『13th 憲法修正第13条』 (2016) Ava DuVernay監督 systematic racismとは?


2020-0605【物語三昧 :Vol.54】Ava DuVernay監督『13th 憲法修正第13条』システマチックな差別とは?-59

評価:★★★★★星5つ
(僕的主観:★★★★★星5つ)

Twitterですすめられてみたネットフリックスのドキュメンタリー『13th 憲法修正第13条』。いま無料でYoutubeでも公開しているそう。いま見るべきドキュメンタリーです。systematic racismという言葉の意味がよくわかるので、とてもすすめ。アメリカの長きにわたる構造的な人種差別の変遷を知らないと、なぜ黒人がこれほどこるのかが、分からくなってしまう。そして、当然のことながら、日本人には、この感覚は、簡単にはわからないので、勉強がいる。いまホットなイシューなので、おすすめです。産獄複合体(Prison–industrial complex)という言葉はこれではじめて知りました。新自由主義的な、なるべく市場に任せて、公的部門を民営化していこうというスキームが進むと、軍産複合体や世界に轟く医療保険制度のおかしさや、帝国のようなビジネスシステムが形成されて、なかなかそこから脱却できるなくなるさまは、なんというかパターンなのだなぁとしみじみ思います。

petronius.hatenablog.com

こういうのは現実に起きている時に「機会を逃さず」考えたり調べたりしないと、流されていちゃうので、ちゃんとメモ。僕は、「わからないこと」をわかるようになって、それなりに極端に走らず、「結果にフォーカスした」意見というかことが考えられるための唯一の方法は、「しつこく一貫性をもって興味を風化させないこと」だと思う。その時その時の感情を喚起する文脈はあるもので、それは大事だけど、長く疑問を持つと、そういった感情の脊髄反射を超えて、考えるようになるので、そういうのが大事だと思う。だいたい感情に任せて暴走すると、いいことない。


f:id:Gaius_Petronius:20200614070847g:plain

f:id:Gaius_Petronius:20200614071248j:plain


本日は、2020年6月13日。どんどんいろいろなものが再開する兆しが見えているが、ロサンゼルス、オレンジカウンティは、まだまだじわじわ感染率は上がり始めている。でも、経済を再開させる方向なのは、なによりも、まず仕事を再開させないと、プロテストが終わらないっていうのもあると思うんだよね。

ktla.com

下は、アメリカの映画を見て、よくわからない歴史の課題を考えているうちに、自分(日本人)にとって、アフリカンアメリカンの歴史がすっぽと実感がないんだ!と思って、ずっとこつこつ見続けている感想。とにかくその時のアドホックなイシューへの、好き嫌い、善悪の判断に流されないで、ずっとこつこつ追っていると、色々見えてくるものがあると思う。

petronius.hatenablog.com

ちなみに、Twiiterで他にも紹介してあるのが流れてきて、この辺もコツコツ観ようと思っている。

『𝐓𝐡𝐞 𝐡𝐚𝐭𝐞 𝐮 𝐠𝐢𝐯𝐞』は、もともとYA-ヤングアダルトの小説だったものを、ベースに映画化されたもの。ちょうどよかったので、家族で鑑賞。うちは12歳なのだが、子供とみるのにはちょうどいい題材だった。過去にあった現実の事件をベースに作られたものらしい。rottentomatoesのスコアもよかったので見たのだが、なかなかに素晴らしかった。ジョージ・フロイドプロテストの話を子供に説明してるのだが、黒人と白人、金持ちと貧乏人が分断している現実をどう説明するかが難しかったのだけれども、「見れば一発」で理解できるので、良かった。

The Hate U Give (2018) - Rotten Tomatoes


f:id:Gaius_Petronius:20200614063107p:plain

www.youtube.com

評価:★★★★星4つ
(僕的主観:★★★★星4つ)

ヤングアダルトの小説の領域というのは、僕には、Hunger Gamesとか、ハンドレッド、The Darkest Minds、 パーシージャクソンとかそういうイメージだったんですが、この領域も悪くないぞ、というコメントがみつけて、確かになぁと思った。一般的なファンタジーの領域ではないけれども、過酷な現実ではあるが、アメリカの現実で、子供たちの現実なわけだから、ここの領域で物語を作ることが可能というのは大きなポイントだろうと思う。Boy in the Striped Pajamaとかそっちの方面のものかな。



アメリカを知っている人、もしくは住んだことがある人には、自明なのですが、なかなか他の国の人にわからないのは、このアーバンとサバーバンというか、都市圏の中心から放射線状に、郊外に広がっていく都市の発展における「階層の分断」。金持ちの住む場所と貧乏人が住む場所んぼ、極端なまでの分断。そして、それが人種やエスニックでも分断されているところ。「この現実」を知らないと、アメリカに住むということが、いまいちわからない。日本人の駐在員などの裕福な派遣者だと、この現実がさっぱりわからないまま、何年もたつということはよくある。安全な郊外のゲーティツドコミュニティとかに住んでいると、全然実感がないからだ。一部の大都市、ニューヨークやサンフランシスコとかに住んでいると、さっぱりわかっていないという人が出てきてもおかしくない。というか、経験的に多い気がする。永住の人は、一発でわかる現実なんだけどね。安全で教育レベルの高い地区の不動産お値段は、気が狂ったみたいに高いので、全く手が届かないから。


という「白人の住む町」と「黒人の住む町」が、物凄くクリアーに分断されているのが、普通だという現実からはじまらないと、まずアメリカの現実がわからない。


この分断が、目に見える形で描かれるの映画なので、「目に見えて」わかってよかった。が、なんとかこの貧困の連鎖から抜け出ようと、子供を白人がほとんどの私立に通わせる親の気持ちはよくわかる。しかし、その世界で、自分がいかに「違うか」を見せつけられながら生きていくことの、ほんとうの自分を出すことも、文脈を理解されることもなく育つアフリカンアメリカンの子供の気持ちも、ほんとうにやるせなかった。白人の親友だとおもっていた女の子の能天気な発言に、あまりに、黒人の置かれている「現実」に無頓着なさまは、これは傷つくよなぁ、とグッと来た。

アジア系だって、マイノリティなわけで、アジア系の多く住むトーランスでレイシストに罵倒された映像が先日でまわっていたけど、こういうことも、「このようなアメリカの現実」を背景に見ないと、うまく説明できないので、いい機会だった。



■しかしながら、ポリコレ疲れは、凄いする。これは反発が出るの、分かるわーという気もする。


しかしながら、ネットフリックスを中心に、これらのドキュメンタリーを見ていたら、物凄い疲れてきた。検索している時に下記のブログの記事に出会ったんですけど、ああ、そうだろうなー。そう感じるよなーと、しみじみ共感しました。この疲れた感じ、これがポリコレ疲れか、となんだか今の政治状況がなんでもたらされたのかが、はっきりと自分の心の中で像を結んだ気がしました。「正しさをベースに」「保守的な白人はいくら馬鹿にしてもいい存在である」って言われ続けると、それはそれで、Too muchだし、偏ってい過ぎて、気持ち的に反動が来てしまう。

なぜこんな本ばかり読んだかというと、さいきんはネットフリックスで映画ばかり見ていたのだが、アメリカ映画全体に多かれ少なかれ漂う「保守的な白人はいくら馬鹿にしてもいい存在である」「田舎は脱出すべき場所であって、まともな人間はニューヨークかカリフォルニアのどちらかに済むものだ」という価値観に耐えられなくなってきて反動的な気持ちになったというところが強い。また、『アメリカン・ファクトリー』を見て、改めて「アメリカの田舎労働者」問題に興味を抱いたというところもある(そして、『アメリカン・ファクトリー』は例外として、ネットフリックスで観れるほかのドキュメンタリー作品のラインナップは「ネットフリックス的価値観」に縛られていて多様性や自由のイメージを強調すぎるあまり逆に多様性や自由を失っている感じが強く、「こんなんばっか観ていたら洗脳されちゃうから、ちゃんと本も読んで別の考え方にも触れなきゃな」と思ったというところもある)。


davitrice.hatenadiary.jp


さて、まぁこの「正しさを過剰に言い立てて畳み込んでくる」感覚が、それへの反発が、根深く世の中にあるというのは、常に覚えておかないといけないな、と思う。『13th 憲法修正第13条』みたいな話を、見まくっていれば、それはそれで、とても偏った感覚を持ってしまうと思う。間違っているとか、真実かどうか、という以前に、現実に対して理念を押し付けるようになると、世界は破壊と暴力しかなくなるので、この辺りにバランス感覚は常にいるよなと思うのだ。


さて、ということで、中和という意味で、じゃあここにいたる「ポリコレ疲れ」的な感覚と、それをレバレッジする現在のトランプさん劇場は、なんで生まれてくるのか、というのは、やはりWhite Supremacyやリバタリアン、Antifaなど極端に振れたところが、どう生まれてきたのか、ってことを見ておかなきゃなーと思った次第。

f:id:Gaius_Petronius:20200614065248j:plain
Alt-Right: Age of Rage

www.youtube.com


んで、これを見たんですよね。これもネットフリックスのドキュメンタリーなんだけど、いわゆる白人至上主義が今どうなっているのをみせたもの。渡辺靖さんの新書を読むと、同時に詳しくわかって面白いです。疑似科学をベースにした発想だけど、白人だけの国家を作りたいという発想は、これはこれで、よくわかる発想で、少なくともこういう感情が基幹にあって、White ethno-satateが作りたいという政治勢力が発生するのは、民族自決をベースにするのであれば、理解はできる。共感しにくいけど。

白人ナショナリズム アメリカを揺るがす「文化的反動」 (中公新書)


これは2017年のシャーロッツビルの事件のドキュメンタリーになるんだけど、とにもかくにも、極左と極右が、激しく暴力志向をしていることが見てとれる。とりわけ、右翼の側から見ると、左翼、とりわけAntifaの暴力志向は、見ててとても恐怖するのがよくわかる。もちろん、極左が暴力志向で、行動的になっていったのは、極右が、共和党が、現状の構造的な不正義、不平等を、まったく手をつけないことに対するいら立ちがそのルーツにあるわけで、「どの視点で見るか?」によって、評価が全く分断されてしまうのは、見ていてもよくよく分かった。

petronius.hatenablog.com

ちなみに、トランプ大統領が言う、Antifaをテロ組織ということや、law-and-order-strategyは、うまいなぁとしみじみ思う。

www.npr.org

TwitterとかFBなどSNSの素人というか個人の意見を見ていると、トランプ大統領がAntifaをテロ組織と言い出したあたりから、いっきに、抗議活動をひとくくりにして「法と秩序」「いま現在の安定した生」活への破壊者であるという論調が、一気に広まっている。ようは、『13th』のような話を持ち出しても、暴力的な治安紊乱の集団であって、こんなことになんの正当性もないと、一刀両断してしまう。正直ね、これは、住んでいる「普通の生活」をしている人からすれば、非常にわかる感覚です。仮にこの「普通の生活」自体が、システマチックなレイシズム一部だとしても、それをどこまでも見続けて直視したくないわけですよ。特に長く続くと、無理。それはそう。だって、仮に底上げされている中産階級だって、安楽な世界を生きているわけではないので、余裕がなければ、そんなことにかまっていられないというのが、保守的な生活者の本音んじゃないかなぁ。まさにニクソンの「法と秩序」戦略の構造そのまま。とはいえ、そこには濃度がある。その人が、どんな文化背景を持ち、どんな肌の色で、どこに住んでいるのかによって、この怒りや嫌悪感にどうシンクロするかは、凄いわかれてしまうだろう。それを、「分断」といっているんですね。

gendai.ismedia.jp


11の国のアメリカ史――分断と相克の400年(上)


なんというか、しかしながら、、、、もう少し細かくこの分断がどう生まれてきているのかを勉強しないと、分からないなぁ、と思い始めた今日この頃。というのは、ブルースタイツとレッドステイツとかだけだ大雑把すぎて、その背景がどう来たのかの細かい気質という背景が、分からない。友人と話していても、全然わからないのだけれども、、、アメリカ時の友人たちの気のおけないFBとか人生の決断をみていると、凄いルーツ?というか考え方の基盤が関係しているのはわかるんですよね、実感として。けど、そういうのがもっとわからないと、実感をもって何をアメリカに住む人が感じているのかがわからないなぁと思い始めてきました。たとえば、白人のみの国家を作りたい!というWhite Supremacyの発想は、意図はわかるんだけど、何か大ざっおぱ過ぎて、なんでそのルーツが生まれてきたのか、よくわからない。白人とひとくくりにするには、多様すぎて。アメリカのばらばら具合はもっと複雑な感じがして、いまいちわからなかったんですよね。ドナルド・トランプの大統領選出に貢献したAlt-Rightの中心人物のリチャード・スペンサー(このドキュメンタリーにでも出てくる)なんかの議論は、あまりに、白人というのを大枠で囲いすぎていて、もう少しいろいろある気がするというのを、ハンティントンとウッダードの議論を組み合わせると、分かりやすいかも、と思った。僕はSFが好きなんですが、個と全体で分ける、この人の思考は、面白そうなので読んでみようかと思った今日この頃。白人と一括にしないで、個を重要視する視点と、公共善を重要視する視点に分けて、各民族ルーツでアメリカの分裂を仕切りなおすのは、確かに面白い。

American Character: A History of the Epic Struggle Between Individual Liberty and the Common Good
American Character: A History of the Epic Struggle Between Individual Liberty and the Common Good (English Edition)


www.youtube.com


あっと、ちなみに、このジョージフロイドプロテストは、いまは銅像の撤去に話が進んでいますね。この銅像の問題、毎回何かしらの暴動とリンクするので、歴史評価に関する記憶がイシューなんだなぁ、というのがよくわかります。これって、レオポルド二世とかは、まぁ比較的わかるんだけれども、ものによっては、様々な歴史の記憶にかかわる、価値観の闘争になるわけで、それをどのように選択するかの「線引き」の問題は、かなり難しいと思う。

ただ、これってアメリカ国内だけだと思っていたんですが、ベルギーとかにめちゃ飛び火してて、とても驚きました。レオポルド二世とか、全然知らなかったので、そういう風になるのかぁ、と驚きました。いやーまだまだ勉強足りないなーと思った。まぁ、こういうのをきっかけに、いろんなことを考えて、今の時点から世界を歴史を眺めると、どう思えるのかというのは、日々掘り起こして再評価していかなきゃならないんだろうなぁと思う今日この頃です。でも、これは、やはり重要な論点ですよね。こうした「歴史の記憶」に対して、その「塗り替え」を要求するのは、現代の「作りあげられた権力の構造」を変えろということでなので、これってかなり激しい戦いだと思うんですよね。「歴史の記憶」ってのは、過去の激しい闘争があって、その事実性の上に積みあがっているので、「それを変える」にも、相当の闘争がいるはず。ここに何御ひねりもなく「暴力肯定による」どっちが激しく行動するか、を基準にしていると、際限なく秩序が壊されてしまうので、そのやり方はかなり危ないなぁと思う。ニクソンの戦略ではないけれども、「サイレントマジョリティ」というか、普通の市民、中産階級が、どこかで熱が冷めて、もう勘弁してくれというところを保守側や右翼側から利用されるのは、目に見えている構造だもの。かといって、暴力的な「行動に移す」ことwしないと、現在が全く変わらないから、現在なわけで、、、、という堂々巡りになる。これって、MLKやマルコムX、ブラックパンサーの時の構造とそっくりだよなーと思う。なかなか、この構造をうまく紐解く方法は、思いつかない。。。

gendai.ismedia.jp


13TH | A Conversation with Oprah Winfrey and Ava DuVernay | Netflix

www.youtube.com

『ハンドレッド』(The 100) 2014-2020 Jason Rothenberg制作 deserve(それに値するか?)というセリフがずっと問われ続ける

f:id:Gaius_Petronius:20200615015517j:plain

客観評価:★★★★★5つ
(僕的主観:★★★★★5つ)

7SEEDSと一緒に見たい作品。新世界系の米国の物語類型はどこに向かうのか。

物語三昧チャネルの解説でも書いたけど、サバイバル系------滅びた世界の後で、若者たちが生き残りを目指してサバイバルする話。この系統が好きな人には、とてもおすすめ。SFとしても、毎シーズンごとに大きな問題設定が変わって、中だるみしないところが見事。特にシーズン3の終わりまでの疾走感は、とてもじゃないけれども、途中で見るのを止められない感じがする。そこはさすがの米国のドラマという感じ。しかし、僕的には、この「繰り返される世界の終わりと、選択肢のない決断を迫られる」のを、どこに着地点に持っていくことを、米国の視聴者は、脚本家たちは考えるのかに、興味がある。なので、2020年のファイナルシーズンに追いついた今は、それが凄い楽しみ。SFとしても、終末のディストピアもの、管理社会もの、壮絶な生き残りをかけた共同体同士の殺し合い、AIによる人類の支配と救済、閉塞した地下世界での生き残りをかけた殺し合い、そして、スターシードの物語と、SFの巨大な設定を使いに使い尽くしているその構想力のスケール感に感心するので、それを企図した人たちが、「どこまで言ったらこの生き残るためには何をしてもいい」というマインドセットが終わるのか?、終わるべきなのか?、と考えるか、興味が尽きない。これは、いってみれば、僕等がずっと考え続けている「新世界系」のエンドの米国版が何になるかということと一つの例になるからだ。


ちなみに、この類型の日本のエンターテイメントでは、まず完結した作品では、田村由美さんの『7SEED』があげられる。しかし、新しい世界で、生き残る準備ができたら、「どこで満足するか?」というのは生き残った人の心の問題なので、実はいつでも定住すれば、そこが「終わり」であり、新しい生活のはじまりになる。なので、終わらせるのは、実は簡単なのだ。心の問題だから。


もう一つ、やはり大きいのが『進撃の巨人』だ。実は、この作品も、前回の記事で本来は、アルミンが海を見た時点で「心の問題」は終わちゃっていると書いたんですが、、、これはつまり「壁の向こうの別の世界がある」というのを、実際に見せた時点で、かれらの「サバイバルをする、その先」が見えているので、一つの結論がついているんですね。


petronius.hatenablog.com


新世界系を、「この世界に生きることの苦しさをこれでもかと突きつける」ことが主要テーマであれば、「そこまでして生き残らなきゃいけない理由は何か?」を示さなければならない。心の問題です。それは、ほとんどの場合は、結論は「自由」になるんです。壁の中にいることは、たとえ安楽でも、大きな不自由があります。それは真実(=現実)を知らないこと、です。壁の中というものが、安楽なハーレムセカイや、管理社会のディストピアであろうが、そこにある種の人間が「外へ出たい!」という原初的な欲望を縛って、低位安定状態に置いておこうとする「縛り」があるんですよね。これを「壁」と言い換えてもいい。これを超えることが、現実にありうるということを見せることが、この類型の大きな終着地点になる。同時に、これは心の問題であって、「実際の世界の謎」とはあまり関係ないらしいということもわかっています。というのは、『進撃の巨人』でいえば、壁に出るまでに、過酷な壁の内部の縛りを、「仲間とともに絶望的な戦いに身を投じて苦しみ抜く」ことが、「その仲間とともにある絆」を描いていくことが、実は、それこそが本質的な「人の持つ自由の一つだ」ということが、わかるからです。この辺りは、言葉で抽象的に説明するのが難しいのですが、つまりね、「壁の外に行く」などというマクロの目的なんて言うのは、「世界の謎を解く」などということは、実はどうでもいいんですよ。不可能を超えるような、不可能な「目的」にチャレンジして、その過程でバタバタ死んでいくとしても、「それにかけ続ける仲間」がいた時点で、その絆を見出した時点で、自分が縛られている不自由という監獄から、解き放たれているからです。なので、その象徴として、「外に出た風景」が見れたら、完成なんです。新世界系の「心の問題」としてはね。


しかし、『進撃の巨人』は、そこではとまらなかった。


この「世界の謎」を解くというところに、舵を切ったんですよ。しかし「壁の外にも現実がある」ならば、それは、僕等が生きる現実と同じ話になります。共同体ごと(国家ごと)に、お互いを殺しあい、戦争をし合うとして、そこに正当性はありません。人類を生き残らせるとかそういう目的がないのだから。これって、シーズン2のマウントウェザーのグループと、グラウンダーと同盟を結んだアークのクラークたちの構造と全く同じなのがわかります。国家間の戦争に、大義はありません。ただ単に自分たちが、エゴイスティツクに生き残りたいためだけ。もちろん、それはそれで「サバイバル」をしなければ死ぬわけですから、間違ってはいません。そして、そのために圧倒的に弱い場合はどうすればいいかも、同じです。ようは、第三者、第三国と同盟を組んで、善と悪の二元的最終戦争に陥らないように、バランスをとるしかないんですよね。ちなみに、『ハンドレッド(The 100) 』では、リソースがない状態が、続きすぎて、最終的には世界は滅んでしまう。まぁ、この辺は、アマダネタバレは惜しいので、あまりいわないのですが、、、、しかし、『進撃の巨人』は、このことに対する答えを出そうと描き続けています。なので、楽しみで仕方がない。日米ともに、最前線は、問いが本当に深い。


2020-0513【物語三昧 :Vol.46】『ハンドレッド(The 100)シーズン1&2』2014-田村由美さん7SEEDS・BASARAと、The Hunger Gamesと比較したい! -51


2020-0522【物語三昧 :Vol.47】『ハンドレッド(The 100)シーズン3』 シーズン毎にテーマが大きく変わるのが見事-52


■新世界系という身内のジャーゴンなんだけど、気にしてくれる第三者がいると嬉しいです。


kawango.hatenablog.com


カワンゴさんが言及しててくれて、おーっと。唸った。海燕さんのおかげだね(笑)。身内でジャーゴンとしていい続けていたことなので、他の人が言及してくれると、ちょっと嬉しい。ここでも指摘されているが、このことを考えはじめたのは、2014年の『進撃の巨人』シーズン1が放映された頃だ。

 彼らが「新世界」という言葉を使い始めたのは2014年だ。2014年とは前年にアニメ「進撃の巨人」の第一期が放映されて、アニメを含むコンテンツ業界に空前の進撃の巨人ブームが始まった直後になる。

こうして人から言われると、そうか2014年は、結構キーなのかもな、と思った。だって、この『ハンドレッド』のシーズン1が始まったのも、2014年なんですよね。日米とわず、「生き残るためには、なりふり構っていられない」というサバイバル重視のストーリーが、広く描かれて、大ヒットしている。この典型的な「新世界系=生き残るためになりふり構わないサバイバルの感覚」の作品は、この2020年シーズン7で、もう直ぐ終わり迎える。実際のところ、既にシーズン5を見ていて、僕はこの「身もふたもない修羅の国のサバイバル感」に追い詰められる感覚に、飽きてきている。この作品は、シーズン3くらいまで、このテーマがすごい重く、リアリティを持つのだが、そこらへんから、あまりに繰り返されすぎて、テーマが食傷気味になっている気がする。言い換えれば、この「先」を見る時期が来ているんだろうと思う。まぁ、とはいえ、SF的なテーマ設定が、見事にシーズンごとに変わるので、めちゃくちゃ面白いのには、変わりがないんだけどね。ちなみに、100は、シーズン7で、この2020年に終わる予定。


ちなみに、このドラマを好きな人は知っていると思うけれども、現実世界(笑)では、ベラミーとクラークは、去年結婚したんだぜ!。内容を知っていると、感慨深いよ。二人とも、オーストラリアの俳優さんなんだよね。そういうのまったのかもなぁ。




ちなみに、アメリカのヤングアダルトの作品を子供達が色々教えてくれるのだが(僕の英語力だと読んでると日が暮れてしまうので、教えてもらっている)、このタイプのディストピア、週末、管理社会系統の作品は、もういい加減飽きたと言われるぐらい連発しているみたいだ。そうして調べてみると、確かに批評家でも、いろんなところで言及されている。アメリカも、このテーマが、若者にめちゃくちゃ支持されているのがわかる。まぁ、勝手に類似性をいっているだけなんで、もっと正確に調べたないとダメなのかもだけど(苦笑)、、、、でも、100は、もうまさに「まんま」のテーマ性。


■deserve(それに値するか?)という言葉

この作品で、ずっとなん度も繰り返される表現があって、deserve(それに値するか?)という言葉。字幕だとこの「特別感」が出ていない気がする。英語で聞くと、これが重いのがすごくわかる。意味は同じなんだけど、これって口語的に重い感じがするんだよね。特別な文脈感がある。


この物語って、「サバイブ(生き残る)ためには、どんなことをしてもいい」という文脈が常について回る。正確に言えば、生き残るためには、基本的に、愛する人を手にかけても、異なるグループであっても同じ人間を皆殺しにして手を汚すことが常に要求される。7SEEDでいえば、主人公の花が、愛する嵐を、みんなを守るために公開処刑するとか、他のグループを自分たちのグループを生かすために皆殺しにするとか、そういう話なんですよね、これ。あれより過酷って、、、、。「余裕がない世界」で生きるには、常に「殺すか殺されるか?」の二者択一になる。悩んでいる暇すらない。けれども、生き残った後、ある者はその罪や大切なものを失った喪失から壊れていく、、、、そこで「deserve-生き残るに値することなのか?」と常に問われることになる。


この問題を回避するためには、実は大きなマクロの仕掛けが一ついる。


それは、人類が終末にいること、、、、世界が滅びるか滅びないか、、、という切迫状況が設定されないと、この問題が正当化できない。もし、時間的に、リソースが余裕があるのならば「殺しあう以外の選択肢」を探す意味が出てくるからだ。そうすると、人権や人間性の価値の方がはるかに高くなる。あくまで、時間も資源も限られていて、「その他の選択肢を奪われている」状況でないと、サバイバルは正当化されない。

マウントウェザーの問題は、それの縮小版であって、「異なる文化背景を持つ共同体」を、自分たちの部族(共同体)が生き残るために滅ぼしてもいいのか、ということを問うている。彼ら、マウントウェザーは、「自分たちが生き残るために、他の人間(部族)を奴隷化というか、自分たちの生存のために家畜動物をしているという倫理問題があったので、「だから皆殺しにしても仕方がない」と言い訳を作ってはいる。が、この問題の構図は、何度も繰り返すと、なぜにアークの末裔の、クラーク立ち飲みが「生き残る」ことを、言い換えれば「他の共同体を皆殺しにできる」根拠を持つかというのは希薄になっていく。これを全面肯定しては、要は弱肉強食の、北斗の拳の修羅の世界だ。


見事というか、この作品はシーズンごとに、SF的な大きなマクロ設定が、ドカンと設定し直されるので、この問題意識、、、、を先延ばしできている。「滅びるか滅びないかの瀬戸際」では、どんなことでも正当化されるからだ。


まずは生き残る。人間性を取り戻すのは、その後だ。


このセリフは、シーズン5でのクラークの母親アビー・グリフィンの言葉だが、あまりの過酷さに、本人は薬物中毒で薬に逃げて壊れている。ちなみに、こういう倫理や人権、人間性にこだわる人は、現実が受け入れられなくて、片っぱしから死んでいくことになる。。。この極度の「過酷な現実」に対して、適応して受け入れられない人間は、全く生き残れないというのは、この作品の基調低音になる。しかし、さらに難しいことは、アークの指導者の一人だったマーカスを見るとわかる。最初登場した時に、冷酷な管理社会における為政者として、「大多数を生かす」ために、信念を持って、自分の強い意志で、「少数を皆殺している」。けれども、地球に降りて、事態が変わってから、彼はずっと、そのことを後悔してあがき続けることになる。シーズン5では、まるで逆の判断を、ブラッドレイナにつきつけることになる。要は、人間は変わるってこと。S6:E5で、「生き残るためにするべきことをしただけだ」という意見に、クラークの母親は、「戦争犯罪人は、誰もが同じことを言う」と、そのことを拒否している。この行ったり来たり。


この過酷さ、、、、「選択肢の奪われた現実をつきつけられる」のは、まさに新世界系で話されてきたこと、そのもの。


これ、すごくない?。個人的には、大発見。こんなに2000年代の10年間の日米の若者向けの物語に、このサバイバル感覚が、ものすごい規模で共通しているなんて。いや、一つや二つじゃないもん、ヤングアダルト系の小説、映画、ドラマ、アホみたいに山ほどある。そして、メディアミックされている。『ハンガーゲーム』とか映画化されて日本行きてもあまり人気が出なかったり(米国ローカル文脈なんでいまいち日本人にはわかりにくい)、ヤングアダルト系は、ほとんど日本語には翻訳されていない。子供向けだからか、というか、米国ローカル文脈が強すぎて、翻訳しにくいんだろうと思う。日本のライトノベルが、英語に翻訳することの難しさと同じだろうと思う。頂点にたつような作品は、グローバルに問題ないかもだが、そうでないやつは、なかなか難しいだろう。


ちなみに、たぶん日本でだとまず知らないけど、映画になっていて、こっちだと有名なのは、下記の作品。ネットフリックスか、なんかで、映画は見ることはできると思う。日本は未公開だったと思うけど。

f:id:Gaius_Petronius:20200613055324j:plain
f:id:Gaius_Petronius:20200613055349j:plain