きっと行き着いた作品なのだろう。

鹿鼎記〈4〉二人の皇太后 (徳間文庫)

僕は金庸はこの作品しかう読んでいないのだが、なんとなくこの作家さんにしては、この作品は非常に異質なんではないだろうか、という印象を受ける。というのは、この作品は徹底的にナショナリズムが解体されているからだ。もともとその他の作品は、英雄が英雄らしく確立した作品という印象の話を聞いていたのだが、この作品は、全然そういうことがない。主人公が、康熙帝を庇って殺されかけるのだが、この主人公は口ばかりののどうしようもない卑劣な弱虫なんだが・・・結局、「その人が好きかどうか?」だけの基準で動いている。あとは、金と欲得だけ(笑)。・・・・そうかくと、とんでもない主人公だな、こりゃ(苦笑)。けど、この「民衆目線」というか、、、、もうほとんど追いはぎか盗賊かってくらい、欲望に特化した「民衆目線」が、凄く中国の大衆視線を感じて、、、、僕は、これはある種の決断によって、行き着いた視点なのではないか?と感じました。この主人公は、対立する組織のリーダーとか幹部に、いろいろなウルトラご都合主義的展開で重複してなってしまうんですが、、、、って、たとえば康熙帝の大のお気に入りの立場でありながら(若くして大臣までにっていく)、同時に反清復明の反政府組織の若きリーダーでもあるんですよ、、、もうほんと、おかしいの、ちゃんと倫理とか同義とかを考えれば。けれども、この主人公は、口先だけど、欲望とか気分で、次次こうい立場になっていき、それをうまくごまかし続ける。これって、最終の視点が、ナショナリズムやある種の組織の論理で生きることを徹底的に嘲笑っているんですよね・・・・結局理念で殺しあっているだけだ、、、ってだから理念の部分では、主人公は、実際にはほとんど動かない。金で転ぶだけ(笑)。そのすがすがしいナショナリズムや理念の解体目線が、最高です。