『青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない』2018 増井壮一監督 学校空間における友達との「同調圧力」に対する恐怖がめちゃ感じる

青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない 1(完全生産限定版) [Blu-ray]


評価:★★★★4つ-
(僕的主観:★★★★4つ+)

2019年8月末。レスター伯爵におすすめされていて、ずっと、積まれていたこれ。風邪ひいてしまって、毎日のルーティンができる気力がない時に、一気に見てしまうのは毎度のこと。1日で全部見ました。えがった。「よかった」というのは、人それぞれで、けっこうテキトーな言葉なんですが、かといって「言葉でにできるところ」や「気になったところ」というのは、部分なので、どこに注目するかというのは、なやましいところなんですが・・・・・全体的に「良かった」という感想の基礎に、ずっと「この作品はいつからいつまでに描かれた作品なのだろうか?」ということととそれに関連して「このテーマというのは、2010年代通してとても注目されていたやつだよなぁ」というちょっと古さというか、少し以前のテーマのイメージを感じていました。ちなみに僕は、アニメ一期と小説が6巻まで、しか見ていません。映画まだ見れていない。。。


■学校空間における友達との「同調圧力」に対する恐怖というテーマ


えっと、何を言っているかわからないと思いますが、、、整理すると、著者の鴨志田一さんは、2014年から現在2019年9月で既刊9巻まで出ていますね。えっとね、アニメを一気に見ている時に、この作品世界の大前提でずっと、思っていたのは、、、、



学校に通うって、空気を読むって、なんて怖いことなんだろうということでした。



作品世界でのすべての人の悩みが、学校空間における、友達との「同調圧力」に対する恐怖です。この作品のSFというか「物語の種」になっているのは、思春期症候群という現象?、病気?ですが、これの原因が、梓川咲太、桜島麻衣、古賀朋絵、双葉理央、梓川花楓、最初のテーマは、これでもかって「学校の友達関係で空気を読む読まない」という話が脅迫観念で語られているのがわかる。

青春ブタ野郎はプチデビル後輩の夢を見ない 『青春ブタ野郎』シリーズ (電撃文庫)


特に、古賀朋絵の2巻の『青春ブタ野郎はプチデビル後輩の夢を見ない』は、なんというか、大前提として、学校生活における「友達関係で空気を読まないといじめぬかれる」という「大前提」が、なんというか、告発も疑いもなく「所与のもの」として、当たり前のものとして批判もなしにあるところは、けっこうぞーっとした。アニメは、とてもきれいに完結していて、妹のかえでのテーマが、アニメには一本筋がとおっているのですが、かえでのテーマには、いじめですよね。いじめで、精神をぼろぼろにされて、ひきこもった話。これに兄貴の咲太(この物語の視点の基礎)が影響受けている、兄貴の、、、言い換えれば家族に対する影響の話にもなっているところが、アニメのまとめ方はいいなーとしみじみ思うんですが、、、、これ、かえでちゃんはめちゃかわいいし、兄貴の咲太くんがめちゃいいやつなので、素敵な物語、ライトのノベル風に、になっているけど、客観的事実を考えるぞ、ぞーっとするほどひどい話ですよ。学校空間の同調圧力によるいじめが、極端に進むとどこまで行って、本人と家族をどれほどまでに追い詰めるかを、すべて描いているんですもん。これ、物語だから「どこかで解決するだろう」という期待があるからいいけど、これ「実際にあったら(もちろん世の中にはあふれている話)」とんでもない地獄ですよ。家庭崩壊、本人の人生崩壊の物語ですから。。。そして、それはどこにでもある普通の光景ですよ、日本では、、、、。


自分に引きつけて考えると、毎日、ほんと神様?かなんかわからんけど感謝したいな、としみじみ思うのは、いまんところ、うちの子供たちは、そういうやばい出来事は起きていないってことですよ。僕も父の転勤で苦労したけど、たいへんだったの北海道から東京のくらいなもんだけど、うちのちびたちは、日本の中だけでなく、アメリカと行ったり来たりしてるし、、、。子供を育てて思うのは、「他人はどうにもならない」ってことです。自分ですら、仕事でちゃんと生きていけるのか、とイライラするけど、それは「最後は自分が破滅でも何でも受け入れる」覚悟を持てば何とかなります。でも、家族は、特に子供は、どうにもならない。でも、頭くるったやつがクラスメイトのなるとか、「空気」とか、もうどうしていいのか、さっぱりわからない。しかも「自分じゃない」出来事は、手助けするにしても限度がある、、、、どこかで、本人が戦うしかないんだけれども、どんな狂った出来事にあるかどうかは、もうすべて運だよな、、、としか思えない。でもそれによって、引きこもったりしたら、家庭崩壊ですよね。。。。生きていると闇がぽっかり穴をあけていて、いつそこに落ちるかわからない、、、そう思うと、生きるのが怖くなります。ちなみに、うちの息子は、かなりのコミュニケーション強者で、スクールカースト上層部の人っつぽいで、、、なんで、こんな子に育ったのか意味不明なんですが(やっぱサッカーとかチームスポーツ好きだと、こんなふうになるのかなぁ、、、としみじみします)、、、そんな彼でも、常に、空気は意識しているようなので、まぁ恵まれている立場にいたからといって、「楽なわけじゃない」というのは、どこも変わらんなとしみじみ思います。しかも、アメリカの学校でも日本の学校でも、どっちでも、まったく「空気読む」なんてどこもある話で変わらないよ、としみじみ語っていますから、うちの息子。うちの息子曰く、英語できない人が、ただ単に空気読めないだけで、できるようになると、めちゃくちゃ「読まないとやばい」空気あるよ、とのこと。


ちなみに、この話は、鴻上尚史(こうかみ しょうじ)さんのこのコラムを凄く思い出します。いつも。鴻上さん、素晴らしい世界観というか世界観で、いつもグッときます。でも、この視点は、日本の視点だよなぁ、としみじみ思います。


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話が自分日記みたいになったんですけど、戻すと、2010年代の、この10年間ぐらいのライトノベルを主軸とした物語のテーマとしてこの学校空間の地獄をどう抜け出るのか?というテーマが、ずっと生きているよな、と僕が考えていることとリンクするんですよね。で、このテーマのパラフレーズというか、さまざまな同工異曲というか、こうした時代の問題意識に対して、様々なサブテーマが展開して、その系を追い詰めて生きていると思うんです。そして、ライトノベルが、日本のエンターテイメントの主軸であった時に、この問題意識はだいぶ、様々な結論に到達していているな、と。問題が解決したわけでも、解決の処方性ができたわけでもないんですが(笑)、認識は前に進んだし、時代の主要テーマは、既に「そこ」にはないなーと。新海誠監督の『天気の子』もそうでしたが、セカイ系の結論に、物語として、到達している。そういう作品が多いので、この1900年代後半くらいからの25年くらいかなぁ、のテーマはだいぶ終わりを告げている感じがするんですよねぇ。


『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』8‐9巻 渡航著 自意識の強い人が、日本的学校空間から脱出、サバイバルする時の類型とは? - 物語三昧~できればより深く物語を楽しむために


ええと、まだまとまっていないけどメモ的に


1)恋人がいるよりも友達がほしい
結局、恋人や友達がいたところで、「自分」が何をしたいからわからないと充実は訪れない

2)友達というのは同調圧力の奴隷ではない
「ほんとうの友達」という虚偽問題~ぼっちであっても、いやむしろぼっち(=自分がやりたいことを知る)であることなしに「ほんとうの友達」はできない。だからぼっちと非ぼっちの対立構造を意識すると、人生が地獄になりやすい。

3)リア充と非リア充の対立は思い込み、どっちもしんどいのには変わらない
  非リア充が敵だと思ったら負ける。むしろより大きな問題を解決する同盟者だと思わないといけない。モテと非モテの構造対立も同じ。リア充爆発しろと叫ぶとき、自分の人生が詰んでいます。敵ではなく同盟者だと考えないとダメ。
  
4)スクールカーストの構造に永遠に閉じ込められる恐怖感
どうやったら、そこから抜け出ることができるの?~いつまでも同じ時間が続くかないことを認識しないと人生詰む。解決方法は、卒業。もしくは、学校空間以外での関係性や目的を作ること。ちなみに、日本的学校空間が、同調圧力の地獄であるのは、構造的問題なので、変えようがない。

5)自意識の、ナルシシズムの地獄から抜け出すにはどうすればいいのか?
偶然の連鎖がそこにはあるが、しかし「何か!」がありそう。まだそれが見つけ切れていない。しかし、「自分が変わることなし」に、「世界」が変わるというのが重要なポイント。自分が変わらないのに、結果(取り巻く世界が変わる)が変わるという意識は、小説家になろう異世界転生テーマと一致する2010年代の文脈的テーマ。
 

僕は友達が少ない』『ココロコネクト』『俺の妹がこんなにかわいいわけがない』『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い』 で、ずっと考えてきたことでした。


それぞれに、様々な具体的な処方箋、認識の展開がなされています。


なので、ずっとこれを追ってきて、2019年現在のペトロニウスとしては、この学校空間の地獄からどう抜け出すか問題は、なんというか、最前線じゃないなーという感じがしていたんですよね。最前線だったのは、2010年代の前半。もちろん、さっき話したように、日本的同調圧力の地獄、学校空間でそれが何億倍(苦笑)にも増幅されるという日本社会の構造がなくなったわけではないので、この問題が消えてなくなったわけではありません。けれども、エンターテイメントの、時代的に誰もが、「それが最前線のテーマだよね」という認識は、なくなっている気がします。なので、青春ブタ野郎のテーマが、ちょっと古いな、と感じたんです。けど、これが2014年であれば、最前線の問いですよね。なので、いつの時代なのかな?と思ったんです。


で、時代依存の文脈的なテーマの展開は、メディアミックスでは、5年くらいのずれが常にあるし、ある文脈的なテーマが終わったからこそ「大きく表に出てくる」ということはよくあるので、これもそういうものなのかなぁ、と思いいました。



■具体的な風景とノスタルジーを喚起する青春時代の思い出は、どこからくるのだろうか?


という文脈の話は、いったんおいておいて、、、まだ小説を読み切っていないので。



これ、レスター伯爵が好きだ、と聞いていて、きっと、面白いんだろうなーーーというのと、きっと「青春ものとしてキラキラしているんだろうなー」という予感がありました。Twitterで、savaさんが聖地巡礼をしているのを見て、僕も、神奈川周辺には住んでいたことがあるので、なんかいろいろ刺激されたので、今回アニメを見たというのがあります。見るものが多すぎるので、やっぱりタイミングと、友人に紹介されるというのが、大きなトリガーになりますよね。



えっと、上の「文脈の分析」見たいのは、なんというか批評家スタンスなんですよね、なんか「見つけよう」とか「自分の持っているテーマに引きつけよう」とかしていること。それはそれで、面白いし、様々な他の作品との関連性や、物語の構造をどういう「そうとして理解して」何をテーマに、何に応えようとしているのか、とかそういう「分解、分析」が、言い換えればしゃべるのができるようになるので、それはそれで楽しい。いつも思うのは、そういう風に「分解しよう」とか「テーマを見出そう」とかすると、自分が感じたことを捻じ曲げて見ないようになったり、テーマ(自分の思い込み)を補強するため「だけ」に物語を見るようになってしまうので、それはだめだなぁ、といつも分離しておこうと意識している。批評家スタンスの罠だと思っているんですよねぇ。あと、「語るに足るべきこと」や「現在のアドホックな現象や主張」に無理やり合わせるようになると、なんだか、バランスが悪くなりやすいんですよねぇ。自分の持っているテーマが、既に古いかも、とか、間違っているかも?という、意識なしに作品を見ないとだめだよなぁといつも思う。文脈とか問題意識って、数年すると、構造の根本から前提が変わって、まったく反対になったりするので、そういう意識がないと、世界にとてもおいていかれる。


えっと、まぁ、背景はいいとして、、、、


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色づく世界の明日から Blu-ray BOX 1


なんというのかなぁ、、、『色づく世界の明日から』を見た時と同じような感慨があるんですよねぇ。


あと、友人のレスター伯爵と話していると、いつも彼の田舎の、学生時代の青春と友達の話に、話が到達するんですよね。彼が、「そこ」に支えられて生きているのが凄くわかる。そこが原点であるのも。その時の日常が、彼にとってとても大切なことも。そして、同時に、僕には、そういった「青春の思い出」が何一つないんですよねぇ。うらやましくて、時々、めちゃ妬ける。。。少なくとも、憧憬やノスタルジーを持つような青春は僕にはありません。ひたすら、つらいだけの学生時代で、二度と戻りたいとも思えなし、それが人生の支えになったこともありません。あ、、、「二度とああはならない」という激しい動機はあります(笑)。学校空間というのは、僕には、一言で言って地獄以外の何物でもなく、しかも友達も一人もいませんし、いまに至るまで一人も残っていません(笑)。家族の関係も最悪でしたし、とにかく、早くこの地獄が終わらないか、毎日、遠い目をして空を眺めるか本を読む子供でした。なので、こういう物語を観たり、キラキラした地元の、、、子供時代の思い出を持つ人が全く理解できないんですよね。なので、ある種、ファンタジー(現実にはあり得ないもの)として、楽しんでいる感じがとてもします。でも、そんな僕にも、一つだけ青春というか、凄く大事な風景があって、それって、鎌倉とか神奈川のあの辺の風景なんですよねぇ。というのは、奥さんがまだ恋人だったころ、時々デートしたことが、忘れられないようなんですね。あと、新婚の頃、二人で関内にも住んでいたし。あ、、、書いてて分かった、、、僕は、たぶん、友達に全く期待していないんだ(笑)。。。少なくとも、学生時代に友達やそういうものが、何か幸せな自分に結びつくとは、全く信じていなかったし、そんなかけらもなかった。僕が、友達ができた!と思うのは、30も半ばすぎて、、、こうしたオタク友達ができてからであって、なので、僕にとって、「幸せになること」は、「好きな女の子と出会うこと」以外のなにものでもないんだなぁ、、、。うーむ、、、そかぁ、、、僕にとって青春時代の「ノスタルジーを喚起する風景」というのは、大学時代や社会人の最初の頃の奥さんと恋人だった時のデートの記憶だけなんだなぁ、、、。これ、ちょっと発見かも。なので、学園日常ものに全く共感がないんだ。。。ちなみに、『色づく世界の明日から』や『天空のエスカフローネ』が、胸に響くのは、自分がものすごく深く愛した女の子に、「二度と会えなかったら」という喪失のテーマがあるからなんだろうと思う。自分にそんなことあったら、どうなるかと、寒気するんだろうと思うんですよね、、、、。うーん、ちょっと自己発見。僕にとって、救済って、好きな女の子と出会って結ばれることなんだな、、、。あと、たぶん、僕にとって「楽園の日常」というのは、仲のいい友達と戯れることではなくて、好きな女の子との思い出なんだろうねぇ。しかも、僕は、その人と結婚しているから、基本的に青春やノスタルジーが奥さんとの思い出とリンクしている。。。これは、物事を見るときに、物凄いバイアスになっているなぁ、、、いま気づいたけど。。。よく考えると、奥さんとの思い出深いデートって、全部、横浜か鎌倉だ、、、。あ、あと、遠距離恋愛してた名古屋だ。。うぉっ、そうか、、、宮原るりさんの『みそララ』がめちゃグッとくるのは、あれ、名古屋の駅前だ、舞台、、、。なんか、めちゃ気づきだった。。。まぁ、すみません、読んでいる人にはどうでもいい話ですねぇ、、、(苦笑)。


でも、これ、物語に「何を期待しているか?」というのの個人によって、かなり分かれてしまうってのの理由をよく示している具体例だと思う。


えっと、なんというのかなぁ、、、、住んでいる土地って、僕、あまり興味ないんですよね。子供の頃からよく転勤してたし、社会人になってからは、さらに転勤激しくて、まじで世界中どこに住むか、ってなんか、もうどうでもよくなってしまって。仕事の都合、妻の都合、子供都合で、別にどこでも行けばいいじゃん、という思いがある。自分が、アメリカのめちゃ広い家にも、日本のうさぎ小屋的マンションで、子供に部屋をあげたら自分にプライヴェートの空間がないとかの状況とかでも、どっちでもほとんど気にしない。そういう意味では、こだわりがほとんどない。あと、どこに住んでも、そこが幸せで好きになってしまうので、さらにこだわりがない。まぁ、人間動物だし、慣れるでしょ、的なイメージがある。だからこそ、というのはあるけど、「ノスタルジーを喚起するような故郷が欲しい」的なないものねだりも同時にあるんですよね。けど、そもそも、あんまり土地にこだわりがないので、そういう気持ちを喚起する「差異」がよくわからない。この辺りの「故郷が欲しい」という意識と「グローバルシティズンとしてどこへでもいく」という意識は密接だし、たぶんこれから重要な社会問題のテーマになっていくんじゃないかと僕は思っています。というのは、「住む場所に縛られている人」と「縛られない人」の対立、新興住宅地や都市化による住民(や移民)の流入がもたらす、新旧住民の絆の破壊は、これからのまさに最前線のテーマだろうと思うので。

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あっと、話がマクロにいってしまった。えっとね、要は自分には「故郷の風景がない」ということがいいたいんですね。まぁ、まだ自分には地元があるほうだと思いますよ。それなりに長く縛られて住んでいた場所がありますから。けど、もう数年もすると、人生で一番長く住んだところは、アメリカのカリフォルニアになるんじゃないでしょうか、、、。思い入れ、がないんですよね。東京の風景にも思い入れがなかったです。けど、、、最近、自分の住んでいた東京の西郊外や東京の風景が、とても内面化するというか、美しいなと思うようになってきたんですよね。それって、エルフェンリートの鎌倉の風景であったり、細田守監督などの中央線沿線の風景だったり、新海誠監督の新宿の風景だったり、岩井俊二監督の桜の風景だったり、、、たぶん、自分の現実が、3次元と2次元の重なり合いにある世代なんだろうと思うんですよね、僕らは。3次元の故郷にそれほど縛られていない。でも実際は目にしているけど思い入れがなかった、、、んですが、それが、物語の中で描かれて、かつ強化されているんですね。新海誠岩井俊二監督が典型ですが、きれいじゃないですか、彼らのフィルターにかかった東京や日本は。ノスタルジーって、こういう風にも生まれてくるんだなぁ、としみじみ思いました。あ、これって聖地巡礼の議論ですね。そういうのと同じような、ものがある。『色づく世界の明日から』とか、素晴らしかったんですが、、、、僕の中でこのノスタルジー効果がいまいち生まれなかったんですね。制服とか、日本の高校の生活のノスタルジーは喚起されますが、、、、けど、『青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない』は、案の定というか、めちゃくちゃ胸にしみてきて、これって、自分の人生の中に重なる風景があるかどうかなのかもしれないなーと思いました。細田守監督の作品とかも、東京の西郊外のシーンが、もう胸にしみて沁みて。。。


うーむ、関係ない話になってしまった。



いま小説読んでいるので、たぶん、、、続く。

『Knock Down the House』2019 Rachel Lears監督 アメリカの最前線を伝えるAOC(アレクサンドリア・オカシオ=コルテス)のサクセスストーリー

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評価:★★★★4つ
(僕的主観:★★★★4つ)


2019-10-04【物語三昧 :Vol.41】『Knock Down the House』2019 Rachel Lears監督 アメリカの最前線を伝えるAOCのサクセスストーリー-46




2019年8月28日に、これを書いている。偶然、ネットフリックスで見つけて。アマゾンプライムで『This Is Football』を見つけたときにも思ったけれども、昔よりも、ドキュメンタリーがうまく見つけやすくなっているし、良質なものが多い気がする。Occupy Wall Street、We are the 99%、ヒラリークリントンを追い詰めた2016年の大統領選民主党予備選のバーニー・サンダースの躍進、民主社会主義(democratic socialism)という米国では毛嫌いされる共産主義の匂いのする政策や理念の浸透、民主党の左への偏り、極左の躍進、これらの雰囲気の果てに、、、、にもかかわらず、2017年に米国では第45代ドナルドトランプ大統領が登場している。僕は、2013年から米国に住んでいるので、第二期オバマ政権末期からのこの米国の雰囲気を肌で感じているのですが、ずっとトランプさんの支持は根強いな、陰りが見えないなと、2019年の8月の現在感じます。なのに同時に、民主党の左への傾斜が止まらないのも肌で感じるのです。2018年の中間選挙の結果が、まさにこの不思議な感じを裏付けていると思います。民主党が下院を奪還するも、上院は共和党過半数を確保。

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とはいえ、もし共和党に、ドナルド・トランプ大統領に勝つのならば、論理的にマイノリティ、女性、そして左右の対立ではなく(実際は極左だろうが)貧富の差の分断を意識した人が、民主党側のリーダーになっていく構図は容易に予測できる。なので、

The day after Donald Trump's election, Rachel Lears began working on her new documentary film.[8] She reached out to organizations such as Brand New Congress and Justice Democrats to find "charismatic female candidates who weren't career politicians, but had become newly galvanized to represent their communities."[8] The search led her to four female candidates: Alexandria Ocasio-Cortez of New York, Amy Vilela of Nevada, Cori Bush of Missouri, and Paula Jean Swearengin of West Virginia.[8] Lears raised $28,111 for the project through Kickstarter.[8]

Knock Down the House - Wikipedia

wikiにこうありますが、監督のRachel Learsが、"charismatic female candidates who weren't career politicians, but had become newly galvanized to represent their communities."を探したて、Alexandria Ocasio-Cortez、Amy Vilela、Cori Bush、Paula Jean Swearenginの4人を追い始めたというのは、さすがの視点だと思いました。こういうのドキュメンタリー作家の凄さだなと思います。


そして、その果てに、いまでは、民主党の左派の顔ともいえるAOC(アレクサンドリア・オカシオ=コルテス: Alexandria Ocasio-Cortez)のサクセスストーリーに仕上がっている。最後のシーンで、NY14区の民主党予備選で重鎮のジョー・クローリーを倒すシーンは、全米中にものすごい勢いで放送されたので、知っていたが、「それまでの過程」を映像でちゃんと見せられると、感慨深い。とくに、追跡している4人のうち3人は、現職に全く歯が立たず、実際のところ、現職の既得権益をひっくり返すことが、どれだけ不可能に近い困難なのかが、これでもかと描かれている。それが故に、この中間選挙での下院の女性議員、マイノリティの躍進が、どれだけすさまじいことだったのか、それだけの草の根のエネルギーが動いたのかが、これでもかと伝わってくる。


そして、AOCの見事なサクセスストーリーと、民主党左派のリベラルの運動がこれだけ激しく深く広がりを持ちながら、トランプ大統領の支持率や安定が揺らいでいない(少なくとも僕はそう思うし、44%あったら大統領選挙で勝った時の数字と遜色ないと思う)というのも、ほんとうに興味深いことだと思う。矛盾することが、同時に起きるのが世界なのだなぁ、と思う。アメリカの分裂ぶりの凄さに、感嘆すると思います。




Knock Down The House | Official Trailer | Netflix


閑話休題




ちなみに、ドキュメンタリーは、今を感じるのに素晴らしい機能を果たすと思う。ので、めちゃくちゃ感動した下記のやつもメモでというか紹介。素晴らしいですよ。



This is Football - Official Trailer | Prime Video


2019-8-6【物語三昧 :Vol.37】『THIS IS FOOTBALL』2019年の今の地球を俯瞰するドキュメンタリー-41