ナナリーにウソはつけないというルール

これ、TURN6の冒頭で聞いて以来、耳を離れない言葉なんです。なぜかというと、ここ、ルルーシュが自身の尊厳と存在意義を込めていることが一発でわかってしまうセリフだからなんですね。


ルルーシュは、戦略家です。そして、日本独立と、ブリタニア帝国への革命のリーダーです。そして、人の上に立つ人ということはマクロを読みながら人間を駒扱いして、より正しい結末・・・・過程よりも「結果」のみを重視される世界にいる、ということです。だから、、、指導者というものには、カリスマ性や正統性が求められます。それは、いきなり同じ人間から「死ね」といわれて、納得できるだけの、わけのわからない「なにか」がないと人は納得しないのです。その個人にそういったカリスマ性がない場合は、血統であったり、集合的沸騰を経た憲法であったり、なんらかの社会的正統性担保の装置がないと人は容易に説得されません。けど、革命とか、こういった個人がはじめてしまうものには、そういった正統性を支えるものがまるでありません。・・・・いいかえれば、若いうちから指導者たろうと、エリートたろうとすることは、他者や周りからの凄まじい反発を食らうのです。その人が、創業者の子供とかいえば別ですがね。ましてや、人の命がストレートに関係する戦争や革命では、その正統性を仮に確保するために、「実績という名の力」をとんでもなく出し続ける義務が指導者には負わされます。


酷いです。・・・いや、あのね、個人で、親衛隊作って、組織作って、国家相手に戦争を起こすことが、どれほどの嘘と偽善とにまみれた行動を必要とするかは、考えてみればわかります。ルルーシュは、ナナリーを妹を守りたいなんて言う子供じみたことをいうような気弱な性格にもかかわらず、平気で人を暗殺し続けるし、自分が深く尊敬する従姉妹のユフィすらをも暗殺し、自分の夢に賛同してくれた黒の騎士団の仲間たちす駒扱いで捨て去ります。これは、彼が、なにも背景のない徒手空拳の立場で、不可能に近い目的を持って、それを個人の才覚と「実績という力」でねじ伏せようと、、、、社会の在り方ということ捻じ曲げようと願ったのだから、当然です。


けどね、人間の良心にとって、そういったマクロの理(ことわり)に、心を委ねることは、自身の「個(=ミクロ)」を抹殺し続ける行為に他ならないのです。



この反動として、身の程を知らない目的をもって全力疾走する人には、対価としての心のよりどころを求めるものなんです。それが、ナナリーだったんですね。ルルーシュの行動が、マクロの理に沿えば沿うほど、ルルーシュのナナリーへ捧げるある種の誓いは大きくなるのです。ナナリーの存在が、彼の行動のすべての担保となるからです。だから、たとえそれが身の破滅を招くことであっても、マクロの理からいえばあり得ないことであっても「ナナリーにはウソはつけない」という「誓い」となって表れてくるのです。こういうルルーシュの心理状況を前提に踏まえないと、正しい形で感情移入できない気がして、ちょっと書いてみました。僕は書くことで、気持ちを深める人なので。