宮崎駿濃縮還元100%体験(笑)でした〜『君たちはどう生きるか』と威圧の強いタイトルと内容から「承継」を描いた物語としてとらえる

評価:★★★★☆星4.5
(僕的主観:★★★★星4つ)

2023年7月。君たちはどう生きるか?を見てきました。宮崎駿御大の最新作。この時代に前宣伝一切ないしという驚くべき手段で、僕は2日前くらいに予約したが、たった2日前ですら「本当に上映するの?」と思わせるほどの情報のなさだった。結果として、僕は「前情報完全ゼロ」の状態で劇場に臨むことになって、これは「宣伝が行き届いている今時代ではありえない状態」だし、なによりも、わざわざその手段を選択するという意味で、鈴木敏夫プロデューサーが、「このように見てほしい、見えるべきだ」という賭けに出たわけなので、良い悪いの判断は後にして、「そのように」臨みたかった。現在82歳という高齢を考えると、次があるかどうかはわからないから、同時代に生き、アニメーションを宮崎駿作品を愛したものとして、これは経験しておきたかった。日比谷ミッドタウンのTOHOシネマズで。2040の回。IMAXで。



あ、ネタバレ多いので、見てから読みましょう。


まず感想を一言。意味が全くわからなかった(笑)。


しかしながら、宮崎駿濃縮還元100%的な見ていると意味がわかちゃう!(過去に見た膨大宮崎駿体験が脳内に喚起される)という物凄く不思議で、多分日本社会のこの世代との「関係性」抜きには語れない作品。今、ペトロニウス、アラフィフ。宮崎駿ジブリとの体験抜きに人生を語れない。星で言うと、星4つ(4.5)かな。素晴らしい作品だが、「物語ではない」だよなー。これ、嫌いな人は、すごく嫌いだと思う。そして嫌いな人(=ダメで受けつけない)は多いと思う。なぜならば「物語の次元で語ることを放棄している作品だから」。僕も、映画芸術的な現代アートを体験するという文脈で、最高に素晴らしく面白い体験だったけれども、おもしろくはない(笑)。しかし、素晴らしい宮崎駿体験として、超ウルトラ体験でもある。だから、僕的には面白い、というアンビバレンツな気持ちになってしまう。82歳にしてこのチャレンジか、、、、前情報(宣伝なし)に観客に見せようという仕掛けは、良し悪しはあるものの、「前提を持って臨むべきではない」意図は非常によくわかる作品だった。

初見の解説分析は、7月のあアズキアライアカデミア配信で対応しています。

www.youtube.com


まだ感想も何も一切見ていない。初見のペトロニウスの見るべきポイント(初見のメモ)。


1)解釈を拒む「物語」ではないファンタジーとして描いたことの選択の是非


2)『君たちはどう生きるか』と威圧の強いタイトルと内容から「承継」を描いた物語としてとらえた


・タイトルから「継承」をずっと感じたけれども、「自分が継承してきたこと」なのか「これからの若い世代への継承」なのか?
・日本の物語の傑作は常に銀河鉄道の夜に戻っていく
・これぞ正しくの古典的なファンタジーの冒険活劇〜ゲド戦記ナルニアなどの古典的ファンタジーを「本で読んだとき」の感覚の喚起
・全編シュナの旅を連想していた〜麦を求めて世界を旅するロードムービー
・脚本が破綻していてドラマ的な感情移入が一切できないしのに、イメージの本流に突き動かされて物語にグイグイ引き込まれるのはさすがアニメーションの大家
・多分「母からの自立」をめぐる言説が増えるんだろうなぁーと思うが、それは僕には一切響かなかった、それじゃないと思う
・物語のコア文脈を考えるのならば、やはり「男の子の物語」の問題意識へのアンサーになると思う。風立ちぬに続いて、男の子が主人公に戻ってきている。


この辺りかな。映像、アニメーションともに宮崎駿濃縮還元100%の宮崎駿体験だったというのが初見の振り返り。脚本が基本的に破綻しているというかとっ散らかっていて「イメージの奔流」になっているので、体験を問う感じの作品で、意味解釈を非常に拒否る作品だと思う。ただし、これって意図して、選択してやっていると思うので、それがどういう意味だったのか?というのはこれから、いろいろな人の考察を待ちたい。


というのはね、宮崎駿って、イメージの人なんだと思うんですよ。過去の作品の制作過程のいろいろ資料や情報を見ていると、アニメーション作家として、こぬいうイメージを、こういう動きを再現したいという情熱が、ほとばしってっている。その制作過程で、鈴木敏夫さんのような強権的かつ高圧的な人が、この「わがまま」に形を与える壁打ちを、圧力をかけて、さまざまに濃縮されたものが水割りになったり、マイルドになって、「普通の観客に理解できる筋の通った商業的に価値のある人にわかりやすく伝えるパッケージになる」という感じがするんですよね。宮崎さんは、もともとそういう人なので、鈴木敏夫さんは、もしかして最後だから、自由にやらせてみようか?って、はっちゃけたのかな?って感じがしました。だって、これ「物凄く売りにくい」やつじゃないですか(笑)。ここの意図を、僕は、知りたいなーと思います。でも、もう長いジブリの歴史の中で、一度くらいは、自分のかせなくして自由に描かせたら?って感じがして仕方がなかったです。それくらいに「まとまっていない」。


petronius.hatenablog.com


僕は宮崎駿が描く物語の系列には2つのパターンがあると思っていて、


1)現実の世界で大冒険するもの→未来少年コナン


2)内面の世界で大冒険するもの→ハウルやポニョ


3)この真ん中のあたりの現実を生きようとするのが、風立ちぬ

petronius.hatenablog.com


ファンタジーを描いていくと、この2)の内面の世界で冒険をする系統の典型的な作家が、村上春樹だと思っています。いやね、ぶちゃけね、匂いが全然違うんですが、めちゃくちゃ手法的には村上春樹だよね?。これ、宮崎駿セカイ系だったハウルの手法の延長線上だよね、と思うんですよね。南米文学とかの「マジックリアリズム魔術的リアリズム)」の系列というか、この話、手法的に『羊をめぐる冒険』、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』、『ねじまき鳥クロニクル』めちゃくちゃ連想しますよね?。


まぎぃさんと話していて思ったのは、村上春樹類型の内面冒険型は、面白くない!!!!!って(笑)思うんですよ。


だって、今日、朝起きたら虫になっていたとか、いきなり、明らかに内面世界のメタファーで、自分の内面を深ぼっていく2000年代以降の日本の物語の特徴でしたけど、やっぱり宮崎駿さんには、『未来少年コナン』ばりの現実世界での冒険モノを描いてほしいと思うんですよね。でも、ここの部分が宮崎駿さんは、消化不良だったのかーこれを描きたかったんだなーと思って、うーんその選択かぁ。ちょっと残念な気持ちが。ああ、そうか、僕は宮崎駿さんにもう一度『未来少年コナン』を描いて欲しかったんだな。だって、『風立ちぬ』で、男の子がもう一度現実世界で生きていく動機を取り戻したんじゃないですか!。あのキラキラした、少年が世界を生きる物語もう一度見せて欲しかった。今の技術で。もちろん、風立ちぬで青年でしか描けなかった、少年の動機の部分の「内面の森」に踏み込む作業をもう一度したかったのかもしれない、、、。


が、では、そうは言っても、内面世界に潜るという方向性であろうとも、そうはいっても「大冒険活劇」であるのは間違いない。



この物語の少年が目指しているモノ、動機はなんなのか?を軸をおかないと、とっ散らかっている物語に形を与えられない。



それを考えると、ペトロニウスは、この作品を見ているときに、強烈に「承継」のメッセージを感じてしたかがなかった。僕が解釈するならば、この「なぜ生きていくのか?なぜ表現をするのか?」という人生のボタンをどういうふうに引き継ぎいできたことを見せつけることで、若い世代に、見ている人に、お前たちも「何かの選択をして今生きているんだろ?」「どう生きるかちゃんと考えてるか?って威圧的に迫ってくる感じがすごかった。



大叔父が高畑勲、青サギが鈴木敏夫で、少年が宮崎駿って説があるらしいんですが(笑)



非常に正しいよな(笑)って思いました。これは、ウブでナイーブな宮崎駿少年が、東大仏文のマルキスト高畑勲にめちゃくちゃ影響を受けて、難しいことを考えなきゃいけなくなってしまった!!!。世界をどう正しく導く責任が!!とか考えまくって、、、僕は、え、なんでそんなこと考えなきゃダメなの?って思いましたよ(笑)。


というのと、青サギという下品で、世俗的で、現実的な商売人に、いいから」現実の欲望に正直なるぜ!、そんな世界の真理とか、正しさとかどうでもいいじゃねえかよ!と、同伴者にされてしまう。いや、まぁ憎めないんだけど、その下品さどうにかならない?っていうアクの強さ。でも、この人がいないと、牧眞人(まひと)くんは、一歩も動かないよな。お上品で育ちのいい子だから。



という彼の現実の人生(物語作品の遍歴)を見ていると、いやそんな感じ!って思ってしまった。



僕は、大叔父から、「この世界にコミットしろ」という激しい世界の真理の維持者というか「世界を作るんだ!」というエリートの責任感を強く引き継いでいて、ああ、これを「無理やりバトンを渡されそうになった」けど、いやまって、そんなバトンおかしいから!、セカイの秩序を良きモノで形作るとか無理だから!、もっと世界は汚濁に塗れて、鳥のフンが象徴的でしたが生々しくて、気持ち悪いモノだから!それこそが命の生きる真実ですから!という葛藤を、選択を感じました。



この作品で鳥の持つイメージが、素晴らしくて、この方も指摘されていますね。そして、この鳥というのが、大叔父が作って維持している「世界の清浄なバランス」というものの中で、それを維持できない、生々しく汚濁に塗れて肉感的なものの象徴、、、、清浄な世界におさまらない汚濁にして、そして人間的なるものとして配置されている。高畑勲=大叔父VS青サギ=鈴木敏夫の対立の中で、宮崎少年は、何が世界の正しさをかんをロードムービーのように体験していく。青サギは、品行方正な牧眞人(まひと)宮崎少年からは、気持ち悪い攻撃的な存在に見える。自分達を食おうとするインコも。でもペリカンの描き方を見ていると、清浄な世界では生きられない苦悩の中での存在が、浮かび上がってくる。この辺は、もう少し記号を整理して語る人が今後増えてくると思うので、その辺りの分析も待ちたいですが、ざっくり見て、これって、漫画版風の谷のナウシカで描かれた深いと人類の関係ですよね。宮崎駿のセカイ、世界に対する責任意識を総括した、答えが「いのちは闇の中のまたたく光だ!!」です。これを表している、、、そして、この問いを、バトンを受け取ろうが受け取るまいが(笑)、強制的に人生としての課題として、課されてしまうのは、なんというか、「私の血筋に連なるもの」と言いきちゃっていて、これが「表現者としてこの世界で何かを表現するならば」、これを考え続ける義務があるという、無理やりのバトン承継が僕には強く感じました。

www.youtube.com


ちなみに、宮崎駿の心残りの大きなモノを占めるのは、この大傑作『シュナの旅』なんだと思います。ちなみに、NHKのラジオドラマが素晴らしくて。高校生ぐらいに聞いたのですが、この物語のロードムービー的なつくりで、神話をめちゃくちゃ喚起してくれる素晴らしい作品でした。それでのこの物語の設定が、チベットの民話がベースなんですが、ある貧しい村の長の息子が、あまりに続く飢饉と貧しさで苦悩しているんですが、そこで西の方に黄金の麦という収穫生産性の高い作物があって、それを手に入れれば豊かになれると、世界に探しに出るですね。でも、街や大きな村に出ると、この麦の生産性に支えられて、人間たちはずっと侵略をしあって殺し合った大戦争をしているんですね。そういうのから背を向けていたのが、彼の小さな村だったわけで、、、黄金の麦というテクノロジーを手に入れたら「貧困と餓死の絶望のサイクルからのけ出すことはできる」けど、それによって、人は殺し合いを始めるんですよね、要は欲望が制御できなくなっていくわけです。テクノロジーに対する二律背反な、宮崎駿の意識が伝わってきます。でも、基本的にこの主人公の男の子なんですよ。宮崎駿は。この村を餓死から救うためになら、どんなテクノロジーでも手に入れてやる!という強い意志があるんですね。クシャナ、ラオ博士の系列のキャラクターです。『風立ちぬ』の記事の中で、『未来少年コナン』『もののけ姫』と続くモダニスト(近代主義者)の夢と現実というところで書いた話なのですが、たとえ人間が欲望を制御できなくなって争う悪であったとしても、そのテクノロジーによる未来を強く夢見るんですよ、宮崎駿は。そしてその楽観主義のオポチュニズムが、それこそが戦争という悪を生んだ、という「悪」へ食材意識になっていく。これは、宮崎駿さん世代の日本人の、いわゆる戦後民主主義者と言われる人々、坂本龍一さんや大江健三郎さんのなんというか体感感覚なんですよね。僕らは、アズキアカデミアの中まで出版した2巻で語っていますが、日本のエンターテイメントで富野由悠季さんや石ノ森章太郎さんがこだわり結論が出なくなってしまった、「戦争は、人類は悪ではないのか?という問い」に、宮崎駿寄生獣の作者が鮮やかに答えていく様を分析しました。まさに、この部分が、濃縮して、そして抽象化されて(笑)←だから初見じゃ、わからない人は全然わからない形で描かれていると思います。でも、確かにアニメーションで、内面世界の冒険活劇ファンタジーとして、「描かれている」んですよ。そこは、さすがの宮崎駿。これって、小説の『ゲド戦記』で描かれているものとほぼ同じだと思うのですが、宮崎吾朗監督のアニメーションでは、僕は一歩及ばなかった気がします。でも、じゃあ、宮崎駿も描けているかというと、、、、だいぶ力技だなぁと思います(笑)。


シュナの旅 (アニメージュ文庫)


◾️日本の物語の傑作は常に銀河鉄道の夜に戻っていく


filmarks.com


この辺は長くなるので、メモだけにしておきますが、物語としては脚本が破綻しています。でも、内面世界の中に潜ってファンタジーをするのは、まさに「それこそが古典的ファンタジーの王道の中の王道」なんです。ヨーロッパの古典や御伽噺と日本を融合された大正とかの日本をすごく感じさせる世界観は、ああ宮崎駿的な世代の日本人の世界観だなぁととても思います。それのイメージの美しさったらない。ヨーロッパだけでも、日本だけでも描けない両方をブリッジする美しさ。そしてこの内面に潜るときに、やはり重要なのは、人の内面に潜るときは、闇と死にどう繋がるかということを見せることがポイントになると思うんです。ここでは、母親の死ということを契機に、「死の世界に潜る」ことのメタファーが、発動していて、正しくファンタジーでもあり日本的な神話でもあり、ほんとうにさすが。でも、この「感覚」を喚起させてくれるだけの映像表現、空間設計、なんというか、、、これが本当にむずかしい。でも宮崎駿監督は、これが描けるんですよね。『千と千尋の神隠し』でこの辺りは見事に表現されています。あの電車のシーンとかですね。


ちなみに、最近この記事で書きましたが、是枝裕和監督の『怪物』のラストシーンが、まさに「これ」で、マジでこの年でこんなすごいもの見るのか!と唸ったの覚えています。これって宮沢賢治さんの『銀河鉄道の夜』ですよね。日本の内面系の物語は、ここで描かれた「死をめぐるロードムービー的な体験」に凄く親和性というか、同調する国民性があるような気がします。ちなみに、最近では、すごい良かったのが打ち切られて手に入りにくくなってしまった『アクタージュ』の銀河鉄道編なんですよねぇ。ああ、宮沢賢治関係を読み直したくなってしまいました。


とりあえず初見の感想は、こんなところです!。


ちなみに、地方のことを考えると、なるほどなーと思いました。