『ゴジラ-1.0』 なぜ特攻をするのか? 公に貢献したい気持ちと、国家の暴走への否定をどう描くかの問題意識に答えを出した日本映画史上の傑作

評価:★★★★★星5.0
(僕的主観:★★★★星5.0つのマスターピースペトロニウスの名にかけての傑作

日本の物語の類型を変えたと言える傑作『シン・ゴジラ』に続き、ゴジラ生誕70周年記念作品として、国産実写映画として、絶対のヒットが要求されるプレッシャー下での圧巻の傑作。予備知識なしで行ったのですが、まさかこれほどの偉大な傑作を見れるとは予想だにしていなかった。2023年の僕的ベスト。自分の中では、新海誠監督の『すずめの戸締り』が文脈的にも面白さ的にダントツだよなという意識で今年の分析をしていてのですが、まさかのここへきての、トップに躍り出た。2023年はなんと豊穣な映画の年だろう。もちろん、今日が11月3日の初日だから、周りの評価等はわからないけれども、これが売れないなんてありないだろうという出来のエンターテイメント作品だと感じました。自分の価値観と評価軸を、周りの意見が出る前に、出しておくのは大事だと思うので、言い切っておきます。山崎貴の全作品のこれまでのやりたかったこと、積み上げてきたことの集大成に感じます。

今年の前半に『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』(2023)の分析の過程で、『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』(2019)を見なきゃいけないの流れになって、山﨑貴監督作品をかなり見て分析して話し合っていたことが、今回の作品の鑑賞の解像度を上げてくれた、これは嬉しい驚きでした。思いもよらなかったセレンディピティ。ともすれば、好き嫌いが分かれたり、落ち葉拾いのようになんでも引き受けてそこそこにするような、揶揄を込めた意味での職人的作家のように語られるように思いますが、『ゴジラ-1.0』をもって、「ここ」に到達したいがための映画監督だったと言われるようになる僕は思う。彼がやりたかったことを、そのために映画監督としてクリエイターとして積み上げてきたものが、収斂している。イデオロギー色がない、情念がないのはかなり特徴的な人だと思うのですが、その人が職人としてレベルをあげていった果てに、こんな作家主義的な作品を生み出すとは。ペトロニウスの名にかけて傑作、と言える2023年を代表する作品です。文脈的な意味でも、2020年代前期の代表作となるような評価をしたいが、にもかかわらずエモーショナルに人間ドラマが積み上がりエンターテイメントになっていることも、圧倒される。正直、めちゃくちゃ泣いた。多分意味や文脈がわからなくても、とにかく泣けて感動できる。それって本当にエンターテイメントだと思う。

魅力のコアは、54年度版へのリスペクトから原点に戻る自然というコントロールできないものへの畏怖と恐怖。そしてゴジラがほんと怖え!。初めて白黒の本多猪四郎監督のゴジラ(1954年)初代を見た時の恐怖感がよみがえる圧倒的な、コントロールできないもの、圧倒的にどうにもならない巨大な暴力への畏怖と恐怖が、凄い。このライドにでも乗っているかのような感じが、なんといってもこの映画の見どころです。そして「そこ」に関連して意味の文脈がたくさん繋がっている様が素晴らしい。


以下の記事もあずきアライアカデミアの配信もガチのネタバレありの解説です。

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🔳前半部の異様に長い人間ドラマパートの残酷さと追い込みの意味は?

予備知識がない状態で見にいくと、体感的に、ゴジラが全く出てこない。いやもちろん、物語の始まりは、海軍少尉の敷島浩一(神木隆之介)が小笠原諸島の大戸島の守備隊基地に、機体の故障と偽って、特攻から逃げ帰ってくるシーンからじはじまるわけで、ここで巨大な固有生物「呉爾羅」に襲われるところではあります。しかしながら基本のドラマトゥルギーは、敷島浩一が、ここで二重に「逃げた」ことにはじまるわけです


特攻から逃げた


ゴジラに撃つべきゼロ戦の機銃で恐怖で応戦できず、整備兵たちが犠牲になった


この「逃げた」ということが、敷島浩一を苦しめ続けます。このパートの前半部の異様に長く、これはなんの映画だ?と途中で訳がわからなくなります。ゴジラの映画を見に来たのに、特攻帰還兵の「自分は逃げて、生き恥を晒して帰ってきてしまった」という後悔の地獄が、仲間のために命をかける覚悟なく、卑怯にも逃げて生き残ってしまったことへの苦しみが、異様に描かれます。これって日本の戦争映画?と思えるような、徹底的にゴジラのようなファンタジー色を廃した時間で、僕は自分が何を見ているのかわからなくなってしまいました。


ただ一つわかるのは、ゴジラとはなんの関係もないような、海軍少尉の敷島浩一を演じる神木隆之介くんの苦悩が凄まじいこと。


この苦悩が、シャープに人間ドラマとして生きるのは、大石典子(浜辺美波)と出会うからですね。藤子・F・不二雄の傑作SFの「ノスタル爺」が思い浮かんでいたのですが、のりちゃん(浜辺美波)めちゃ可愛いじゃないですか。異世界転生して、奴隷の可愛い女の子を買ったとか、そういうシュチュエーションなわけですよ。大石典子も明子も戦争で全てを失って、彼が捨てたらもう生き残れない状態なんです。主体的な意思ではないけれども、この二人を慈しんで、愛して家族になっていく様は、映像と時間の流れから、痛いほど痛切に伝わってきます。戦後の復興で、全てが瓦礫になった自分の実家で、バラックを立て、そして新築の家の建てて「家族」になっていく。その過程が、ゆったりと、微細に詳細に描かれていく。愛する人を、大事なものを全て失って、お互いしか頼るものがない切なさを抱えながら、大事なものを見出していく過程が、美しく描かれている。


でも、驚いたんですけど、これだけの月日一緒に寄り添って暮らしていて、敷島浩一は、典子を抱いていないんですね。僕は、二人が隣同士で寝ているのに、バラックの4畳もないんじゃないの?というような狭いスペースに、わざわざカーテンのようなものをひいているんですね。え???って思いましたよ。そこから、なんで抱いてないの?って凄い疑問に思えてきてしまって、頭の中で膨れ上がってしまいました。


敷島が、主体的に「父親」を演じないのも、まさにこれです。明子に、「お父ちゃん、、、」と呼ばれて「お父ちゃんじゃない」ってストレートに返すのなんか、震撼しますよ。だって、名実ともに「父親」として彼女の人生を全て守って生きているのだもの。周りの唖然とします。あの戦後の苦しい中で、どれほどの苦悩があり、どれほどの生活苦の中で、なんの関係もない明子を我が子として守って慈しんでいるのに、なんの感情もない声で「俺はお父ちゃんじゃない」と幼子に返すのです。聞いてて涙が止まらなかった。


だって、それほどに、彼は「逃げた」ことが苦しいのだもの。


だから、典子と家族になる、抱くことができない。お父ちゃんと呼ばれることを肯定できない。


彼は、救われることができないんです。


この、人間ドラマの前半パート、神木隆之介くんの演技が、あまりに素晴らしく、なんと言っていいかわからない。言葉を失う見事な演技でした。特に、典子(浜辺美波)に、「あなたの苦しみを私にも背負わせて」と言われるシーンに対する答えの流れに、感動しました。脚本と演技がマッチしていないと、これをここまで自然に描けない、、、と。


「戦争が終わってないんです」


と、彼は、答えるんです。そして、この言葉に行き着く彼の、それまでの異様に長い人間ドラマパートのシーンの積み上げが、胸に突き刺さります。


ただ、ここでもさらに、見ている僕は、????という疑問がずつと浮かんでいました。


ゴジラになんの関係があるの?という意識です。脚本的には、敷島浩一が「ゴジラと戦う動機を形成する」ことに納得できればいいので、こんなに長尺をする必要があるのか?と。庵野秀明が、ここのパート長すぎない?と指摘しているのは、至極もっともだと思うんです。では、この敷島浩一の苦悩は、いったいなんなのか?と考えると、明快に「特攻帰還兵の苦悩」なわけです。何の物語かわからなくなると僕は書きましたが、映画を見ている最中、全然違う物語が頭に浮かんでいました。


山崎貴監督の『永遠のゼロ』です。


百田尚樹の原作小説のこの物語は、まさに特攻を描いた物語でした。正確に僕の頭の中を描写すれば、ゴジラを見にきたはずなのに、日本のゼロ戦特攻を描いた戦争映画を無理やり見せられているという感覚でした。


何で、こんな構成にしたんだろう?


しかしラッキーにも、今年、直近で山﨑貴監督の分析をしたくて、『永遠のゼロ』を細かく分析たばかりでした。この作品の評価のポイントは、詳細はかなり端折りますが、百田尚樹がラストシーンに置かなかった演出を「意図的にしている」点です。岡田准一が、最後のにアメリカの艦艇に特攻をする時に、「ニヤッ」と笑うんです。この「笑い」をどう評価するか。この評価を、主人公宮部久蔵が、パイロットとして当時事実上の世界最高峰の戦闘機乗りとしての操縦スキルの全てを、その天才性を見せつけて、全て発揮できたこと、その「傲慢なる個人のエゴイズム」の喜びと評価しました。これは山崎貴監督の作家性が強烈に出ているポイントでした。なぜならば、この原作小説や物語自体は、主人公宮部久蔵が「家族のために生きて帰る」ことを主軸に描かれていたからです。いいかえれば、百田尚樹のコアの主張を全て塗り替えてしまったことになるからです。しかも、その一瞬以外、全て見事なまでに原作を映像化している職人的な安定度の果てに。伝わりますでしょうか。ようは、宮部は、本当は自分の戦闘機乗りの才能を見せつけたい!その喜びを発揮したい!という個人主義的なエゴイズムの塊の人間なのに、ずっと、家族のためだと嘘をついて我慢して生きてきたという話になちゃうんです。ここで僕とLDさんが合意したのは、


人間がなんのために死ねるか?の答えです。


自分の才能を、、、、当時の空母赤城の戦闘機パイロットとして真珠湾攻撃に出る操縦者は、間違いなくダントツで世界一の技量を誇ったでしょう。それを、十全に発揮したいという、個のエゴ。家族のためというのは、言い換えれば、公(おおやけ)のため、国家のために死ぬことの延長線上です。大きな違いはありますが、「自分のためではない」という意味で同じです。僕らは、戦後民主主義の時代を生きた、昭和後期の、平成世代の、人間にとっては、最も大事なのは、個人という意識があるからです。


これは、凄まじい作家性です。『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』で好き嫌いが非常に分かれたのは有名ですが、山﨑貴監督の本質は、この原作やオリジナルの「何がこの物語の本質か?」と考え尽くして、その本質から絶対に逃げないで、自己の解釈を入れて自分オリジナルにするという作風を貫いています。ここで重要なのは、自分のイデオロギーや意志が入っていないこと。『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』でも『永遠のゼロ』でも、この物語のコア(=本質)は何かと問えば、「そこ」に分岐点があるのがわかる。その分岐点を、オリジナルと変えてくるのです。そうすることで「映画という別媒体にした意味」が出てくるというふうに彼は考えているのではないでしょうか。

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話が少し、それているように感じると思いますが、山崎貴監督の作家としての本質は、それだと思います。


では、話を戻しましょう。『永遠のゼロ』という特攻兵士の物語を描く時に、重要なイデオロギー的論争点は、さきほどいった


人間がなんのために死ねるか?


戦後の反戦映画そして、戦後世代日本人の国民的な合意の意識は、


国家の暴走のために死ぬのは真平だ!、最も大事な個を蔑ろにする国家やブラック大組織を許すな!


です。これはいうまでもない実感で皆さんになると思います。もう少し言い換えれば、全体主義的な「コントロールできないもの」に個人を踏み潰されて消費されるのは、許せないという自然な感情です。


しかしながら、この戦後民主主義の思想のコアにして原点に対して、たぶん直近30年の平成の世代を通して、そして令和に向かう現代のは、バックラッシュが起きています。百田尚樹が非常に支持されたことや、小林よしのりの『戦争論』などから明確に出てきたのは、


人間が公のため、国家のために死ぬことは美しく、意義あることであり、それを否定してはいけない


という保守右翼的な思想です。この感情のコアがどこにあるかというと、新旧2つあると僕は思っています。


旧:戦前の大日本帝国は間違っていなかったという父祖の近代化の努力を肯定したい気持ち

新:中国の台頭により日本がアジアの大国から中国の衛星国になる現実を前に、そもそも弱い僕ら(日本人)が、大国である中国に立ち向かおうとするならば、全体主義的にみんなの力を合わせなければ、奴隷に成り下がるという危機意識


です。これは実は両方とも同じことなのですが、感情のラインは全く違いますよね。これで世代が分かれるようです。旧は年寄り、新は若い世代。


ちなみに僕のイデオロギー的な立場ですが、、、、これらの左翼的なもの、右翼保守的なもの、どちらもコアは「自然な感情の発露」なので、イデオロギーを廃して考えれば、どれも非常にシンパシーを感じます。それが平均的な日本人だろうと僕は思います。


つまり、特攻兵士の気持ちを描こうとした時に、百田尚樹の小説でも、山﨑貴の映画でも、どちらも究極の批判としては、1945年を生きた特攻の兵士に対して、「個の価値が最も高いものである」「国家や公など身がないゴミクズで、そんなものに従うぐらいなら逃げるのが正しい」という現代の倫理観で、裁くこと、物語を構築することは、ちょっと無理があるという点です。日本の戦争映画もののもつ、左翼的な戦争批判文脈で描くのか?、それとも右翼的な戦争賛美の視点で描くのか?というお決まりの二元論的な問いには、常にこのような問題意識がビルトインされていると僕は思っています。この問題意識では、常にイデオロギー的な水掛け論いなって、空中戦が行われます。一言で言えば、右翼と左翼、どっちが正義か?という論争をしているわけで、意味がないことは、よくわかると思います。正義論争は、「自分の気持ちと感情こそが正しい」と言い張っているだけですから、何一つ前に進みません。下品に相手を否定し合うだけです。


さて材料が出揃いました。


人間がなんのために死ねるか?、このテーマが特攻兵の物語を描く時に、常にアンビバレンツな感情を日本人に引き起こしてきました。父祖の、僕らの血が繋がる先祖たちの偉大な努力を否定したくない、故郷を、愛する家族を守るために公にコミットして、自らを犠牲にした人々を、尊敬したいという自然な気持ち。そりゃそうですよ、誰しも自分の存在を肯定したい。しかし、個を踏み潰す国家の暴走への嫌悪、国家というものが醜悪に個人をすりつぶして利用してゴミ屑のように捨ててきた事実に対する恨みと怒り。特攻などという合理的に意味のないことへの強制の怒り。


これを、『ゴジラ-1.0』は、どう描いたか?。海軍少尉の敷島浩一の人間ドラマ、そのドラマトゥルギーに焦点を当てることは、これに結論を出さなければなりません。


これを分析するにあたり、またさらに「遠回り」をして、ペトロニウスの分析を聞いていただきたいです。この材料を揃えて俯瞰すると、このアンビバレンツな感情を両立させるために、


現代の価値観(個人が最も大事) VS  当時の価値観(国家や公共への貢献が個の価値に勝る)


をどういう風に、「観客の感情移入を導くか?」に難しさがあるのがわかります。単純に現代の価値観で描くと、わかりやすく感情移入できますが、それだと「過去の人間を現代の視点から断罪している卑怯な見方だ」という意見には、とても正当性があると僕は思います。永遠のゼロの宮部久蔵は、最初から「国家や戦友よりも家族の方が大事」というとても現代的な価値観で設定されていて、そもそもなんで、そんなあり得ない状況になったかが不可解になってしまいます。だから山﨑貴監督は、実は「家族のため」というのは嘘(全てが嘘ではないにしても方便)で、実は自分の世界最強の操縦の技量を試し尽くし発揮したいという「個のエゴイズム」を全て満たすことができたので、あの最後の「笑い」に繋がるのだという構成に作り直しているのです。しかしそれでも、やはり、個人と国家では、国家が大事な世界に生きていて、その超人的な「自意識」を維持させるのは、実際は不可能でしょう。


ここでは、問題意識をさらに抽象化して抽出すると、個人が、国家や全体に貢献するためには、どういうやり方が正しいか?という問題意識が隠れていると僕は思うのです。


どういうことでかというと、僕はこの問題意識を『海賊とよばれた男』の映画を見ていて感じました。これは出光佐三という出光興産の創業者の物語です。この人のカリスマ性は非常に凄く、物語のクライマックスは、イランで戦争寸前の状況の中、英国東洋艦隊の海上封鎖を潜り抜けて、石油売買をするという「日章丸事件」なのですが、この詳細の解説ははぶきます。問題は、ほとんど戦争状態の最中、イランまで石油タンカーを航海してこいって、いうことを、言い換えれば「命をかけていけ」という命令を、何を根拠に出したか?、なんで人々は社員たちはそんなブラック真っ青な命令に従ったか?というテーマが隠れているわけです。百田尚樹もここに興味があったから小説化しているのではないかと僕は思います。


しかし、これは僕は、悪手というか、説得力がなかったと思っています。出光佐三という人は素晴らしい起業家ですが、あまりに凄すぎるカリスマです。これは言い換えれば、人は、カリスマ性の前では奴隷のように従うと言っても過言ではないからです。言い換えれば、「個人の命よりも大きな大義のために命を賭ける」ためには、カリスマによる命令がいると言っているに等しい。これは、では、オウム真理教による事件を経験した現代の我々には、カリスマによる支配が、良い方向にふれるか悪い方向にふれるかなんか、偶然のようなもので、新興宗教による支配が、国家による支配に勝るとはいません。


はてさて、ここまでの問題意識の文脈を見ていくと、人間が、全体主義的なもの(=個よりも価値があると主張する何か)、もう少しよく言えば公、公共(パブリックバリュ)にコミットするためには、どうすればいいか?という問題に収斂しているのがわかります。


敷島浩一は、この国家のために、公に自己犠牲して貢献することから「逃げた」ことに苦悩しているわけです。彼にとって、命を賭して、公共のなるものに貢献する機会がないと、戦争が終わらないと言っているわけです。だから典子を抱けない。家族になって、次の人生を生き直すことができない。これは、うまいと僕は思いました。なぜならば、神木隆之介くん(敷島浩一)の演技について言及しましたが、このミクロのテーマ、個を大切にする現代人、現代の倫理や感覚を持つ僕らは確実に「逃げる」ような、と思うところからスタートするこの物語のドラマトゥルギーは、僕らの世代的(私は40代後半)には、どうしても庵野秀明の逃げて、逃げて、逃げまくった碇シンジくんのキャラクターを連想してしまいます。そして、その果てに大人になった現代の僕らに接続するシンジくんは、シンエヴァの映画で、神木隆之介くんの声でしたよね。この「連続性」って、どう考えても狙っているでしょ!ってめちゃくちゃ思いましたよ。そしたらテーマ完全接続するもの。


つまりですね、なぜ特攻をしたのか?という問いに対して、現代人の価値観から断罪した場合どうなるか?ということを詳細に積み上げているんです。敷島浩一(神木隆之介)は、特攻なんて怖いして意味ないので、「逃げて」しまうような、異様に現代的な青年です。またゴジラを前にしても、ゼロ畝の基準を恐怖に竦んで打てないくらいに、弱い青年でした。これは現代の我々です。シンエヴァの果ての、神木シンジくん、そのものでしょう。そんな彼が、逃げて、逃げて、逃げた結果どうなったか?。


自分の人生を生きれなくなってしまったんです。「戦争が終わらない」んです。このことは、大石典子(浜辺美波)に、ゴジラの熱線(原爆そのものと同じ描写ですね)の被害に遭う瞬間に、押されて命を救われた結果、彼女を失ってしまうことで、さらに激しく強調されます。この喪失感。彼が覚悟を持って現実を生きていなかったが故に、愛する最も大切な家族を失ってしまいどうにもならなってしまって、彼は、逃げてきたことが間違いだったことに気づきます。ああ、そうか、シン仮面ライダー浜辺美波綾波レイやアスカをミックスしたキャラクターと言われていましたっけね。。。ようは、状況によっては、公や組織レベルのものにコミットして自己犠牲をしなければ倒せないほどの「巨大なコントロール不可能なもの」ってのがこの世にはあって、それに、立ち向かわなければ、愛するものを全て失う可能性があると言っているんです。そしてこの、愛するものを失った後悔と怒りから、敷島浩一は、死場所を求めはじめます。そう、特攻です。大事なもののために、命をかける捨て鉢な気持ちが生まれるのです。


ここでは、現代的な青年(我々)であっても、「圧倒的にコントロール不可能な暴力」に直面した時には、命を捨てる(=特攻する覚悟)に追い込まれることが自然に描かれています。少なくとも、僕はとてもシンパシーを持って、敷島浩一に共感しました。神木隆之介=大人になった碇シンジくんでもあるわけで、簡単に感情移入できます。ここにおいて、「現代の我々の倫理観や感覚」であっても、簡単に追い込まれて特攻する状況になりうることを描くことで、現代の我々と、我々の祖父、祖母の世代の感覚とが、ここでやっとシンクロします。これらの構成が、全て繋がっていく様に自分は鳥肌がたった。また、この人間ドラマのパートは、間違いなく色々いう人がいると思うが、予定調和を狂わせる意味でも最高だし(未見性のセンスオブワンダーに連れて行ってくれる)、その構成の意味がわかったら、いやはや圧巻ですよ。ここでミクロのテーマとして、人間が特攻する、公共や国家に貢献するようになる、、、、現代の我々から見ると不可解な感情が、丁寧に再現されています。これはゴジラへの「恐怖(=コントロール不可能な圧倒的なものへの畏怖)」が深ければ深いほど、


個人である自分のような「ちっぽけな存在」には、どうにもならない無力感で、さいなまされます。



ここでマクロの話に行きたいと思うのですが、書くのしんどいので、この辺は軽く流します。Youtubeの解説では詳しく説明しているので、そちらをぜひ。


ゴジラの物語群は、本多猪四郎監督のゴジラ(1954年)からはじまり、どうにもならない圧倒的な自然や暴力のメタファーとしてのゴジラに対して、どう闘い解決したかというと、オキシェンデストロイヤーという個人の才能と発明によってでした。これは僕らの現代的な感覚では、とても昭和的です。

このゴジラに対抗するには、個人の才能、もしくは大自然には大自然で戦う(海底噴火に巻き込まれツ死ぬとかそういうやつ)

こういうオリジナルの設定があるのは、本多監督の時代にあるテーマが、直近で経験した戦争のへの反戦意識、原爆の被害からの反核意識がテーマにあるので、「人間の手で解決する」という視点を入れてしまうと、どうしても自然災害級のゴジラに対抗するには「国家が必要」になってしまうからです。これは、WW2で大負けした日本人いとって、戦後民主主義の呪縛とも言える意識で、「国家の暴走を許さない、常に危険視する」が故に描かないというエンターテイメントの呪縛がありました。これを打ち破って、「国家や組織が動員されて、大きな災害に対して、打ち勝とうとする様」にターゲットを当てた物語こそ、庵野秀明の『シン・ゴジラ』でした。だから、圧倒的にマクロの状況や組織を描いているので、「人間を全く描かない」方向に舵を切ったわけです。テーマが、組織や、それの代表格である国家と軍隊を肯定的に描くことになるわけですから。

同じゴジラというフォーマットであるからこそ、なるほど庵野秀明が人間を描けないと叫んでいた岡田斗司夫の評価が、頷ける。違いが明確に出ていますよね。庵野秀明さんは、ゴジラの物語をリブートするにあたって、自分おオリジナル性を、、マクロの最後位に対して、日本では描かれてこなかった「組織を使って戦う」という全体の公に対して、人の意識や構造が収斂していく様を描いたわけです。その代わりに、人間を捨象してしまった。もちろん、この物語としては、それは大正解の決断だったわけですが。だから、山﨑貴監督と庵野秀明監督は、同じ問題意識に対してマクロとミクロで異なるテーマで追求したように僕は感じるので、戦争のマクロが描きたい庵野秀明と、それは語られてしまったからこそミクロの人間を描こうとする山崎貴のアンサーを感じます。


結論的に言えば、反核反戦というゴジラの主テーマに対して、『シン・ゴジラ』も『ゴジラ-1.0』も、圧倒的な自然災害や戦争(=マクロの状況)に対して、組織(軍隊と国家)で対抗する物語を、2010-20年代の新しい新世代の物語としてリブートして描きました。しかし、『シン・ゴジラ』は、2010年代でまずは国家と軍隊を描くというブレイクスルーを成し遂げました。しかし、これだけでは、戦後日本が持つ呪縛である「全体主義的なもの(=国家)のためには命を捧げたくない」という個人の価値を祝福する現代的な感覚を超えられない。そこで、ミクロの物語として、国家がなくとも、現代的な感覚や倫理観でも、「大事な人を守る」という人間としての原初の感覚から、現代の逃げたがり屋の青年が、公のために命をかける物語的感情ラインを納得させるミクロの物語として、『シン・ゴジラ』にかけていたピースを完全に埋めたのでした。


この記事は、11/3の直後に書いていますが、僕の予想では、この『ゴジラ-1.0』は、アメリカで大受けするのではないかと感じています。これ予測なので、当たらなかったら、僕の考え方が悪いのでしょうね。というのは、『ゴジラ-1.0』は、現代的な日本のエンターテイメントや思想文脈で言えば、現代の青年が、特攻をすることを肯定する話になります。なぜこれがアメリカで受けるか?。アメリカは、実は特攻の物語は、非常に大好きだけど大嫌いだというアンビバレンツがあると僕は思っています。それは、アメリカ人は、「家族や仲間のために自己犠牲する話」は、死ぬほど好きなんです。「国家のために自己犠牲する話」は死ぬほど嫌いなんです。とすれば、国家的な要素を抜いて、家族のため日本を守るために自己犠牲して特攻する『ゴジラ-1.0』は、アメリ直人的にはスーパーフイットする話だと僕は予測するんですよね。まぁ日本の作品が、言い換えれば外国映画がアメリカでヒットすることって、全くないので、興行の構造的には全く無理なんですが、、、、なんかいくんじゃないかなって、僕は思っています。


しっかし、ミクロの人間の部分が主軸のテーマだと思うのに、この圧巻のVFX。戦争をマクロで映像化する技術の熟練は、もうなんというか、すげぇ。僕の中では、『永遠のゼロ』『海賊とよばれた男』『アルキメデスの大戦』など山崎貴の日本の戦争ものシリーズの総決算にして、そこで問われていた問題意識の全てのアンサーになってもいる。文脈的には『シン・ゴジラ』とこれらのフォーマットをスタート地点として「ゴジラとは何か?」と真摯に問い、そして、日本の戦争映画もののもつ、左翼的な戦争批判文脈で描くのか?、それとも右翼的な戦争賛美の視点で描くのか?というお決まりの二元論的な問いの持つ限界を、見事な止揚で超えている。まじで、これってすごい「答え」の作品じゃないか?と驚きを持って今も、興奮が覚めない。


いやはや、最高でした。初日に日比谷TOHOのIMAXで親友たちと見れたのも、良かった。最高の映画体験でした。