【映画版エヴァ破考察 その参】 僕たちが見たかった「理想のエヴァ」とは?(2)〜エヴァテレビシリーズと旧劇場版は、エロゲーのバットエンドだったのだ!さあぁ、トゥルーエンドのはじまりだ!

Cut (カット) 2009年 08月号 [雑誌]

宮崎駿、そしてその後継者たちは何に悩んでいるのか?〜押井守監督のスカイクロラとの比較

崖の上のポニョ』と『スカイクロラ』にみる二人の巨匠の現在〜宮崎駿は老いたのか?、押井守は停滞しているのか?(2)/スカイ・クロラ
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20080823/p4

崖の上のポニョ』と『スカイクロラ』にみる二人の巨匠の現在〜宮崎駿は老いたのか?、押井守は停滞しているのか?(1)/ポニョ編
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20080822/p5

さてさて、ちゃんと主題に戻りましょう。宮崎駿御大は、何に悩んでいたんでしょうか?。それは、「正しさ」がよく分からなくなった世界で、しかも「自尊心が壊れてしまった」男の子を主人公とする物語が描きにくくなったということです。言い換えると、この世界が素晴らしいものだとか、どうやって生きていけばいいか?について「正しさ」が失われてしまっているので、生きていく「動機」がなくなってしまった。だから、「動機」をもとに主人公の目的構造を組み立てる「物語」が描けなくなってしまったんですね。物凄く素直に、その後、彼は、少女しか主人公にしなくなりました(笑)。頑張っても、まだ子供であるそーすけがやっとです。ただし、僕はこの姿勢は、非常に共感が持てます。それは「単純なビルドゥングスロマン(=成長は良いことだ!)」を語ることができなくなっている前提で、唯一できる「それでも世界は素晴らしいんだぜ!」ということを何とか云おうと思うと、社会にかかわりの弱い配置を主人公に持ってくるのはわかるんです。少女が、社会とかかわりがないというファンタジーは、男尊女卑だ!といわれれば返す言葉がないけれども、ファムファタールや男を解放させてくれる聖なるポイントとしての女という類型は、歴史的なものです。押井守さんなんか、すぐ女性によって解放される男性というファムファタールに逃げるのを考えれば、エンタメするためにロリコンに回帰する宮崎さんの方が、、、、、、ってどっちもどっちか(苦笑)。

ちなみに、1995−6年ごろって、つまりエヴァが流行った頃って、日本社会が、総じて「自尊心が壊れて」しまった時期なんじゃないかなーと僕は思っています。先進国中で最悪ナンバーワンの自殺率・・・・年間三万人台というのは、この自尊心の低さをベースにしているのではないかと僕は思っていて、、、、クリエイター達が、このことを敏感に感じ取っているんではないかなと思うんです。破壊された自尊心、、、というのは、「非モテ」的な議論で、どんなに恵まれても彼女がいてもさえも、「自分には価値がない」とか思いこんでしまう感覚・・・・この感受性無くして、村上春樹が出てくる土壌もなかったと思うんですよねー。まぁそういう意味では、日本社会は、どこか根本的なところで間違っている方向に進んでいる可能性が高いんですよね。僕の感覚でいうと、自尊心の壊れる=非モテ的な「ナルシシズムの檻の中で閉じた状態」が、個人を責めさいなむのは、それを支えてくれる、家族、地域共同体等の承認のシステムが壊れているからなんだと思います。だから、自尊心、実存ベースの基盤があまりに弱い個人が多く生まれすぎる・・・。いじめとかが歯止めが効かなくなるのも、これと関連していると思う。

まぁ作品と社会の反映を語るのは誤解が生まれやすいので、社会分析はあまり語っても仕方がないので、とにかく宮崎駿監督には「世界の美しさは語る」ことは出来ても、未来を信じたり、世界を良くして行けるという動機を描くことができなくなってしまっているんですね。とりわけ、男の子の動機が描けない。

とすれば、まともに後継者を育成できない独裁者宮崎駿の、外に放たれたがそれでも後継者といえるのが、押井守さんと庵野秀明さんなんですが、この二人の課題が、「男の子の動機を描き、もう一度世界を良くしようとする(=世界を守る)意欲」をかきたてる作品を作れるかどうか?ってことになります。僕は近藤喜文さんや細田守さんの日常の繊細な関係性からくみ上げていくアプローチでは、マクロに到達できない、、、言い換えれば、宮崎駿さんの真の後継者たる資格・・・理想主義的共産主義者にして科学主義の信奉者であるマクロの設計主義的エリート(ブライアック・ラオ博士!)の本質に到達することはできない、と思っています(といいつつも、『時をかける少女』を見直して、『サマーウォーズ』へのを見ていると、うむ・・・と悩むところはありますが、でもあの手法では、到達しにくいんですよ・・・。)



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■なにがテレビシリーズ&旧映画版と新映画版の違いを産むか?


さてさて議論が整理されてきました。この時代(僕は90年代、特に中盤から後半にかけてを想定しています)の大きなポイントとして、


王道のビルドゥングスロマンを描くことができない


というのがあります。この一類型である「少年が悪を倒して好きな女の子を守る」というベタなものを、そんな単純なことがあってたまるか?つまらねーよという感受性が満ち満ちている。これをエンターテイメント(=沢山の人に楽しんでもらう)するということへの共感がうしなわれているからですね。直ぐに、「悪は本当に悪なのか?」とか、「そもそも人に愛される資格なんて僕には無いし…」とか、もうそういうことが生まれちゃう。過去のシンジくんみたいなもの。


それに対して以下の2点で、新劇場版は、これを克服する可能性を示しています。


1)主人公の意思を明確に強く描く


2)ものそのものリアルを細密に描くことで実在感をつくりだす



しかし・・・・この程度のことで、なんで我々は、あんなに強く一回性(インプロビゼーション)というか、おお、シンジいいかんじじゃねか!というような、自閉していく過去のテレビシリーズを一掃するような爽快感や開放感を得ることができたのだろうか?。


それが、スカイクロラでも使用されたし、カヲルくんの思わせぶりなセリフで繰り返されている次の3番目の効果といえる


3)並行政世界の物語構造を構築することで、受け手に「一度しかない時間」の意味と価値を痛切に感じさせている


これです。簡単に言うとね、もう僕らはエヴァンゲリオンシリーズを、実際の本当の脚本がどうかは別として(まだわからんぜ!)、すでに並行世界として認識しているんですよ。だって、テレビシリーズ、旧劇場版、漫画版には、かなり売れているものだけでも『碇シンジ育成計画』や貞元版『新世紀エヴァンゲリオン』等々・・・・しかも、空前の同人誌や可能性についての議論がされまくった、展開され、もうそうされまくった作品です。


「もしこうだったら・・・というIFを徹底的に受け手が共同幻想として作り上げている作品が、エヴァなんですね」


つまりエロゲー等のシナリオゲームの選択分岐を利用した「可能世界」のルートを探索していくという「感覚」に日本の消費者は慣れており、かつ可能世界の探索をするために必要な、、、コアを究極レベルで備えている。


A:妄想選択肢を可能とするマクロの分岐の多いプラットフォーム


B:各人の実存を刺激する強烈な個性を持ったキャラクター群


まぁエロゲーの多人数の女の子の設定ですよね(笑)。僕らは、これをハーレムメイカー手法と読んでいます。このハーレムメイカーの、多人数の女の子との関係性を同時並列的に体験するという欲望を誠実にシナリオとして進めていくと、どうしても並行する世界の関係についての考えざるを得なくなり、そして90年代以降にこの系統のシナリオゲームの洗練の果てに、奈須きのこさんの『Fate/StayNigh』やAGEの『マブラブオルタナイティヴ』や、竜騎士07さんの『ひぐらしのなく頃に』などの傑作を生み出していきます。この手法の原点として、いくらでも利用できるくらいの、インフラストラクチャーエヴァンゲリオンにはあったんです。

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しかし!!!



実際に、最も激しく人々の印象に残っている正規ルートは、テレビシリーズと旧劇場版ですよね!(笑)


そうつまり、シナリオゲームでいうところのデットエンドもしくはバッドエンドなんです。


そのまま10年以上放置!!!


しかも超絶鬱展開のものをです。


どんな放置プレイだよ!(笑)


そう僕らは、放置プレイで、縛られて打ち捨てられて、、、、10年以上たってやっとご主人さまの期間を見出したマゾヒスト(笑)のような状態なのです。





■90年代は「内面に閉じて行き詰った時代」〜現代の「僕ら」の最大の問題とは?

さて、迂遠ですが、なぜ旧劇場版やテレビシリーズと新劇場版が違って見えるのかを、考えるその前提に少し戻ってみたいと思います。

人間には、「あるべきものを見たい」という欲求があります。この「あるべき姿」というやつは、個々人によって当然違うものですが、時代性に拘束されると思うんです。ここで科学史家のトーマス・クーンが『科学革命』で提唱したパラダイム(paradigm)って概念を思い出してみてほしいのですが、まぁこれは拡大解釈し過ぎて社会科学には適用できないといわれますが(笑)、汎用性がある使用させてもらうと、「時代の思考を決める大きな枠組み」があるとすると、そういった時代的に広汎に支持されて人々を拘束し共有している大きな「問題意識」みたいなものが、ある程度、その時代の表象された事物に刻印されると思うんです。


そう前提を置いたとして、90年代はシンジ君のように「内面に閉じて行き詰った時代」なんですよね。そして、2000年代は、その閉塞感をどう打ち破るのかの挑戦の時代なんです。決断主義なんて言われた、『デスノート』や『コードギアス 反逆のルルーシュ』なんかは、その象徴ですよね。内面に深く問いかけることを「どこかで決断して辞めてしまい」「行動にコミットすること」で状況を動かそうとする・・・政治的には、もう物凄くアメリカのブッシュJr大統領の911以後の政治手法を連想させられたのは僕だけかなぁ?(苦笑)。決断主義は、細田守さんの演出手法にも表れているけれども、行動を通して状況を動かす部分に重点を置いた手法です。言い換えれば、軽々しく内面に踏み込むと「答えの出ないループの質問」と「生きる気力の失われる絶望感」に引きずり込まれるので、内面に踏み込むのやめましょう、ということです。内面に入れば閉じるということは分かった、、、そこから「抜け出すことができないのだな!」ということで、非常に安易というかシンプルに、では内面を排除してしまえ!!!、、、外面(=行動)だけに重点を置けばいいのだ!演出として!というのが、00年代前半のいったんの結論でした。この手法の最初が、漫画の『デスノート』で、一番きれいな洗練されたこの手法の使用者は、『サマーウォーズ』の細田守監督だと僕は思います。ちなみに、これは『ポセインドンアドヴェンチャー』とか『タワーリングインフェルノ』など思いだすんですが、群像劇のへの回帰なんですよね。

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物語の類型史に詳しい人、、、小説の発生の歴史を知っている人は、近代以前の物語が、内面を語らないで人物を動かすことで状況を動かしていく手法をとっていたことを知っていると思います。活版印刷の発明など、文字を読むこと本を手に入れるコストが下がった状態で、小説は劇的に大衆化していきます。この過程で本が先か内面が先か?と呼ばれる論争があるんですが、つまりは、近代小説と呼ばれるものは、主人公に内面を発生させ、「ああこれって私のことだな」という風に感情移入させることによって発達してきた経緯があります。ちなみに、小説が内面を描いたせいで、「このように内面で考えるものなのだ!」と逆に大衆がトレーニングされて内面を深掘りするようになったといわれています。もともと、貴族などの特権階級の特殊なそういう才能に恵まれた人々の独占物であった文字とそれを操る内面の追求というアート(技術)が、大衆に解放されているのが近代小説の発展でした。


つまりね、物語の復権の一類型だと僕は思っていますが、ようは、古き小説物語のスタイルに回帰しているんですよ。けれども、これはどちらかというと消極的な選択肢の系だと僕は思うんです。なぜならば、「内面に閉じて抜け出せなくなってしまう」から「内面に踏み込まない」といっても、そもそも内面の悩みこそが、現代のコアです。つまり逃げているんじゃないでしょうか?。いやまーもちろん実際には逃げられませんので、古き物語のスタイルで内面を前面に押し出さないことをしたとしても、それをテーマにしないものは、売れませんし、共感を得られません。


だから、本当は、僕らはこの問いを真っ向から正面バトルを挑む作品を見たいと望んでいると思うんですよ。しかも、内面に閉じてしまうという閉塞感を、打ち破るようなエネルギーをもった形で。だって、僕らはもうそんなにバカじゃないもん。日本の読者層のほとんどは高等教育を受けて、知的に洗練された層なんですよ。その悩みにも、エンタメで分かりやすい形で(←この辺がアニメや漫画ファンはぜいたく)見たいんだぁ!というのは分かりますよねー。もちろん、評論家の中島梓がいったように「この孤独に耐えきれ、かつ相対主義ニヒリズムを超えて、絶対主義にコミットしきれるような知的アリストクラート」は、コリンウィルソンが言うように、人類史指導的5%しかいないという(各社会のごとにという意味ね)のには賛成で、ほとんどはそのレベルでの内面の深さは持っていません・・・それは、真の知的なアリストクラートであって、「そういう人」は、内面の豊饒さをこれでもかと独力で広げていく人なので、むしろ例外です。けど、、といっても、もうねただ萌ーとか、よぉ待ってました!と歌舞伎で掛け声をかける通な遊び人とかでありきれるよりは、僕らは小説内面を探索することに慣れてしまっているんですよ。そして何よりも、僕はGNP1万ドル/personを超えたレベルだと思うのですが、日本社会は1980年にストックレベルでのほんとうの先進国になりました・・・そういった社会ではねぇ、、、ようは暇なんですよ!人間は。無駄に悩む余裕があるんだ!。本当は太宰治三島由紀夫が言ったといわれる伝説の(ほんとは嘘らしいが)「おまえの悩みなんか、うまいもの食って、良く寝て、朝早く起きて乾布摩擦でもすれば、消えてしまう程度のもんだ!」というのは、至極まっとうな、決断主義的な回答(笑)。

これは、よく村上龍がいう本当の金持ちのぜいたく・・・たしか、、、『愛と幻想のファシズム』でクジラ漁船かなんかで必死に働いていた主人公のスズハラトウジが、ニューファンドランドか忘れたが、アメリカの金持が集う別荘地の小島の近くを船で通った時に、大金持ちのアメリカ人が、巨大なクルーザーで、凄く若い金髪のモデルみたいなウルトラ美人2人と、全裸で戯れているのを見るんですよ・・・

愛と幻想のファシズム〈上〉 (講談社文庫)
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そん時の説明のセリフが、ちょっとマッチョ主義的きらいはあるけど印象に残っていて「あのアメリカ人の金持ちはな、ガツガツあの女たちとSEXなんかしない。満たされているからそんな必要はないんだ。そのかわりに、彼女たちを育て、いい服を着せて、教育を与えて、良い人生を送らせることに情熱を注ぐ・・・ほんとうの金持ってのは、がつがつしてないんだよ・・・」みたいなことをいうんですね。


それも決断主義的な回答で、村上龍が小説である時期まで日本の社会に強い答えを出していたのは、この「本当に豊かなこと」と「貧乏人がルサンチマンでいっていること」を分けて、本当に豊かなことを目指せ!と言っていた部分が、90年代くらいまでは正統性を持っていたからだと思うんですよ。


けれども、本当は既に次の問いがそこには張り付いているんですよ。「本当に豊か」に「物質的になった」とすると、次には精神的な充足と豊さが要請されるんです。だからほとんど同じ問題意識を持って突き詰めていた村上龍村上春樹が、一方は少し失速気味で、村上春樹がどんどん前に進んでいくのは、彼の問いのたて方が既に最初から、物質的な豊かさを前提としているところからスタートしているからですね。まぁ村上春樹の方が育ちが良かったし田舎者でなかった(笑)と。ちなみに後で解説すると思いますが、村上春樹村上龍は、アニメや漫画に10年くらい先立って既に「並行世界」の概念をエンターテイメントとして取り入れて展開しています。だから本当の並行世界のアイディアのもたらす帰結を先に知りたければ、既にここらで相当に踏破がなされています。ただし、さすがの文学者たちで、いかにその中でも圧倒的にエンターテイメントに振れているとはいえ、「本当の意味で文脈を読み切る」には相当の知的訓練と気合がいるとは思いますがね。まぁ普通に読んでも、相当「くる」とは思いますが。特に日本のガルシア・マルケス!(笑)というかマジックリアリズムとでも言うしかない不思議な世界感覚は、村上春樹は圧巻だと僕は本当に感心する。大好きです!。ちなみにマジックリアリズムは、阿部公房、大江健三郎や中上健二がいわれるけど、、僕は村上春樹だと思うんだけどなぁ・・・。

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ねじまき鳥クロニクル〈第1部〉泥棒かささぎ編 (新潮文庫)
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五分後の世界 (幻冬舎文庫)
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さて、村上春樹が、その最初期の作品から、全く働かなくても豊に食べていけること、いい女がすぐ自分と寝てくれるという、金と女に関するファンタジーのような設定を、評論家に凄く攻撃されてきました。村上春樹嫌いの嫌悪する層に一番嫌われるのも、このファンタジーのような前提なんですが・・・そういう人は、まぁ個人的に嫌いというのは分からないでもないですが、何もわかっちゃーいないと思うんですよ・・・これはね、性欲や物質欲がある水準を超えて満たされた時に現れてくる人間の本質的な苦悩・・・内面の喪失感をクローズアップするための仕掛けなんですよ。後期資本制の都市文明に生きる我々にとって最も大きな地獄は、「退屈」なんだ、とコリン・ウィルソンは言いました。これは貴族層を数千年悩ませた問題で、生きる歓びが摩耗して実存が失われて、砂を噛むような感覚になっていくんですよね。そんですぐ自殺しちゃう。そんな個人が内面にニヒリズムを抱え込むことは、ずっと貴族の独占物でした。つまり、悩むだけの「退屈な不毛な時間がたくさんある」という前提条件でしか発動しないものだからです。そういうものの良い小説は、カフカヘミングウェイですね。いきなり虫になちゃったりするのは、ようはニヒリズムや不毛感を内面にセットされ暗喩ですし、ヘミングウェイのように英雄になろうとすぐ戦争とかにでかけちゃうのは、ようは何か物語にコミットしていて命でもかけていないと、不毛感でおかしくなるからですね。日常に戻ろうと直ぐおかしくなるのがヘミングウェーなので、彼の解決方法「戦争に行く!」とか「英雄になる!」とかは、個人の内面の苦しみにとっては、あまり役に立たないけだということが、読み返すと分かってきます(←うわっいいすぎ(苦笑))。

変身 (新潮文庫)
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誰がために鐘は鳴る〈上〉 (新潮文庫)
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決断主義による行動にクローズアップした演出手法の限界とその後


話が凄いズれた・・・・前回僕はこう書きました・・・・めちゃくちゃな日本語ですが言わんとすることは伝わっているでyそう・・・

消費者は、高尚な文学の先鋭的な可能性追求と、物語の豊饒さによる萌と癒しとカタルシスを、同時に求めるという非常に目の肥えた消費者なのだ、90年代以降の我々日本人は。

これ何を言わんとしているかといえば、僕ら後期資本制に生きる都市文明の住人には、基本的に「この無味乾燥で砂を噛むような現実をどう生きていくか?」という問いが共有されています。ニーチェがいったニヒリズムの克服と、ハイデガーがいった実存が充溢する時の探索です。この二点をこそ、僕は現代の解決すべき最大問題点だと考えています。もちろん、現代の!ということで、分野にかかわらずです。政治でも、経済でも、漫画でも、文学でも、映画でも、何でもかんでも。


これに対して、真っ向から挑むことこそ、王道!と呼ぶにふさわしいものだと僕は思うのです。


王道とは、表現的なズラしでも、可能性の極の系を極めて確認することでもなく、、、、ただひたすらに、最も核心の部分に対して、エンターテイメントの手法(=もっとも同時代性と広範な層に対する共感とアピールいする意思を持って)で挑むことだと僕は思うのです。決して分かる人にだけわかるという、島宇宙の閉じた王国でのオナニーする裸の王様になることなく、真正面から切り込むこと。

王道の極は、もしかすると怠惰に生きる惰弱な受け手を告発して壊す行為かもしれません(エヴァの旧劇場版やテレビシリーズ)。けれども、幻想は一度徹底的に壊して、解体して、物事の、自我の基底にある最後の部分を見つめてこそ、本当に世界の豊かさに到達できるのです。クリエイターはいってみれば教育者。その時代に最も望まれていることを提供しながら、その先、そのさらに高みに人を導くことを望み要請されるものだと僕は思います。なぜならば、人間が「よりよく生きる」というのはそういうことであり、最終的に目指さないというのは、間違っていると僕は思うのです(はい、思い込みです!(笑))。

ちなみに、僕は90年代のエンターテイメント世界の、この自我の解体と幻想の解体は、素晴らしい出来事だったと思っています。それが同時代的にも、団塊の世代の子供である我々以降の世代の心をボロボロにしてくれたことも(苦笑)。なぜなら!その前の世代である、団塊の世代全共闘の世代(僕はこれが日本を腐らせた一番いけない世代だと思う)は、浅間山荘事件などいろいろな文物やキャスターとかで高給取りのジャーナリストになっている人(ようは当時の本気から逃げてエリートになりおおせた人々)たちの、まだま幻想は捨てきれていない、いぎたいない生き方や発言を見ていると、自己の幻想を解体し尽くして、戦う意思を持たない限り、過去の幻想にすがったいやらしい生き方をして、世界をゆがめてしまうんだ、と思うんです。ちょっと話が行き過ぎた・・・(苦笑)。まぁ僕ら、あのエヴァで苦しい思いをした世代は、僕はけっこう可能性を感じます。だって、オウム真理教も、関西大震災も、エヴァだって、、、これだけ自己を否定され幻想を解体され、苦悩を背負い込んだ世代は、なかなかないですよ。ちなみに、団塊Jrからそれ以下のイメージで僕は書いています。



ううーーーまた並行世界の具体的な説明に入れないまま、だらだら長くなってきてしまった。しかも本論と関係ないし・・・。




■並行世界の物語という類型について
えっとね、、、、いいたいことは分かると思うんですよ、、、ようはね、エヴァシリーズというのは、幻想を解体し尽くす!という受け手への攻撃を徹底的に行った作品です。旧劇場版の「気持ち悪い」とアスカ(=好きな子)につぶやかれたあの悲惨なショックを忘れられないも多いともいます(笑)。それにテレビシリーズの、、、どんなに理由があっても、自分の内面世界逃げ込んで「おめでとう」といわれることを、横で客観的に見ているあの閉塞感のあるつらさは、まともな神経のある人であったら、耐えがたかったはずです(苦笑)。だって人類の滅亡と自分の小さな実存なんて、自分にとってはともかく、、、、他者がこの世界にいるということを考えられる普通の人々であるならば、人類のために自己犠牲にするしかないという結論にしかどうにもならないはずで・・・。ちなみに、あの設定で、「僕はのらない!」と本気で叫べる脚本を書ける、庵野という人はなんて正直で、なんてすごい人なんだろう!って僕は感動します。誰もがマクロの同調圧力で言えなくて、日本社会的な陰湿ないじめに結実するような、あの自我の苦しみを一気に外へ時はなったのは、えらいというか、なんというかー(苦笑)。


そういうプラットフォームを使って、真逆といってもいい僕らの最大の問題点に、一気に到達しようとする意志が見えるところです。しかもこの話が並行世界にならざるを得なかったのは、過去のエンドってって、悪い可能性の追求だったんですよね。究極のBADEND。しかもそれがまさに正史であり、正しい最終結論と思わせるような、空白が10年以上あるという・・・・。放置プレイというのは、まさか本当か!と思わせるような恐怖などが伴うと、凄く効果があるものだそうです(笑)。このプラットフォームを使って、、、、言い換えれば、徹底的にこの結論を心に、脳天にたたきこんで置いた後、「これ」を使ってもう一度再度実験を行うんです。


よく可能世界や並行世界は、何度も出もやり直せるので倫理的に駄目だ、、、とかいう、この脚本構造の本質的な意図を理解していないポイントのずれた批判がありますが、仮に「やり直すのがダメだ」というのならば、こう返したいんですよ、、、だって10年だぜ!!!人間における10年はもどって来ないんだぜ!!!って(笑)。考えてみても、倫理的に問題があるのは、自分の都合と意志で好きなように、時間をやり直す果実が成果として受け取れる場合のみです。もう事実上、エヴァのあの結論は、正史として事実として10年深く刻み込まれたんですよ、我々の世代には。

それにそもそも、この並行世界の物語類型というものが出てくるのは、この「多選択肢を鳥瞰する」ということを倫理的に、正しい形に戻したいと願う意識によって最終的に形作られてきたという系譜の歴史を思い出してほしいのです。

ハーレムメイカーものの歴史がそれを、よく理解できます。そもそもエロゲーで、「好きな女のを子を選べる!」という選択肢をたくさんチョイスできるという、多様なニーズに合わせたモノづくりをしていくうちに、パッケージとして多様な選択肢を内包する物語をつくられるようになっていきました。最初は、「自分の好きな女の子を選べる」という欲望に根差した、つまりニーズによる構造が出来上がりました。最初期のエロゲーを見ると、個々の女の子のエピソード「間」の関係性というのはあまり存在しませんでした。つまり「Aという女の子を選ぶこと」と「Bという女の子を選ぶこと」はただ並列していたのです。


けれども、消費者のサイドから見ると、これはとても不満の残ることだったと思います。なぜならば、まず一つ、人間は唯一性を尊ぶ生き物であることから来る矛盾です。「その子を選んだことの唯一性」を汚されたくない、と思う人がいるのは普通だと思います。けれども、良い物語ってのは、「どの子を選んでもそれなりにいい話」だぅたりするじゃないですが・・・・けどね、この話って、だいたい女の子が凄く不幸な境遇にいてそれで、主人公が救ってあげるので、好きになるという設定なんですよね。いや救済がなければ、好きになる理由がないので当然です。でもそうすると、「だれかを選ぶことは、実は誰かのとんでもない不幸を見殺しにしている」ということが、全体の選択肢を体験すると鳥瞰で来てしまうのです。これは神の視点。マクロの視点を体感する、ということです、


物語ることの愛する人々は、そして優秀な脚本家作家たちは、これを見逃しませんでした。つまり、唯一性の愛に隠れて誰かが犠牲になること、「ありえたかもしれない本当の愛が残酷にも殺されていること」が、「だれかを選ぶという行為」にはついて回っているんだ、ということです。

そのすばらしい結実が、やっぱり『Fate/StayNight』などノベルゲームの世界に頻出したのは、理由は簡単で、この難解な他分岐の並行世界の「選択肢にまつわるパラドクス」を、エンターテイメントでわかりやすく表現するには、そもそも選択肢で、バッドエンドとトゥルーエンドを何度も繰り返すことによって全体の選択肢を踏破する選択肢が他のノベルゲームの媒体としての器がが、もっとも分かりやすく表現できるものだったからです。文学作品でも、阿部公房の『箱男』でもいいのですが、あることはあるのですが、難解すぎてなかなか一般に広がるというのは難しい。それでも、もちろん村上春樹村上龍のような作家がいて、それをちゃんと描ける人は、ベストセラーになっているんですがね。しかも境界を超えて。

このこと、、、並行世界の物語が、「いろいろな相手を選べる」という選択肢の多様性を欲望するという非倫理的なところから、それを倫理的にまとめるにはどう考えるべきか、という形でシナリオを洗練させていったかがわかると思います。その果てに、唯一性と「その他の選ばれなかった人の思い」をバランスよく描きならも、マクロの物語を描ききるAGEの『マブラブオルタネイティヴ』のような超弩級の傑作が生み出されるに至りました。この系譜の文脈を抑えていないと、直ぐ非倫理的だという結論に飛びついてしまいますが、そうじゃーないんです。みんな馬鹿じゃないんです。受け手も、作り手も。「そんなままでいいはずがない」と、絶対思うものなんですよ。

・・・・あああ『デビルマン』と『バイオレンスジャック』の話まで行けなかった・・・。


■並行世界の本質とは?


並行世界ものの重要な演出ポイントは、その「王道(=陳腐な)の選択」の「一回性の意味」を取り戻すところに主眼があります。もう一つ言えば、その「選択肢」の持つマクロの意味を俯瞰して眺めることによって、「意味の強度を高める」、という効果があります。


たとえば、『ひぐらしのなく頃』には、ある村で起きる惨殺事件や大事件を何度も何度も繰り返すことで、最終的には、そのループを抜け出すことになるという構造を持っているのですが、その最終部分で、いままで問題で会った部分が見事に解決されていく時に、僕は物凄い感動とカタルシスを覚えました。長いですがその理由を全文抜粋してみます。ちなみにこれは、小説がおススメです。漫画と小説で、たぶん十分この作品の本質は理解できます。可能ならば、、、、とホラーが好きならば、ほんとうはゲームが一番いんでしょうけどね。

ひぐらしのなく頃に解 皆殺し編』 全作品中これが一番面白かった。
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20090725/p3

ひぐらしのなく頃に解 皆殺し編 2 (Gファンタジーコミックス)
ひぐらしのなく頃に解 皆殺し編 2 (Gファンタジーコミックス)


この作品・・・このシリーズは素晴らしい作品なので、いろいろ個別に話したいことがあるが、僕個人の習慣として、そして今考えているテーマとしては、圧倒的にこの作品が・・・・「皆殺し編」が素晴らしかった。いままで解決できなかったことが、見事に解決されていく様は、まさに模範解答のようなビルドゥングスロマン。まだマンガ版は、終了していないので、小説版でしか読んでいないんですが、たぶんどれでも問題ないでしょう。これは脚本が優れている作品のようで、メディアミックスが、たぶんどれもそん色ない気がする。軽く見たが、アニメも漫画も小説もどれを見ても、伝えたいことの核心は見事に伝わるもの。異なるメディア媒体にしたからといって、優れてよくなるわけでも、悪くなるわけでもない、珍しい例だ。



ちなみに、僕がなぜこのエピソードを最も好きになるかは、このブログの読者ならば、きっとよく分かると思います。



それは、どうしても解決つかなかった難問を解決する時に手段が、


1)友達を信じる



2)子どもで解決できない時は大人に相談する



3)大人でも解決できない場合には、組織を使って法的に正しい手法で攻める



4)そして、組織間の裏取引を描きながらも、表の正しいプロセスで物事を解決する


まさに、今の現代で「物事を解決する」ならば、これしかないという正統なプロセスを踏んでおり、小さな仲間を信じることが、大人や周りに感染して広がっていき、そしてそれが組織になる。組織同士では、バランスオブパワーで、裏取引されてしまう部分を、裏からも逃げ道をなくしてしまい、「表のプロセス」で物事を解決する。1)から3)に至る素直な王道のステップも、見事ではあるが・・・・それがちゃんと組織の背後にある人間・・・裏の取引部分までちゃんと踏み込んでいるところもさすが・・・。うーん作者素晴らしい。裏ですべてを解決するわけではなく、正しいプロセスを貫くために、裏にまで踏み込む・・・これこそ、近代人の正しい筋の通し方だと思う。



もう、見事!!!一本!!!ととしか言いよういがありません。最初にこれを書いたら、バカみたいな王道のビルドゥングスロマンで、たぶん相手にもされない駄作に思われるでしょう。陳腐過ぎて。しかし、問題編の残酷な結末を並行世界として認識している我々は、このバカみたいな当たり前の「正しさ」がどれほど貴重で、どれほど難しいかを、身にしみて理解しているはずです。僕は本とすかっとしたよこの話は。

言わんとすることは分かるでしょう。これはとても陳腐な話なんです。というか、王道の答えというのは、常にだれにとってもわかる、陳腐なものであるんです。この陳腐さが、表現するもの、、、この退屈の時代に表現するためには、凄まじいバリアーになり障壁になることは分かると思います。

さて、こうしたハーレムメイカーものの特質のオリジナルの一つともいえ、さらに同人誌による分岐の並行世界を凄まじく大量に抱え込んだエヴァンゲリオンというプラットフォームに、ある種の終止符を打とうと思う時に、それをすべて抱え込む並行世界の物語にしなければ、そもそもその他の作品にや同人誌にかけられた熱量が、どこにも行きようが無くなってしまう。さすが、エンターテイナー庵野秀明とその仲間たち。それをすべて抱え込む、そして並行世界の究極の物語類型にチャレンジする宣言をこの破で、したんです。だって、エヴァンゲリオンほどの構造と熱量を持つ、、、すでに作り手だけのものではなくなっている巨大な作品に、それ以上のものを作るっていうんだから、圧巻ですよ。当然それまで物語の系譜等の「成果物」はすべて取り込んでくるはずです。だってガイナ系の出身者は、パロディの天才たちですからね。

それってぞくぞくすることじゃないですか。序からカヲルくんが思わせぶりなことを言っているのは、もう確実にこの構造を意識してのことでしょう。というか、すでにこの物語類型は、たくさん出回っているのだから、この手法を取り込まないのは、ありえないですよ、エンターテイメントの最前線にいる最精鋭部隊としては!!!。だからいーんです、並行世界なんてのはしょせんね、構造にすぎないんですよっ!。ようはこの類型のプラットフォームを使って、何を語ってくれるか???っえことなんです。

特にこの「破」では、エヴァンゲリオンというマクロのSFの物語がもっていたドラマツゥルギーをすべて語りつくしてしまっています。言い換えれば、次はもうまったく新しいもを描くしかないところまで追い詰めちゃっているんです!。そしてそのための仕掛けも準備万端。いや凄いぜ。


ああ、、、また作品の細かい話に行きつかなかった(苦笑)。この話は、また・・・。だって時間ねーんだもん・・・・(涙)。



■ただ鮮やかでクリアーに感じるシーンの数々


新劇場版「破」が「序」とさえ違う、全く新しいものと感じさせるのは、


4)セリフの意味的文脈すべて書きかえられている


ここにもあります。僕はもう一回見ただけで、当時詳細に考えて確認した文脈ズらしを忘れてしまったので書けないのですが、見た人は納得してもらえると思うのですが、数々の名台詞が、すべてちゃんと詳細に「それに至った理由」を明確に説明して、しかもこの「新しい物語」にふさわしいポジティヴな意味に変換されています。まるで、素晴らしい同人誌を見ているような、見事な再構築です。僕は最初見た時に、なんて鮮やかなんだ!と思いました。シーンのものそのもののリアルもそうですが、それよりも、セリフや意志を決断するところなどの様々なシーンで、文脈上そして感情的な意味が、凄まじくクリアーなんです。

Newtype (ニュータイプ) 2009年 07月号 [雑誌]


小さな設定もかなり意識していると思います。たとえば、アスカというキャラクターは、そもそも僕はあまり意味のあるキャラクターだと思っていませんでした。マクロのエヴァという物語にとって彼女って、あまり必要ないんですよ。映画でもテレビでも、最後精神崩壊して物語から退場するのはよくわかりました。だってマクロの骨のストーリーに関係ないでしょう?(苦笑)。そんなかわいそうな彼女を、ちゃんとこの破ではヒロインに格上げされていると僕は思いました。だって、彼女のアダルトチルドレンっぷりは、もうかわいそうなほどで・・・・「何でも一番でなければならない…」と思うのは、もう簡単に、ようは孤独で他者が受け入れられないってことなんだよね。テレビシリーズも旧劇場版にも、このアスカの孤独を解決する糸口は一つもありませんでした。しかも、シンちゃん、オナニーの対象とかにするし・・・もう完璧に孤独のまま、、、。

しかし、この劇場版では、テレビシリーズの明るさはどこへいったか、最初からすごく追い詰められて暗い感じがあって・・・ああ!いいなぁ(笑)って思いました。アスカの苦悩をちゃんとクローズアップしている。そして、何一つぶれがなくその自我のドラマツゥルギーを語っている!って。あのね、結論から言うと、「世界で自分はひとりだけ」と思っているアスカは、才能はあるわけだから必要なのは、母親の呪縛から逃れて、他者を受け入れることなんですよ。ホント陳腐な話。

けど、彼女にはトラウマからそれができない。テレビシリーズではよくわからなかった人形とかの意味も、ここでハッキリとわかりやすく描かれていて、ようはトラウマなんだってことが分かる。

だから、まぁこの流れでは、シンジ君を好きになれるかどうか?そこを通して、シンジくんの「周りの人々」を愛せるかどうかなんです。そこで、テレビシリーズで前提だった、加持を好きじゃないもしくはほとんど知り合いではないという設定は、非常にシンプルになっている。小さなことなんだけど、これによって、シンジを好きになる行為とか、、、というかシンジで孤独を埋めようとするアスカの行為がとても分かりやすい物語になる。アスカの孤独を埋めるエピソードが、凄く意味的にはっきり分かるようになる。僕はそもそも加持が好きな理由が分からなかった・・・。えっと、まーこれは、もしかしたら並行世界をどうマクロ設定しているかによるので、もしかしたらシンちゃんが「自分のことだけそ好きなアスカ」が欲しくてこういう世界になったかもしれないのですが(笑)。でも、これはアスカにとってわるいことじゃない。ちなみに名前が違うのは、加持がすきなアスカはいらないとシンちゃんがおもったとかなんとか(笑)(ちなみにこの並行世界が、何回目で、どういう理由でループしているのか?によって、意味の文脈は全く変わる)

アスカが、いきなりシンジの布団にもぐりこむシーンとか、いやーサービスだなぁーともいつつも(笑)、うん、、、そう、孤独で苦しい人の行動を良く分かっている、と思った。あまり深く入ってきてほしくないけれども、肌の暖かさは感じたい…ヤマアラシのジレンマだよね。

アスカは、ちゃんと自分の「孤独」の問題点がどこにあるか、それを解決するには、他者を受け入れなきゃいけないんだ、と明らかに自覚しています。この新劇場版では。それが故に、ハッキリ言ってものすごくひどい扱いだとは思うけれども、そんな外部環境は、彼女の「成長しよう!」「この孤独から抜け出そう!」という意志的な清冽さを汚すことはできません!。アスカのアダルトチルドレン的な心性の描写も、彼女の痛い言動や行動・・・・普通「あれだけあからさまに私はあなたたちとは違うエリートなんだ!」という振る舞いをしていて友達がいるはずがありません。たいていの友達は、傷のなめ合いと、逃げから同志になるものですから(笑)。そういった非常に痛々しいものを描写しながらも・・・つまり、過去のテレビシリーズの一番痛いところを鮮烈にシンプルにストレートに表現しながらも、「それに対して自覚的」であり「解決しようとする意志を持った」彼女には、そういった負の側面を、負の側面として絶望して捉える必要は、見ている観客の僕らには全くありません。アスカが素晴らしくかっこよく描かれている!と最初に僕が言った理由は、それです。これは、シンジが、意志的に世界を見ることで、見ている我々が全く違う文脈の物語を見えるようになぅているといったものと全く同じ効果です。


まとめよう。エヴァンゲリオンという作品の負のドラマをシンプルかつ意味的にはっきり演出しているにもかかわらず、セリフやそのシーンの意味が、鮮やかに前向きに語られていくことに、僕は感動をい覚えるんだ!。


・・・・・そろそろ限界です。乱筆乱文の上、推敲も訂正も無しで書いているので、意味不明な長文かもしれませんが、ご容赦を。ある程度言いたいことはたたきこみました。明日のラジオの前に、あげなくては、、、という使命感で・・・。


とりあえずタイトルの答えになっているかな。


これから僕らはエヴァンゲリオンという多層のプラットフォームで描かれたトゥルーエンド(これもエロゲー用語だなぁ(笑))を体験するはずなんです、、、これが興奮しないでいられますか!!!!