『とある魔術の禁書目録]『とある魔術の禁書目録』 6-7巻 鎌池和馬著 作者が成長中〜ハーレムメーカーの構造に自覚的に

とある魔術の禁書目録(インデックス)〈6〉 (電撃文庫)


評価:★★星2つ
(僕的主観:★★★星3つ)


やっぱりこの人は、文章力に難がある感じがする。読みにくくて仕方がない。物語は先を読みたいと思わせるし、個々のエピソード自体は面白いので、なんというか、「考えの深さ」が甘いんだろうなーと思う。物凄い読みにくい文章を書く奈須きのこさんの『空の境界』なんかは、にもかかわらず、その一つ一つの言葉の意味するところの深さが、もっと読み込んで深く理解したいと思わせるもの。とはいえ、ライトノベルの作家には珍しく、いろいろ設定を複雑に考えて、それを力技でまとめあげようとしているところには、好感が持てる。この巻は、多分、上条当麻をめぐる本質のドラマトゥルギーの舞台設定を用意するための、前振りのようなものなんだと思うが、それを一つの話にするのは、まーわからんでもない。ようは、上条のハーレムメーカーとしての資質、出てくる女の子を、等値距離にして上条に助けさせれば、連載が続くのにも都合がいい上に、かなり広い舞台を用意する余裕が与えられるということに、作者が明確に自覚したんだと思う。この巻以降は、1冊1エピソードに新しい女の子というのが、安定化している。ただ残念なことに、僕は、巨乳メガネの風斬氷華(この巻のヒロイン)は、趣味じゃないってことが分かった。

とある魔術の禁書目録(インデックス)〈7〉 (電撃文庫)

評価:★★★星3つ
(僕的主観:★★★☆星3つ半)


実在の宗教の名を出すと、そのイメージに比して描写が甘いと、物凄く軽いレベルの低い感じがしてしまうので、この手法は悪手だなぁと思う。奈須きのこさんが、いっそ潔くいっさいその辺は出していないのは、この辺はニュアンスやイメージのコントロールに凄く重大な影響を与えるからだと思う。


さてさて、この7巻は、読み終わってみて客観的に見ると粗ばかり見えてしまうのだが、、、、かなり面白かった気がする。オルソラ・アキュナスに道でばったり出会うところから、十字架をあげることなど、いくつもどんでん返しがうまく構成されていて、、、一人の新しいヒロインを、偶然なんだけど(本当は全体的には必然だろう)であって、ハーレムメーカーたる主人公が救うという一エピソードしては、とてもいい。うん、そうそう物語の構成は、とてもうまいんだよね、この人。言葉の選び方とか文章力を除けば、とてもうまい構成とストーリーの本質を書ける人なんだよなー。それだけに、もう一歩と思ってしまう。6巻から、メタな構造とかに凄く意識的に書いているが分かるので、成長しているのが良くわかるだけに、うん、おしいなー。


さて、個人的には、神崎香織が女教皇(プリエステス)を務めていた『天草式十字凄教』の、組織の存在理由というのは、感心するほど良かった。これ、こういう新興宗教団体なら、「あり」だな、と宗教嫌いの僕でも思いました。というか、非常に小さな集団で、「信仰する」という枝葉の一つにのめり込んでいくような組織の目標としては、これ以上のモノはあるまい。そして、それを大きな意味にした、神崎香織という女の子のキャラクターとしての本質が、ちゃんと像を結んだ。これ以降、僕は、とっても彼女が好き。

救われないものに救いの手を差し伸べる、、、すべての力関係を無視して、という生き方は、高潔だ、と思う。そして彼女がこの教団を去った理由の本質が、ちゃんと、16巻の第四章「誰が守り守られるか」p269で、昇華されていくのを見ると、この作者は、小説家としての技術水準には、どうしても僕は???と思ってしまうんだが、ただし、人間というものの本質や、世界に対して真剣であるということはどういうことか?というような、もっとも重要な部分が良くわかっていて、それを確実に外さない描写が多いので、そういう意味では、小説家なんだろうなーと思う。

ちなみに、この巻で、神崎かおりちゃんのスタイルが確立したといっても過言ではないだろう(笑)。同じことが、16巻でも繰り返されるが、感謝の言葉を言いたいけど、常識があまりんないので、うまく言えなくて、土御門にいじられるというスタイルは、たまりません(笑)。



「でも結局ねーちんは脱ぐんでしょ?」(土御門)


「ぬ、脱ぎませんよ!結局ってどういう意味ですか!?」(神崎)


「え、じゃあぁお詫びにどんな服でも着るっていう方向で?サービス精神満点だなぁ」(土御門)


「あなたはちょっと黙ってなさい!そういう風に歪んだ解釈をするからややこしくなっていくんでしょうが!!」(神崎)



7巻 p332 行動終了


あっ、ふと思ったんだが、この人が文章が下手で分かりにくい、というのは、「解説が多い」からなんではないかな?と思う。というのは、多作で連載をし続けるために、冗長にエンド(=落ち・終着点)を決めないでに広げていくので、物語る行為としては、一貫性を欠きやすくて話を凝縮しにくいのかもしれない。