『ブレイキング・バッド(Breaking Bad)』シーズン5 USA 2008-2013 Vince Gilligan監督  才能によって善悪の彼岸を超える時

ソフトシェル ブレイキング・バッド ファイナル・シーズン  BOX(4枚組) [DVD]


評価:★★★★★5つ+αマスターピース
(僕的主観:★★★★★5つ+αマスターピース



2019-8-7【物語三昧 :Vol.5-4】『ブレイキング・バッド(Breaking Bad)』シーズン5 USA 2008-2013 才能によって善悪の彼岸を超える時-42


全5シーズン、62話。

この作品が言いたかったことは何であろう。僕は、さまざまな視点はあるにせよ、この作品の最終的に言いたかったことは、やはりウォルター・ホワイトが、何のためにこの犯罪を犯したかということに対しての答えだろうと思う。「チップス先生をスカーフェイスに変える」という前提を、製作陣は想定しているが、この設定が紡いだ結論は。


一人の男の自己実現を描いた話だろうと思うのだ。決して、僕は、ウォルターが、極悪人だったわけでもなく、本質が悪だとも思わない。最終的に、彼は疑問の余地がない邪悪というか、純粋に悪ともいえるような存在になっている。けれども、「最初からそうだった」とか「本質的に彼がそういう人間だ」というのは全くのミスリードな評価だとおもう。


この作品は最後の最後にウォルターが、


「すべては自分のためにやった」(ずっと家族のためと言い訳が彼を支えていた)


「充実していた(I was alive)」(追い詰められてしかたなく悪に手を染めた)


ということを表明するところに、見事な新しさと、そして自己実現、悪人としてのピカレスクロマンを自滅ではなく、成長物語として描いたところにその本質があると思うのだ。実際のところ何度も繰り返される「私がした事は、全て家族のためだ。」という表明。これがすべて否定されるシーンの切なさは圧巻です。


そして、「このセリフ」からすべてを逆算して物語を見返すと、彼が「どのように変わっていったのか」、その変化が、成長が「どこに行きつくものだったのか」ということを、指示してしている。もう少しうまくいいかえれば、アメリカのドラマにしては、シーズン5と短くまとまっており、かつ明らかに、最初からこの「一点」に向かって、すべてが収束していくという完成度を見ることができる。「ここ」にすべてが収束していく、最終シーズンの60話『オジマンディアス(Ozymandias)』への緊張感の盛り上がりは、アメリカのドラマ史上最高のものだったと僕も思う。また、さらに凄いな、と思うのは、61話『ニューハンプシャー(Granite State)』62話『フェリーナ(Felina)』と、後日談というわけではないですが、「その後」がじっくり描かれるところも、本当に裏切らない。


僕はアメリカの批評では「去勢された」と表現されるウォルターが、もともと悪人だったとは思わない。エピソード1-3の彼は、本当に「すべて家族のため」だったのが、状況に流されて、どんどん追いつめられる様が描かれている。だけれども、この作品が、そして、ウォルターが、これまでのアメリカのどの物語とも違うのは、「善人で去勢された冴えない教師」が、「自分に才能に気づき」、その才能に基づいて、力をふるうようになっていく、、、これは定番のヒーロー物語だろうと思うのだが、その力をふるうのが正義ではなく、悪であり犯罪だったというところだと思うのです。彼が圧倒的な「悪人として、犯罪者としての才能」に恵まれていたところを、追い詰められ、自覚して、才能を開花させ、ついには、アメリカ犯罪史上最高の悪役といわれるようなラスボス中のラスボスであるグスタボ・"ガス"・フリング(シーズン4)を倒すに至るサクセスストーリーは、見る者を圧倒します。


そして、そのサクセスストーリーが、美しく、見事なビルドゥングスルロマンとなっていればいるほど、それは同時に「彼が悪に堕ちて染まっていく」ものであるという二重構造を示し、を感じさせるところに、この作品の凄み、新しさがあると思うのです。


そして、シーズン5は、いってみれば、なんというか、スターウォーズのエピソード1-3のように、主人公が闇に落ちていくプロセスの総決算を見せる、とても苦しくきつい話です。本来は人気が出るはずがないような、「落ちていく様」にたくさんのアメリカ人が、共感し、熱狂したところに、アメリカ社会のエンターテイメントや物語への成熟度合いが感じられると僕は思います。『スーパーマン』みたいなシンプルで古典的なアメリカンヒーロー「ただの正義の味方」では納得できない、深い成熟があると思います。

また、シーズン5は、そうでなくとも、「落ちていく様」を見せるくらい話な上に、もうラスボス(グスタボ・"ガス"・フリング)は、倒されてしまった後の物語です。もう、小物しか残っていない。というか、残った悪人たちは、ガスほどの器も、動機も、凄みもない小悪党たちです。リディア・ロダルテ・クエールが、言ってみれば、シーズン5の倒すべき敵ということになると思うのですが、彼女の、最初に登場した時からの小物感はいっそすがすがしいほど、ダメな人です。彼女が、他の関係者をすべて殺そうとするのも、ひたすら臆病さと保身のためだし、しかもそれは冷静さというよりはヒステリーであり、自分が手を汚すことや、自分が泥をかぶる覚悟がないさまが、これでもかと繰り返されます。このあたりのエピソードの積み上げも、僕は全く新しい!と感心しました。通常は、倒すべきラスボスの器問題といって、倒すべき敵が強ければ強いほど、物語は面白くなるのですが、もちろん弱ければ弱いほど、しょぼく物語が鳴るというのが通常のシナリオ構造なんです。なので、「強さのインフレ」という構造的弱点が起きて、ドラゴンボールやジャンプでは定番の、うんざりするような次から次へと、さらに強い奴が、、、と表れて破綻します。が、ここでは反対のことを、わざわざ演出している。トッド・アルキストの叔父のギャングリーダーにしても、明らかな考えなしの小悪党なのが、見ていて随所に描かれています。ガスの器と比較すれば、これらが物語に登場するにしてもしょぼい話です。しかしながら、だからこそ、シーズン5は、素晴らしい物語になっている。それは、既に、もうこの世界のラスボスであり最大の悪党は、ウォルターであることが、シーズン4の終わりにわかってしまっているのです。ということは、倒すべき敵、、、ドラマトゥルギーは、ウォルターの自覚なんです。えっと、ようは、シーズン4までは、「より強い敵を倒す」物語だったんですが、シーズン5は、「希代の大悪党が自分自身の自覚を持つ」物語なんです。だから、「自分のために行い、自分の才能をふるえる様が楽しくて仕方なかった」という告白こそが、このシーズンのドラマトゥルギーの収束点になるわけです。


そして、既に、もう彼が、「救われることがないだけの悪に手を染めてしまった」ことは、観客のだれもが知っています。


だからこそ、最後は、どのように落とし前を彼がつけるのかが、物語のエンドポイントになるのは、わかりきっています。彼は「自分の才能を十全に開花させるという喜び」を得るために、それまで持っていた大事なものをすべて裏切っているのですから。彼は自分の才能を開花させ、その力をふるう喜び(自己実現)を最後まで伸ばしきることで、生を充実させたのです。しかし、それは同時に、だれ一人、彼との思いを共有することがない、孤独の地獄に彼を連れていくことになります。・・・そして、それでも彼は言います。「楽しかった」と。彼は、ウォルターは、それを「選んだ」のです。


50話:51歳/Fifty-Oneで、じわじわと、スカイラーとの仲が崩壊しているがわかるんだけれども、スカイラーが、子供たちを家におきたくないと言い出すときに、口論が面白かった。これ、パワハラ上司との、できない部下との会話なんだよね。「具体的にはどうするのか?」と追い詰める。こういう時に、人間としての強さ、という格の違いがあらわになるなぁ、と思う。ようは、スカイラーは、自分の為した罪を受け入れる覚悟が持てなくて、壊れていっているのだ。シーズン1-2のウォルターそのもの。ここは難しい問題だ、と思う。人を殺すような、これまでの世界と違う世界に行きながら、それでも自分を取り戻して自分を正当化できるのは、大したものであろうともう。普通の世界で粋がっている多くの人は、「普通の世界」というルールの中だけで、いきがれる臆病者だからだ。でも、じゃあ、それが悪いことなのか?と言えば、臆病者が正しいという風な、ルールを作ってきたのが、現代の社会なんだろう。ウォルターは、「この善悪の次元」に逃げるのではなく、それを超えて、「力の次元」に才能で足を踏み入れた。その違いが、ここでははっきり分かれているのが興味深かった。




シーズン5エピソード14、いわゆる神回「オジマンディアス」


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詩「Ozymandias」は、イギリスの詩人パーシー・ビッシュ・シェリー(Percy Bysshe Shelley)(1792-1822)

古代の国エジプトから来た旅人はいう
胴体のない巨大な石の足が二本
砂漠の中に立っている その近くには
半ば砂にうずもれた首がころがり

顔をしかめ 唇をゆがめ 高慢に嘲笑している
これを彫った彫師たちにはよく見えていたのだ
それらの表情は命のない石に刻み込まれ
本人が滅びた後も生き続けているのだ

台座には記されている
「我が名はオジマンディアス 王の中の王
全能の神よ我が業をみよ そして絶望せよ」

ほかには何も残っていない
この巨大な遺跡のまわりには
果てしない砂漠が広がっているだけだ

I met a traveller from an antique land
Who said: “Two vast and trunkless legs of stone
Stand in the desert. Near them, on the sand,
Half sunk, a shattered visage lies, whose frown,
And wrinkled lip, and sneer of cold command,
Tell that its sculptor well those passions read
Which yet survive, stamped on these lifeless things,
The hand that mocked them and the heart that fed:
And on the pedestal these words appear:
‘My name is Ozymandias, king of kings:
Look on my works, ye Mighty, and despair!’
Nothing beside remains. Round the decay
Of that colossal wreck, boundless and bare
The lone and level sands stretch far away.”


この詩をどう解釈すべきでしょうか?


オジマンディアス。当時の超大国エジプトの王の中の王とうたわれたラムセス二世。


明らかにその「孤独」を歌った歌です。


いやはや、Vince Gilligan、さすがだよ、と唸りました。


ちなみに、もともとスカーフェイスなどのピカレスクロマンもの視点で、僕はシーズン4を評価しましたが、ブレイキングバッドが、この「悪人の自己実現」について、到達点を示していると思います。スカーフェイスが典型的ですが、悪党のもともとの動機は、「伸し上がること」であり、それをわかりやすく示すのは、酒、ドラッグ、タバコ、女などとにかくお金を使いまくる金ぴかの生活です。もちろん、そういうのを最初は端的に望んでいたのでしょうが、「そこ」に到達すると犯罪者モノのは、どんどん気が変になって、意味不明の行動になる。それは要は彼が目指していたものは「その先」にある、自分の才能が世の中に認められることであるからです。認められるだけでなく、「純粋に才能をこの世界に行使すること」です。端的に言えば、スカーフェイスの場合は、家族に認められるという部分が、つまりは、妹との関係なのですが、主人公が成功するにしたがって妹の人生が壊れていき、最後は死んでしまうのは、彼の望みが受け入れられないさまを示しています。そうやってすべてに絶望して、破滅に向かっていくというのが、ピカレスクロマンの醍醐味なのですが・・・・・僕はこれを見ると、一つ不足するものがある、と思っていました。それは、「自覚」です。何のために悪を為すか?と言えば、悪をの為したいからではありません。これらの喜びは、理由や動機はどうあれ、「力を、才能をこの世界に示すことそのもの」なのですから。彼らは、正しい形でのビルドゥングスロマン(成長物語)を通して、自己実現がしたかったのであり、その才能と舞台が、犯罪だったというだけです。しかし、「そうだった」ために、既に破滅の道しか、残されていません。そもそも、受け入れてもらえたい母親や妹を裏切るような構造になっていれば、それは正しい道へは至りません。しかし、、、、それでもなお、自分が大事なものを裏切っても、「自分の才能を世に示す」ことをしたかった、それが達成されること、自分自身の「力をふるうことの喜び」を感じたかった!、何と引き換えにしても!(家族を殺してでも!)という「自覚」がなければ、僕は、本当の悪の才能としては、甘い、と思っていました。ここまで言葉になっていたありませんが、ウォルターの生きざまを見て、見事!!と思ったのは、彼の自覚が、ここに到達していたからです。それは、孤独と引き換えに、善悪の彼岸を超えた「力の次元にいたること」。


この結論に対して、さらに二点みたい。



■状況に流されるだけのジェッシーは汚れない
アメリカ社会の置かれている状況、、、どうにもならない負の連鎖の中で、もうそこから、どんなことをしてでも抜け出そうとするもがきへの共感


実は、共感することができない「純粋な悪」として自信を純化していき、すべてを裏切っていくウォルターに対比する構造として、ジェッシーがいます。この二人にの構造、対比、対立がずっとこの物語を締めることになります。


というのは、僕の言葉でいうと「状況に関わる」ことについて、この二人は対極の反応を示すからです。


「状況に関わる」、、、言い換えれば「状況を自分を主体的判断によって変化させる(=現実を支配する)」ということは、主体的な人間の前提条件でもあります。しかしながら、実は、それはほとんど不可能ともいえるほど難しい。その中で、どのレベルで、起きてしまった現実を受け入れ、世界の不可避は変化を受容して認めていくかというのが、人間の在り方を決めます。もし、シーズン3で、ウォルターが、ジェシーの恋人を見殺しにすることがなければ、彼は、あそこまで堕ちて悪に純化していくことはなかったかもしれません。けれども、「彼は状況支配する」ことを、望んだ。自分の「能力によって現状の困難を打開する!」ということを主体的に選んだのです。そのためには、殺人も辞さず。


この現実を支配する!という発想を、マチョイズムやマスキュリン(masculine)などの「男らしさ」と結びついていることはよく指摘されますが、それ以上に、マクロの社会状況が、コントローラブな度合いに差があるように僕は思っています。社会がコントローラブルな状況ならば、すべて自己責任でいいし、すべて個人の責任です。けれども、往々にして、社会は、個人ではどうしようもない構造や出来事であふれています。この度合いで、物事は、全然変わってしまうと思うのです。

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Hell or High Water (2016) Scene: "I've been poor my whole life..."

2008年からこの物語は放送されていますが、これが日本でいうリーマンショックの年であり、その後不況で転げ落ちていくスタート地点でもあります。また、2013-2016年は、オバマ政権の第二期で、理想的で高潔なリーダーが何もできずに、国がスタックして理想が実現しない失望の年でした。また、レーガノミクスから始まった、新自由主義的な政策とグローバリズムの行き着く先として、中産階級がどんどん衰退して苦しくなっていくことに、一切歯止めがかからないことが、はっきりとした時代でした。


こうした背景の中での絶望が、アメリカをして、トランプ大統領を選ぶことに結実しました。


ラストベルトを支持基盤とした広範な中産階級の支持は、あきらかに、衰退し、解体されていく中産階級の叫びであったことは、現在(2019年)ではわかっています。国は分断され、どうにもならない状況が続いています。こうした、「どうにもならない負の連鎖から抜け出れない地獄」を脱出する手段として、極端なこと、「これまでとは違うこと」、また理想はまったく信じられなくなったこと(オバマ政権は手も足も出なかった)、などのを求める切実さ。「コントローラブル」ではない感覚の、深い絶望が背景にあるのは、明白です。


『ブレイキング・バッド(Breaking Bad)』シーズン3 USA 2008-2013 Vince Gilligan監督 2008-2013年のアメリカは、正しくあろうとあがくことで怪物になり下がっていく自分たちの虚無を見つめたのかもしれない - 物語三昧~できればより深く物語を楽しむために



この2点が重ならないと、アメリカの2008-2013の当時に置かれていた背景が見えてこない気がします。



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さて、やっとこさ、シーズン5すべての解説を終えました。物語自体の分析もそうですが、それ以上に、このような暗い物語が、アメリカで絶賛されてた背景や、なぜ主人公がいきなり人生に絶望してしまうかなどは、アメリカの社会の肌感覚を理解しようとしないと、なかなかわからないと思うのですが、そのあたりが、少しでも理解する、感得するのに役に立ったら幸いです。


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