『Angel Beat』 岸誠二監督 麻枝准原作・脚本 閉じられた世界からの脱出とバトルロワイヤルの相性

世の中で盛り上がっているの?かな、、、LDさんが、折角旬なので、ヒマがあれば見てくださいということなので、見てみた。見た時点で水準は越えているアニメなので、安心して見れるし、見続けてもいいとは思う。ただ、なぜだろう、個人的には、あまり、、、、とてもできはいいのだが、自分の心に「好き」という吸引力の働かない作品だなー。いや、かなりおもしろいっすけどねぇー。たぶん僕の趣味とか琴線と少しズレているのかもしれない。

とはいえ、OPのピアノの趣味の良さ(←これはいいねー!)、たぶんここに集っている少年少女たちは、死ぬ前の現実では相当の困苦を背負っている、、、貧病苦の重荷を背負っている設定なので、「世界の残酷な美しさを見せる」系統と僕は呼んでいるが、そういう視線で見ると、非常に趣味がいい。だれが作っているか良くわからないが、音楽の選び方、世界観が凄く統一されている感じがする。・・・僕は好きではないが、とても趣味のいい安定した高いレベルであると思う(・・・なのになんで好きじゃないのかな、、、キャラかな?)。

たぶん書いてて思ったが、僕は、世界の残酷さ・・・・「貧・病・苦」を背負った話というものが好きじゃないんだと思う。なぜならば、それって「身も蓋もないじゃん!」と思ってしまうんですよ。家族が強盗に惨殺されたとか、家庭内暴力の親に殺されたとか、そういうことって、はっきりいって「どこにでもあって」「これからもずっとなくならない」ものなんですよ。人間社会で、そういうある種の悲劇というのは、人間社会が、自由をベースにする空間を作る限りなくなりっこないんですよ。僕が好きな、遠坂凛Fateのキャラクターね)とか、そういう「身も蓋もない現実」に戦っていくという話が、そういう意思が僕は好きなんだけれども、現実主義(リアリズム的)にいわなくても、、、、実際には、それは、「戦える運があった人」の運の良さの話であって、避けえることも解決することもできなかった「貧・病・苦」を背負ってしまった人々はどうすればいいんだ!というのは、確かに一面直視しなければいけない、絶対の事実です。ただね、、、最初に戻るんだけど、それが「厳然としてあること」は僕はもう知っています。そして人間が人間の社会である限りには、泣いたって吠えたってなくならない。じゃあ、最後まで戦うしかないじゃん?そんな現実ばかり直視してもしかたないじゃん?って僕は思ってしまうんですよ。表現的には、非常に「お涙ちょうだい」で、人の涙腺を刺激する話になるし、胸に迫るとは思うけれども、、、、でも、「それ」を再現する、世界の残酷な美しさを再現する話ってのは、僕はそもそも好きじゃないってことです。・・・・この価値観の系統の脚本は、秀逸で安定したものが作れそうだが・・・僕は嫌いだなぁ、、、。でも、物語としては、ありうるし、しかもできがいい(今のところ)というのは否定しません。たぶん、世界の残酷さを見たぐらいで、ビビるほど甘ちゃんに生きてはないぜって、と思うのは、僕の価値観だと思いますので、、、だれもがそんな苦しいものを直視して生きているわけではないんでねー。


さて、もう一つ。第一話を見て思ったのは、ああ、これは、閉じられた世界からの脱出とバトルロワイヤルの相性の物語類型だな、ってことです。並行世界ものへ行きつく前段階というか、この系統の脚本の典型的なパターンで、金月龍之介さんの『ぷりぞな6(しっくす)』とか、『灰羽同盟』、アメリカドラマの『LOST』とか、この系統の物語はすぐ次々に浮かびます。

これは、近代以降の内面を中心に描く物語が行き着いた1970年代以降のドラマ・物語類型では、どうしても人の複雑な内面の話を、物語も盛り込んで抒情的なモノを挟んで、人の共感と感情移入を誘わないと、、、いいかえれば、キャラクターの内面の動機を解体しないと、なかなか人が納得(=感情移入)しなくなりました。けれども、その内面を追うような、内面の解体劇というものは、ある程度アダルトチルドレン的なものへ収斂してゆき、そのあまりの収斂っぷり・・・世界の存在よりも、人一人の内面の悩みや苦しみの方が思いという、えっ???と思うような方向性へいたりました。人一人の命は、地球より重いなどという、まったく事実ではあり得ない幻想が、ヒューマニズムと人権思想、それの実行力を持たせた大衆へのパワーシフトによって、行くところまで行ったんだと思います。それは、60-70年代。特に、アメリカの西海岸のカウンターカルチャーなどの、アメリカの大衆文化とハリウッドにのって、世界中にばらまかれたことによるんだと思います。

けどさーやっぱ「人の内面の解体」って、やっぱり、現実世界には、、、あまり意味はないよね?ってのは、当然出てくる反論です。だって、「世界(=マクロ)」と「個人(ミクロ)」が別物なことはわかりきっている人類普遍の事実だもの。そうすると、エヴァンゲリオンのアニメが典型的だけど、主人公の心が「おめでとう!」と、おめでたい話で満たされて、世界はほろびました(苦笑)とかそういうことまで行きつくんですが、んなアホな話はあるかっ!ってのが、現実に生きている人からの反論できます。

けど、どうすればいいか?というと、実は単純じゃない。

というのは、「内面の解体」は、大きく二つのことを明らかにしたからです。一つは、1)人が現実にコミットすることが非常に難しい=事実上不可能に近いこと(=お金があればだけどね)を明らかにしたと同時に、2)世界(=マクロ)は非常に複雑で、単純にコミットすることは、まったく良き「結果」を保証しない、というこれまた人類普遍の・・・プラトン以前から悩まれていた、人間が生きる世界の「偶発性」に対する対処法がない、ということが、かなり広範囲に理解されるようにありました。偶発性への対処がないというのは、マクロの設計が非常に難しく、、、というか、設計は無理で、自分が「何のためにその行為をなすか?」の結果がまったく保証されないという、行為と結果が切り離された世界に自分たちが生きているということです。

えっと、短くまとめると、近代の物語というものは、人の内面を深掘りする傾向を持っていて、それが、1960ー70年代で貴族が支配するわけじゃない、大量消費社会・・・名もない大衆が主人公の世界を生み出します(1930年代のドイツに始まり、1970年代のアメリカに完成したって感じかな・・・)。けど、その結果、基礎的な土台さえあれば(=ベーシックインカム!)人は単純に生きる現実自体さえも、「選択するのが難しい」生き物だってことがわかってきました。

つまり、「生きる」ってことがなんなのかわかんなくなって、行為を踏み出せない生き物ってこと(=コミットできないいきもの)。これが、科学技術やベーシックなストックの蓄積によって解決する前の「貧・病・苦」によって、人は生きることを強制されて、現実にコミットしてきました。そして、それは人類1万年の不変の生活様式だったんでしょう。けど、、、、そもそも「強制されないと人は」現実にコミットすることに足がすくんでしまいやすい・・・・なぜならば、大規模な社会の出現と学問の発達によって、「何が善きこと?」かが全然わからない不透明で偶発性に満ちた社会では、コミットする勇気(=責任をとる、引き受ける勇気)が生まれにくいのです。

大衆社会は、貴族社会や階級社会のように、モラールや動機を、家庭という小さい親密圏によって強制的に教育、強化、啓蒙されるシステムを持ち得ませんので、なかなかこの「エートス(=気概)」が、共有され伝わりません。これは、大規模な民主・資本主義社会の大きな問題点です。もちろんこれには、教育という当たらなシステムが発明され仕組み化されておりますが、知識は共有できても、知恵(=動機)が調達できないことが明らかになりつつあります。


話がややこしくなった(苦笑)。僕の話は前置きが長いやーー。


えっと、こういうのが、いまのわれわれの生きる社会なんですが・・・・そこで、エンターテイメントの話に戻ると、この大規模な動機LESSマス社会だとですね、まず「がんばっていきよう!」(笑)とかそういう当たり前のプレッシャーに耐えられないんですよね、人々の過半が(笑)。そんでもって、「仮に!!!」頑張って現実を生きようと合意したとしても、その次に、「でもなにをすればいいの?」「何をやっても、物凄い悪い結果になるリスクがあるじゃないか!」だから、動けません(笑)という、、、まー身も蓋もないほんとのことなんだけど、エートス(=気概)や動機をマインドセットされていない一般人には、こういう現実そのものが、「耐えられないん」ですよね。そんでもって、なかなか難しいのは、いまの大衆教育システムによって、奴隷みたいな(朝から晩まではたらくだけはたらいてごはんがおいしい!みたいな)生き方してればよかった僕らみたいなパンピーが、妙に「頭がよくなって」、僕らの生きる現実が、生きるに値するかどうか微妙に分からないもので、、、というか、「生の現実」というのは、薄くし雲残酷で「身も蓋もないもの」であって、その「リアル感」に耐えられないんですね。

この曖昧模糊とした価値LESSという「虚無」に対抗する唯一の手段は、「志を持って意志すること」だけでなんですが、その時に、「その結果が保証されないというリスク・責任」を、引き受けられないんですよ、そういう価値観がマインドセットされていないから。この動機(=意思へ至ること、意思の結果を引き受けること)をセットするのは、大衆教育や学校システムの、大量伝達システムでは、できないからなんですね。


話が、またそれた・・・・


えっと、というような前提がある、、、とすると、エンタメで人を動員するためには、まずわかりやすく「頑張って生きなきゃいけない極限の状況をつくる」と否応なく納得できるんですよ。戸塚ヨットスクールの理念ですね。「生への渇望を生み出すのは、死ぬ寸前まで追い込んでやればいい」ってことです。それがバトルロワイヤル。つまり、なんらかの殺し合いの状態から(理由は無視)抜け出なければ、そもそも生き残れません!!というシュチュエーションが、エンタメ的に今の時代は招来されやすい・・つまり、殺し合いのバトルの世界は、非常にエンタメと親和があるんです。とても純粋でわかりやすいのは、小説にも映画、漫画にもなった『バトルロワイヤル』とかですね。特にアニメーションを親和性がいいのは、バトルシーンが、画面の迫力を盛り上げてくれるからです。


しかしながら、たしかにバトルロワイヤル(=殺し合い)で、動機の調達が困難であるけど、行動しなければならない(=しかも動的で面白く盛り上がる)というシュチュエーションを作り出せるのですが、動機がない!ということは、戦う理由もない、ということになってしまいます。理由がないというのは、物語が前に進まなくなってしまうんですよねー。脚本的には、これだけでは、キャラクターが動かない。


そこで、何らかの「閉じた世界に閉じ込められた」という設定を作り上げます。そして、そこからの脱出劇という設定は、上記のバトルロワイヤルと非常に親和性を持ちます。


この理由はわからないけれども、何かの世界に閉じ込められた、という設定は、関係性をフレームアップさせるために「少人数に絞れる」ことや、そもそも「なぜそこに閉じ込められたのか?」というマクロというか背景の謎を、謎解きするというミステリーにもなります。


典型的な『灰羽連盟』のように、その謎を、心の内面の問題・・・・それぞれの過去の履歴と重ね合わせることで、脱出劇が、内面の問題を追いかけるという構造にすると・・・・ほら、上記で説明した、近代の物語の大きな背景の流れとぴったり一致するんですよ。


はー話が無駄に長かった・・・・。すんません。


そういう意味では、この『AngelBeat』の脚本は凄く典型的な、内面からの脱出劇のパラフレーズの系統だな、と思いました。次に来るのは、「これ」をどう料理するか?ってことですが、それは、もう少し見てみないと何とも言えないので、また今度ー。


でした。

『ぷりぞな6(しっくす)』 漫画KOJINO シナリオ金月龍之介  灰羽同盟?〜閉じ込められ異世界からの脱出劇
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20090923/p2

ぷりぞな6 1 (サンデーGXコミックス)
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灰羽連盟 TV-BOX [DVD]
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LOST シーズン1 COMPLETE SLIM BOX [DVD]
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バトル・ロワイアル
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