退を非常に長く経験していて、僕は一番見るべきなのはここ何だろう!とうなっております。

イギリス 繁栄のあとさき (講談社学術文庫)


えっと、なので現代を考える時に、そうした動機が持てない場合にはどうすればいいのか?ということが、実はとても問われている気がするんです。日本的な文脈でいうのならば、一つは高度成長が終わったことにより、基本的には成長するチャンスがほとんどない、かつ、報われる確率がマクロ的には非常に低い世界の中で、、、、それでもあなたはどうしますか?って問われるわけです。


このテーマへのアンサーというか発展形では、たとえば、僕らが新世界ものとして、いわゆるドラゴンクエスト的な階梯手的な段階を踏んでくれる成長の物語というのは嘘くさいと思い、いわゆる物語破壊の禁じ手である突然死的な、いきなり棍棒と布の服でレベルが100内と戦えないラスボスドラゴンに出会って殺されるような境界(ここでは端的に壁ですね)が描かれる『進撃の巨人』のようなものがあります。新世界ものとは、このブログを長く見てくれている人はわかると思いますが、セカイ系の対比として出てきたものです。この辺りは複雑かつ長い話なので、暇があったら過去の記事やラジオでも読んでくださいー。。。って、『惑星のさみだれ』でセカイ系を説明した、アホみたいに長い生地がまだ終わらずそのままになっている、、、、。はやくかかねば、、、。

https://youtu.be/amLOUNDSwks?list=PLusUXoPKOyjhb1VObOUtGnZKwbe2Qu9NC

http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/28dbc8d878b9b06aa17892f889339bb2

進撃の巨人(1)


また、マクロ的な成長がないならば、成長がない止まった時間の中で、永遠に続く日常を楽しむための手法を探せばいいではないか?、ということが発展して、そうした世界では人間関係、ここでは恋愛などの類型を追求していくことになるのですが、それがハーレムメイカー(女の子がみんな自分を好きという男の子の極端な夢)になっていったり、『ゆゆ式』などのもう男女などの性差があって、未来が、時間の流れが見えてしまうことや、何か関係性が変わっていく可能性のかけらさえ見るのが嫌だということで男性性が消去された、関係性の中だけに閉じてその時の関係性を戯れて楽しむのでいいではないか、という方向に至ったものもあります。



ゆゆ式』(2013) 原作:三上小又  監督:かおり 関係性だけで世界が完結し、無菌な永遠の日常を生きることが、そもそも平和なんじゃないの?

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20140504/p1


ゆゆ式 1 (初回限定版) [Blu-ray]

これらの系は、最初のテーマに対して、いろいろな形でのアンサーであり発展形になっているのがよくわかると思います。この辺りは、僕らの生きる最先端が、今後どうなるのか?と密接にかかわっているものなので、まだ答えがあるというわけではない最前線なのですが、、、、。この動機が持てない場合どうすればいいの?、という問いに行きつく前に、現象から見て永遠の日常を楽しんで生きるためにはどうすればいいのか?という問いがありましたね。あれがここへきて、全部につながってきている気がします。世界が崩壊したり文明が崩壊する系統のゼロからやり直すという部分は、バトルロワイヤル系統がなぜこの時代に展開していくのか、という問いで森恒二さんの『自殺島』などでさまざまに説明したと思います。こうした終末論、ゼロからやり直したい!というのは、ゾンビんものが社会が不況になるとはやることと関連付けられますね。これも、動機を持てないなら、どうやって動機を再び持つことができるか?、またそれが社会定期に意味を持つには今の文明がシステムになっていて、その網の目を抜け出すことができない外部がないことへのルサンチマンからできています。ならぶっこわしちまえ!という話です。アメリカの批評界では散々叩かれた『ファイトクラブ』ですね。まさに。


自殺島 13 (ジェッツコミックス)

自殺島』 森恒二著 バトルロワイヤルの果てには、新たな秩序が待っているだけ〜その先は?
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20110601/p7

ファイト・クラブ [DVD]

この問いは凄く難しい問いなんですよね。動機がないという時点で、物語に必須である前に進めるドラマトゥルギーのエネルギーがなくなってしまうからなんです。どうしても、意味不明の物語にならざる得ない。あとででてきますが『めだかボックス』の球磨川パラドックスですね。こうした感性は、成長が担保されていないマクロの背景から生まれているものなのですが、そんなマクロ的な暗ぁいーこと(笑)物語で説明しても、ろくな物語にならないと思いますし、そもそもインフラストラクチャーは人類史上最強レベルで素晴らしい時代なので、要はほとんどのケースは動機さえあれば、貧困から抜け出す方法も、不毛から抜け出す方法もいくらでもあるわけです。特に動機の壊れ方が激しいのは、本当に貧乏な人なのではなく(そういう人はいつの時代もたくさんいます)、むしろある程度ベースはあるけれども、それ以上に自分が特に他の人間と異なることも何もない、、、何もなさに苦しむ中産階級に発生する意識なので、平均値な人ほどかかりやすい病でもあります。ようは、日本人はほとんどが候補になってしまうわけです。先進国の中産階級に生まれる、何者でもない自分に対する、日本であれば1億分の1である、何者でもない自分への存在の悩みなわけですから。けどそれって、ようは成長したり個人で心を豊かにする方法はいくらでもあるのに、やる気が出ないといっているわがままにしか、物理的には目ません。区別もつけれないですよね。なので、物語的には、ろくな主人公になりません(笑)。なので、とてもこのことを表現するのは難しい。それに、たぶん、この問いを意識しなければいけない構造的なものがあるとはいえ、答えは、有史以来ほとんど変わっていないくて、それはやっぱり成長とは言わなくても自分を変えて世界を変えていくように関わり、他者と世界を認識できなければ、生きている手ごたえは帰ってきませんので、結論自体は、特に変わらないんですよ。けれど、そこへ接続する接続の仕方が、いま暗中模索なのだと思います。ストレートにそこに行けるような肯定は、時代的には、ない。このことを考える時に、メジャーを書いた満田さんの『BUYUDEN』『メジャー2』を思い出すんですよね。『BUYUDEN』は、どこへいきたいんだ?っていうような物語の定石を外しすぎて破壊する迷走ぶりだし、『メジャー2』は、主人公の、主人公足りえない設定背景には、それでどうするんだよっ?って物語の定石からは、うなってしまいます。

BUYUDEN 1 (少年サンデーコミックス)

けど、たぶん、これが最先端の悩みなのではないかな、と僕は思うのです。『メジャー2』とかって、ほんとうにかわいそうじゃないですか、、、主人公でない脇役が主人公に設定されてしまって、物凄い苦しんでいる様な感じが凄い伝わります。けれども、めぐまれているっていえば、めぐまれているわけです。しかし、、、物理的に恵まれていれば、それが幸福かといえば、それはそんなことは全くないんです。人間は、物語がなければ、、、自分という物語を生きる主人公になれない時、、、言い換えれば動機のドラマトゥルギーが自分で信じられないときに、凄まじい苦しみとルサンチマンが心をボロボロにするものだからです。これを心理学者の岸田秀は、めちゃめちゃに壊れて電波が受信できなかったラジオと評しました。これは、単純に貧乏だったり物理的に苦しいことよりはるかに苦しい悲惨さを人にもたらします。どんなに物理的に苦しくとも貧困でも、物語に生きている限り、人は自己に満足できる生き物だからです。ここは、なんといっても批評家の中島梓さん『わが心のフラッシュマン』に素晴らしい展開がのっています。いまだ古びない人間はロマンを生きるものだという宣言は、本当に素晴らしいものだと思います。そう、逆に言えば、ロマンがなければ、自己を生きる物語がなければ、世界が放火したも同様の最悪の地獄を人間は生きることになります。ウィリアムジェイムスが、『宗教的経験の諸相』でそれをヴァステイションと呼んでいて、それは物理的な苦しさのどれよりもはるかに超えて最も人間存在を脅かす苦しみだと書いています。まぁ、このへんは、ややこしいのでいいですけどね、読まなくても。

わが心のフラッシュマン (ちくま文庫―ロマン革命)

宗教的経験の諸相〈上〉 (W・ジェイムズ著作集)


このテーマを意識するのが難しいのは、前回のラジオでLDさんが話していたように、メジャー2で主人公が紆余曲折あってもプロ野球選手とかになれたとすると、これって、このテーマからすると大失敗のダメな作品になってしまうんですよ。しかし、本来は成長物語のドラマトゥルギーが、物語追啓的には王道であって、快楽線からすればそこに行きつくべきなんです。けれどいけない、というジレンマがこの作品にもすごくよく見て取れます。この作品は、物凄い最先端の感性に基づいた作品じゃないか!と最近唸っています。

MAJOR 2nd(メジャーセカンド) 1 (少年サンデーコミックス)

前回のラジオでいった、はがないのラストが、結局誰ともくっつかなかったというラストで、通の人は(ってだれだよっ!)みんなよくやった!と思うんですが、これってたぶんすごい消費者には不評だろうと思うし、物語の快楽線としては最悪なわけです。ぼくやLDさんのように、大きな文脈読みでいろいろなものを凄い消費してて、単純にその作品だけから直接的にはまって快楽を感じようとしていない、ひねくれた見たかをしている人は、文脈的に、この時代性のテーマにしたいして、こう答えたのか!という、テーマに対しての答え方を評価するという視座を持つので、たぶん、おおっ!て思うんですよ。

俺の妹がこんなに可愛いわけがない』が典型的にわかりやすいんですが、LDさんは、ぜったいにあやせと結ばれるべきだった!という強い信念(笑)があるようですし、僕も、黒猫以外あり得ない!と物凄い強度でラストを拒否しているんですが(笑)、でも、そういう動物的な反射とは別に、文脈として、タイトルのテーマ、、、きりのが友達がほしいといった最初のテーマに戻っていることに対して、構造的な正しさというか、そう答えたのか!という評価を与えています。これね、批評とか外から見る人の視点なんですよね。消費者として読者としては、きりのとかありえねぇ!黒猫しかねぇ!と憤っているんですが、、、、まぁ、それはそれ、とおいておけるのが、僕らのような年寄りの仙人的な視点なんですよ。どっちがいいかなんて、もちろん言える話ではないですよ?。見方の問題というか姿勢の違いにすぎないので。ちなみに、最近僕の記事は、ぜーんぶラジオとか思考がつながりすぎていて、なかなかパッと読んでわかるように書いていないんですが、最近の見方の重要なアンカーになっている気時なので、12巻の記事はぜひ読み込んでおいてくれると、いっている文脈がつながるような気がします。といか、個人的にはこういう記事の書き方のバランスが、僕的には一番自分的に好きな構成のスタイルです。物語が好き!!!という動物的な思いの強度と、それを外から見て冷静に評価して、そしてもう一度それらを統合して、マクロ全体を俯瞰で見ながら同時にミクロに同一化できるような、、、。


俺の妹がこんなに可愛いわけがない』 12巻 伏見つかさ著  あなたは恋人と友達とどっちを選ぶのか?という問いの答えを探して
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130615/p1

俺の妹がこんなに可愛いわけがない (12) (電撃文庫)

おっと、はがないの話ですが、LDさんは、最後まで恋人ができなかったのはあっぱれだ!と叫んでいましたが、僕も同感です。やっぱりこの時代の、友だちができない!!!友だちがほしい!!!!という問いに対してのアンサーは、あれであるべきだと思うんです。彼女ができてしまったら、なんだよ、結論は、リア充になれってことかよ、と最初の問いが意味を失ってしまうからです。このテーマが先鋭的に表れている部分をLDさんは、めだかぼっくすの球磨川禊のセリフを例に挙げていますね。

めだかボックス モノクロ版 1 (ジャンプコミックスDIGITAL)

あいつらに勝ちたい
格好よくなくても強くなくても
正しくなくても美しくなくても
可愛げがなくても奇麗じゃなくても
格好よくて強くて正しくて美しくて可愛くて奇麗な連中に勝ちたい
才能に恵まれなくっても頭が悪くても
性格が悪くてもおちこぼれでも
はぐれものでも出来損ないでも
才能あふれる頭と性格のいい
上り調子でつるんでるできた連中に勝ちたい
友達ができないままで友達ができる奴に勝ちたい
努力できないままで努力できる連中に勝ちたい
勝利できないままで勝利できる奴に勝ちたい
不幸なままで幸せな奴に勝ちたい!

嫌われ者でも!憎まれっ子でも!やられ役でも!
主役を張れるって証明したい!!


そして、仮に彼女ができなくても、恋愛物語にもリア充物語にも自己同一化することなくフラグを立てることも回収することができなくても、、、、それでも、楽しい青春というのはありえるし、そうした挫折自体が素晴らしい青春であることは、また事実であって、この非常に苦しいくらーーーい学校共同体の中のスクールカーストの中での絶望(リアル)において、でもそういうものじゃん、といってそのなんというか、非モテというか非リア充というか、コミュ障というか、、、別にそのままで、その中で戯れて関係性が全然物語にならないながらもぶつかったりしていること自体が青春でいいじゃないかというアンサーは見事だと思います。動機が持てなかったり内発性がない人が、しかも物語の主人公になれないでいたままであっても、それでもいいじゃないか、悪かないよ、という作者の答えは、僕は素晴らしいと思います。同じテーマを、『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』でもビシバシと感じます。ああ、、、このあたりのライトノベルは、本当に日本社会の最前線の一つだなーと心底思います。日本的問題点が高度成長の終わりとともに出てきていることの、そのコアである神髄である学校共同体への自己言及なんですよね、これらの作品はすべて。まぁ、そりゃそうだ。だって、主なターゲットは、中学生や高校生相手のエンターテイメントですからね。当然です。


やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。8 』 渡航著 ヒッキー、それは確実に間違っているよ
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20131129/p1


やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。11 (ガガガ文庫)


ちなみに、『ココロコネクト』もですね。この辺どれも傑作ばかりだと思いますねー。ライトノベル、凄いですねぇ。さすが、今の時代を一番反映していたメディアですねぇ。なろうとかの小説もそうですね。


ココロコネクト』 庵田定夏著  日本的ボトムアップの世界でのリーダーというのは、空気の圧力を結集する特異点
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130930/p1

ココロコネクト9 アスランダム 上<ココロコネクト> (ファミ通文庫)


ちなみに、はがないの、もう一度のテーマに普遍的な青春物語に回収してきたことは、やるなぁと思います。ここでは、何が悪かは、正確にわかってきました、それは、物語の主人公にならなければだめだ!という王道の物語への強制的なコモンセンス(常識)としての同調圧力こそが、この構造における真の敵だったのだと思います。だからこそ、舞台が学校になりやすいんですね。日本的学校空間の世界のスクールカーストこそ、まさにこの同調圧力によってつくられた分断のいじめ地獄だからです。ちなみに難しいのは、物語の主人公になる、自分の人生の物語を生きるという答え自体は、たぶん最大多数の確率的にかなり正しい正しさがあるものであるのは事実なんです。なので、これはこれで正しいんです。けど、別にこれがすべてでもなければ、これに合わせないと生きる資格がないとか、充実していないとかいう必要は全くないんです。同調圧力がこのコモンセンスの強制に使用されることが、我々の真の敵なんです。すなわちそれは、最も根深い日本の個性というかコアである学校共同体での同調圧力の在り方、そこで形成される秩序の在り方から読み解いて物語にしようとするのは、まさに素晴らしい展開ですよねー。ちなみに、これをもう少し社会のマクロで日本的な問題点としてとらえると、最近池田信夫さんのブログで言及されている、これとかまさにそのまんま接続される話ですよね。いやーフーコーの本とか思い出しちゃうし、日本的学校のシステムとの比較で、、そもそも同調圧力を排した大学の講義式のような形式にするといじめがなくなるのはわかり切っているけれども、しかし、そもそも学校の目的は、同調圧力によってトレーニングして洗脳することにあるわけなので(日本社会の近代100年のコアなのでこれをなくすと、日本でなくなってしまう可能性が高い)、、、という例の議論を思い出します。この辺は、難しい本も行くぜ!という人がいれば、フーコーとかこの辺はおすすめの本です。

脱学校の社会 (現代社会科学叢書)

教育の「脱学校化」は可能か
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51957985.html

学校は教育に向いていない
http://agora-web.jp/archives/1656882.html

全員一致という暴力
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51957710.html

監獄の誕生―監視と処罰

ちなみに、日本社会のこの学校共同体的なものがどこから来たのか?っていう問いは、僕はずつと司馬遼太郎さんのこの本を思いだします。良書なので、ぜひ。室町時代と戦国時代の後、日本社会はそれまでと全く違う社会に変質するようなんですよ。そこで、徳川家と織田家の違い、その背景をそれぞれ山間部と平野部の共同体形成の在り方に見出すこの話は、凄いおもしろいです。

覇王の家〈上〉 (新潮文庫)

さて、はがないに戻ると、友達がいないことに悩みながら、いろいろ痛いことやり続けること自体も、それが何が悪いのか?、そういうもんだろ日常は!っていいきっていまえばいいだけなんですよ。いいじゃん、中二病。いいじゃん、友達いなくても。好きなものが、漫画やアニメだけでも、それが何が悪いんだ!と。そしてもちろん、逆説的にヲタクをエリート化した第一世代のヲタクも間違いとは言わないんですが、それはそれであって、それが正しさではないんです。世の中に、正当なものとして、ヲタク趣味を認めさせる!!!!、、、、、必要なんかないですよね???。差別が厳しかった頃は、極端なアファーマティヴアクションで、ヲタクこそが正義!という命題を世の中に布教する必要もあったかもしれません。でもそれって、しんどいし、やっぱりザ常識!!!という名の同調圧力と争っている過酷な戦いでもあるんですよ。そんな必要は、もうすでにないんだもの。そこに自然にあるものの一つで、何が悪いのか?といって、、、そして、もうそういう時代が来ているんですよね。僕は、ヲタク趣味が人生の過半を占めるほど大事なものとして40歳を超えて、おっさんになっても、まだ続いています。けど、べつに、僕はスポーツも好きだし、ほかのことも何でも好きです。ビジネスで人に勝つことも好きだし、、、、別に、何かを声高に主張するのは面倒くさいです。リア充と非リア充とか、非モテ非コミュとかの二項対立とか、現実にはほとんど意味を成しません。一人の人生の中に、様々なグラデーションと分布で持って、こういうものは存在しており、それはその時の場によって意味や価値を持つだけで、一概に言えるわけないんです。そんな極端な単純化なんて、もう現実の多様さの方がはるかに上回っている。


好きなものは、好きなものとして自然に、好きな仲間と楽しみ続ける。それが社会から受け入れられていても、そうでなくても、やることはあんまり変わりません。二項対立で、世界を分断する必要もないと思うんですよ。ザ世間とか、ザ常識とか、僕はそういうのどうでもいいんですもん、最初から。でも自意識こじらせると、自分の存在意義とイコールになって、おかしなところへ行ってします。。。ただ、、、それは、いまだかろこそ言えるので、ヲタクに人権がなかった僕の子供のころには、逆差別でエリート化するような戦士たちの第一世代がいなければ、このような何でもありの時代はなかったでしょう。なので、いまの時代から過去の道を選んだ人や痛い感じをこじらせた人がいたことを、裁くこと自体は意味がないんでしょう。いろんな、なんでもありが、そんな自由なのが僕らが生きる社会のはず。だから多様性があっていいですよ。けど、、、これからの時代として、どこにポイントがあるかといえば、現代はここが最前線で、こういう道筋で、様々なものが変わってきた、と確認したりすることは、僕は楽しいので、やったとしても悪くないかなって思うんですよ。歴史だもん、それ。時系列で構造の変化を記載することは、楽しいんですよ。別に誰もこのブログを読んでいなくても(笑)。

僕は友達が少ない 11<僕は友達が少ない> (MF文庫J)

さて、そうして、こうした成長が担保されない世界で、まったく物語の主人公になれなくても、まぁそういうもんだろ的に自己肯定ができれば、、、、何もない自分を受け入れて肯定できれば、そこには、『ゆゆ式』で到達したような関係性のバランスを楽しみながら、必ず終わりに来る日常を楽しんで生きる日々に回帰することができるようになります。いっていることが伝わるでしょうか?。それは、ハルヒなどで問われていた1億分の1であることの存在の不安、きっと何者にもなれない僕ら、、、、、いいかえれば、自分が何者であるかがわからない、さらに言い換えれば、自分が生きている物語(動機)に自己同一化することができない、、、つまりは物語の主人公になれない恐怖が、いやぁ、あんまりなれないで、イタい感じで生きていくことこそが、普通の日常なんだぜ!ってことが肯定されれば、いったい世界はどう見えるのでしょう????


というのは、もうさすが、一時代を築いた天才ですねぇ、平坂読さん。もうすでに描かれているんですよね。『妹さえいればいい』は、まさにこのはがないで到達した境地でそのまま描かれています。いま、はがないを読み直しているんですが、実は、やっていることはほとんど同じなんですね。みんな集まって、遊んで、ゲームして、たわいものないことをしているだけの日常。なのに、圧倒的に『妹さえいればいい。』のほうが、幸せな感じがします。別に抱えている問題点や職業人としての苦しさは、、、、『妹さいればいい。』は、ライトノベル作家たちが主人公なので、はがないより、プロ意識があって切実に僕は感じます。でも、ぜんぜん、幸せで、羨ましいような、楽しい日常っぷりです、このやろう。うらやましいぞ!(笑)。別にリア中でもないし、たぶんコミュ障的なメンバーばかりですが、みんな金を稼ぐ自立した正しい大人ですし、人間的にもバランスがあって、、、、そして何よりもその日常の楽しそうなこと楽しそうなこと、、、もう一度言うぞ、羨ましすぎるぞ、このやろう(笑)。これたぶん、ライトノベル作家たちの日常を、かなりそのままか、カリカチュアライズしているんでしょう。それにしても、うらやましい(笑)。僕、友人に作家の人がいるんですが、彼らと遊んでいる時に、すっごい似た感じがあるので、この『ゆゆ式』とかああいう女の子だけの永遠の日常の関係性の戯れって、、、いやーふつうに、あるんだなー男女年齢関係なくって、凄い実感します。実際、海燕さんやLDさんら仲間内で、遊びに行くときは、いつもあんな感じで、ゆうきまさみさんの大傑作『究極超人あーる』の撮影旅行みたいなノリになるんですよ。みんな、おっさんすよ。女の子いないし(笑)。だいぶみんないろいろ人生にくたびれているけど、やっぱり楽しい。女子会みたいだねって、何年前に行っていたのを思い出しますが、、、。いやーね、これって、現代の到達移転で、いままでのもんだに対する答えで、、、、そして、これを書いている人の現実だとすれば、この10年から20年ぐらいで、現実に到達してきて、いまある生活、日常の楽しみ方なんですよ。

妹さえいればいい。 (ガガガ文庫)

ちなみに、伏見さんのほうが、物語性がより出るのは、作家性ですね。でも、同じ境地に僕は思えます。さすが、ライトノベル大御所。現代の物語の最前線。ここらに上げた作品は、まぁたいてい見ていると思いますが、おすすめです。

エロマンガ先生 妹と開かずの間<エロマンガ先生> (電撃文庫)