■越境する知〜ジャンルを超えていろいろなモノを摂取することの喜びを知る
ひさしぶりにこのブログの本義に戻って「一つの視点から様々なジャンルに共通するモノを」取りだして楽しむ方法を紹介する、ということをしてみたいと思います。海燕さんのオフ会で何か喋ろうと考えていたのですが、せっかくなので、ブログを書く上でのもともとのコンセプトに帰ってみたいと思います。
僕は数年前に、このブログを好きな映画を紹介しようと立ち上げました。仕事が忙しくなったり子どもが生まれたりで、映画を見る余裕がなくなったので、通勤時間に読む漫画と小説の感想にシフトしてしまいましたが、もともとは、媒体やジャンル、世代、年代を超えて、自分にとっておもしろいと感じるものの「共通性」という視点を出すことで、「より物語を楽しむため」のヒントになれば、と思って、そのコンセプトのもとに文章を書いています。
いろいろな「そんな小難しいこと考えて何になるの?」と金にも役にも立たないことを、ひねくりまわして考えるのは、この「大きな流れ」や「隠れている目に見えない共通性」みたいなものを見つけ出そうとするその動機からきています。「なぜそうするのか?」って???。それは、知的な教養というフィルターを通して見る物語は、もともとの何倍もの輝きを放つからです。僕の尊敬する先生曰く「知的な快楽ってのは、SEX以上の快楽が、ずーっと継続的に続くんだぜ。SEXは素晴らしいかいらくだけど花火のように一瞬で消える刹那的だ。けれど知的な快楽は、それが何日も、何カ月も、何年も続きまくるんだ。そりゃー修行というか訓練は大変さ。けど、人が感じる何倍も質もレベルも上の快楽ってのを、ドーパミンでまくりで体験したいって思うことは、おかしなことじゃないだろう?」」。といっていました。僕も同感です。知的な快楽は、「楽しい」のです。なによりも、「自分が理解できないジャンル」に共通性(=自分の好きな点)を見出していくことは、より「広い世界を理解する」のに有用で、楽しいのです。
ということで、今回は、僕が日常でしている「テーマを追ってさまざまなマテリアルを見る」という作法のうちの一つを取り上げてみたいと思います。「本当の自分」と「役割の自分」という二元対立から生まれる物語のドラマツゥルギーの類型が、より深いもっと根源的な「マターナルなモノ(=母なるもの)の拒絶と脱出」という物語の大きなテーマと繋がっている様を、さまざまな具体的な例をあげて説明してみます。それぞれに全く違うジャンルですが、とりあえずは勉強のつもりで、僕があげてみたテーマを軸に、連続で体感してみてください。きっと今までに「目に目なかったもの」が見えるような瞬間が訪れるかもしれません。
■「本当の自分」が承認されない自意識の脆弱さを抱えて、どこまでも「逃げていく」というのはどういうことなのか?
以前、「役割と本当の自分のズレ」という内容の記事を書いたことがあります。
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20100429/p3
これは、90-00年代が、自殺率の極端な上昇とかにみられるように、日本人全体でどうも「自意識の脆弱さ」が目立った時代で、それと期を合わせるように時代的な空気として、「本当の自分」と「役割として求められる自分」の二項対立から、生きていることに絶望するという類型の発想が目立ったこと指摘したものでした。
庵野秀明監督がこの辺の空気を最もよくとらえていたと思います。彼のこの時代の作品を時系列で並べると、はっきりとこのテーマを軸に解決を志向しいていると裏読みができるような気がします。
『崖の上のポニョ』と『スカイクロラ』にみる二人の巨匠の現在〜宮崎駿は老いたのか?、押井守は停滞しているのか?(1)/ポニョ編
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20080822/p5『崖の上のポニョ』と『スカイクロラ』にみる二人の巨匠の現在〜宮崎駿は老いたのか?、押井守は停滞しているのか?(2)/スカイ・クロラ編
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20080823/p4
【映画版ヱヴァ破考察 その壱】僕たちが見たかった「理想のヱヴァ」とは?〜心の問題から解き放たれた時、「世界の謎」がその姿を現す
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20090710/p2【映画版エヴァ破考察 その弐】 庵野秀明は、やっぱり宮崎駿の正統なる後継者か!?〜「意味」と「強度」を操るエンターテイメントの魔術師
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20090719/p2
特に、宮崎駿、押井守、庵野秀明は、完全にテーマが継続している、ある意味宮崎駿さんをスタートとする兄弟弟子のような関係としてとらえると、凄くわかりやすい。なので、そういった視点でとらえなおしてみると、「彼らが何に悩んで、それに対して、どういった答えを出したか?」というモノは、物事を解釈する上でとても面白いです。ちなみにこの3人のテーマを見る上では、宮崎駿さんの素晴らしい自伝である下記の本を抜きには語れません。ぜひご一読を。背景知識が、物語を楽しむために必須とは言えませんが、僕が称揚する、1つのテクストから「何倍にも深い快楽」を引き出すためには、必要です。全体の中から「個々のマテリアル」を位置づけるという作業が必要になるので、どういった時系列的なつながりがあるのか?、言い換えれば歴史(=個々を全体に位置付ける教養)を知らなければならないためです。繰り返しますが、「この作法」は、好きでやっている道楽なので、なにもこの読み方が「正しい」なんて思っちゃいません。ただ物事を理解していったり、「納得」するには、方法論的な手順があるのは常識であって、ここでは帰納や演繹などの論理のスタイルを論じることはしませんが、科学的な手法、対象物に迫る上でのメソッドには、ある一定の法則や手法があって、「それ」なしには、世界というこの雑多で混沌としたものを前に立ちすくむしかないと僕は思うのです。「知」という武器なしに、この茫漠たる混沌とした「世界」を戦い抜くことは、僕はできないと思っています。少なくとも僕は人間だから、「動物的脊髄反射」で世界を体感する「だけ」で生きるような生き方はもったいないと思うのです。まぁぼくが仕事上でマーケティングをするときの基礎として心がけているのは、その対象を真に知りたければ、「まずその歴史を調べろ!」です。時系列的になぜそういう現象が発生したかの「歴史」を知らないことには、そもそも「その対象が何であるか?」すら理解できないと思うのですよ。
さて、この「ただ生きているだけで訪れる不安感」のようなものは、日本社会では90年代の基調低音でした。良く思い出すのが、彼の実写映画の『式日』です。なんと岩井俊二主演!(笑)で、庵野秀明監督の自伝的な形式で、こういった、自意識の脆弱さから「自分が「そこ」にいることが不安になってしまう」という、「わけのわからない不安感」を表したものが、私小説的な形態をとるのは明治時代の文学者田山花袋まで繋がる日本の伝統芸に感じます。
こういったモノが映画化されると、ロードムービーのような形式になるのは、こうした状況での主観感覚が「見えるものがすべて意味のないものにしか見えない」という「意味感覚のなさ」が基礎にあるからではないかと思います。いいかえれば、電車の窓の外の流れるふうけのように「そこに触れることができない」ただ流れていくだけの「シークエンスとして、現実を眺める」という主観感覚です。ちなみに、ちょっとずれると、この感覚は、富樫義博さんの描く『ハンターハンター』のゴンが、団長に問いかけた「仲間をあれだけ大切にするお前らがなんで人をゴミのように殺せるんだ?」というというと、リンクしていると僕は思っています。
なお、アメリカでは、同じ「自意識の不安から」「どこかへ逃げ出してしまう」という形式は、ロードムービー的なモノへ昇華したように僕は思います。ヴィム・ヴェンダース監督(ドイツ人だけど)の『パリ・テキサス』やデニス・ホッパー監督の『イージー・ライダー』なんかを思い出します。ヴェンダースは、80年代ですが、この形式がアメリカではやったのは60−70年代だということを考えると、やはり、一世代分ぐらい日本とアメリカの市場では、「受け入れられる」もののサイクルがズれているように感じます。これも、実は00年代ぐらいから、世界がグローバル化して、同期しているように感じるので、昔のようなはっきりとしたサイクルのずれは感じない気がしますが。
これらは類型的にもともとの根は同じもので、消費社会が爛熟して、個人の権利が根強く認められるようになった反動の時代に、「自由とは何か?(=個人の権利と自由)」ということと「責任とは何か?(共同体から役割と責任をコミットすることを求められる)」というもの葛藤によって、発生するもののようです。つまり、消費社会がある一定のレベル(GNPで1万ドルを超えるくらいかな?、それと社会のストックのレベルによるかも)になると、発生する感受形式のようですね。
ということは、次の時代(2020年代ぐらい?)のこの形式の名作は、確実に中国本土で生まれることが間違いないと思います。ちなみに、少し先行した形で、香港ではウォンカーワァイ(王家衛)監督の『天使の涙』』(原題:堕落天使,Fallen Angels 1995年)や『欲望の翼』(原題:阿飛正傳,Days of Being Wild 1990年/香港映画)といった名作が生まれました。僕は、これらは根は同じな物語類型だと考えています。
ちなみに、これらの作品に共通しているのは「何かから逃げる」「脱出する」という共通する基調低音のテーマがあることです。はっきりいって、そこに合理的な理由は見いだせません。『パリテキサス』のトラヴィスは理由もわからず、砂漠を彷徨っているところから始まり、最後まで彼には帰るところがありません。物語はこういったように「よくわからないけど逃げている」といった逃走の形式をとります。この「何かから逃げている」という共通の「お約束」を感じてみないと、物語が非常に断片的で、このどの作品も何を言っているか全く意味不明です。僕も初めて見た時に、かっこいーんだけど、胸に響くものがあるんだけど、いったい「監督が何を言いたいのか?」ということが意味的にはまったく理解できませんでした。特に、名作といわれる作品ほど、特にきっちりと「合理的な理由がまったくない」ように物語の脚本を作ります(笑)。
また最初にあげたように、こうした主観感覚は、「意味のつながりを感じられない断片」として、現実の見える風景をシークエンス(=連なりにする)にするという表現形態をとるので、背景を相当解釈する力がないと、全く意味が読み取れません。だって意味を壊すように映像や物語を作るんだもん。ああ、哲学のドゥールーズ・ガタリとかミルプラトーとか持ち出すまでもなく、知識人にとって、80−90年代くらいは「意味を破壊する」ということに全力が捧げられた時代でした。映画などの物語、現代美術のコンテポラリーアートも、『本来自明だと思われていた意味』を解体するということがその主要なテーマでした。これをパラフレーズする言葉が『大きな物語の解体』です。政治的には、米ソによる善悪二元論的な世界の分割の終わり、市場の欧米から北東アジアへのシフト、植民地だった国家民族郡の経済的、リージョナル的な経済圏の独立もしくはグローバル経済へのアクセスが、それと歩調を合わせています。だからエスノセントリズムやエドワードサイードによる『オリエンタイリズム』というようなコンセプトが出てくるわけです。オリエンタリズムというのは、ようは白人、ヨーロッパ近代が作り上げた「幻想の中でのオリエント」という「遮蔽物」で物事を見ている視線のあり方を問うことで、「それ」を解体することで、「本来の現実」はなんだったのか?ってことを明らかにしようとしたわけです。「意味の解体」「価値の解体」「物語の解体」「近代的自我の解体」「主観の解体」は、すべて同じ知的な運動の異なる側面です。この辺の文脈がわかると、受験の現代文で頻出する加藤秀一さんや小林秀雄さんら評論家が、近代理性や近代的自我の批判を通して、なにが言いたかったかがわかると思います。あー受験の現代文のは楽しかったなーーー。好きな本を深く解釈したり耽溺することで試験に合格するなんて、最高でした・・・。あれもねー大きな文脈さえ抑えれば、いっていることはみんな同じなので、間違えるはずなんかないんですが・・・あんな細切れに読んでいては、なかなか難しいですよ。一度、一冊丸ごと完璧に解釈して頭に叩き込めば、受験の現代文のテーマなんて、すべて同じ「近代的自我の批判と解体」でしかありえないんだから日本人の知識人の書くことなんて。辺境の土民だった日本民族が、パワーズ(=列強)に闘うこと、支配的な中華文明と戦うためには、「その批判意識」しかないんだkら武器は。
またまた閑話休題。話に戻る。
ちなみに、「逃げた果てにどこに行くか?」という、この類型の問いには、北に行くか?南に行くか?で、製作者の「解決方法への出口」がまったく異なるようです。日本でいうのならば、東北や北海道に逃げるか、沖縄に逃げるか?という違いです。『イージーライダー』は南へ。『パリテキサスは』テキサス州からカリフォルニアですから、北ですね。僕としては、ウォン・カーウァイ監督の『欲望の翼』で、最後にフィリピンの熱帯雨林を走るシーンが、う尽くして、意味がわからないなりに、子どものころに感動してみたのを覚えています。「逃げた果て」って、、あそこなんだ、という原書の記憶の一つです。・・・・そういえば、北野武監督の『菊次郎の夏』は、どっちだっけか?。
ちなみに『パリテキサス』の主人公トラヴィスは、家族を捨てて彷徨い続けます。『イージーライダー』は、殺されるまでバイクで走り続けます。ウォン・カーウァイの主人公たちにも、基本的に帰るところがありません。べェンダースの脚本がもっとも、この「なぜ彷徨うのか?」ということに対して自覚的に答えています。はっきりと奥さんや家族へ帰れるシーンがあるのですが、「よくわからない」とか意味不明なことを連発して、観客からすると、なぜ「そこで戻らないの?愛する人や家族へ」って不思議な脚本になっています(苦笑)。
これは、僕は「マターナルなモノ(=母なるもの)」から脱出の形式と読んでいるのですが、人間は、「安楽で何も考えなくてもいいものにくるまれていると不安を感じてしまい」そこからの脱出を希求する生き物のようなのです。つまり「帰れるチャンスを喪失する拒否する」というのは、母なるもの(=安楽な楽園)の拒否のアナロジーなのだと考えます。
これは、寅さんシリーズや緋牡丹博徒シリーズなどの古き日本映画にも連なる大きなテーマのようです。これはさまざまな時代に地域に繰り返し現れる物語類型です。ちなみに古き日本映画の傑作といえる任侠モノは、まさにこの「母なるものの拒絶」や「定住ということができない流離い(=ああっ!高倉健!!)」がテーマであり、素晴らしいです。そのエンターテイメント化、というか世俗化が寅さんシリーズの『男はつらいよ』になるんです。とらさんは、折角あの妹の住む自分を迎えてくれる素晴らしい柴又葛飾を捨てて、ずっと「手に入れることのできないマドンナ」ばかりを追い求めます。これは、逆説的な意味での、母なるものの拒絶です。
かなり話がずれましたが、これらの作品にはすべて共通性があると僕は感じています。ぜひとも、同じ「母なるものの拒絶」もしくは「役割から自由を求めること=二元的葛藤に負けた自意識の脆弱なアノミー状態」といったテーマで連続してみてみてください。我々の世界に住む同じ感覚が、グローバルに、ドイツでも、アメリカでも、日本でも共有されていることを感じられて面白いですよ。必ずしもそれぞれの物語の「本質的にいいたいこと」は同じではありませんが、これらが、脱出の形式を韻を踏むように使用しており、合理的な理由が分からないのに、主人公たちは、記憶を失ったり、喪失感に苦しんだり、「ここにいてはいけないのではないか?」というわけのわからない不安から、脱出を試みます。
こうした大きな流れのひとつの形式として、90年代のアダルトチルドレンの類型というのが、僕はあると思うのです。
少しまとめてみましょう。
これらの「母なるもの・安楽なモノ(=楽園)の拒絶・脱出」というテーマは、消費文化が爛熟して、個の権利が認められるようになった成熟した先進国で発生します。これが、自由と役割の二元的対立から、自意識が脆弱になるアノミーが発生する時代状況とマッチしているようです。えっと、こういう都市文明社会では、分業を基礎とする資本主義社会によって、個の権利が認められるようでいて、それはすなわち「共同体」から分離され、個人が根なし草になっていくんですね。これをアリエネーション(=疎外)といいます。カール・マルクスの言葉ですね。アノミー(=自分の存在意義がよくわからなくなる)が発生するんですね。アノミーというのは、社会学者の祖であるエミール・デュルケムの言葉です。この流れから、「実存」というもが重視されるようになります。世俗的に俗な言い方をすれば、リア充とかも、これの枝葉ですね。これが、集団的な意味で上手く利用されるとファシズムや全体主義になり、個人的な意味で言うとハイデガーやニーチェの実存主義のようなものとなります。エンタメや文学でいうのならば、この大きな流れが、ロマン主義に結実しているんです。
つまりね、いままで共同体(村や家族や、日本では会社とか)にくるまれて「自分が生きる役割に対して無自覚にコミット」できたので、無自覚に「コミットによる没入感(=無自覚な実存)」という全能感を人が得ることができたんですね。ところが、近代社会は、「個人が自分の意思で選択を決める」という再帰的な社会です。自分の役割の不満や問題点は、「すべて自分の責任」という身も蓋もない強烈な自立を求められる社会なんです。この社会では「母なるもの(=共同体による無自覚な役割のコミット)」を拒否せよ!という強い圧力が働きます。まず「人間である!」ということは、「人間たろうと独立の意思(=自分で自分の行為を判断する)」を持つモノであるという、前提があるからです。「近代的個」ってやつですね。自立した自己責任による主体者でなければ、「それは人間ではない」という前提が、我々の住む近代社会には存在しています。中世は、この「近代的な自我」の独立が、封建社会からの、集団による個の圧政からの解放という物語があったので、とても美しく描けます。
しかし、現代では、このあたりの話は、非常にありニカルなモノになっているので、難しいですよね。なぜならば、この奴隷状態である人間性の解放!(=ルネサンスの輝き!!)の物語は、その後、「人間とは?」という定義を固めていくことにより「優性学」の思想にたどり着き、「正しい人間」以外を排除するという国民国家の差別幻想システムが完成するに至るからです。まぁわかりやすいのは、ドイツのヒトラーのナチズムの思想ですね。思想史をきちっと勉強すると、ナチズムの思想は、これまでの西洋の「人間の実存の回復」をベースに、かなりゆがんでいるけれども、思想的には連続性があることがわかります。そう思うと、なかなか難しいです。自然権の確立が、ホロコーストを生むわけですから。この辺の物語でお勧めなのは、下記です。
このへんの議論を経て、、、1960年代の「リベラリズムの浸透」を経ると、社会の多様性(=ダイヴァーシティ)が広がり、さらに直近の現代社会で、民主主義の多数決システムとケインズ政策の神話を利用した「弱者による多数派への暴力」と「再分配の不均等と暴走によるマクロの崩壊」の問題が発生します。いわゆる言葉はあいまいで意味が変ですが、日本でよくいわれるネオリベラリズムが台頭して、、、、という流れから、ベーシックインカムの議論繋がります。ちなみに、この辺の、人権際限なく広く認めると社会が分裂して機能停止に至るけど、けれども、いったん認められた人権思想へ反論ができないこと、また事実、必要な弱者に再分配がされにくいことなど、再分配自体の機能を誰が管轄するかの問題(『ハーバードは白熱教室』のマイケル・サンデル教授!)の、マクロにおける二律背反な状況は、世界中の論争の的です。
基本的に再分配は必須であるし、その権限を政府にもとめる以外の現実的な処方箋はないのだけれども、税金徴収システムのシステム的問題点や再分配の配分の権利を「何の基準によってなされるかの不透明性」とか、もう問題が山済みです。しかも、日本が田中角栄の天才によって行われて、それが故に高度成長したが、それが故に日本が腐った・・・徹底した富の再配分、、、都市から農村への還流などのケインズ政策による財政の出動が、先進国の最先端に行ったとたん機能しなくなるというという袋小路までいたったわれわれとしては、いまほんとうに為す術がない。何が正しいかわからない、人類の最前線にいるからです。とはいえ、僕は苦しいけれども、人類の最前線にいる今の状態って、かっこいいことだと思いますけどね。だって、ほら、最前線!ですよ。『誰も経験できない地平の先・・・・あの丘の向こう』への最前線にいるんですよ、僕ら。
閑話休題。
いやーもう昔には戻れないので、社会の多様性を認めるリベラリズムは、現代社会の基礎です。しかしながら、そうすることによってマイノリティーとマジョリティーの境やリソース配分を、どう決めるか?という富の偏在の再分配問題が重要です。えっとね、あまりはしょると、専門でもないくせに、馬鹿じゃね!と専門家のお叱りを受けるのは重々承知ですが(笑)、この問題のポイントは、ある程度の『最大多数の最大幸福』が達成され基本的な自然権が『ある程度』機能している効率的で進歩している社会でありながら、『公平』な再分配のシステムが機能しますか?というソーシャルデザインのバランス問題なんだと思います。リバタリアンのいうような私有財産絶対は、理念としてわかるけれども、それでは社会は均衡しないと僕は思います。まぁその『ある程度』というのが、難しいというか、、、、。
そして、この問題自体の別次元の角度として、その社会が、フロンティア(=経済的な外部性・無限性)を所有しているかどうか?ということに関係すると思うんですよ。経済的な再分配で重要なのは、その『公平なディストリビュート』と同時に、その財源がないって問題です。無い袖を振ろうとするので、国際競争力が落ちて、ネオリベラリズム的?な競争至上主義を呼び寄せるんですよ。だって、財源ないと、財源を生み出す天才やアントンプレなーの傲慢さの権利を認めないと、イノベーションがおきないんだもん。技術のイノベーションがあれば、お金を再分配しなくても、パイが広がって権利は拡大するのは歴史が証明している。けど一部の特権を認めることは、エリート教育を認めることは理念的にも、階級社会を再構築するので、なかなか難しい、、、。難しいねー。下記のあたりが、全体主義が構築されては、打ち倒されていく人類の繰り返す歴史を描いていて僕は好きです。ギリシア史とかのポリスの変遷を読むと、まるでこれって『銀河英雄伝説』じゃねぇ!(っ本とは逆です)とか思います。
そうだから、僕らはフロンティア目指して、宇宙開発!(あかつき万歳!)をしなければならないんです。起動エレベーターを公共投資でつくろうよ、財源は、国連でつくってさ(笑)。そういった国際組織できたら、すべての人生投げ打っても、僕は転職するね(笑)。『楽園の泉』のプロジェクトリーダーの補佐くらいがいいなー。と夢想します。でも、それってきっと、弱者切捨てによるテロとの戦いにもなるんだよ。このへんは『プラネテス』のテーマですねー。
おっと、話がずれまくった。
そんでもって、90年代の日本のサブカルチャーには、この役割と「本当の自己」の二項対立を追求する類型が流行りました。この時代の日本社会は「大きな物語」を喪失して、社会の統合として機能する物語が失われた時代なので、「個」として、なにもない空間(=共同体とのつながりを失った)に放り出されてしまったんですね。
僕は、『新世紀エヴァンゲリオン』のテレビ版のラストの方のシンジくんが、「真っ白な世界」というシーンが(どこだっけなぁ?エヴァに取り込まれるシーンだっけか?)忘れられません。これって、「大きな物語(=共同体」)」につながることからほおり出された、イコール「なにもない空間」にほおり出されて、空間感覚が消失した時のアノミーの心性、心理学でいうアパシーの状態をよくあらわしているなーと感心したもんです。これって現代美術のマルセル・デュシャンとか、それの連なりの果てのキャンベルスープのポップアートなんかの、あの価値を解体した後に「なにもなくなってしまったよ!」という、あの感覚ですねー。どうしていいかわからない、「なにもない」という空虚な絶望の感覚。
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教養主義と感性はいつの時代も対立構図となりやすい〜しかし、それは本当に対立しているのか?
http://ameblo.jp/petronius/theme-10004579517.html
ちなみに、こうした物語の「母なるものの拒絶」というのは、共同体の拒絶なので、最も大きな先鋭的な問題として、家族の解体が現れます。つまり、自分の親が、他人に見えちゃうんですね。まぁ事実、他人なんだけど(笑)。そうすると、もう親密圏にいる人間さえも、異物としてとらえて、最後は自分まで異物にとらえて、自傷に至るわけです。
この時に、「なんで自分がこうなった?」の理由は、「親のせいだ!」になるわけです。親とか、社会とか、歴史というような「自分を取り囲むモノ」との関連性が、壊れているから起きる心性であるわけで、そういう時には、「なぜ自分がそうそうだったか?」という内面の構成は、親の教育と育成による時間に最後は、その理由が求められるしかないわけですから。『式日』のラストシーン。大竹しのぶさんの素晴らしい演技は、この母と娘の葛藤でした。これ、いつも僕が言う話ですね(笑)。この時記事で、「もー親のせいとか、そんなわかりきったこと言ってんじゃねーよっ!」って、怒っていましたね、当時の僕は(苦笑)。でも時代的にはわかる雰囲気でした。
この時代には、役割と自己という二つのものから、「社会から要求される役割」によって「本当の自分が疎外(=アリエネーション)されている」という物語結びつくのが基本だったんですね。『イージーライダー』のようにアメリカなんかは、それが、すぐ「自由」という物を強烈に結びついて殺し合いになります(笑)。極端な権利闘争の歴史があるアメリカらしい話です。日本は?って、もんもんと悩むんですね。もともとキリスト教や近代的自己の伝統が薄い・・・いいかえれば「父なるモノ」が弱い、マターナルに迎合的な社会なので、いやーそんな「厳しくなくてもいいんじゃない?」とか甘っちょろいことを、延々と悩むんですよ(笑)。自然も社会も、凄くやさしい空間なので、強烈に自我が弱くなるんですね(笑)。
さて、しかしながら90年代も半ばを過ぎてくると、うーん、、、そうはいっても、心の中でくよくよ「悩んでいても仕方なくない?」という、いわゆる「決断主義」的な流れが出てきます。僕はこれれを「決断幻想」と呼んでいます。まー単純な話で、あまりに「くよくよ内面で悩み過ぎて」、、、そろそろ飽きたんで、行動しない?ってなったわけです(笑)。内面でくよくよ悩んでいるのは、自分のナルシシズムの中に閉じ込められている、「自己なるモノ」に閉じ込められている、「他者がいない世界」なんで、基本的に地獄なんですよ、人間にとって。この「閉じ込められた感覚」の代表的な日本の作家は、村上春樹と村上龍だと僕は思います。初期のテーマは、はっきりとこの二人の出自が同じことを語っています。この二作品の、驚くほどの類似性は、読んでみると驚きますよ。特に、村上龍の初期作品は、村上春樹とそっくり。
そして、村上龍が、このテーマ・・・・・『限りなく透明に近いブルー』で、「現実をリアルな現実として感じられない若者」の主観的意識を描いたことの超克として、「戦争」「テロリズム」などを主軸として「行動の次元にコミットさせること」によって、現実感覚を回復するという方向性に出たのは、まさに00年代の物語の流れとシンクロします。
このへんは、村上龍さんのテニスに関するエッセイを読むと、あまりにわかりすぎるほど明白に分かると思います。集中力によって、現実をビビットに感じろ!という彼のメッセージは、わかりやすい実存主義でした。彼の原初テーマを追うには、第二作目の『海の向こうで戦争が始まる』が最もわかりやすいかもしれません。村上龍さんは、この最初のに作品の「現実にちゃんと触れられていない」という苛立ちや虚無感を、どうやって克服するか?ということをその文学の主要なテーマに掲げている人だと僕は思います。その「解決編」である『愛と幻想のファシズム』『五分後の世界』『希望の国のエグソダス』の知シリーズは、この「疑問編」の作品でのテーマが胸にしみていないと、深くは理解できない気がします。
そして、僕は村上春樹の閉じ込められた自己愛のナルシシズムを表現した傑作として『羊をめぐる冒険』の「あのどこにあるかわからない図書館」の話、が好きなんです。が、彼もまた、その後『ねじ巻き鳥クロニクル』で「失われた恩寵」というテーマを通して、「自己愛にくるまれた自分一人に閉じ込められたナルシシズム」からどう抜け出るか?というテーマで、主人公=男=主観による、風景のように流れる「意味の連なりとして認識されない現実」を抜け出すのに、努力することになります。ちなみに、彼の大きな契機になった作品は『アンダーグラウンド』と『神の子らはみな踊る』です。この作品は、オウム真理教の手尾路リズムへの被害者と阪神大震災の被災者の内面を探ったものです。ナルシシズムが破られる契機として外部性からの暴力に注目したのは、形こそ違えど、村上龍と全く同じだと僕は考察します。
また、女性、つまり他者への「届かない愛」を探すという形式を追求し(『ノルウェイの森』)、その果てに「男性が女性を見る(=一方的な主観の世界)・ファム・フアタール」を超えて、もう一人の主人公としての女性、青豆を『1Q84』に登場させることで、この地獄を抜けようとしていることがわかります。、、、ああ、村上春樹はフランス映画的なんだな、、、。村上龍さんが、ファシズムの方向への探求を目指したのは、ドイツ的かぁ。この対比で見れるのかもしれないなー。ロマン主義を、マクロでみるかミクロで見るかの違いってやつだ。このへんのファム・ファタールは、押井守監督の大好きなテーマなので、同時に『イノセンス』なんかを見ると面白いかもしれません。この脱出したけど、その出口がわからない、という系統の物語はたくさんあり、僕の中では阿部公房や大江健三郎の、僕の大好きな『洪水はわが魂に及び』も同じ文脈で読んでいました。大江さんは、、、、ああ、これ長くなるから辞めよう(苦笑)。
ドイツ的ロマン主義では、下記のヒトラーの映画が一時期有名でしたよね。この監督は、ヒトラーのロマン主義的側面を凄く良くわかっていると思いました。現実のドイツ民族なんかみんな死んでしまえ!と喝破するのは、ロマン主義の政治的側面の怖さを象徴するなーと思いました。
ヒトラー~最期の12日間~スタンダード・エディション [DVD]
■並行世界からの帰還〜ナルシシズムの幻想の世界で犯した罪を、あなたはどう贖い、どう断念として取り込んで生きていくのか?
さて、いま『1Q84』を読んでいて、「並行世界からの帰還」というのが、重要なテーマになるのではないか?と思いつつあります。楽園からの脱出物語を、エンターテイメントの形式で見事描ききったのは、アージュによる『マブラヴ オルタネイティヴ』ですが、この作品では、最後に「ループする世界を作った本人の倫理的責任」という問題が、ちゃんと提起されていました。鑑がタケルを元の世界に戻すにあたって、彼女がした選択はそれを意識しているものでした。
ふとおもったんですが、、、「この世界ができちゃった(=製作者目線)」ので、展開するのに楽というか儲かるからかもしれませんが、、、このBEATに侵略されている「地球」という次元を、主人公のタケルの実存回復や成長のためだけに存在させるのではなく、『トータルイクリプス』などの、タケルの物語とは別の物語を描くというのも、メタ的にいうと、『構築してしまったその世界』が『誰かの実存回復の物語のためだけに使用され消費される』ことへの倫理的拒否と見ても、僕はいいのではないか?と思っています。
(・・・・イシガキさん!楽しみです!!!まいばん、ゆいぃいぃぃとか叫けんじゃいます)・・・・・
まぁこれは考えすぎですが。見る側の受けて側の僕らは、『ハーレム楽園願望』や『自己のナルシシズムの脱出』意識が強いので、そういったナルシシズムの主観意識以外に、『別の存在として世界が存在しているんだ!』という外部性(=他者性)としての世界、、、それを体感させる上での暴力というのは、倫理的にいって、どうも、自分以外に『世界』というものが別にあって、『それ』に対して責任を取ることこそが、自己の回復に繋がっている・・・・それこそが、閉じ込められた楽園からの脱出になるんではないか?ということが最近の僕のテーマです。別に、唯依のおっぱいにクラクラするとか、そういうことじゃないんです(=そういことです)。ただ男性にとっての女性というモチーフは危険ですね。マターナルなものへの拒否に見られるように、いったん、ほんとうの女(=他者)を知るためには、女をたつことが必要な感じがします(笑)。もしくは幻想を徹底的に解体するために、飽きるほどSEXするとか(笑)。それは、それでへこみそう・・・。というのは、ハーレムメイカーものに代表されるように、それは「緩やかな耽溺するのに最高な逃げ場」ポイントなんですよね。
マブラヴオルタネイティヴトータル・イクリプス 1 (電撃コミックス)
これについては、1990-10年代に日本のクリエイターたちは、強い拒否を叫んでいました。もちろんこの拒否の叫びは、圧倒的な快感原則に支配された市場だからこそ広がったともし火です(笑)。最も典型にして、一番いい作品は、きみまるさん(東毅)の『RETAKE』『ねぎまる』だと思います。アージュの『マブラブ』もそうですが、市場が、快感原則に基づいた萌え一色、、、いいかえれば、自我の弱さを包む為のやわらかいフィルター(=言い換えればナルシシズムの檻)を用意していくこと、ライナスのブランケットを剥ぐこういうに、魅力を感じたわけですね。
『RETAKE』『ねぎまる』ドラゴンクエストの同人誌など きみまる著 この腐った世界で、汚れても戦い抜け。楽園に安住することは人として間違っている。
東毅
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20100309/p1
僕自身は、とても実存追及嗜好の人格の持ち主で、、、、いってみれば、僕の実存パターンは、「楽園にいる自分を拒否して」そこから「進歩に至る」というということを称揚しがちなので、萌え萌えの快感原則に貫かれた市場や流通のあり方に、どちらかという斜めに構える議論をしがちですが、社会に、「日常の穏やかさ」を求めること、「自分の内面の仲の小さな動き」を肯定していこうとする、「個の内面」を尊重して、なるべく厳しい解体に直面させない、穏やかな社会であろうとすることは、リベラリズムの原則からいっても、社会の経済適用性からいっても、人類の本性から言っても、間違っては無いことです。どっちも、人類の本質の裏表の側面なんだと思います。まぁどっちが「スキか?」という好き嫌いの話です。そして、往々にして意見は、マイノリティーの叫びが、通りやすいのです(笑)。ちなみに市場は、マジョリティーが絶対に勝ちます(笑)。
とはいえ、60−70年代の政治的に「熱い時代」を経た先進各国は、その後、モチベーションのダウンする、動機レスの社会に突入しました。個の権利追求が激しすぎて、社会が機能不全に陥りそうになったので、その「なじませ」の期間だったと僕は思っています。その反動として、レーガニズム、サッチャリズムなどの効率と小さな政府と競争市場の反動が生まれました。歴史は振り子ですね。
えっと、この「楽園脱出のテーマ」というのは、80−90年代の出口の無さということを背景にしていると思うんですよね。ある種、80年代の消費社会の完成、高度成長社会の完成で、日本民族らしく「マクロなどどうでもいい趣味の世界に喜びを見つけるミクロ追求のステージ」に入ったんです(笑)が、これって江戸の文化を思い出しますねー、、、そういう「日常を楽しむ」というコンセプトが暴走した結果、社会変革や宇宙進出など、ある種の「革命に向かう絶対性の希求」という動機を持つ部分の吸収先が失われたんですね。オカルトや新興宗教はその吸収先になったんでしょう。このへんの閉塞感が、、、、「終わりなき日常」「いつまでも続いてい行くぬるま湯ポイントとしての日常の永遠性」の回帰の完成が、「そこからの脱出」という先鋭的なテーマを呼び寄せたんだと思います。
話がどんどん横道へ・・・・
さて、90年代にこの「ナルシシズムの檻からの脱出」というコンセプトと「楽園の追求」が極まった結果、エンターテイメント市場でのエロゲーの選択分岐シナリオによる並行世界の着想が生まれて、そのパラフレーズとしてハーレムメイカーものが生まれたのでしょう。もとになったのは、あだち充さんや高橋留美子さんのサンデー的なもののような気がする。まぁなんといっても、『うる星やつら』ですよね。脱出モノという意味では、ひぐらしですね。
話がそれすぎたので戻すと、村上春樹の『1Q84』などを読んでいて、楽園の脱出には、他者の存在を認めるということがテーマになることがわかってきたんです。楽園脱出が、ナルシシズムの檻からの破壊であるとするならば、それは、個人の肥大化した内面世界からの脱出であるのですが、これはすなわち、その『内面世界』に自分以外の他者が、ほんとうの意味で存在していない=言い換えれば、同じ価値を持った人間が共同ですむ『世界』が成立していない、それを受け入れていないということになるわけです。
そこからの脱出は、いいかえれば、脱出した後に、「他者がいない世界を構築してしまった」その罪をどう考えますか?というテーマを招来するように思うのです。いずみのさんが『生徒会の一存』や相田裕さんの『バーサスアンダスロー』でたぶん今考えていることとシンクロするんですが、楽園状態(=主観に閉じ込められた状態)から、現実に帰還する時に、それまでに背負ってしまった「罪」をどう背負うか?という問題とも、重なる気がします。この辺は最近考えているところ。必ずしも、この二人のアプローチは、この「ナルシシズムの地獄」を抜け出れたわけではない、と僕は思っています。おっと、『紫色のクオリア』という傑作も入れ忘れました(いずみのさんの指摘で挿入です)。
ちなみに、この「現実感覚が失われた不毛感からの脱出」というテーマは、さまざまな理由と壁があるらしくは、80年代は、アダルトチルドレン的心性(=脆弱な事故による役割と自由の葛藤問題)として表れたのですが、どうも00年代には、「コミット(=決断による行動)によっても必ずしも世界は良くならないというマクロの壁による世界に関わることの絶望」という・・・テロリズム(『クォンタムファミリーズ』!)や善悪二元論の克服のような形態をとるみたいです。
こうした不毛感を扱ったモノの傑作は、アメリカ映画では、サムメンデス監督の『アメリカンビューティー』とかイラク戦争での不毛感を扱った『JARHEDA ジャーヘッド』なんかが名作ですので、ぜひぜひ。サムメンデス監督は、僕は大ファンなんです。面白い上に、この実存が失われ、現実を現実として感じられない感覚というのを見事に扱ったアメリカの映像作家です。この辺上げたの、一気にみんな見てみると、僕が共通としてどういうものを見ているかが、「目に見えない大きな人類のテーマ」みたいなものが、浮かびあがったり、、、しちゃうんじゃないかなーとか思うので、ぜひトライしてみてください。
American beauty-the most beautiful scenes-trailer
このシーンとかは、世界から他者を排除した「透徹たる視点」で見る時に、「世界のものそのものがたち現れてくる」という感受性の部分を見事に表現していて、、、、そうそう、人間の感覚というのは難しいもので、ディヴィッド・リースマンの『孤独な群集』ではないんですが、他者の中で群れていると、他者に引っ張られて『自分』というものがなくなって麻痺して感覚が消えていきます。実存敵菜ビビッドな現実感覚(リア充!)を取り戻すためには、孤独になる作業が必要です。孤独になって、内面の自分のか細き声を聞くことによってしか、世界とのシンクロを取り戻せないようなのです。
そうした孤独が極まった状況での、世界を敏感に感じる感じ方は、このごみが風に舞うのを打つくし見るシーンが僕は見事にあらわしていると思います。このシーンだけで、サムメンデス監督の天才に感動しました。
ちなみに、ネタバレですが、主人公の中年オヤジは、娘の親友の女の子(いったいいくつ違いだよっ!)に懸想している変態親父なんですが、そうやってがんばっちゃっているうちに、なんでか娘の親友が、その中年親父を好きになっちゃうんですね。すげー色っぽくて、イケイケでいきがっていたその女の子が、「実は私まだヴァージンで、、、」と、とってもおいしい状況が訪れます。けど、このシーン素晴らしいなーと思ったのは、この変態親父、それまでは、欲望にまみれたギラギラ妄想ばかりだったんですが、このシーンで、物凄くやさしい顔になって、この娘に手をださないんですね(もったいない!!)。
文脈を読んでいると良くわかります。それは、いままでSEXの欲望の対象でしかなかった彼女が、実は「まだ処女で、そんな自分が嫌いで・・・」という気の弱い女の子であることがわかり、かつそのすべてをさらけ出して、その変態親父のことが好きだ、といっているときに「リアルな彼女に触れた」んですよね。彼女が、自分の欲望の妄想ではなく、一人の人間として感じられた、、、それで、一気に理性が取り戻されたんです。極端なこと言うと、この色っぽい女の子とHをすることよりも、この女の心の底に触れて勝つ、自分が好きだ、といってくれて受け入れてくれたことのほうが、SEXの何倍もの快楽だったんですよ。井やこれは気楽というよりはもう少し質の高い承認のレベルの話ですが、それによって、この変態親父満足しちゃったんですね。彼が求めていたことは承認をベースとした実存であって、肉欲ではなかったことが彼にはわかってしまうんですね。
この辺も素晴らしい映画です。
なんか結論無くぐだぐだですが、いろんなものを紹介できたと思います。またそれが、大きなつながりがあって読み込める可能性があるってことも少しは伝わったかな?と思います。ぜひぜひ、これら「ジャンルを超えて物語を楽しむ」ことや「テーマを持って物語を見る」ということするのの少しでもよすがになると僕はうれしいです。
今日は、調子に乗って、物凄い上げた(笑)。