狭義の意味での自己実現の世界に自己を預けている人とは、対等な人格を損なわないものを得ることはできない

So bad! (1) (小学館文庫)
So bad! (1) (小学館文庫)Honey Hunt 1 (フラワーコミックス)
Honey Hunt 1 (フラワーコミックス)


ふと思い出していたんだが、、、村上春樹の作品がいろいろインスピレーションを与えてくれているみたいで、いろいろな作品に対しての見方が変わってきている、というか言葉を発見している。相原美貴さんの物語やキャラクターってどれも同じなんだけれども、どれにも『SO BAD!』の長男の環や『ハニーハント』の南谷Q太のように、それは出来すぎだろう!という完璧超人が出てきます。主人公は、そのかっこよさスマートさ超やさしい!ところに魅かれていきます(まあ当然だよね)。

けど、この類型のキャラクターが、ものうすっごく魅力的でしかも男から見ても色っぽいというか、凄いやつなんですが・・・たぶんこれは相原さんの描写がうまいんだと思うんですふが・・・・そういう気持ちがわき起こるのはよく理解んできるんだけど、僕はこれらのキャラクターがどうしても好きになれなかったんですが、、、、なぜだろう?ってよく分からなかったんですよ。だって悪く見える描写がほとんどないんだもの。けど、分かった!。

連城環も南谷Q太も


釣った魚には餌をあげないタイプ

なんだ。つまりね、口説くまでは、心を自分のものにするまでは、物凄く優しいんだけれども、自分のものになった時の前提が「自分に従え!」なんだよね。いやそれって物凄いひどい風に聞こえるけれども、別に普通の感じで、ようは結婚とか自分のものになったら「男サイドの自己実現にサポートに回ってね」というのがナチュラルなくらい(=本人が一切疑問を持っていないから)前提なのだ。僕は何も否定はしないよ、いまの世の中だってこのスタイルから全然逸脱していないもの。核家族でサラリーマン家庭の基本はこの発想だからね。父親が外へ働きに出て金を稼ぐ(=自己実現LIKE)ことと専業主婦のワンセット。この二人は、そこまではひどくないけれども、基本的には傑作『麒麟館グラフティー』宇佐美秀次の一歩手前の人間なんだと僕は思うんだ。いやそこまではひどくないけど(苦笑)。そして、もちろん自己実現に強く自分の才能をコミットさせているから、競争にはめっぽう強く世界に評価されている。それを前提に、女性を支配にかかる。彼らは何の疑問もなくなtyらるに「当然だろ!」と思っているに違いない。意識すらなく。なぜならば自分の才能に自負があるから。そしてマクロ的に、、、ああ、、、悲しいことにこれは肯定されてしまうんだ。才能と権力がセットになると、マクロでは否定のしようがなくなるんだもの。

だから、最終的には、主人公の女の子は、彼らを選ばなくなるんだ(最初はメロメロに惚れているのに)。なぜならば自分自身を対等に見てくれない人だ、というのが分かるからだ。そしてそれがはっきり分かるくらいに、主人公は賢いんだ、いつでも必ず。そうわかった、、、、環やQ太との関係は、「人生や人格を損なう」のが確実に透けて見えるんだ。ミクロを徹底的に見つめて関係性を深掘りしていけば、こうした狭義の意味での自己実現の世界に自己を預けている人は、ナルシシズムの世界に沈んでいる化けものであって、そういう人には他社が存在しないのだ。だから、それらの人間との人生には、未来がない。ただ損なわれるだけ、なんだ。もちろん、主人公がそこまで感じないバカ(=一般ピープル)だったら、つまり、虚栄や肩書やお金で自己を満足させられるくらいにアホであれば(人間の80%くらいはこれで充分)、それでもいいのだろうけれども・・・・。


麒麟館グラフィティー (1) (小学館文庫)
麒麟館グラフィティー (1) (小学館文庫)