個人で世界を背負おうとする絶望〜奈須きのこの世界観②

彼が、「自ら立てた誓いを遵守する」ということに限りない憧憬を覚えているというのがわかってきた。ほぼすべての作品の主人公や、壊れていくキャラクター(それは悪役ではあるが切ないもう一人の主人公)の基本の動機構造が、「自ら立てた誓いを守る」という構造で成り立っていることがわかる。


□個人の内面を深掘りするが故に、他者に動機が感染していかない

こう前回に僕は書いた。これはすなわち、奈須きのこが、「動機(=自らの中で誓いを立てて守りとおす)」を描く作家であるということを指示しており、彼の文体が美しく昇華するのは、やはり個人を描く時なんだろうと思う。ちなみに、これって、他者の心はわからないという前提がすごくある世界観なので、心象風景的には、ものすごく寂しい人物類型ですよね。


ちなみに過去の作品を追うと、この個人の動機がどこから来ているのか?という部分は秀逸なシーンで表現されていることが多い。『月姫』で遠野志貴と魔法使いブルー(青子)とは、草原で出会い、その風景で始まり、その風景で終わる。Fate/staynightの士郎のunlimited blade works(無限の剣製)の固有結界のシーンは、彼の強い決意とその報われなさが見事に描かれている。たとえば、セイバーのただ一人で戦場で戦う情景のシーンも同じだ。彼らキャラクターたちの動機の根幹を支配するシーンが、キャラクター達の脳裏に焼き付いており、そのイメージに支配されてこの主人公たちは生きている。


でも、これはすべて、個人レベルの話なんだよね。個人が個人の誓いを守ることで、世界に関わろうということがベースにある。


が、本当に世界を救おうと、正義の味方たろうとするときに、我々がこの汚れた地上で為せる、意味のある行為となどんなものなのか?。そして、どんな目指すべき背中があるのだろうか?って僕は思います。前に、流血女神伝シリーズ『喪の女王』『暗き神の鎖』『女神の花嫁』が神の観念と人間の自由というテーマを描いているという記事を書いたのですが、そこで、救済には個人の救済と大衆の救済があって、個人を救済することはある意味難しくはないのだが、ここで動物の次元…快不快でメインに生きている「たくさんの名もなき人々」をすべて救おう・・・・


いいかえれば、社会改良を目指すこと、マクロの次元での改善を志向すること


を目指すときに実は、問題がものすごく複雑化するんです。


そして、世界(=名もなきたくさんの人々)全体を一気に救おうと考えると物凄い負荷が為政者や個人にかかるんですよね。そもそもほぼ不可能なことだし。このへんは、世界のすべてを一人で背負う、ローマ帝国の統治システムを見ると、その大変さが凄くよくわかる。仏教でも、小乗(個人が救われることを目指すこと)と大乗(すべての人が救われること)に分かれていることや、カソリックプロテスタントの思考の違いもこの部分が先鋭的に対立していると思う。

僕は、あまりに素晴らしくてあまり疑問に思っていなかったんだが、これだけハマってくると、


なんで、こいつらは、組織をつくって世界を救おうという発想がないのかな?


と思ってしまうんですよね。やっぱり。いや、組織を作ることは、遅いよ。目の前のことは救えない可能性も高い(それが許せないんだろうけどねぇ・・・。)*1そして、組織には、政治が生まれるのでパワーバランスで、小さな切り捨てがたくさん発生するよ。・・・・でも、それでも組織がないよりもあった方が、より多くの人を長く、それも正しい形で救うことが可能だと僕は思う。

それに、そもそも開発経済学の重要な倫理テーマなんだが、

「救う」という上から見た物言いは、既にダメなんだよ。

ほどこしや、その救われる対象自身が独力で自らを助けることができないような手助けは、依存を助長させて根を腐らせるだけで、一向に貧困や苦しさの根本も問題を解決しないのだ。本当に重要なのは、救われなければならない対象や構造そのものに長期的にメスを入れ、誰かに救われることなくそこに住む人々が自立じそんで生きていけるような仕組みを作り出すことそして、その仕組みAが、グローバルな資本主義体制にリンクし、ケイパビリティ(可能性の束)を持って豊かに自立していけること。

そう、、、、個人が個人のままで、その延長線上で大衆を救おうというのは、それ自体切なく美しいが、無理なことなんだ、と僕は思う。


「そこ」に踏み込めていない、キリツグと士郎は、やはり甘い。


・・・・そして、唯一そこに行くことの重要さをよくしっているのが、遠坂凛なんだろうと僕は思うよ。彼女の「頑張ったやつが報われないなんて許せない」という倫理*2は、ようはそういうことでしょう?。凛ルートで、最後の最後に夕焼けの前で微笑む凛の姿に、士郎はドギマギするが・・・・・・この情景があればこそ、このルートの士郎は、アーチャーにはならないことが強く予測できるので、僕はこのルートが一番美しい物語だと思う。


□関連記事

・Pasteltown Network Annex 〜 Pastel Gamers / まちばりあかね☆
http://pasteltown.sakura.ne.jp/akane/games/impression/fate.htm

・人が生きるということは?〜失われた第 4 のルート?のまちばりあかねさんに感涙
http://ameblo.jp/petronius/entry-10059145499.html

*1:この話は、僕は『プラネテス』の4巻の話を思い出す。この話って、凄く難しくて、人間はそもそもマクロの世界では生きていない生き物で、ミクロしか目の前にない生き物なんですよね。自分にとってのリアルのすべてに関していったん見捨ててください、といっているようなもので、それを許せないと思ってしまうことは、確かに短絡的ではあるが、間違っているとはとても言えない。だって、目の前で愛する人が死にそうになっていたら、マクロもくそもないでしょう?。

*2:すべての人が公平に努力が報われるという「仕組み」の発想をしているわけだから