評価:★★★★★5つのマスターピース
(僕的主観:★★★★★5つ)
二人は仇同士であった。二人は義兄弟であった。そして、二人は囚われの王と統べる王であった――。翠の国は百数十年、鳳穐(ほうしゅう)と旺廈 (おうか)という二つの氏族が覇権を争い、現在は鳳穐の頭領、ひづちが治めていた。ある日、ひづちは幽閉して来た旺廈の頭領、薫衣(くのえ)と対面する。生まれた時から「敵を殺したい」という欲求を植え付けられてきた二人の王。彼らが選んだのは最も困難な道、「共闘」だった。
あらすじ
この本を読んで思い出したのは、パレスチナ紛争と中東のことでした。この世界、翠の国は、まさに部族社会でであって、各部族が凄惨な殺し合いを重ね続けるという「復讐の論理」によって歴史が積み重ねられている国です。この中で特に、王位を争う鳳穐(ほうしゅう)と旺廈 (おうか)という氏族のそれぞれの頭領がこの物語の主人公です。
素晴らしい物語は数ページ読んだだけで引き込まれて、時を忘れる。そして傑作の物語は、その息もつかせぬ緊迫感が、読了まで継続するものだ。この本もまさに、そうした至福の読書体験を読者に与えてくれるでしょう。
まずは、この殺し合いの続く、お互いを見るだけで「殺せ」と肉体が叫んでしまうほど深く因習づけられた対立の申し子でありそのおのおのの氏族の棟梁である二人が、戦乱がうち続き、強大な大陸の国家が攻めてくるという危機を見越したうえで、どうやって、「その歴史が蓄積する復讐と恨み」を打ち壊すことを志していくか、行動に移していくかを見る様は、素晴らしくスリリングな体験でした。特に僕のブログの読者は、なぜパレスチナでは、ああいう氏族、部族社会で殺し合いが始まると、何千年も殺し合いが止まらないのか?。なにが、「そうではない」地域や国々と、そういう紛争地帯の「違い」なのか?ということを良くテーマにあげてきたことを分かってもらえると思います。ここには、その具体的な答えとそのことの凄まじいほどの難しさが、描かれています。
ここに登場する二人のひづちと薫衣(くのえ)は、「100年先の子孫の幸福を達成する」ために、言い換えればマクロの論理を徹底的に意識し突き詰めたが故に、その時代のだれにも理解されず、愛されず、尊敬されず、嫌われ、憎まれる道を選んで、いいかえればミクロの本能や大事なもの全てに背を向けて、マクロに殉じることを決めました。これこそが、リーダーであり「王」であるということ。人々を導くという「責務」を追った役割を貫徹することです。彼らの選んだ道の困難さに、僕はほんとうに感動しました。
■誰はばかることなく、万人に薦めたい!といえる、大傑作の小説
めずらしく、マスターピース認定。文句なしの大傑作です。帯かな?日本ファンタジーの最高傑作と銘打っているが、言いすぎかな?(笑)とは思うけど、決して誇張とは言えない、素晴らしい作品。前にも書いたけど、ファンタジーとして読むというよりは、読書人、、、読書を趣味とする人ならばぜひに読んでみたい、と思わせる渋く光る重厚な作品です。久々に、誰はばかることなく、万人に薦めたい!といえる、大傑作の小説に出会いました。非常に知的で複雑でありながら、、、、というか射程がマクロをとらえていながら、それを行う登場人物の苦悩(=ミクロの人間関係)が、複雑な彩を成し見事にクロスしバランスしている。僕が愛する系統の物語です。ライトノベルなどに読みなれている人には、難しいし読みにくいかもしれないが、これくらいの本格的読書の入口にある作品を読めるように、味わえるようになると、読書というものの知的エンターテイメントを「味わう」醍醐味がわかるはず。
特に、小説家になろう、とかファンタジーをライトノベルを読み慣れている&書いている人には、ぜひ読んでほしい。これが、中世レベルの国の指導者になった場合に発生する通常のマクロの悩みなんだ!。こういうことの解決方法を考えることこそ!小説家の、物語作家の、世界構築する!ということの醍醐味なんだと思うよ。そして、この悩みを解決し、真に国を富まし、人々を幸せに導くことということは、指導者(=主人公)に、こういう個人の苦悩が存在するということを。全能感だけでは、世界は回らないのだ。本当の充実、本当の勝利、「ほんとうのこと」ってのは、苦悩の超えた先にあることを。
なかなか気付かないけれども、日本のエンターテイメントの歴史に残る田中芳樹さんの『銀河英雄伝説』には、歴史(=マクロ)視点による非常に切ない問いかけがありました。基調低音として、善政をしく独裁者と、悪政を実施する民主主義ではどちらがまともなのか?、ということ。政治学でいえば、ポピュリズムの悩みを扱ったテーマです。ギリシアポリス政体以来の悩みで、西洋文明の最大のテーマの一つですね。民主主義が、一番独裁者を生み出しやすい、さもなければ衆愚政治一直線、という。この悲劇を一身に浴び苦悩し続ける男がヤン・ウェンリーという人でした。萌えとは言わないが、それ以外の豪華絢爛な装飾・ガジェットがあまりに凄いので、忘れてしまいがちだが、このマクロ視点の大きな枠があるからこそ、その時に消費されるだけで終わる(それが悪いわけではないけれども)物語に終わらなかったんだ、と僕は思います。偉大な語り継がれる物語ですもんね。銀英伝。
■こういうカテゴリーが明確にしにくいものは売りにくいだろうなー。
たぶんマイナーであろう、売り方が非常に難しいであろう、こういった作品を丁寧に拾って文庫化する角川のマーケッティングは、素晴らしいなーと思う。こういうカテゴライズが難しく、販売読者層がはっきり想定しにくい小説という物は、売り上げの予想がつきにくいと思うのだ。しかしながら、こういうカテゴリーの「はざま」にある作品や小説家に、可能性はたくさんあるんだろうと思う。しかしながら、こういったカテゴライズが難しい、集客力というか、販売想定顧客が集団として定義しにくいものは、マーケティング(=売り方の仕組みづくり)が難しいんだと思う。売り上げの予想がつきにくいものは、予算付かないのが基本だしね。この辺なんとか、ならなんかなーとは思う。既存の販売方法じゃあ、限界があると思うしねー。でも、ちゃんと知らされれば、これくらいのレベルの本は、読書ということをちゃんと趣味にしている層には重要があると思うんだ。ちなみに、ライトノベルとかアニメーションなどの組み合わせの販売って規模が大きいんだけど、あれって、ポケモンを小学生、幼稚園は戦隊ものや仮面ライダーとかいった、ある種の、「型」というか、そういったその年代(=中学から高校生・大学)に特有の様式化された文化、見たいなもんなんだと僕は思ってくるようになった。それはそれでありだと思うのだ。
いまの『乃木坂春香の秘密』『アマガミSS』『真剣で私に恋しなさい』だっけか?忘れたけど、ルイさんとLDさんと話している時に、よく「僕らはここまで弱っていないよ!」って、ルイさんがいうらしいんだけど(笑)このセリフは凄い深い文脈を理解しないと理解できない含蓄が含まれている。これは、ハーレムメイカーなどに代表される男の子をターゲットとした全能感を満たす物語群に対しての評価軸で、どの程度、作り手が、受け手の自我がどれほど弱いかを想定しているのだろうか?という「読み」に対して行われている評価なんですよ。ようは、女の子が空から降ってきて、自分の好きな女の子がすべて自分だけを好きで、男のライバルがゼロの状態で、、、、そこまでお膳立てがされていて、さらに様々な、男の子にとって都合がいい設定がでデフォルト(=前提)されていると、ようは作り手は、それくらい世界がその主人公(=受け手の感情移入対象)にとって、容易で楽チンな状況でないと、受け手の自我が耐えきれないと想定しているってことですよね。いまのエンターテイメントの販売ってこの層が一番消費するので、手っ取り早くこの層を狙い撃ちにしている。もちろん、ここが最も大きなボリュームゾーンなので、ここを狙うのはわかります。またミックス的な商法で、販売のレバレッジ(=売り上げを倍増させる)が効く部分でもあるので、ここを狙うのは本道ではあると思う。
こういう層がボリュームゾーンにいる時に、あえて、自我の弱いことをゆるさない!、耐え抜くことこそあるべき姿だ!と強く主張する作品ってのは、非常に売りにくいです。求めているものと逆行するからです。けど、人間や社会は、そんな癒しだけでは成立しません。やっぱり物語全体が豊かであるためには、こういう反対方向で、かつ魅力ある作品が生み出されることも大事だと思うんだよね。
あと、実際には、いまの最大のボリュームゾーンは、団塊の世代のシルバー層(いまの60−80代)なんだよね。また、そもそも、出版文化を支えるのは、渋いレベルの知的なレベルの高いものを享受するのに慣れた、さまざまなグループがいるわけですよ。物語的なことに限っても、純文学、推理小説、ミステリ、怪奇小説、BL小説(笑)とか、エロ小説でも、なんでもいいわけだけど、こういう層の中で、必ずしも上位の層に入るレベルってのは、売り上げに結びつかないんだけど、安定して「趣味・習慣」として書き手と読み手が微妙なグラデーションを持って、様式化している。純文学とかは、時代とのダイナミズムやリンクを失って完全に、歌舞伎や能に似て「過去を守る・再現する様式化された文化」になり下がってしまっているけれども、それぞれの固定化した価値集団に分化して島宇宙化するのは、多様化の時代の前提だし、そもそも良いことなんですよね!。価値が一つなんて、ひどい時代なんかあり得ないもの。とすると、出版、エンタメ、物語文化の担い手が考えることは、1)これらの様式化した集団の維持メンテナンスと、2)時代のダイナミズムを反映するボリュームゾーンの獲得と、3)これらの狭間・境界にあるものを掬いだして新しいものを作り出す、とかそういったことが必要で、特に3)が重要なんだですよね。これって、ハイエンドからローエンドという製品の付加価値の多さの問題と、3)は既存製品に対する新製品の開発ラインアップをどれだけ維持できるかってことなんですよね。・・・って、ここは今テキトーに考えたのであまりまじめに取らないでほしいのですが(笑)、でも、狭間にあるものをどう掬いだして新製品を涵養するか、というのは重要なことなんですよね。既存の維持も、そういった異端児なしでは、腐っていくだけになってしまいますから。イメージとしては、ミステリの領域とかに、西尾維新が出たみたいな感じ。西尾維新が、推理小説やミステリか?というと、本質がわかるいまではかなり疑問だけど、けど、そこの基礎やマーケットや様式から出発しているということは、否定できないですもんね。
話がそれた。
■ファンタジー政治小説?思索小説?〜カテゴリーするのは難しいし意志、売りにくいと思うが、これは世に残すべき傑作だ!
この小説をカテゴライズするなら?って言う話なんですが、解説で小谷真理さんは、思索小説というようなカテゴリーで、ル・グィンをあげている。ようは、政治哲学などマクロの概念を具体的に物語の形で表現する社会シミュレーション小説とでもいう物ですね。日本の作品でいえば、小川一水さんの『老ヴォールの惑星』「ギャルナフカの迷宮」という短編を思い出しました。あれも、閉鎖された極限状況に置かれた人間集団が、どういう風に秩序を獲得していくかというその過程を描いた物語ですね。ル・グィンなどは、日本語でないし、日本の文化的伝統を踏まえていないが故に、読者にフィーリング的に?って感じさせることが多い気がするが、なかなかこのレベルの小説は、日本ではない。そういう意味では、沢村凛さんは、『リフレイン』を始めこの系統は得意のようで、しかも、日本語で構築されているが故にとても読みやすく入りやすい。
■政治という物は、突きつければこういうものだと思う。けど、こんな厳しい仕事は、シンジくんじゃなくても、世界を救えても、ふつうはだれもやりたがらないんじゃないのか?
とりあえず、結論を言っておけば、友人に勧められたのですが、非常に面白かった。何が面白かったか?と問えば、その「厳しさ」が面白かった、です。
厳しさとは、
1)人間理解の厳しさ
2)マクロの仕組みという外部のどうにもならなさ
3)人間関係の彩が織りなす結論が、全能感(=主観の欲望の発露ではない)に至らない
という意味で。
『瞳の中の大河』 沢村凛著 主人公アマヨクの悲しいまでに純粋な硬質さが、変わることができなくなった国を変えてゆく
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20111217/p7
前回の記事で上のように書いた。まさに、それがさらに推し進められたような印象。読んでいて思った。この二人の「指導者」は、あまりに正しい。最初にも書いたのだが「100年先の子孫の幸福を達成する」ためにマクロに殉じる。それが、その個人の人生の犠牲に成り立つことは明白だ。これは、ノブレスオブレージであると思う。これを読んでいてい思ったのは、王である二人が、なぜここまで苦しまなければならないのか?ってこと。政治としては、非常に正しい。この世界のマクロの環境からは、これしか手法がなかっただろうと思う。政治家というものは、王というものは、ここまでやらなければいけないものなんだ、とまざまざと感じました。僕はこれを見て、ずっと南アフリカ共和国のネルソン・マンデラを思い出す。『インビクタス』ですね。リーダーとして、100年先を考えると、周りの人間がまったくそれを理解できなくなって、その人を排斥しようとす始めるんですよね。
僕はこの文脈を考える時に、『新世紀エヴァンゲリオン(TV版)』のシンジくんはどうして、エヴァに「乗りたくない!」といって、世界を守ること、かわいい女の子を守ることを拒否したのだろう?って、いつも考えているテーマを思い出します。
これは、個人がマクロのために犠牲になることを耐えられないと拒否することなんですが、そうはいっても、普通、世界を守れるチャンスが与えられたり、かわいい女の子を守るチャンスが与えられたら、自分の生きている意味が用意されるようなもので、トライするものだろうと思う。少なくともいまの僕はそう考えるし感じる。けれども、1990-80年代当時は、社会的に自尊心がめちゃめちゃに壊れ始めた時代で、自尊感情への防御意識が凄くセンシティヴで、自分自身の脆弱な自我を何とか守るために、外から来る要請をすべてシャットアウトする自閉モードで対処することが、凄く実感に合っている時代でした。
この「高らかな拒否」、、、、僕は乗らない!と最後まで言い切るのは、時代の実感とてもっていたと思う。けど、こと個人は、それでいいのだし、そういう道もあるが、国家とか「公(おおやけ)」てのは、そうはいえないものですよね。シンジ君が別に自滅して死ぬのは、それはそれで悲劇でも仕方がないし、世界にとってはどうでもいいけど、それによって影響をもし世界が受けるのならば、、、ようは、その他の人々の命に関係する場合は、やっぱり責任と役割は発生せざるを得ない。
みんながみんな、ぼくはやりたくない!といっていたら、社会は崩壊してしまいます。それは、拒否をできるリベラリズムが機能している社会という「基盤」を壊す行為なので、実は、許されない罪なんじゃないかって気がします。「個人の自由」と「公へのコミット(=自己犠牲)」というのは、とても危うい関係を示していますね。
この過酷な王の物語を読んでいると、けど、そんな苦しいだけの人生が、その国と公にとって正しくとも、個人にとって耐えなければならないほどのものなのか?って思います。けど、シンジくんのように「逃げる」という選択肢は、この二人(ひづちとくのえ)はにはありません。それは、王という役割に生まれついてしまっているからです。逃げることもできない彼らは、彼らが唯一自由であれる方法選択します。それは、「与えられた役割」に対して、自らが能動的に自由意思でコミットすることにって、自分自身が制御うすることです。「与えられた」ものを「自分自身のものにする」ということで、この設問を回避します。これは、とってもノーブルなものです。
でも、こんな個人(=指導者・王)ばかりが犠牲になるのってありなのか?とも思います。それって、自己犠牲の称揚じゃないですか?。
この問題を丁寧に追っている物語の傑作は、マヴラブオルタや村上春樹、村上龍を始めたくさんありますが、近いところでふと思い出すのが、橙乃ままれさんの『まおゆう』のメイド姉の話を思い出させます。この問題に異なるアプローチを投げかけたからです。この作品の主人公「勇者」は、世界の不条理を一身に引き受けて「世界を救うため」に一人で戦います。魔王も一緒ですが、それは二人で一人なので、言っていることは同じことで、これは「英雄の物語」なのです。けれども、物語の終盤で、世界の不条理を一身に引き受けて戦う勇者に対して、ただのモブキャラで「救われるだけ」の存在だった、その他大勢の代表として、メイド姉は、自分が勇者になると宣言します。このくだりを少し長いですが引用してみます。
さて、メイド姉が、「人間にならなければならない!」という、命題を最初の登場のシーンに、ドラマツゥルギーとしてセットされていたことを説明しました。そして、彼女は人間であろうと、悩み続けます。そして、旅へ出て、彼女は、虫けらではなく「人間であるために」何をしなければならないか?との答えに、
「勇者の苦しみ」が欲しい
と、答えます。
これが、(3)で語った「全体と個」におけるこの自己犠牲を超克することだということが分かるでしょうか?。彼女は、ただ単に「他人に迷惑をかけなくて、自分で独立して生きられる」という「だけ」には留まることなく、この世界の構造から、「責任」を一人(正確には二人で)で背負う魔王と勇者が生贄になることによって成立するこの世界の、、、世界が成立するための「責任」を背負うという苦しみを、自分が負担してこそ、「人間である!」と喝破するのです。
これが、「内面の発見」による自己確立というファーストステップを経て、セカンドステップとして自分の周りの「世界」を成立させている「構造」を、支えるものこそが、人間である!という二番目のレベルまで、彼女が到達しているのです。
人間であることは、マクロの重圧や理不尽な仕打ちに打ち勝って自分で自分を「独立」させていく、ということが必要です。
けれども、他人に迷惑をかけなくて、ただ独立して生きているだけでは、それもまだ人間ではないと彼女は言うのです。
そう、個人を超えた「公」の部分に自分をコミットして、「誰か選ばれた才能があるモノ」を当てにするような虫けらではなく、自分のできる限界で「全体」のために戦うこと・・・・
そして、ここが素晴らしいのですが、彼女は「世界を守る」とか「世界を支える」といった、全体が尊いから、全体のために自己犠牲になるとは言っていません。それは全体主義です。
彼女は、「世界のマクロを支えるために不可能なことに全身全霊をかけて戦う勇者と魔王」の「苦しみをシェア」することが、人間なんだ!といっているんです。
微妙にな論理の問題があるのが分かるでしょうか?。ここでは「公(おおやけ)」にコミットするのが尊い!といったような、「公」が「個」に勝る価値があるから、「公」にコミットしろといっていないんです。
みんながみんなでいられるための「公」・・・・それを支える仲間である同胞を一人ぼっちにしはしないんだ!といっているんです。これ微妙な違いですが、物凄い違うことなのが分かりますよね?。
ここに至って、彼女は、(3)で語った英雄譚に関する構造的倫理欠陥に対して、はっきりと、宣言するのです。「誰かがみんなのために犠牲になるのは間違っている!」と。そこに才能の有無とかそういう物は関係ない。そこで逃げたら、そいつは虫だ!と彼女はいっているのです。
これが、僕がずっとブログで説明してきた、並行世界の物語の類型における90−00年代の「ナルシシズム(=内面)からの脱出」の問題を、見事にクリアしているのがわかるでしょうか?。ここまでの話では、この世界の並行世界問題にまだ触れていないのですが、にもかかわらず、はっきりと、この「ナルシシズムからの脱出」が、全て語られて、それが決断によって行動にコミットすることによってしか脱出できないことがはっきり示されています。しかも、脱出の理由が、はっきりと「そこに自分と同じくらい大切な「他者」が存在するのならば、その人の苦しみをシェアするのが、世界に対する貢献だ!」と見事に喝破しています。この構造がしめされている時点で、この世界が光の精霊によるループする並行世界だ、ということが示されても、特に分岐を経験させることも、碇シンジくんのように逃げられなくなるんまで追い詰められる演出がなくとも、その解決方法が簡単に示されます。ここでは、「幻想の領域に逃避する」という90−00年代の病がまったく存在しません。並行世界のモチーフ、脱出のテーマ、虫けら(=ナルシシズムの病)という全てのテーマを扱い踏破しているにもかかわらず、ここに出てくる主人公たちは、キャラクターたちは、だれ一人、幻想におぼれる者はおらず、現実に、自分の「役割」を通してコミットして、コミットすることによって「役割」を超えるという自由意志による自由を手に入れています。
そして、彼女が、ただのメイドであった、、、、いや農奴であった少女は、「世界を背負う苦しみを引き受ける」という覚悟を持った時、「勇者」と名乗り、呼ばれるようになります。
そう、、、、だれもが、「世界を支える苦しみを引き受ける」という覚悟を持った時に、物語の主人公になるんだ!と、言っているんです。これは、抽象的いえば、「個」を自立させ(=内面の自由とナルシシズムのからの脱出)、その「個」を持つ「他者」の存在を認めて、共同で世界を成立させる苦しみを引き受ける時、、、それは、真の意味で「現実を現実として受け入れて体感している時なのだ!」といっているのです。ここで、俗にいえば、真のリア充、本当の意味での実存の充実は、こういう現実認識があって初めて、訪れるものだといっているんです。
これは、見事なまでの、、、、90−00年代の問題点をすべて答えるというステップを踏んだ上での、見事なビルドゥングスロマン(=旅を通しての自己成長物語)になっているんです!。
魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」 ママレードサンド(橙乃ままれ)著 メイド姉が目指したモノ〜世界を支える責任を選ばれた人だけに押しつける卑怯な虫にはなりたくない!(4)
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20100512/p1
沢村凛さんのこの作品は、ここまで最前線の物語がかたられているわけではありません。どちらかというと、非常に古典的なノブレスオブレージの物語です。理想的な王がいた、という話だからです。けれども、とてもおもしろかったのは、このようなマクロを説明するような思索小説で、とても人間が生きているように感じたからです。だから、凄く実感を伴って読めました。まずはなんといっても、小説がとても上手なんでしょう。あと、マクロの視点に飛躍しないで、個人のミクロの視点の苦しみをじっと追い続けるのが作者の信条というかテーマなのでしょうね。デヴュー作の『リフレイン』もそうでしたし。『瞳の中の大河』もそういう渋い作品ですよね。
■自尊心マイナスがデフォルトであっても、生き抜く強さを持つには何によって支えられるのか?
後、もう一つ。薫衣(くのえ)の人生は、非常に過酷なものでした。マクロに殉じて、それ以外のすべてが失われている人生は、人間には耐えられるものではありません。このひどい人生の中で、何が彼を支えたのかといえば、二つです。
一つは、ひづちが薫衣(くのえ)の意思と行為の完全なる理解者であったこと。それにともなって、ひづちという地味だけれども希代の傑出した王が、全身全霊をかけて薫衣(くのえ)のことを「理解している」ことを示し続けたことです。よくいわれるじゃないですか、どんな過酷な仕事も、金や名誉だけではやりきれない、誰かが自分の「苦しみ」を見ていてくれる誰かがいて、認めてくれることが本当に一番重要なことなんだって。そういう意味では、非常に地味なのですが、ひづちという王は、ほんとうのほんとうに人間と「世界の理」ってやつをよくわかっている人だったんだと思う。物事を変えていくこと、、、本当の改革というのは、こういう細心な注意と普段の積み重ねでなされる、とても英雄らしくない仕事なんだろうと思う。中国の古典でも、一番難しいの守成の時期のリーダーだ、と言われます。
裕仁天皇の昭和史―平成への遺訓-そのとき、なぜそう動いたのか (Non select)
そしてもう一つは、にお(ひづちの妹)との夫婦関係でしょう。この人は、マクロをメインで書くのに、こういう人間が何によって心が動くかということに、とても繊細な理解があるんだなーとこの夫婦関係の描写を見ていて思いました。におは、最終的に薫衣(くのえ)の帰るところになっていました。あまり難しいことを考えたのではなく、ただ単に、ちゃんと真摯に向き合い、時間を重ねてきたものだけに持ちうる到達点なんだろうと思います。本当の家族、本当の夫婦になる、というのはこういうことなんだろうと思います。
人間が、過酷なことに耐えていく時に必要な「絆」というものが、どんなものをか、ここではよく表わしていて、ぐっときました。ひづちは承認を、におは感情的な包摂を代表している、と分析的に書くのはいかにもでよくないが、そういうものなんでしょう。
そう考えると、、、ひづち、におの生き残った鳳穐(ほうしゅう)一族の直系のこの二人は、不思議なくらい、人間としてよくできた安定した人でしたね。親族が軒並み復讐に燃えるルサンチマンを抱えた氏族社会バリバリなのに、、、、それは、そういう意味では、なんでこういう人間が生まれたかといえば、この国の開祖である王の作り出した合理的な国学の良心の結集点だったのかもしれない。説明する気力が尽きてきたので、細かく書かないけれども、このファンタジーの国では、殺しあっていた氏族社会を一つにまとめた王がいて、その人は宗教が嫌いだったらしく、合理的な考えと指導者の、人間としての正しい心構えを唱えた実学的な哲学を国の柱とした。その伝統の教えての体現のような教師に、ひづちも薫衣も教えられて育ったという設定なんですよね。ある意味、この理念教育の果てに登場した、ということなんでしょう。そういうロジックが、よくよく練られてつながるところも、思索小説だなーと思います。
まぁへ理屈は、どうでもいいんですが、久しぶりに素晴らしい読書でした。