『ハンドレッド』(The 100) 2014-2020 Jason Rothenberg制作 deserve(それに値するか?)というセリフがずっと問われ続ける

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客観評価:★★★★★5つ
(僕的主観:★★★★★5つ)

7SEEDSと一緒に見たい作品。新世界系の米国の物語類型はどこに向かうのか。

物語三昧チャネルの解説でも書いたけど、サバイバル系------滅びた世界の後で、若者たちが生き残りを目指してサバイバルする話。この系統が好きな人には、とてもおすすめ。SFとしても、毎シーズンごとに大きな問題設定が変わって、中だるみしないところが見事。特にシーズン3の終わりまでの疾走感は、とてもじゃないけれども、途中で見るのを止められない感じがする。そこはさすがの米国のドラマという感じ。しかし、僕的には、この「繰り返される世界の終わりと、選択肢のない決断を迫られる」のを、どこに着地点に持っていくことを、米国の視聴者は、脚本家たちは考えるのかに、興味がある。なので、2020年のファイナルシーズンに追いついた今は、それが凄い楽しみ。SFとしても、終末のディストピアもの、管理社会もの、壮絶な生き残りをかけた共同体同士の殺し合い、AIによる人類の支配と救済、閉塞した地下世界での生き残りをかけた殺し合い、そして、スターシードの物語と、SFの巨大な設定を使いに使い尽くしているその構想力のスケール感に感心するので、それを企図した人たちが、「どこまで言ったらこの生き残るためには何をしてもいい」というマインドセットが終わるのか?、終わるべきなのか?、と考えるか、興味が尽きない。これは、いってみれば、僕等がずっと考え続けている「新世界系」のエンドの米国版が何になるかということと一つの例になるからだ。


ちなみに、この類型の日本のエンターテイメントでは、まず完結した作品では、田村由美さんの『7SEED』があげられる。しかし、新しい世界で、生き残る準備ができたら、「どこで満足するか?」というのは生き残った人の心の問題なので、実はいつでも定住すれば、そこが「終わり」であり、新しい生活のはじまりになる。なので、終わらせるのは、実は簡単なのだ。心の問題だから。


もう一つ、やはり大きいのが『進撃の巨人』だ。実は、この作品も、前回の記事で本来は、アルミンが海を見た時点で「心の問題」は終わちゃっていると書いたんですが、、、これはつまり「壁の向こうの別の世界がある」というのを、実際に見せた時点で、かれらの「サバイバルをする、その先」が見えているので、一つの結論がついているんですね。


petronius.hatenablog.com


新世界系を、「この世界に生きることの苦しさをこれでもかと突きつける」ことが主要テーマであれば、「そこまでして生き残らなきゃいけない理由は何か?」を示さなければならない。心の問題です。それは、ほとんどの場合は、結論は「自由」になるんです。壁の中にいることは、たとえ安楽でも、大きな不自由があります。それは真実(=現実)を知らないこと、です。壁の中というものが、安楽なハーレムセカイや、管理社会のディストピアであろうが、そこにある種の人間が「外へ出たい!」という原初的な欲望を縛って、低位安定状態に置いておこうとする「縛り」があるんですよね。これを「壁」と言い換えてもいい。これを超えることが、現実にありうるということを見せることが、この類型の大きな終着地点になる。同時に、これは心の問題であって、「実際の世界の謎」とはあまり関係ないらしいということもわかっています。というのは、『進撃の巨人』でいえば、壁に出るまでに、過酷な壁の内部の縛りを、「仲間とともに絶望的な戦いに身を投じて苦しみ抜く」ことが、「その仲間とともにある絆」を描いていくことが、実は、それこそが本質的な「人の持つ自由の一つだ」ということが、わかるからです。この辺りは、言葉で抽象的に説明するのが難しいのですが、つまりね、「壁の外に行く」などというマクロの目的なんて言うのは、「世界の謎を解く」などということは、実はどうでもいいんですよ。不可能を超えるような、不可能な「目的」にチャレンジして、その過程でバタバタ死んでいくとしても、「それにかけ続ける仲間」がいた時点で、その絆を見出した時点で、自分が縛られている不自由という監獄から、解き放たれているからです。なので、その象徴として、「外に出た風景」が見れたら、完成なんです。新世界系の「心の問題」としてはね。


しかし、『進撃の巨人』は、そこではとまらなかった。


この「世界の謎」を解くというところに、舵を切ったんですよ。しかし「壁の外にも現実がある」ならば、それは、僕等が生きる現実と同じ話になります。共同体ごと(国家ごと)に、お互いを殺しあい、戦争をし合うとして、そこに正当性はありません。人類を生き残らせるとかそういう目的がないのだから。これって、シーズン2のマウントウェザーのグループと、グラウンダーと同盟を結んだアークのクラークたちの構造と全く同じなのがわかります。国家間の戦争に、大義はありません。ただ単に自分たちが、エゴイスティツクに生き残りたいためだけ。もちろん、それはそれで「サバイバル」をしなければ死ぬわけですから、間違ってはいません。そして、そのために圧倒的に弱い場合はどうすればいいかも、同じです。ようは、第三者、第三国と同盟を組んで、善と悪の二元的最終戦争に陥らないように、バランスをとるしかないんですよね。ちなみに、『ハンドレッド(The 100) 』では、リソースがない状態が、続きすぎて、最終的には世界は滅んでしまう。まぁ、この辺は、アマダネタバレは惜しいので、あまりいわないのですが、、、、しかし、『進撃の巨人』は、このことに対する答えを出そうと描き続けています。なので、楽しみで仕方がない。日米ともに、最前線は、問いが本当に深い。


2020-0513【物語三昧 :Vol.46】『ハンドレッド(The 100)シーズン1&2』2014-田村由美さん7SEEDS・BASARAと、The Hunger Gamesと比較したい! -51


2020-0522【物語三昧 :Vol.47】『ハンドレッド(The 100)シーズン3』 シーズン毎にテーマが大きく変わるのが見事-52


■新世界系という身内のジャーゴンなんだけど、気にしてくれる第三者がいると嬉しいです。


kawango.hatenablog.com


カワンゴさんが言及しててくれて、おーっと。唸った。海燕さんのおかげだね(笑)。身内でジャーゴンとしていい続けていたことなので、他の人が言及してくれると、ちょっと嬉しい。ここでも指摘されているが、このことを考えはじめたのは、2014年の『進撃の巨人』シーズン1が放映された頃だ。

 彼らが「新世界」という言葉を使い始めたのは2014年だ。2014年とは前年にアニメ「進撃の巨人」の第一期が放映されて、アニメを含むコンテンツ業界に空前の進撃の巨人ブームが始まった直後になる。

こうして人から言われると、そうか2014年は、結構キーなのかもな、と思った。だって、この『ハンドレッド』のシーズン1が始まったのも、2014年なんですよね。日米とわず、「生き残るためには、なりふり構っていられない」というサバイバル重視のストーリーが、広く描かれて、大ヒットしている。この典型的な「新世界系=生き残るためになりふり構わないサバイバルの感覚」の作品は、この2020年シーズン7で、もう直ぐ終わり迎える。実際のところ、既にシーズン5を見ていて、僕はこの「身もふたもない修羅の国のサバイバル感」に追い詰められる感覚に、飽きてきている。この作品は、シーズン3くらいまで、このテーマがすごい重く、リアリティを持つのだが、そこらへんから、あまりに繰り返されすぎて、テーマが食傷気味になっている気がする。言い換えれば、この「先」を見る時期が来ているんだろうと思う。まぁ、とはいえ、SF的なテーマ設定が、見事にシーズンごとに変わるので、めちゃくちゃ面白いのには、変わりがないんだけどね。ちなみに、100は、シーズン7で、この2020年に終わる予定。


ちなみに、このドラマを好きな人は知っていると思うけれども、現実世界(笑)では、ベラミーとクラークは、去年結婚したんだぜ!。内容を知っていると、感慨深いよ。二人とも、オーストラリアの俳優さんなんだよね。そういうのまったのかもなぁ。




ちなみに、アメリカのヤングアダルトの作品を子供達が色々教えてくれるのだが(僕の英語力だと読んでると日が暮れてしまうので、教えてもらっている)、このタイプのディストピア、週末、管理社会系統の作品は、もういい加減飽きたと言われるぐらい連発しているみたいだ。そうして調べてみると、確かに批評家でも、いろんなところで言及されている。アメリカも、このテーマが、若者にめちゃくちゃ支持されているのがわかる。まぁ、勝手に類似性をいっているだけなんで、もっと正確に調べたないとダメなのかもだけど(苦笑)、、、、でも、100は、もうまさに「まんま」のテーマ性。


■deserve(それに値するか?)という言葉

この作品で、ずっとなん度も繰り返される表現があって、deserve(それに値するか?)という言葉。字幕だとこの「特別感」が出ていない気がする。英語で聞くと、これが重いのがすごくわかる。意味は同じなんだけど、これって口語的に重い感じがするんだよね。特別な文脈感がある。


この物語って、「サバイブ(生き残る)ためには、どんなことをしてもいい」という文脈が常について回る。正確に言えば、生き残るためには、基本的に、愛する人を手にかけても、異なるグループであっても同じ人間を皆殺しにして手を汚すことが常に要求される。7SEEDでいえば、主人公の花が、愛する嵐を、みんなを守るために公開処刑するとか、他のグループを自分たちのグループを生かすために皆殺しにするとか、そういう話なんですよね、これ。あれより過酷って、、、、。「余裕がない世界」で生きるには、常に「殺すか殺されるか?」の二者択一になる。悩んでいる暇すらない。けれども、生き残った後、ある者はその罪や大切なものを失った喪失から壊れていく、、、、そこで「deserve-生き残るに値することなのか?」と常に問われることになる。


この問題を回避するためには、実は大きなマクロの仕掛けが一ついる。


それは、人類が終末にいること、、、、世界が滅びるか滅びないか、、、という切迫状況が設定されないと、この問題が正当化できない。もし、時間的に、リソースが余裕があるのならば「殺しあう以外の選択肢」を探す意味が出てくるからだ。そうすると、人権や人間性の価値の方がはるかに高くなる。あくまで、時間も資源も限られていて、「その他の選択肢を奪われている」状況でないと、サバイバルは正当化されない。

マウントウェザーの問題は、それの縮小版であって、「異なる文化背景を持つ共同体」を、自分たちの部族(共同体)が生き残るために滅ぼしてもいいのか、ということを問うている。彼ら、マウントウェザーは、「自分たちが生き残るために、他の人間(部族)を奴隷化というか、自分たちの生存のために家畜動物をしているという倫理問題があったので、「だから皆殺しにしても仕方がない」と言い訳を作ってはいる。が、この問題の構図は、何度も繰り返すと、なぜにアークの末裔の、クラーク立ち飲みが「生き残る」ことを、言い換えれば「他の共同体を皆殺しにできる」根拠を持つかというのは希薄になっていく。これを全面肯定しては、要は弱肉強食の、北斗の拳の修羅の世界だ。


見事というか、この作品はシーズンごとに、SF的な大きなマクロ設定が、ドカンと設定し直されるので、この問題意識、、、、を先延ばしできている。「滅びるか滅びないかの瀬戸際」では、どんなことでも正当化されるからだ。


まずは生き残る。人間性を取り戻すのは、その後だ。


このセリフは、シーズン5でのクラークの母親アビー・グリフィンの言葉だが、あまりの過酷さに、本人は薬物中毒で薬に逃げて壊れている。ちなみに、こういう倫理や人権、人間性にこだわる人は、現実が受け入れられなくて、片っぱしから死んでいくことになる。。。この極度の「過酷な現実」に対して、適応して受け入れられない人間は、全く生き残れないというのは、この作品の基調低音になる。しかし、さらに難しいことは、アークの指導者の一人だったマーカスを見るとわかる。最初登場した時に、冷酷な管理社会における為政者として、「大多数を生かす」ために、信念を持って、自分の強い意志で、「少数を皆殺している」。けれども、地球に降りて、事態が変わってから、彼はずっと、そのことを後悔してあがき続けることになる。シーズン5では、まるで逆の判断を、ブラッドレイナにつきつけることになる。要は、人間は変わるってこと。S6:E5で、「生き残るためにするべきことをしただけだ」という意見に、クラークの母親は、「戦争犯罪人は、誰もが同じことを言う」と、そのことを拒否している。この行ったり来たり。


この過酷さ、、、、「選択肢の奪われた現実をつきつけられる」のは、まさに新世界系で話されてきたこと、そのもの。


これ、すごくない?。個人的には、大発見。こんなに2000年代の10年間の日米の若者向けの物語に、このサバイバル感覚が、ものすごい規模で共通しているなんて。いや、一つや二つじゃないもん、ヤングアダルト系の小説、映画、ドラマ、アホみたいに山ほどある。そして、メディアミックされている。『ハンガーゲーム』とか映画化されて日本行きてもあまり人気が出なかったり(米国ローカル文脈なんでいまいち日本人にはわかりにくい)、ヤングアダルト系は、ほとんど日本語には翻訳されていない。子供向けだからか、というか、米国ローカル文脈が強すぎて、翻訳しにくいんだろうと思う。日本のライトノベルが、英語に翻訳することの難しさと同じだろうと思う。頂点にたつような作品は、グローバルに問題ないかもだが、そうでないやつは、なかなか難しいだろう。


ちなみに、たぶん日本でだとまず知らないけど、映画になっていて、こっちだと有名なのは、下記の作品。ネットフリックスか、なんかで、映画は見ることはできると思う。日本は未公開だったと思うけど。

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