『武器よさらば(A Farewell to Arms)』(1932年) 監督フランク・ボーゼイジ(Frank Borzage)、出演ゲイリー・クーパー、ヘレン・ヘイズ 典型的なセンチメンタルな悲劇のハリウッド映画

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評価:★★★☆3つ
(僕的主観:★★★☆3つ半)


アーネスト・ヘミングウェイの小説の文脈では読み解けない

今年2010年は、できるだけ古い映画を見たいなという目標があったので、現在戦争映画が熱いので、この古典作品を見る。もともとアーネスト・ヘミングウェイが好きで、彼の小説は読んでいるのだが、僕は彼の小説とは違って、この時代の映画や戦争映画を「読み解く文脈」や「系譜」を知らないので、動物的反射の感想しか思いつかない。知識がないので批評しようがない。もっと勉強が必要だなー。


僕は本来、ヘミングウェイという小説家を眺める時に、物語三昧でずっとテーマとしている「都市文明の中で暮らす退屈(=実存が失われる)ことの代償としての戦争」というテーマの典型的な人物であり人生だと思っています。この着想は、コリン・ウィルソンの『アウトサイダー』のヘミングウェイの分析からきています。


アウトサイダー (集英社文庫)

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僕のブログを継続的に読んでいる人には、言うまでもないテーマですが、軽く反復すると、都市文明が成熟した社会では、19世紀の貴族も為し得なかったような物質水準で暮らし、高等教育を受けてていることになる人間は、貴族が最も恐怖した「退屈」というモノに支配されます。それは、物質的な欠乏が共有されないため、「何のために生きるのか?」ということが、強い命題として人生を支配するからです。物質的な欠乏があれば、話は簡単なんだよね。だって、明日食べるご飯がない時には、無駄なこと考えないで「食い物!」と叫ぶでしょう。そこでは、優先順位が自明になるので、正しさがはっきりするんです。けど、それがないと、・・・・基本的に「意味」を考え抜くと、「生きている意味自体はない」という結論にしかなりません。ニヒリズムですね。このへんは、ニーチェ先生に聞いてください。くどいくらい説明してくれます。「生」の次元は、意味だけでは語れないからです。また日本社会が、成長への肯定や希望が「見いだせない」ことに国民的な共有感覚が生まれてきた1990-2010年代の「空気」もミックスされる、それが現代のわれわれです。


もっと具体的にいうと、日本の内需も成長しない、地球の物質的なモノや環境も「有限である」ということが意識されていて、なんかがんばってもしかたないよねー。それに、頑張って成長したり勝っても、結局それって「正しいことじゃないじゃん!(善悪二元論の限界)」ということが、妙に頭で意味の次元で「わかった気になってしまう」高等教育を受けた我々は、なんか、頑張って成長することに意義を見いだせなくなり、無気力(=アパシー)が訪れます。これをして「退屈」と僕は呼んでいます。


アメリカ社会は、ウルトラ物質的に繁栄した社会なので、この物質的繁栄の極みのせいで「生きる意味が失われる」ことによって、ではどういうふうに「生きる意味を見出すか?」という実存追求の問題点が、現代の日本社会ととても似た形で吹き出した社会です。その第一回目のムーブメントが、小説家アーネスト・ヘミングウェイの時代です。よくよく考えてみてください。WW1で戦場にもなっていない成長を謳歌しまくっている「アメリカ人の青年!」が、なんで義勇軍でヨーロッパに参戦なんかしにゃーならんのですか?(苦笑)。映画でも小説でもそれほど強く語られませんが、そもそも全然行く必要のない人が、なんで過酷な戦争に参加しようとするのか?って、戦争に行きたくて行きたくて仕方がなかった人がわんさかアメリカにいた!ってことでしょう。「この前提」から考え始めないと、この脚本はほんとは語れないんです。反戦映画の悲劇をいかに語って戦争はひどい!とか言っても、この作品がなんで生まれたかの射程を全然とらえていない、うそつきか文脈が分かっていないアホ(=とりあえず戦争反対とか言っていればいい!)の言動だと僕は思います。


ヘミングウェイの人生を見れば、答えは簡単です。彼は、ハンティングとか、戦争に従軍とか、とにかく刺激の激しいところで、命の遣り取りを感じられる極端なモノに、蛾が水銀灯に吸い寄せられるように、自分をコミットし続けた、破滅屋の典型の人生を送りました。晩年に住んでいたアメリカの最南端のキーウェストとかいってみましたが、ハリケーンがくると、完全に孤立してしまう絶海の孤島とかになる場所なんですよ(苦笑)。あんな辺境が大好きという時点で、ああーそういう人だったんだなーと思ってしまいます。ようはね、人間は、いろいろ見たされると刺激を求めるんですよ。戦争とか死の代替物で、ダンス、サッカー、セックスが近代の死の代替物だって言った人がいましたが、まさにその通りだと思います。上記の文脈でいえば、物質的に見たされると、人間は、生きる意味を求めるようになり、その意味が獲得できないと(=構造的に獲得はできない)、死に引き寄せられるんですね。それは、死に近ければ近いほど、実存が輝きやすいからです。もっとわかりやすくいえば、人生や生活に飽きて退屈するんで、刺激が強烈なモノにコミットしたがるんですね。それが動物的存在としての人間の必然なんだろうと思います。この刺激には間接性(ロマンチシズム、ナショナリズムとか)と直接性(暴力とSEX!とか)があるのですが、もちろんいろいろミックスした形で現れますし、国民性や性格も反映します。


さて、その文脈からいえば、退屈で安楽なアメリカの都市生活を抜け出したヘンリー中尉は、ヨーロッパで、素晴らしく「退屈ではない」悲劇にまみれたロマンチシズム(SEX!&暴力!その上悲恋というロマンチシズムの物語!!)に出会うことができました。これは、彼の選択が正しかったのですか???と問えば、この映画では、正しかったことになってしまうんですよ。この文脈だと。だって、「真実の愛」に出会えたのならば、それが恋人の死であっても、素晴らしい「物語」だし、生きている「意味」じゃないですか。都市で退屈にしている、ただのパンピーのサラリーマンをしているよりも、絶対よかったですよ。だって、ヒロイズムじゃないですか、これ。このへんはやはりまだ映画だと、骨太(=単純)になってしまうんだなーと思いました。このへんは同じ文脈で、サムメンデス監督の『JARHEDA ジャーヘッド』を下記に書いています。サムメンデス監督はこのへんのアメリカ的文脈に凄く敏感な人で、大傑作の『アメリカンビューティー』もこの文脈と同じものです。


『JARHEDA ジャーヘッド』 サム・メンデス監督 ジェイク・ギレンボール主演
http://ameblo.jp/petronius/entry-10009289519.html

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■初見の感想〜典型的なセンチメンタルな悲劇のハリウッド映画


初見の感想を一言でいうと、典型的な悲劇だな、というのが見終わった直後の感想。もう少し言うと、典型的なセンチメンタル兼ロマンチックな悲劇。非常に分かりやすい骨太さだ。1930年代の香りがばっちりとする映画です。志願兵としてイタリア軍に従軍したヘミングウェイ(彼の自伝だから)ことフレデリック・ヘンリー(ゲイリー・クーパー)と、キャサリン(ヘレン・ヘイズ)の悲恋の物語。戦場で出会う恋なんて刹那の遊びばかりだけど、これは本物だった!、しかし戦争が二人を引き裂く!!とかいう単純なキャッチコピーができそう。1932年の映画だというけれども、こういうストレートな反戦映画を描けるところは、さすがアメリカ余裕だなーと思う。西暦で1932年というと、昭和7年、皇紀2592年、中華民国暦21年といったころ。たしか1931年9月が満州事変勃発での頃なので、日本は戦時体制に入るころですね。とはいえ、1932年には、アメリカでロサンゼルスオリンピックがあったので、日本はメダルラッシュで湧いていたころでもあるのだね。



第一次世界大戦の背景知識


なるべく背景知識を自分の頭の中でシュミレーションしないと、過去の作品というのは、ちょっと敷居が高くなってしまうなー。勉強しないと。。。。背景の説明が全然ないので、やっぱりこれは、当時の「常識」が背景知識にあって見るものなんだろうなーと思う。そうでないと、全然わからない。当時のヨーロッパでは、ドイツ、オーストリア、イタリアの3国同盟と英仏露の3国協商が対立しており、第1次世界大戦(1914年)がはじまり、イタリアは協商側で参戦しています。主人公のアメリカ青年フレデリック・ヘンリーは、この戦争になんでかわかりませんが(苦笑)、義勇兵として参戦しているんですよね。小説を読んでいる立場としては、俺はアメリカ人だから、ほんとは関係ないんだという、ウルトラ無責任なセリフが連発するんですが、それを知っていると、ちょっと苦笑します。


ちなみにこの映画の舞台は、イタリアとスロヴェニアの国境地帯です。第一次世界大戦中の1917年10月24日から11月9日にかけて、カポレット(現在スロベニアのコバリード)で戦われた戦いで、第十二次イゾンツォの戦いといわれるそうです。国境をまたがるイゾンツォ川を挟んでものモノだった模様(だから、脱走する時に川に飛び込むのか!!とか)。冬の雪が降る山岳地帯での大激戦だったみたいです。ここで近代戦による凄まじい大敗北と死傷者を出したイタリアは、近代戦の恐ろしさを理解するようになります。この大敗北を、イタリアは特別な意味でとらえ、カポレットというのは、大敗北の代名詞となっているようです。ちなみに、この映画で続くピアーヴェ川の戦いの勝利の話が繰り返されますが、この防衛線の死守が、のちのドイツ・オーストリア軍の敗北につながることになる重要な戦略的ポイントだったからです。ちなみに、150万人の死傷者を出して戦意喪失状態のオーストリア帝国に、何とか造園しようと、ドイツ軍が増援を出して(たしかロンメルもここで出てなかったけ?)、なんとかオーストリア=ハンガリー帝国軍は、イタリア軍をカポレットで撃破した。この成功でドイツはオーストリアの崩壊をなんとか押しとどめることができ、また1918年春の西部戦線での攻勢に出ることができようになったんでうね。


うーむ繋がってくると、最高です。


イゾンツォの戦い(Battaglia dell'Isonzo)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%BE%E3%83%B3%E3%83%84%E3%82%A9%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84



これからルイス・マイルストン監督の『西部戦線異状なし All Quiet on the Western Front』を見るんだけれども、これってこんなにつながっているんですね(だよね?いいんだよね??)。なんか、おーと思ってしまった。勉強勉強。


このへんので、これはおもしろいよ!とか、こういう見方があるよとかあったら、ぜひ教えてもらえれば!と思います。


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