1巻読みました。・・・魔女っ子の手伝いをする平凡な女の子のそよが主人公?的な位置づけなのが特徴的な作品で、この作品の物語のフォーマットの意図はわかるけれども、僕はちょっとつらい作品でした。ああ、作品がダメというわけではなく、絵柄もいいし、話もシンプルだし、たぶん短くスパッと終わるのではないか?と思うし、最終まで読めば、とてもいい出来の作品だろうとは思います、、、が、1巻だけだと、ちょっと気持ちが暗くなりました。
えっとね、どういう文脈でそう感じたのかというと、1巻は、主人公のそよちゃんと「落とす」エピソードなんですよね。落とすというのはマイナスに描くという意味です。この作品の構造は、たぶん、ぱっと見る限り何もかも恵まれている魔法使いの魔女っ娘のサポート的な位置にいる、何もない平凡だけが取り柄の女の子の心理描写を通して、通常は魔女っ娘の視点から描かれる「世界は私のもの!私は主人公感!」という外部の視点を描くところが、ポイントなんだろうと思います。そしてそれは成功しているし、たぶん、この次のエピソードぐらいで、このマイナスに描写されまくった平凡だけが取り柄のそよちゃんが、それを乗り越えて、成長していく、という物語になるんだろうと思います。よくできていると思います。
けれども、、、、僕は見ていてつらかった。。。というのは、平凡であること、強い意志を持たないことが、これでもかと告発されていく様を見ていると、、、これはこのサポート視点のそよちゃんが主人公だから、物語的に救済が保証されているけれども、しかし実際は、このような平凡であることは、とても醜いことなのだ!ということがこれでもかとエピソード毎にあからさまにされてしまうからです。そよちゃんは、気が弱くて、空気を読むことばかり腐心しており、強気で生きている輝くような魔女っ娘に「もっと空気を読め!」と説教して、逆に「おまえはいじめに加担してるだけの最低なやつだ!」と事実を切り返されてしまいます。・・・これ、物語の文脈的には、そのことにそよちゃんが気づき、そして成長して苦きっかけになる「積み上げ」になるんですが・・・・しかし、先ほども書いたように、そよちゃんが主人公であるから、うまく成長するだけであって、そうでなければ、もっとも許されないいじめの加担者であり、自己正当化の塊である愚民みたいなものの象徴です。
・・・・僕はこういう赤裸々なものを見ると、彼女は運よく「主人公だったから」、成長するチャンスが神様(=作者)から与えられているだけで、こういった自己正当化のロジックをする人は、きっと、そういうマクロの運がなければ、一生涯に醜く腐ったままだろうな、、、とおもってしまって、なんか心が暗くなりました。こういう「平凡で何のとりえもないキャラクター」が主人公に据えられるときは、主人公になれない、きっと何ものにもなれない我々(=自分ことね)は、こういう普通の人に勿論のこと感情移入するわけで、そうすると、よほどの運に恵まれなければ、平凡な人間は醜くマクロと空気の奴隷の中で自己正当化の塊として腐っていき、他人を平気で抑圧していて、それを克服できないのだ、、、と見せつけられているように感じてしまうからです。僕は、そよちゃんの無垢さは、それはそれで、とってもかわいいけれども、、、これって、簡単にマクロの構造でどっちにでも転ぶ「無垢さ」であって、ああ、、、平凡な人というのは(=自分とは)、こういうダメな存在なのだな、、、と暗い気持ちになってしまいました。・・・・これって、ほんとうは、そこまで悪くとる必要はないのだろうけれども、光属性、闇属性とかいって、才能に恵まれていて物語の中心になる人とそうでない人の差みたいな意識があって、何者にもなれない平凡な我々はどう生きるのか?というルサンチマン的な視点だと、これが拡大して感じられてしまうのかもしれません。
通常の少女マンガは、これほど自分の罪というか存在の平凡さ(=駄目さ)に自覚的ではありません。女の子のドラマトゥルギーの最も類型的なのは、白馬の王子様です。いつか誰かが、自分を連れ去ってくれるという物語形式。たとえば、典型的なのは最近読んだ藤村真理さんの『きょうは会社休みます。』ですね。
『きょうは会社休みます。』 藤村真理著 とっても赤裸々過ぎて、読んでいて悶えます(笑)
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130412/p2
これって「平凡な私」に王子様が現れる話ですよね。少女マンガのベースは非常にこのパターンが大きいのですが、もちろん、そんなことあるはずねーよっ!って突っ込みはあると思います。でも現実にないからこそ、切実にそれを願う、その純粋な気持ちが悪いはずがないと僕は思うんですよ。なので、ねーよ!!30過ぎて処女でコミュニケーション上手くないOLに、そんなイケメンの大学生が恋に落ちたり(まず)しねーよっ!と思いつつも、でも、もちろんないとは言い切れないし、、、、というか、そういったありえなさこそが、ぐっときて、ないよないよ、といいつつも、胸がキュンキュンしちゃうんですね。って、この『魔法使いの心友』と目指している構造は同じですよね。それが何が違うのかな?と、思ったんですよ。ねーよ、と思いつつ、『今日は会社休みます。』は凄いほんわかしたいい気分になったのに、これはなぜそうならなかったのか?。
一つは、やっぱり実際の主人公が別に存在する、というのが大きいのかもしれません。『魔法使いの心友』には、正しく存在している魔女っ娘がいますし、その彼女が、心のキレイなプリンセスを探しているという設定で、主人公のそよよりも、明らかに人間的に優れている人が現れてしまうわけです。そして、彼女たちは、非常に苦しい状況でも、自分の信念や優しさを曲げたりしない。その対比で、そよが、自分の醜さ、至らなさに気づいていくのですが、その対比が、あまりにそよを酷く見せてしまう気がします。もちろん、こういったことに嫉妬したり打ちひしがれた入りしなかったそよは、立派な女の子なのでしょうが、、、でも、それは、物語の主人公であるから、運よく作者の意志でそうなっているだけで、こういう魔女っ娘との出会いがなければ、彼女は酷い空気を読んでいじめに加担するひねくれたことに「気づくことすらなく」そのまま平凡さに埋もれたのが、はっきりわかってしまって、、、なんか、つらなかった。平凡なやつは、どこまでも行っても駄目だ、と言われた気がして、、、。人は平凡さに埋もれて生きるものです。僕も、行ってみれば毎朝通勤電車に乗っていく、どこにでもいる一億分の一とかのリーマンに過ぎません、、、物語の主人公でも何でもないのですよ、、、そういう自分の平凡さを思い起こすと、平凡がダメだ、と感じると、逃げ道がなくなって凹んでしまいます。。。これは、学生だろうが、主婦だろうが、みんな感じる恐怖だと思うんですよ。ほとんどの人が物語の主人公のように「選ばれて」生きているわけでは韻ですから。
それに比べれば、同じ構造でも『今日は会社休みます。』比較の対象がない。それに、なによりも、結局「白馬の王子様が現れた」ことで、主人公の心の美しさや、人間としての正しさが、「後付けで証明された」ことになるので、そこは気にならなくなるんです。あと、そよちゃんの方が、告発が厳しいですよね。彼女が、周りから目立たないようにびくびくしている行為が、いじめに加担しているんだ、そういう心性が自分を駄目にしてひねくれていくのだ、というのが、なんども告発されているのも、、、魔女っ娘の出会わなければ、「そのこと」すら彼女は気づかないんだ、という論証になってしまっている気になってしまう。。。告発系の物語は、凄い難しい気がする。ご都合の主義の物語のフォーマットにこれを入れると、根本的にその人物が「ダメな人間だった」ということを感じさせてしまうような気がする。
さて、とはいえ、同じような告発系の、、、主人公がいかに甘いのか、主人公がいかにダメなのかを、壁の存在として見ていく、見ていてつらくて見ていられないと思ったのは、『青空エール』も同じです。ところが、これでもか、と現実の厳しさを告発するこの作品には、僕は平凡な人間はだめなんだ、、、という苦しさを全く感じませんでした。
スタート地点が遅いところからビルドゥングスロマン(=自己成長を描く物語)の王道ともいえるエピソードの連発なんだが、、、、ふつうは、もっと、万能感、全能感あふれて描くか、もしくは何らかの才能があるという設定で描くものなんだけれども、この作品には、それが一切ない。はっきりと、スタート地点が遅い人間が、いかにだめなのか、ということをこれでもかっと繰り返し繰り返しつきつけられる。はっきりいって読んでいて、いじめ???これっていじめなの???ってくらい、主人公の女の子にとって苦難しかおこらない(笑)。もちろん、いじめではなく、これは単に、「事実が主張されているだけ」というところが、さらに切なく苦しい。けど、、、
『青空エール』 河原和音著 主人公のあこがれに向けて努力する姿に切なさを覚えます
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20110810/p4
そうではなく、なんというか、、、、告発系の物語と同じような、主人公の甘さ、ダメさが告発されるんですが、そのボロボロのサンドバック状態を、ずっとずっと主人公があきらめないで、心が折れてしまわないんですよねー。構造は同じなんですが、その「心が折れない」ポイントが、同じエピソードの積み重ねでも、いや平凡でも、やれるかもしれない!(ほんとは難しいんだけど(苦笑))と思わせてくれるのかもしれません。
この差は、なんなのだろう?。なろうの小説の『無職転生 - 異世界行ったら本気だす -』でもそうだし、『Re:ゼロから始める異世界生』でもでもそうなんですが、、、、
http://ncode.syosetu.com/n9669bk/
http://ncode.syosetu.com/n2267be/
これらも、僕がなんで好きになるかといえば、基本的に「告発系」の類型なんですよね。告発は何が告発されているかといえば、それが「現実の至高性」というものがベースとなっている「今この時しか人生はなく、二度と帰ってこない」という一回性から導き出される、唯一性です。そしてそれを受け入れるということは、起きてしまったことは、受け入れる以外の方法がないという喪失感の需要でもあります。そして、そうした不確実で、全能感のない世界で、手足を縛られながら泳げと命令されているような、真っ暗闇の中であがくからこそ、だからこそ、その「前を向く」そして「一歩を踏み出す」ということの素晴らしさが称揚される、、、そういう構造なんだろうと思います。
なので、ヘタレでダメな自分を叩き直すという構造の物語が、僕はとっても好きなんだろうと思います。だからこそ『マブラヴ オルタネイティヴ』が好きなんだろうと思います。ちなみに、構造や類型は『Re:ゼロから始める異世界生』はほぼ同じでそっくりです。全く違う舞台設定で主人公だと思いますが、ヘタレな自分を、繰り返しの中で、試され続けて成長していくという構造はそのままです。だから、、、同じ、ダメ人間だった子が成長する『魔法使いの心友』がなんで、こんなにやな気持ちになって、ほぼ同じ構造の『青空エール』になぜこんなに胸が打たれるのだろう?。何か重要な違いというかポイントがある気がする。考えてみようか、、、、。
・・・・・・・・まっ、たぶん、僕は、人間は基本ヘタレで現実をちゃんと行けられない電波を受信できない壊れたラジオのようなものとして生まれてくるのが基本だと思っているんだろうと思います。いってみれば、原罪をもっているようなもの。そして、それは告発されて、徹底的に追い詰められて罰を受けるのが当然だ、という信念というか信仰というか、そういうのがあるんだろうと思います。そして、その罰による追い詰められ閉じ業を超えて、「気づき」として、成長・成熟していくことが人間の正しいあり方だ、という幻想というか・・・まぁ信仰なんだろうねぇ、、、僕にとって「あるべき姿」なんだろうと思います。なので、『魔法使いの心友』は追い詰められ方が弱すぎて許せないんだろうと思います(笑)。『青空エール』は、そもそも原罪がほとんどない子ですが、、、いいかえれば、何か悪いことをしていたというより、平凡に幸せに生きていた子なので、それが告発される必要性はないんだろうと思います。物語のドラマトゥルギー場。にもかかわらず、「本気で生きたい!!!」と途中から願った主人公にもたらされる苦行と負荷は、すさまじいものがこれでもかと繰り返されたうえに、いつまでも終わりがありません。『これ』に耐え続けている主人公は、すでに物語の主人公足る、、、自分自身の「自己」という物語の主人公(生業者)である必要条件を獲得しているように見えるのです。
・・・・・ああ、なるほど、、、わかった、もっと子供時代からではなく、中学や高校生など、自己認識と自覚ができるような年齢になってから「本気で人生を生きたい(=リア充したい・普通の何十倍もの苦しみを引き受ける代わりに喜びも何百倍も!)」という要求をすることは、許されないくらいに無理な夢なんだ、ということを思っているようです。それをしたい時には、ナチュラルボーンに子供時代からそういう「選ばれた人生」「自己の主人公となること」を生きている人と比較すると、難しさがあり得ないくらい重い、そう考えているんですね。
なので、マブラヴの白銀やRe:ゼロの主人公のスバルのように、、、、そんなにありえないっ!!!と思うほど物凄い苦しみと厳しい試練が与えられるのが、当然だ!!と僕は思っているようです。壊れたラジオが、電波を受信できるように(=世界とのチューニングをし直す、と中島梓はいっていました)なるには、それほどの刻苦が必要なんだ、というふうに僕は思っているんですね。
これは現実がそうだ、といっているわけではありません(実際僕はそう感じていますが)。僕の趣味の話です。でも、なろうの小説で、
やり直してもサッカー小僧
http://ncode.syosetu.com/n9987bi/
という、大好きな素晴らしい小説があるのですが、これも人生やり直し系の話なんですが、サッカーが好きで好きでたまらない男の子が足を壊してサッカーができなくなった、、、、そのあとに、子供時代から人生をやり直す話なんですが、別に、それほどチートな能力を与えられているわけではないんですが、子供のころから世界一のサッカー選手になる!というのとサッカーが三度の飯をよりも好きという気持ちで、子供時代から、努力に次ぐ努力をするんですね、、、そして、現在はサッカーのアンダ−16の日本代表までなっていますが、、、、なんというか、これを見て、
子供の時(=特に成長期)から意思と動機をもって、人生を生きている人は、物凄い成長するし、周りがとても追いつけないほどのスピードで成長していくんですね。そして、その「差」というのは、もう後半では、ぬかしようがないほどのさになってしまうんです。
その「差」がつくのは、0歳から小学生ぐらいまでのような気がします。もうこのへんですべての差がついてしまう。転生をモノをたくさん見ていると、結局、そういう小さいころに強い動機と人生を目標をもって人生を鍛えると、すさまじい差になるってことが、描かれているんですね。明示的にみんな言っていないけれども、意思と動機を持った小さい子供がどれほどチートで凄い存在なのか!ということを分かっているんだろうと思います。逆に言うと、後半の方、、、つまり自意識を持つ中学生から以降ぐらいでは、もうそういう人を抜き去るのは物凄く難しくなってしまいます。もちろん、ここから自意識をもって成長する人のほうが、世の中たくさん多いとは思うのですが、成長のスピード等から考えて、またここでは自意識を持っていることから目標を絞り切れないとか、幼少期の生活習慣が崩せないとか、とにかくディスアドバンテージが多いのです。なので、「ここ」から人生を変えようとするのは、ハードルがめちゃめちゃ高いんですよ。なので、異世界でチート転送するよりも「生まれ変わった」ほうが、成長とチートさにリアル感が生まれるんです。そしてこのもの型類を見ていると、幼少期に自意識と目標と動機を持つと、物凄い差になるんだ、ということがわかってきます。
この構造、、、グランドルール的なものからいろいろなことが言えますが、この記事の文脈では、では、こういう意思と動機を幼少期に持たなかった、普通の人々である我々が、それでもリアルな充実した人生に向かおうと、周回遅れ、、、自覚を持った時点から意識的に人生を変えようとすると、マブラヴやRe:ゼロ級の努力と試練が必要とされるって、僕は思う、というポイントですね。本当かどうか?は、まぁおいておいて、少なくとも、僕は人生をそうとらえているし、経験からもそれが真実だと思っています。
ふむふむ。
あっ、これ面白い、、、思考が先に進んだ。。。
これって、「才能がなければ何もできない」とか「努力が報われる保証がななければ最初の一歩が踏み出せない」問題にこたえるための、前提構造の部分の解明になると思うのです。
ではまたー。