『なぜ働いていると本が読めなくなるか』 三宅香帆 一貫性のある問いを持ち続けることができる魅力

なぜ働いていると本が読めなくなるのか (集英社新書)

評価:★★★★★星5.0
(僕的主観:★★★★★星5.0つ)

🔳一貫性のある問いを持ち続けることができる魅力

書評家、三宅香帆さんは、世の中に登場したかなり初期からの推しなんですよね。京都天狼院書店の店長でしたよね。僕が最初に読んだこの方の本は、『人生を狂わす名著』でした。この中に、僕が大好きな中島梓さんの『コミュニケーション不全症候群』があったこともそうなんですが、彼女が最初に世に登場した時は、京大院生というブランドが、重要なワッペンでした。けれど、この京都大学院生!というブランドで紹介されているラインナップに『なんて素敵にジャパネクス』や『イグアナの娘』が入っているんですよね。そして、最初からアイドル好きなことも隠してもいない。


これを読んだ時、その文章に触れた時、とても共感したんですよね。僕はこのブログを既に20年近く書いているのですが、僕の重要な批評、紹介、なんでもいいのですが、本や映画などを楽しむ時にスタンスの最重要ポイントが、「ジャンルを問わないで、良いものを、自分の言葉で説明する」というのがあるんですよね。この「ジャンルを問わない」というのは、本当に重く深い意味があって、僕は同じ熱量の意識を、どれほどのB級とかオゲレツと言われるモノであろうと、マンガであろうと大衆小説であろうと、他者によるランク付けやカテゴリーを「完全無視して」等分に同じ台に並べて楽しもうとします。これは僕が尊敬する、評論家中島梓さんのやり方を意識的に取り入れようとしてきたことです。そして、既にもう僕の人生の生き様になっているんですよね。


なんでこれをいうかというと、同じようにジャンルを越境して評論をする人、分析的をする人、「楽しむ人」というのは、全然いないんですよね。


かろうじて、「楽しむ人」というのは、それなりにいます。しかし、この視線を、「評論する」「分析する」という視点に持ち込む人は、本当に少なく皆無なんですよ。理由は簡単で、そもそも、評論というジャンルは、かなり高等遊民的な孤立した集団であり、マーケットなんで、このジャンルで本を出そうとすると、学問的な「権威」を持ち込むことが大事だし、少数の「分析したがる人々」というスノッブで、俺様頭いい!と「教えたがる男たち」みたいな集団を相手にしないといけないので(ちなみに男ばっかり)、そもそもマンガやアニメやアイドルや司馬遼太郎(大衆小説)を論じるに値しないし、論じても売れないんです。この狭い世界の俺様マッチョ主義は、超有名評論家の人たちの本を読むと、すぐわかると思いますよ(笑)。なんと言うかマッチョ主義って、ヒエラルキーつけたがるので、めちゃくちゃ差別的なんです。


だから、ジャンルを超えて、「楽しむためのスタンス」で、読解しようぜ!とか、分析しようよ!とか、考える人がほとんどいないし、いても本にならないし、世の中のスポットライトを浴びないんですね。いってみれば、評論家という職業、肩書には、この堅苦しさと、ニッチマーケットに耽溺する癖があるんですね。狭い蛸壺の中で王様にならないと認められないみたいな、階級主義がある。オタク第一世代の人と同じ感性です。


京都大学大学院生で万葉集の研究をしているというブランドで登場してきたこの人が、最初期から、ジャンルを超えてものを楽しんでいて、モノを考える人なんだというのは、見れば一発でわかるので不思議な感じがしました。なぜなんだろう?。一流の学歴で、研究者のコースに持っているのに。多分そういう権威や学歴や、階級の秩序づけがあまり大事に持っていない、言い換えればトラウマがないんだなと感心しました。明らかに、僕のような昭和世代からすると新世代だなと思いました。しかし、失礼ながら自分と同じ匂いを感じてしまいました。あ、この人、ちゃんと「楽しんでいる」って。評論家とか、分析する人は、基本的に、「分析したがる」ので、楽しむのがわきに行く人が多いんですよね。それって、本末転倒じゃないかって、僕は人生かけて感じています。評論家とか職業にするのならば、そもそも学問の世界でやればいいので、アニメやマンガやアイドル、物語を包含する必要性なんてないんだもの。学者になれなかった人が、別のカテゴリーで一番いなろうとするルサンチマンか、マーケットで(=大衆)で売れるからというライターを仕事してやっていて、思い入れや哲学がない人。そういうのが多なって。でも、それは、嫌だなっていつも思います。本にせよ何にせよ、僕は全て同じ「人間が生み出したコンテンツ」だと思うので、それら全て越境して「語る語り口」を持たないと、全然面白くないよなと僕はいつも思っています。


ちなみに、僕は、そうは言っても、三宅さんは、たぶん、せっかくの「この越境する視点」を展開できないだろうなって思っていました。というのは、評論家や書評かで生きていこうとすると、職業的に、研究者やライターなどにならなくては食べていけなくなるんで、たいてい、10年くらいで、面白くなくなるんです。旬がすぎるんですね。「食べるため」にマーケティング(=編集者のいうことをきく)しなければならなくなって、やはり同じようにジャンルが固定していくからです。楽しむんではなくて、食べるために書くようになるからです。それは構造的に、仕方がないよなって思います。


僕が、無責任にジャンルを無視して「好きなものは好き」という姿勢を拙いなりにも保ててるのは、稼ぐための仕事が、本や物語と全く関係のないところにあるからです。もっとぶちゃけていうと、僕は、この本で言うところのサラリーマンであり、働いている「余暇を楽しむため」に本を手に取る種族なんです。こういう社畜種族は、基本的に、本やエンタメを、自分の癒しや逃げのための道具として使うので、分析したり、ジャンルを超えた文脈を探そうなどという知的好奇心は継続しません。忙しくて無理なんですよ、普通は。


なので、実は、三宅さんが、本当はなんの関係もないIT企業に就職されたと言うのが肩書に書かれているのか、Twitterのつぶやきを見て、あれ、、、もしかしたら、この人、ものすごい「世に出る人」になるんじゃないか?と言う可能性をメチャ勝手に感じていました。このバランスを維持できたら、この人の切り口って、物凄く斬新になるぞって思ったんです。次に出る新刊(女の子の謎を解を解く)で萌芽もあって、大奥の書評やこの『花束みたいな恋をした』の切り口など、斬新で、従来の評論家の視点では全く出てこないような新しい切り口がカッコよく、やはり!といつも業績を楽しんでいました。女性であるというジェンダーの視点よりも、むしろ、この「普通の生活をする=本だけ読んでは生きられないし、本自体もおもしろくなくなってしまう!」という視点を保てることが、この方の思索家としての強みだと感じます。


そして同時に、自分が人生でぶつかった壁にも、どこかでぶつかるんじゃないかって思っていました。その壁とは、


仕事が忙しくなりすぎること、


結婚して家庭ができてパートナーとの時間が大事になりすぎること


を通して、バーンアウトしてしまいそうになることです。ようはね、この「越境して」物事を楽しむスタンスって、


普通に生きたい!、人生を楽しみたい!


ってことと同義だと僕は思っています。仕事って、めちゃくちゃ楽しいんですよ。そして、好きな人とデートしたり親密圏を作るのって、最高に幸せなんですよ。そして、そう言った「普通の労働を通して、この世界の十分に実感しながら濃密に生きている」体験をベースに、さらに本や映画やマンガを楽しもうとすると、専門で読むだけよりも、もっともっと面白いんですよ!。この人が、東京でサラリーマンの道を選んだことも、また辞めて、新しく書評家としての道を再スタートというか集中されたこととか、バランスを持って生きること、、、これほどの本が好きにも関わらず、本や文章の世界だけで自己実現することに逃げ込まない「強さ」があるからだと思うのです。本当に人生を楽しむとは、本当に本を楽しむとは、同じくらい実世界でもリアルに生きて、なんぼだって僕は思っています。


この問いに、真摯に向き合い、でも、、、、やっぱり自分は、本が好きなんだよな!と結論が出た時に、ではあなたはどうするのですか?と言う真摯な問いが、この本には溢れている。ちょっと涙出そうでした。


『なぜ働いていると本が読めなくなるか』



この問いが、労働と読書の歴史を、その起源を問うことから始まるのは、「まさにそう言うこと」だろうと思います。この問いをむちゃくちゃ具体的にしたのが、『花束みたいな恋をした』の麦と絹のシーンなんですよね。ここに、三宅さんが、ぐっとくるという「問いの出発点」なのは、本当に共感します。



🔳なぜ働いていると本が読めなくなるのか?〜この問いは実は間違っていて、そもそも金持ち階級しか余暇や読書なんて楽しめないと言うのが身もふたもない真実なんです

さて、細かい内容に入る前に、僕はこの本で主張されているところで、なるほど!!!とうなったポイントがあって、さらっと流されていますが、


麦と絹の問題は、階級の格差があるんだと言う点です。


これ、僕も非常に実感します。僕はだいぶ読書を楽しむ人ですが、たぶん、麦と絹の「真ん中」ぐらいの階層に生きる人で、自分の子供たちは、明らかに「絹と同じ東京に住む中産階級のレベルで生きる人々」なんですよね。これは凄いわかる。自分の子供たちが、僕よりも知的で、余裕があり、資産的な基盤に恵まれているのは、いやでもわかる。なぜわかるかと言えば、僕がこの階層格差を、苦労して「少し」登った人なので、この葛藤と苦しみがわかるんですよね。うちの子供たちには、全然ねぇ。親が金持ちで、知的で(笑)、寛容さに溢れてて、しかも本人たちは、ほとんどアメリカの西海岸で育った帰国子女で英語ペラペラのバイリンガルとくれば、まぁ、こいつら、俺が北海道の田舎から出てきて、艱難辛苦を舐めて東京に居場所確保して、家族を維持してきた、そして自分「個人の幸せ(趣味のことね、本を読むとか)」を少しでも得ようと苦しんだことなんか、わかんねーよなって思います。だって生まれた時からマンガ読み放題のKindleで数千冊溢れてて、ゲームは全てのハードが揃っていて、アニメもドラマも映画も見放題、世界中を旅できたりしやがるんですぜ、、、、そんな奴らとの階級の差って絶望的じゃん。。。家庭内格差すごいですよ(苦笑)。うちの子ども達、この上、俺より頭が良くてスポーツまでできやがる。。。自分が子供と相性良くて仲良くなかったら、嫉妬でめちゃ仲悪くなったと思う(苦笑)。これって、アメリカでもすごい感じました。うちの子供達は、ネイティヴみたいなバイリンガルなので、移民第一世代(と同じ立場)の自分の苦しみは、ちっともわからないんですよね。ああ、これが移民の世代格差かって唸ったもの。・・・話がズレた。


ぶちゃけ、本当の意味で、人生に余裕を持って本が読める人は、それなりの資産家(しかも最低2世代以上の)じゃないと難しいんですよ。


ただ、この「金持ちしか余暇を楽しめない」と言うのは物質的な意味でも知的なレベルでもなんですが、日本の戦前大正期や昭和中期の高度成長期は、この高等遊民の「幸せ」と言うやつが、労働者階級に、大衆に開かれていっている過程だと思うのです。なので、僕は、物凄いこれには肯定的です。この大衆に、普通の市民に知的なものが開かれていくプロセスや力学なくしては、自分も、こんなにコンテンツを楽しめる社会に世界に生きることができなかったでしょうから。日本は、素晴らしい国になっているんですよ!。僕は本当にそう思う。幸せな時代に生まれたと思う。だから、知的高等遊民が、大衆小説的なものを、一段下に見る軽蔑つの視点が、子供の頃から、僕は大嫌いです。知的なスノッブさで、上から目線で見る評論家しぐさも、とても疲れます。



🔳本の定義として、ノイズの文脈をもたらしてくれるもの


これ書いていると日が暮れるので、YouTubeで話しました(笑)。ちなみに、この三宅さんの本の本質は、ここだと思います。労働史のところじゃねーよ、っていつも他の人のインタビュー見てて思う(笑)。本を読むという文化的な行為と、ビジネス領域のブリッジは、「そこ」になるので、まぁそこばかり話すのは分かりますけどね。このコスパ至上主義の時代に、コスパとかぶっ壊せ!と主張している(ことになってしまう)ので、そこに突っ込みづらいんんだろうと思う。ビジネスの世界は、それこそ、全てコスパと効率と、フルコミコミットメントでできている世界なので、2000-2020年代の僕らが生きる、この時代は。

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🔳じゃあどうすればいいの?〜半身になれないからこそ、フルコミットメントを避けろ

僕はまだ、じゃあ、どうすればいいのか?、という問いには、答えられない。仕事を楽しみながら本(=他者というノイズ)を楽しむというのは、やはり凄く難しい。自分でも、まだ無理だって思うもの。ただ、それは僕が、団塊のジュニアの世代で、最もこのフルコミットの深まる時代を生き抜いた世代だからだと思う。昭和の世代とは違った形での、サバイバルを生き抜いた世代。この話こそまさに、「新世界系」として僕たちがずっと話して分析してきている話なんだろうと思います。壁の向こう側で、突然死がある世界で、ただ生き残ることだけを目的に生きていくことを目指した世代。この話を見るときに、アメリカでの人気ドラマTHE 100をいつも思い出します。これは本当に面白かった。

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今は、、、、僕も本がなかなか読めない(笑)。


ただ、日本社会自体が、ちゃんといろいろなものが、提案されて、みんなの意識がそこに向かえば、漸進的に変わるちゃんとした自由な社会だって感じはすごい感じる。50年近く生きてきて、今が一番豊かで素敵な時代だと思う。行動成長期の、年収が倍々ゲームで増えていく「希望」に満ちた過酷競争社会ではないけれども(笑)。もっと多様性があり、個人の可能性が許された、本当に意味で「豊か」な世界になりつつあると思う。全てが薔薇色ではないのは、ホモサピエンスの社会が、そんな甘いわけはない。でも、それでも、悪くないと思うんだよね。競争や戦いがあるのは、いつの時代だって同じ。ゲームのパターンが変わるだけ。でも、そのゲームのメタルールは、とてもジワジワ、悪くない方向で構成されていきつつある社会に僕らは住んでいると思う。日本は、素敵だなと思う。


というようなことを、三宅香帆さんという、この人の人生から、それがとても伝わってくる。そうだよね、そうだよね、と僕も思います。


新自由主義的なコスパ市場の効率ビジネスシステムに対して、フルコミットは避けろよ!とのメッセージは、とても重要で示唆にともう価値があるメッセージだと僕は思います。素晴らしい本を、ありがとうございました。



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