器の問題〜君は多様性があるか?

ふと、ある友人のブログを見ていて、思ったことがある。そいつは、いま絶好調の出世街道を登り、素晴らしい劇的な実績を上げつつあるビジネスマンで、まぁもともとこいつはやるな!と思っていたので、僕には別に驚きは無いのですが、、、、


・・・・何度も言いますが、何度か会ってある程度背景の事実情報をもらった人で、その人の未来を読み間違えたことは僕はほとんどありません。僕が真の親友と思うのは、自分の「予測する未来」を逸脱してしまうような、僕でもその器や存在の価値が読みきれない、というような道を走っている人です。ホンモノは、たいていそうです。ほとんどいませんが。それだけ、世の中の既存の価値概念・・・学歴とか社歴とか生まれなどから予測できる「人生という物語」というものには類型があり、その類型を打ち破ってい来るという生きることは難しいのです。と、僕はいつも思っています。別に自分が、逸脱する素晴らしい人材だ、なんて思ったことも毛ほどもありません。人間が類型を超えるのは本当に難しいのです。それはある種の天才・・・といういいかたはおかしいかな・・・・・それはオリジナルな人生ですので。まぁ最初から壊れている人は分かりやすいですが・・・一般人は、その人が、ちょっと逸脱する「ホンモノ」なのか、ただ人なのかの判断は難しいです。


えっと、閑話休題。違う話になってしまった。


えっと、その優秀なビジネスマンである友人のブログや普段の会話をいつも聞いていて、、、、どうも不満に思ったんですよね


経営大学院ではなく単科ですがグロービスなどのビジネススクールや、会社の優秀な先輩たちの話を聞いていていつも不思議に思うこととな時なのですが、、、、この人たちはどうして、こんなにもビジネスの世界だけの話をするんだろう?って思うのです。使う言葉も、すべて系統が似ています。自己実現のマッチョ系ワードと僕は読んでいますが、「志」とか、勉強とか!、「成功」とか、、、とかとか、、、うーん僕も同じ言葉を使う系の人なので、まーそれ自体は批判できないんですが。


ただ自信を持っていえるのは、僕は成長の素晴らしさを心底信じていると同時に、その真逆の成長という名の害悪もよく知っていると思うし、成長という言葉で覆い隠されてしまう世界の真理もいつも意識しているつもりです。世界は両義的だもの。


http://gms.globis.co.jp/top_seminar/2008/0523_492.html


この講演会に感動した、という話で、、、いや確かに素晴らしく、僕も行きたかったなとか思いますが、、、、、なんというのだろう、これ自体の問題ではなくて、その人が受け取っている情報の幅と質の問題なんですよ。


僕は現代というのは、島宇宙化して自分たちの言語が通じる空間の内部だけに閉じこもってコミュニケーションをするという悪癖がある時代だと思っています。そして、このマッチョイズム・自己成長病という名の狭いサークルの中で権力を行使する集団というのもいて、そういうのも、僕は・・・自分もかなり人生の過半がその内部にいるのですが・・・スキではないのです、、、、、食うために家族を養うために、何よりも権力を得るためには、そこでしか生きられない・・・何しろ僕の持つ鍛えてきたスキル・武器はそういうものばかりだから(笑)、、、ではあるのですが・・・・・


んでね、なんかビジネススクールや若手の勉強会にいくと、どうも僕は、ヘキヘキしてしまうんですよ。なんか盲目的に未来を信じている、ビジネスの世界だけを見ている視野の狭さが・・・。いや、僕は、そういった集まりでも、最も激しくそれを言う人なので(笑)ほんとうは、えらそーに批判する権利はないんでしょうが・・・・でもまーいうわりには、このいま話題の友人ほど最高レベルで突っ走っていないので、ブチきれるんですよね・・・・ビジネスの弱肉強食の世界で生きるくせに、なんだその甘さわ!って(笑)。それを信じていないオレごとのきの努力に勝てないようなは死ね!とか、いうし。


時々さびしくなるんですよ、「それだけ」というのは。ビジネスや自己啓発で成長万歳の話ばかり聞かされていると、、、それ以外に君は、君自身の豊かさってほかにないわけ?て。僕は、なんか自分のメインの言語空間、、、というかかわっている世界が一つだけという人を見ると、なんか貧しくって、さびしい気分になります。そもそも魅力があるように見えないし。


それはビジネスの話以外でも同じです。漫画でも、そうです。「それだけ」を聞かされていると、、、もちろんそれが超弩急の深さを持っているのならばともかく、普通くらいならば・・・超がつくからには、せめて「食べていけるプロである」とか「業界ではしらぬものなし!」とかそういうレベルのことを言っています。それこそ、物凄いレベルならともかく、、、、普通ぐらいならば、僕はもっとイロイロなコミットできる対象を持っていて、その幅の広さで人格を深めている人と話したいな、と思います。ビジネスだって、ビジネスの話だけしかできない人って、魅力無いんですよね。漫画でもブログの話題でも同じ気がする。だって、人間だもの。


僕はこういう姿勢を、越境する知とか越境する姿勢と呼んでいますが、自分が一つの世界にはまっていることの狭さに自覚的かどうかは、その人の公平さ(フェアネス)さ、、、、心の余裕度合いにすごく大きな影響があると思うんですよね。


一言でいうと、器が小さい!って気がしてしまうんです。得意なものコミットするものは、多様な領域に、その広さも深さもさまざまあってそれがひとつの人格で統合されているような人格が、生きていても豊かだし、他人にとっても魅力的で豊かである、と僕は思うのだけれども。まー酒を飲みに行くときは、多種多様で変幻自在な内面の豊かさを持つやつと話したいね、っていつも思います。ビジネスの話だけではつまらないし、趣味の話(しかも自分が得意なものだけ)だけでもつまらない。いろいろなもの越境しながら翻訳しながら、話すからこそ友達との、、、他人との会話は面白いんだぜって思います。


あまり、、、、ビジネスばかりに偏るのも、よくないな、と僕は思います。