『ムーンライト(英: Moonlight)』(USA 2016年)  Barry Jenkins監督 アメリカのリベラルな社会の最前線〜アメリカ的な文脈で、黒人で、貧困層で、ゲイであるマイノリティとはどういうことか?

Moonlight [Blu-ray]

評価:★★★★4星つ
(僕的主観:★★★☆3つ半)

アメリカのリベラルな社会の最前線〜アメリカ的な文脈で、黒人で、貧困層で、ゲイであるマイノリティとはどういうことか?

第89回アカデミー賞作品賞受賞作品。とはいえ、個人の感想としては、面白くなかった。確かに素晴らしい出来なのだが、マイナーな作品としての面白さなので、これが大劇場で世界展開して、オスカーを獲得するというのは、少し不思議な感じがする。相当に人を選ぶ映画だからだ。町山智浩さんが、88回のアカデミー賞が白人ばかりの映画が受賞したのですが、今年は『ラビング(愛という名前のふたり)』など黒人の映画がたくさんあって、ハリウッドの多様さがわかるとおっしゃっていたのだけれども、僕的には、なんというか技術や映像の作り込み方が半端じゃなくて、確かに革命的な作品なんだけど、そういう玄人的な作品であって、物語自体はとても単調で内面的な作品なんで、やはり見る人をすごく選ぶ作品だろうと思う。なので主観としては、評価が低い。ちなみに、プランBエンターテインメント(Plan B Entertainment)は、ブラッド・ピットの会社。『12 Years A Slave』もそうだけど、この人はプロデューサーとしての才能も凄いんですね。とはいえ、離婚したばかりだから、家に帰って一人の部屋にオスカー像がごろごろしていると思うと、なんか寂しいですね。ほんとに。


この作品は確かに凄い作品で、その凄みは、なんといっても(1)映像の美しさによるところ。もうひとつは、(2)アメリカ的な文脈で、黒人で、貧困層で、ゲイであるマイノリティという、一般的な日本人からすると共感する要素がほとんどないんですが、凄まじいアメリカ社会のマイノリティの孤独感をこれでもかとフォーカスしている、そのアメリカ的な文脈がセンシティヴに昇華されている作品。アメリカの都市部に住む貧困層の絶望をさらに煮詰めたような場所が黒人たちが住む町。この作品は、基本的に人口の少年シャロンが住む町は、フロリダ。大人になってアトランタにうつっているんですが、ベースはここなんです。それは、監督のバリー・ジェンキンスと、脚本のタレル・アルヴィン・マクレイニーがフロリダのリバティー・スクエアの出身だからですね。ゲイのマクレイニーの脚本を読んで、監督のジェンキンスは、最初おれには関係ないなと思ったんだけど、出身を見たら自分と同じ町で同じ小学校で1歳違いだってことがわかって、この話は、
自分が描かなきゃならないって思ったそうなんですね。町田さんが以下のように書いているんですが、

町山智浩)この脚本家と監督はその地獄のようなところで育って、ただ、すごく2人とも文才があったんですね。で、学校で先生に「君は天才だから、いい学校に行きたまえ」っていうことで推薦をしてくれて。お金も集めてくれて。特に、マクレイニーというその脚本家は名門イェール大学に進んで、最終的にはマッカーサー奨学金という天才にだけ与えられる奨学金を得ているんですよ。

赤江珠緒)うわっ、じゃあ自分の才能だけで切り開いてきたんですね。

町山智浩)切り開いてきた。2人とも、それを見つけてくれた人がいたから良かったんですけど、見つけてくれなかったらね、こうなっていたかもしれないっていう話がこの『ムーンライト』っていう映画なんですよ。だからね、結構キツいんですけど。ただね、ゲイでもないし、貧しくもない、黒人でもないっていう人にとっては関係ない映画なのか?っていうと、実はそうではないんだと。この映画のいちばんのポイントなのは、「自分はいったい何者なんだろう?」って、誰からも肯定されない、否定されてきている主人公が悩んでいる時に、ある人が彼にこう言うシーンがあるんですね。「自分が何か? 自分は何になるのか? は自分で決めるんだ。絶対に他の誰かに決めさせるな!」って言うんですよ。

赤江珠緒)ああー、うん。

町山智浩)それがすごく大きいテーマで。これって『ズートピア』と同じテーマなんですね。


町山智浩 映画『ムーンライト』を語る
http://miyearnzzlabo.com/archives/41605


②のアメリカ固有の文脈を超えて普遍性がある部分というのは、社会の底辺から、社会で何一つ居場所がなく排除され阻害されている立場から、どうやって自分自身を見出して行くかというテーマなんですよ。この作品の普遍性は、そこにつきる。そしてこのジェンキンス監督と脚本家のマクレイニーの人生を見れば、彼らがなぜこの脚本を書き、そしてそれを世界に訴えたかったかは、よくわかります。彼らはこの地獄のような最底辺の貧困層から、ほとんど運で、そしてプラス才能と努力でのし上がってきたのですが、この抜け出せない地獄で生きる主人公の人生は、「もう一人の在りえたかもしれない自分」なんですから。


とはいえ、僕は「面白くなかった」と思うのは、まずもって②のアメリカの黒人貧困層の置かれている社会的文脈の、その凄みが日本人にはほんとど体感できないので、これを「自分自身にひきつけてみる」というのがすごく難しいと思うからです。ありえたかもしれない自分だ、と思えなければ、おとぎ話やファンタジー(=自分には関係のない話)になってしまうんですが、その場合は物語性がないと入りにくい。しかし物語性は、「自分の居場所を見つける」というとても普遍的哲学的なもので、抽象度が高い問いなので、マイナーテイストなリアリズムで描かれると、この難解なテーマは、なかなかポピュラリティを獲得しにくい。僕は、出来は素晴らしいが、エンターテイメントとして突き抜けているわけではないので、この作品がトランプ政権への批判として賞を取得したと揶揄されるのは、だろうなと思います。もちろん、世に知られるべきすさまじいエネルギーを持った作品であるのは否定しないんですが。アメリカの黒人貧困層の世界を理解する導入では、僕は、まず『Straight Outta Compton(2015 USA)』をおすすめしたいなぁと思います。これもテーマは全く一緒だと思います。ただ、主人公の黒人に音楽の才能があったこと、そしてそれによって破竹の勢いで成功していき、それが崩壊していくまでを描くビルドゥングスロマン(主人公の成長物語)になっているところにカタルシスがある。


『Straight Outta Compton(2015 USA)』 F. Gary Gray監督 African-American現代史の傑作〜アメリカの黒人はどのように生きているか?
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20150915/p1

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②の黒人の貧困層をめぐるアメリカローカルな文脈の背景は、上の記事でめちゃくちゃ長く書きましたので、この系列に興味がある人は、ぜひとも読んで、ここで紹介されている作品群をおすすめします。


『ヘルプ 』(原題: The Help 2011 USA) テイト・テイラー監督
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130114/p1

『Lee Daniels The Butler/大統領の執事の涙(2013 USA)』アメリカの人種解放闘争史をベースに80年でまったく異なる国に変貌したアメリカの現代史クロニクルを描く
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20150207/p1

それでも夜は明ける12 Years a Slave(2014 USA)』Steve McQueen監督 John Ridley脚本 主観体験型物語の傑作
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20150120/p1

ドリームガールズ』 ビル・コンドン監督作  アメリカの音楽の歴史教科書みたい
http://ameblo.jp/petronius/entry-10041454952.html


アメリカの現代を理解すること、アメリカ映画やドラマの固有のローカルな文脈を理解するときに、African-American現代史の理解抜きには全く不可能だと僕は思います。特に、アメリカの公民権運動以後のリベラリズムが到達している社会がどんなものなのかは、この背景抜きには、全く理解できません。そして理解できないと、この作品は、まったく無味乾燥なファンタジー(自分とは何の関係もない作品)になってしまうと思います。この「自分とは何者なのか?」の問いテーマにする物語は、「自分自身の体感」にひきつけて「自分のこととして」考えられなければ、ほとんど意味をなさないものになると僕はいつも思います。というわけで、アメリカのローカルな文脈を理解しないで、自分自身にひきつけないで見てしまうのが、一般的な日本人だと思うので、この作品は、ほとんど理解できないのではないかと思います。という意味で、面白くなかった作品でした。こういう高踏的な作品は、現実の文脈の体感がないと、「私ってこういう難しいの見ている」というようなある種のオシャレというか見栄というか、「こんな難しいのを見ている自分によぅっているだけ」な人ばかりになりやすいので、僕はぐったりしちゃうんですよね。まぁ、自分もその一員だったので、それを悪いとは言ってはいけないんでしょうが。。。


ちなみに、技術的なことはあまり得意ではないので多くは語らないのですが、①の映像の美しさというのは、原案のタレル・アルバン・マクレイニーの半自伝的戯曲「In Moonlight Black Boys Look Blue(月光の下で、黒人の少年がブルーに輝く)」からきているのですが、黒人の肉体と肌の美しさです。これには光の処理を、もう明らかにオリジナルとは全く違う、新海誠監督の『君の名は』レベルに加工していることによるのですが、これが全編本当に美しい。これによって今後の映画の映像処理の仕方が確実に変わってしまうだろうという町田さんのおっしゃっているのは非常に同感です。そういう意味では、2016年近辺は、画像の作り込みが、異なる段階に至ったエポックメイキングな年なのかもしれません。しかし、この全編をCMのワンショットの切り取りのような美しさで詩的に、幻想的に描く手法ってどっかで見たなと思ったのですが、これってウォンカーウァイ監督ですね。まさにずっと『欲望の翼』を思い何処していたので、なるほどと唸りました。

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不遇のマイノリティ社会、ゲイであることへの戸惑い、イジメにドラッグにネグレクトとモチーフはとことん悲惨なのだが、バリー・ジェンキンスはあえてシチュエーションをドラマチックに盛り上げることを避け、映画ならではの視聴覚言語を使ってシャロンの人生を極めて詩的に描き出す。
構図やカメラワーク、色彩設計や俳優の捉え方に至るまで、全体の画作りがウォン・カーワァイっぽいのだが、やはり相当に研究し、意識しているらしい。
「ぽい」とは言っても、きちんと本歌取りして自分の表現に昇華しているのはもちろんのこと。
筋立ての上では主人公と適度な距離を保ち、主観に寄り添った映像表現とクセの強い心象的な音楽・音響演出が、それぞれの章で自然に彼の心情を語りかける。


ムーンライト・・・・・評価額1750円
ノラネコの呑んで観るシネマ
http://noraneko22.blog29.fc2.com/blog-entry-1004.html


トレイラーを見ていただければ、圧倒的な黒人の体の肌の美しさを感じると思います。



ちなみに、この作品がウォンカーウァイ監督のテイストになるのは、映像が好きというだけではなくて、意味的にも、なるほどと思うんですよ。

こういったモノが映画化されると、ロードムービーのような形式になるのは、こうした状況での主観感覚が「見えるものがすべて意味のないものにしか見えない」という「意味感覚のなさ」が基礎にあるからではないかと思います。いいかえれば、電車の窓の外の流れるふうけのように「そこに触れることができない」ただ流れていくだけの「シークエンスとして、現実を眺める」という主観感覚です。ちなみに、ちょっとずれると、この感覚は、富樫義博さんの描く『ハンターハンター』のゴンが、団長に問いかけた「仲間をあれだけ大切にするお前らがなんで人をゴミのように殺せるんだ?」というというと、リンクしていると僕は思っています。

なお、アメリカでは、同じ「自意識の不安から」「どこかへ逃げ出してしまう」という形式は、ロードムービー的なモノへ昇華したように僕は思います。ヴィム・ヴェンダース監督(ドイツ人だけど)の『パリ・テキサス』やデニス・ホッパー監督の『イージー・ライダー』なんかを思い出します。ヴェンダースは、80年代ですが、この形式がアメリカではやったのは60−70年代だということを考えると、やはり、一世代分ぐらい日本とアメリカの市場では、「受け入れられる」もののサイクルがズれているように感じます。これも、実は00年代ぐらいから、世界がグローバル化して、同期しているように感じるので、昔のようなはっきりとしたサイクルのずれは感じない気がしますが。

これらは類型的にもともとの根は同じもので、消費社会が爛熟して、個人の権利が根強く認められるようになった反動の時代に、「自由とは何か?(=個人の権利と自由)」ということと「責任とは何か?(共同体から役割と責任をコミットすることを求められる)」というもの葛藤によって、発生するもののようです。つまり、消費社会がある一定のレベル(GNPで1万ドルを超えるくらいかな?、それと社会のストックのレベルによるかも)になると、発生する感受形式のようですね。ということは、次の時代(2020年代ぐらい?)のこの形式の名作は、確実に中国本土で生まれることが間違いないと思います。ちなみに、少し先行した形で、香港ではウォンカーワァイ(王家衛)監督の『天使の涙』』(原題:堕落天使,Fallen Angels 1995年)や『欲望の翼』(原題:阿飛正傳,Days of Being Wild 1990年/香港映画)といった名作が生まれました。僕は、これらは根は同じな物語類型だと考えています。

ちなみに、これらの作品に共通しているのは「何かから逃げる」「脱出する」という共通する基調低音のテーマがあることです。はっきりいって、そこに合理的な理由は見いだせません。『パリテキサス』のトラヴィスは理由もわからず、砂漠を彷徨っているところから始まり、最後まで彼には帰るところがありません。物語はこういったように「よくわからないけど逃げている」といった逃走の形式をとります。この「何かから逃げている」という共通の「お約束」を感じてみないと、物語が非常に断片的で、このどの作品も何を言っているか全く意味不明です。僕も初めて見た時に、かっこいーんだけど、胸に響くものがあるんだけど、いったい「監督が何を言いたいのか?」ということが意味的にはまったく理解できませんでした。特に、名作といわれる作品ほど、特にきっちりと「合理的な理由がまったくない」ように物語の脚本を作ります(笑)。

また最初にあげたように、こうした主観感覚は、「意味のつながりを感じられない断片」として、現実の見える風景をシークエンス(=連なりにする)にするという表現形態をとるので、背景を相当解釈する力がないと、全く意味が読み取れません。だって意味を壊すように映像や物語を作るんだもん。ああ、哲学のドゥールーズ・ガタリとかミルプラトーとか持ち出すまでもなく、知識人にとって、80−90年代くらいは「意味を破壊する」ということに全力が捧げられた時代でした。映画などの物語、現代美術のコンテポラリーアートも、『本来自明だと思われていた意味』を解体するということがその主要なテーマでした。これをパラフレーズする言葉が『大きな物語の解体』です。


1990年代から2010年代までの物語類型の変遷〜「本当の自分」が承認されない自意識の脆弱さを抱えて、どこまでも「逃げていく」というのはどういうことなのか?
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20100521/p1

ちなみに、ウォンカーワァイ(王家衛)監督はこの後、『ブエノスアイレス』に到達するわけなので、この「逃げる」という自意識の脆弱さを、もう少しマイルドに言えば自意識のセンシティブさを描くと、本質的に社会のメインストリートから排除されているところに行きつきやすいのかもしれません。なので、マイノリティを扱う話になりやすい。


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ただ、僕としては、圧倒的に同じテーマでも、『ズートピア』の方が愛してやみません。それは、やっぱりポジティヴな何かを獲得していく物語を見たいと、せめて物語では現実の悲惨さばかりを注目したくない、と思うからかもしれません。この辺りはリアリズムとロマンチシズムのどっちが好みかという部分になると思います。


『Zootopia ズートピア』(2016米国) 監督 Byron Howard Rich Moore 現代アメリカのリベラリズムの到達地点とオバマ政権への反動への警鐘
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20160808/p1


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アメリカのローカルな文脈でいえば、白人同士のゲイの物語だった『ブロークバック・マウンテン』の後継者の様な位置づけとも見れて、これを見比べてみるのも興味深いかもしれません。


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さて閑話休題。ここからは作品というより文脈の思考。


■あなたは何によって救われますか? 無力だった子供時代の思い出を解決、昇華できるのだろうか?


たぶん『ムーンライト』を見る層の消費者と、僕のようにライトノベルやオタクアニメのどっぷりつかっている層は、ほぼ重ならないと思うので、この比較はまったくわからないと思うのですが(笑)、実はこの作品を見ている時に、ずっと『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』とか学園モノのリア充敵視をテーマにしているライトノベル群のテーマをが凄く思い出されたんです。僕はこのあたりのテーマに、学校空間からの脱出というテーマを見出しています。自意識の脆弱さや自分の居場所を見つけていくマイノリティ的な自己探索の日本的ローカル文脈の展開が、ここにあると思うからです。いって見れば自分史的な、普通の日本人が、なにに不遇感を感じて、囚われて、なにからの解放と救済を願うか、というと、僕は学校だからだと思うんです。学校は、日本的同調圧力共同体主義の、純粋な場所です。きわめて現代の日本の最も日本らしく、日本の純粋性があるところ。


やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。11 (ガガガ文庫)


この集団主義的な同調圧力の空間、そして永遠の日常のテーマ間に代表される楽園としての圧倒的な差異がない世界での日常のキラキラ感あふれる充足というネガティヴとポジティヴが入り乱れる圧倒的な日本固有の体験空間。このあたりの接続感覚は、永遠の日常系を突き詰めていくと、絶望がどれだけ極まるかによってその極まり具合が突き抜けて、強烈なポジティヴに至るというルートがあるようです。それが、日本だと学校空間になるんですが、アメリカのローカル文脈だと現代の郊外の空虚さや中間層の崩壊を描く『ボウリングフォーコロンバイン』や『ストレイトアウタコンプトン』のような世界につながって、それへの限界点が越えると、アメリカでは、ゾンビ・アポカリプスのような「世界よ滅びろ!」という(ウォーキングデッド!やファイトクラブ!)というひゃっはー北斗の拳状態になるという流れがあるようで、この流れは日本も同じで(笑)、『がっこうぐらし』とか?(笑)日常・非日常の認識をどこに見て、どこにテーマを置くかは、凄いマクロに見るとだいぶ似ている構造があって、しかしそれがローカルに展開するとそれれぞれの文脈テーマに分解されているようなんですよね。


ゆゆ式』(2013) 原作:三上小又  監督:かおり 関係性だけで世界が完結し、無菌な永遠の日常を生きることが、そもそも平和なんじゃないの?
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20140504/p1

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。8 』 渡航著 ヒッキー、それは確実に間違っているよ
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20131129/p1

ココロコネクト』 庵田定夏著  日本的ボトムアップの世界でのリーダーというのは、空気の圧力を結集する特異点
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130930/p1

頑張っても報われない、主人公になれないかもしれないことへの恐怖はどこから来て、どこへ向かっているのか?
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20151011/p2


というのは、ここからはかなりのネタバレですが、シャロンという男の子の最も大きいドラマトゥルギーは、幼なじみの同級生ケヴィンとの愛の行方です。しかしながら、子供時代から自分がゲイだという認識がない状態から、狭い共同体社会の黒人ゲットーで、ゲイだといじめ抜かれてきたシャロンは、やっとケヴィンと結ばれそうになった瞬間、そのいじめの構造によって、ケヴィンに手ひどい裏切りにあいます。第三部の大人になったシャロンは、この恋をずっと引きずっているのですが、ある時いきなりケヴィンから電話がかかって来ます。

ここで、僕は『聲の形』を思い出しました。過去に自分をいじめ抜いた人、その人を許せますか?という問い。丸戸さんの『ホワイトアルバム2』でもいいのですが、高校時代の時のテーマを、社会人になっても引きずっていますか?という問い。いいかえれば、学生時代の、自分が子供時代のトラウマを、どうやってあなたは救済するのでしょうか?という問い。

映画『聲の形』Blu-ray 通常版

ケヴィンとの大人になってからの「つながり」というのは僕は奇跡に近いような気がしてしまいます。社会人になって、ましてや彼の様にアトランタという遠いところに引っ越して、全く異なる基盤を築いた後に、10年とかのレベルで過去の出来事なんか、もう全く関係なくなって、どれほど自分の心の奥に深いトラウマがあろうと、そんなものは流れ去ってしまいます。時間は残酷なもので、二度と、戻らない。実際のところ、学校時代のいじめは、いじめたものの勝ちみたいなもので、虐げた側は全く覚えてもいないで、忘れ去るんですよね。そして忘れている限り、それに囚われることも、歪まされることもない、というなんともひどい話です。


ムーンライトは、物語は3部構成で、3人の俳優がそれぞれに10歳、16歳、そして大人になったシャロンを演じています。大人になる間というのは、5年もたつとすべてが全く違ったものになって、もう過去の問題点やトラウマは取り返すことができなくなります。だから正しい在り方は前だけ向いて、未来のために生きるのが一番分のいい賭けなんですが、でも、親からの虐待や性的暴行、いじめ、この時期の教育の喪失などは、もう未来に致命的なダメージを与えるんですよね。また、青春の喪失を描く様々な物語は、この時期に獲得するものは、全て色あせて消え去っていくことがよく描かれます。それが現実だろうし、確率的には、そっちが普通だからです。


そんな、10‐16歳ぐらいの時期の、しかもズタズタに裏切られて破局した恋が、大人になって報われ、解決し、幸せになれるものでしょうか?。僕はそうは思えない。このムーンライトという映画が、CMのようなワンショットの映像美に感じてしまったり、ウォンカーウァイの連想を強くさせるのは、やっぱりそこが、非常に単純で重要なのは、その時の空間の強度や美しさを詩的に写すことに執念が費やされており、意味的にそれはどうなのか?という力強い現実意識がないからだと思うんです。


理由は、まさに現実的だからでしょう。アメリカの黒人の貧困家庭の、繰り返される連鎖は、ほぼ「そこ」から抜け出ることができないものなんです。たぶん殺される以外には。この映画の監督や脚本家は、例外中の例外で、そんなウルトラ天才を確率で考えれば、ないにひとしいんですよね。だから、このテーマを描くと、多分、黒人の成功方法が、スポーツ選手(アメフトかバスケ)になるか、音楽で世に出るかしかないんだろうと思います。それは、プロになるという話で、マイノリティでなくとも、そもそも確率ゼロレベルの狭き道です。


なので、詩的な、どうしようもないことに押しつぶされないで、何とか生きる心の微細な動きを描くような、詩的なものにならざるを得ない。この連鎖が続く地獄で、それでも生きていくときに、あなたはどうしますか?と。絶望を超えた、未来なんかない世界で、それでも自分自身を確立するには、どうすればいいのか?と。


最初の問いに戻りましょう。では、本当はどうやったら救われるのだろうか?、と。


アメリカの黒人は、3つほどパタンがありますよね。NBAのスタープレイヤーになるとか、ラップなどの歌手になるか、極貧からでも選ばれるほど天才で一流大学に行く(この監督や脚本家の様に)・・・・と書いてるとむなしくなりますね。普通に生きてたら薬の売人がいいところで、その場合もすぐ打たれて死にます。黒人ゲットーのアメリカの年の死亡率は、発展途上国やアフリカを下手したら上回りますからね。


無理なんですよね。僕には、通常の人生を生きていると、ヤクの売人になって殺されるか(タフになって強者になる!)、いじめ殺される、もしくはヤク漬けになって殺される、、、、、結局死ぬしか道はないんです。


それ以外で、、、、もっと根本的な部分で、じゃ救われるにはどうするかというと、やっぱり『聲の形』にならざるを得ないと思うんですよ。自分をいじめたやつらとどう向き合っていくか?。このムーンライトの、黒人の狭いコミュニティの世界は、結局、グローバルに世界に飛び立てる基盤を学べないのだから、ずっと底辺の同じところでくすぶっていることを続けるしかない。そうしたら、その狭い閉じられた共同体の中から得る、トラウマをどうやって、昇華していくか?というとても息詰まる狭い世界の話にならざるを得ない。『聲の形』では、狭い地方の田舎の共同体の中で、あれだけ悲惨な目にあった子供が、どうやって大人になって自分自身を見出していくか?は、どうしても子供時代に受けるトラウマをどう解決できるか?ということにならざるを得ない。『ムーンライト』は、子供時代のはじめて抱いた初恋を、もう一度取り戻すことができた、話でした。人種的マイノリティ、性的マイノリティのラブストーリーで、初のアカデミー賞を獲得したことは、政治的な文脈としてとても価値があると思うのですが、物語の類型としては、、、、もちろん王道の話ではありますよね。初恋が実ったわけですから。でも、実際には、ケヴィンは、普通の結婚をして子供までいるわけですから、バイセクシャルなんだろうと思うんですが、どこまで思いが「これから」継続していくか?という疑問もあるし、明らかに自分を導いてくれた役の売人だったキューバ系のファンと同じように、いつかは殺されるであろう危険な役のディーラーという職業についているわけで、これにも未来があると思えない。未来は、非常に暗いんですよ。これを救済というのだろうか、と。もちろん、きっと、ほぼ絶望しかないような、縋るべき希望の可能性もない中に生きているシャロンにとって、「自分が自分である」ことを受け入れてもらえる、しかも、少年時代に手ひどい裏切りがあって人生をずたずたに破壊されたトラウマをいやす形での救済が訪れることは、凄い奇跡であって、自分自身が受け入れられた、生きる意味があった出来事だろうとは思います。でも、「これ」は、選択肢としては、脚本としては、人種的、性的マイノリティだから輝くのであって、言い換えれば政治的に非常にセンシティヴだからこそ「初めて世に出すこと」に意味があるという意味で価値があるということで、、、物語として、それで、本当に救われたのだろうか?、それでよかったのか?と僕は思ってしまう。射程を長く感じると、とてもシニカルな感じがしてしまうのだ。物語は、短く「物語のロジック」でまとめるものだ。けれども、現実は違う。現実は、つながりのない断片を積み重ねながら生きていくものだ。そんな都合よく、物語がつながったりしないものだ。特に、子供から青春時代の密度が濃く、ステージによって人生がことごとく変わってしまう時には、それでもなお「自分自身は何もか?」「自分自身の救済はどこにあるのか?」というのは、とても難しい問いだ。しかし子供時代のトラウマが、長い時を経て克服され解放され、救済されるという物語を描くならば、ドラマチックに描くべきじゃないかと思うのだ。だってそんなことは、まず起きない奇跡だから。それを、静謐なドキュメンタリーとは言わないが、内面の詩的言語のような映像で語ってしまうと、なんだか現実を感じてしまい、じゃあ現実どうなるのか?、これからどうなるのか?と考えてしまう。考えてしまうと、救われようがないという結論になって、、、、うーん、この「終わり方」が良かったのか悪かったのか、いろいろ考えてしまいます。ただ考えさせてくれるというのは、この作品が、時系列の長い射程を描いている作品だからだと思います。こういう描き方の、物語類型の可能性を、いろいろ考えるきっかけになりました。


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