日本の未来が見える村/長野県下條村、出生率「2.04」の必然

■日本の未来が見える村/長野県下條村出生率「2.04」の必然
http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20090209/185533/?P=1

この記事が面白かったので、抜き出し。

補助金」「地方債」「交付税」。この3つを行政関係者は「地獄の3点セット」と呼ぶ。インフラ整備やハコ物事業を進める場合、国や県から半分程度の補助金が出る。さらに、足りない分は地方債の発行が認められ、その元利返済は地方交付税で面倒を見てもらえた――。この3点セットは市町村が借金の痛みを感じることなく、借金を積み重ねることになる原因になった。


いま、ハイエクを紹介した池田信夫さんの親書を読んでいるんだが、こういうのを読んでいると、日本の戦後に与えたケインズ政策の影響をがあまりにまざまざと見せつけられる気がして、なるほどなーと思う。

これは、ハコ物事業、いいかえれば、有効需要を作り出すために大規模な土木事業を、中央政府の指令の元に、中央政府にコントローラブルに実施しようという思想の具体化なんだよね。もともとは、田中角栄さんの日本列島改造計画や明治維新政府以来のユニバーサルサービス志向などにも起源があることなんだろうけれども、中央政府による大規模な有効需要の創造、ユニバーサルサービスを維持したうえでの均一な国土の開発などの思想上の結実点なんだよね。さらにいうと、信用できない愚民である地元の住民の手によらずに、善意を持つ中央計画者、いいかえればノブレスオブレージを背負った上級官僚による、ユニバーサルなサービスの提供。ただ、これはこれで単純に悪いとは思わないし、時代のステージの問題もあるので、僕は簡単には否定しないんだけれども、こういった国土開発を継続的に続けていくと、非常に重要な副作用というか、ワンセットの表と裏なんだけれども、「その場に生きる住民」の自助努力が失われていくんだよね。これって、大正モダニズム以来の日本の病である、共同体(=帰るべきところ)を喪失した、人間を大量生産するんだよね。しかも、「そこにいる人間が、自分たちの世界を変え、豊かにする」という、意思を放棄させられ去勢される形で。ようは、国土、いいかえれば自分たちの住む空間に対しての権利を放棄している形になり、住民がフリーライダー(ただ乗りクン)となってしまうんだ。これは、マルクスの労働予備軍ではないんだが、この自分が生きる場所への愛着と責任を喪失した、浮遊する人格を、都市がそして高度成長する産業が吸収して、会社共同体に入れ替えていくという流れが存在した時は、これでよかったのだが・・・。ただ、自分でものを考えるという意欲をすべて奪ってしまうという副作用は否定できない。ただし、夕張市などの例を考えれば、住民のレッセ・フェールに任せると、徳川幕府以来、エリート(たとえば藩の武士たちね)に任せて行政への責任意識のない愚民が多い日本では、とにかくめちゃくちゃな失敗も多々起きる。成功例は、非常に希少な例であって、後段にも書かれているけれども、それはユニバーサルデザインと均一な国土の開発という、「平等」を看板に抱える、善意の先導者であるはずの高級行政官僚にとっては、頭が痛い問題だろう。「くれくれくん」が多い日本では、成功は自分のもの、失敗は、国(=お上)の責任とすぐ叫びだすにきまっているから。ユニバーサルデザインは、僕は日本社会の、強烈な平等思想からきていると思っていて、このエートスは、どうも日本の社会に巨大な圧力をかけているような気がしてならない。これって、良くも悪くも、なんだが、、、なんでこういうものが生まれるんだろう?というのが最近気になることです。ただ、日本の指導者層には、強いノブレスオブレージによる愚民を支配しなければならないという選民思想が伝統的にあるんだけれども、同時に、その反対勢力のように、強烈な「結果の平等志向」を感じるんだよね。悪くすると、くれくれのただ乗りクンになるんだけれども、革命起こそうが、一揆をおこそうが、ぜってー我慢しねーみたいな根強いエネルギーがあって、これを無視することは為政者は出来ないんだよね。暴走しやすく、ケインズ政策などに結びついて、田中角栄などが典型でがポピュリズムに利用されて、制度をを刷新するイノベイター(=改革者)のバックグラウンドになりやすい。歴史的に。この対立がとても大きなキーのようで、最近、どうやって言葉を与えたらいいのか悩んでいます。


「生活道路はあなたたちで造ってください」

 簡単に言うと、砂利やコンクリートなどの材料費は村で負担するから自分たちで道路を造ってくれ、という制度だ。対象は集落内の生活道路のように幅3〜4メートルほどの道路や畑の側溝など。3人以上の受益者がいれば、材料費や燃料代は村が負担してくれる。

 確かに、バックホー(パワーショベル)を運転できる人間は集落に1人くらいいる。土木会社で働いており、必要な砂利やコンクリートの量を積算できる住民だって1人や2人ではないはずだ。地面をならし、砂利をまき、コンクリートを流し込むことなど、集落のみんなでやればそう難しいことではない。

 「それは役所の仕事だろう」。始めた当初は不満の声も上がった。だが、ある集落が真新しい道路を造り始めると、反対していた人々も雪崩を打って道を造りだした。この資材支給事業で造られた道路や水路は今や1000カ所以上。下條村を車で走ると、手書きの「年月日」が刻印された白い道が至る所で目に入る。

 この道路造りは別の効果をもたらした。地域のコミュニティーが活性化したのだ。「共同でやる作業はだんだんと減っていたが、皆が共通の目標を持つことで、集落の活動が盛んになったね」と伊藤村長は打ち明ける。


この話、ローマの行政システムを思い出させた。ローマの自治体制も、その活力の基本は、住民による都市の自力建設が基本になっているよね。ヨーロッパの自助の伝統や、独立の意識の伝統って、僕はこれが根っこあるような気がしてならないんだ。基本的に、日本社会には、自治の伝統は極めて弱い。制度的に、そんなものは全くない(笑)からというのもある。かといって、日本人が、本当に定説のように、何でもかんでもお上に従うバカばっかりなのか?といえば、僕はそうは思わない。だって、そもそも統一権力があるか分からないような、各セクション(=派閥)に忠誠を誓ってその派閥ごとの権力闘争のダイナミズムが、政治力学を動かす国なわけなので、それって、自治とは言わないが、部族社会のごとく、自分が所属する組織に忠誠を誓いやすいということなわけだから。このへんの、組織の在り方って、非常にわかりにくい国だなーと思う。


一般的に、国の補助金には様々な制約がある。例えば、下條村のマンション建設の場合、「入居者は抽選で決めなければならない」「低所得者層を一定数、入れなければならない」「家賃はいくらでなければならない」などの縛りがあった。国費を投じる以上、公平性や大義が必要ということだろう。

 下條村はこの縛りの下、入居者を抽選で決めた。だが、抽選で入居したある家族は地域活動に一切参加せず、住民と摩擦を起こした。さらに、家賃まで滞納するようになった。「協力的でない人間が1人いるだけで、地域のコミュニティーがダメになる」。この一件に懲りた伊藤村長。2棟目以降、すべて村の自主財源で建てることに決めた。カネはかかるが、村が望む人々を選ぶことができると考えたためだ。

 今では入居条件を「子供がいる」か「これから結婚する若者」に限定。消防団への加入や村の行事への参加も条件に加えた。その結果、村が考える「質のいい若者」が入居するようになり、村や地域が活性化し始めた。各地域もマンション建設を歓迎するようになった、という。


これは、ユニバーサルデザインの思想の思いっきり弊害のいい例だな。基準というのは、目的に合わせて柔軟に変化する必要があって、現場にちゃんと、情報をくみ上げて基準作りをして合意を得る仕組みが存在していれば、この村のように、。自分たちでやった方がいいのだ。ただし、何度も繰り返すが、そんなことができる自治体は希少で合って、ほとんどは、ばか丸出しのフリーライダーばかりなんだよね。一部の成功例を持って、中央政府が、地方自治体に権利を渡せない、と思う気持ちは分かるよ。悲惨なほど格差がついて、ボロボロのところは、ある種の崩壊まで追いつめられるわけで、それって絶対、国がけっきょく面倒見ることになる。ある期間、、、相当年数になるが、凄まじい格差が生まれて、その格差をベースにモラリティと動機が生まれるという構造になるはずだから、、、、とすると、その激しい格差を推し進めるし負は、絶対に民主主義では支持されないからね。


住民ニーズを知るのは霞が関でなく市町村

 こう言うと、霞が関の官僚は必ず反論する。「どのように使われるか分かったものではない」「市町村は何をしでかすか分からない」、と。確かに、下條村のようなまともな市町村ばかりではない。国民一律のサービスを担保しよう、と官僚が考えるのも分かる。

 もっとも、その結果が費用対効果の著しく低い補助金であり、山積みになった国の借金だろう。


このへんは、よほど先を見通す為政者が登場して、ポピュラリティで押す進めない限り、今ある構造の抜き難さからなかなか抜け出ることはできないだろうなぁ。「構造」というものはそういうもの。