文脈に対する想像力に敏感になりたいと思う今日この頃。

ずぶ濡れになる事情もある。
http://kens_asia.blogspot.jp/2012/08/blog-post_30.html


ずっと昔に読んだだけで記憶がおぼろになっているんですけど、向田邦子さんのエッセイに傘の話があったんです。

「胸の手術をして間もない頃で、腕が上に挙げられないんだけど、何かの都合で傘を持って帰っていた。そしたら雨が降ってきて、傘を持っているにもかかわらず腕が挙げられないので傘を差すことができず、ずぶ濡れで歩いてきた。傍からみたら意味不明だろうけど、当の本人には傘を差せない理由があったのだ。」というような内容のお話でした。

向田邦子さんのエピソードは、本当にいいものが多いなぁ。ネットでの空気と祭りによる吹き上がりや炎上だけではなく、愛国なのかよくわからないがナショナリズムの煽りとかを見ていると、いつも思うのだけれども、なんで人はこう簡単に「動物的な脊髄反射の反応してしまうんだろう?ということ。ちょっと俯瞰して、歴史を読んでいると、人間というのは、簡単には変われない生き物なんだなーとため息が出る。


まぁ、そういう自分だって空気に敏感な日本社会で生きているわけだし、マクロを本当に賢者のように鳥瞰して判断を下せるような偉人であるわけでもない、ただのパンピーなわけだから、こういう「波」には飲まれる存在なんだろうと思う。多少はマクロ的な感覚もある、それなりに文脈の「複雑さ」「一筋縄でのいかなさ」への想像力もあるつもりだから、そこまで簡単じゃないけど、これが権力を伴って、世間の常識という形や組織の圧力出来た場合、なかなか跳ね返せるものではないからね。まぁ、そうやって、空気に飲まれて過去の日本は滅びの戦争へ突き進んだんだけれども。ただ、少なくとも個人としてそういう自戒は持っていたいな、と思うし、こういう空気の祭りによる破滅への疾走へ加担するような『仕組みづくり』には断固抵抗したいとおもっている。まぁ、それは自分のいる組織で地道に構築するしかないことではあるけれども。人は常に目の前のことでしか、ミクロの積み重ねでしか、世界を変えることは、世界に関わることはできないからね。


だから、まぁ、「言葉」なんぞで世界はまず変わらないので、、、、一番いいのは、言葉を紡ぎ出すシステムの構造にメスを入れることが重要なんだろうけれどもねー。「そこ」まで行く権力は、想像力をマヒして空気に染まらないとなかなか得ることができない。痛しかゆしだねー。この話をする時は、いつも、『踊る大捜査線』の室井管理官を思い出す。


しかし、まぁがんばって社会で戦っていって地道に階段を上っていけば(というか、食べていくにはそうするしかないものだよ)、少しづつ社会での影響力は大きくなっていく。もちろん、個人の影響力なんて微々たるものだ、、、けれども、それでも長く生きていれば経験や友人も増えていくだろう。「生きる」ということはしがらみを多く抱えることだからね。その時に、、、そしてもしかしたらいつか訪れる「まさにその時」に、ちゃんと想像力をもって文脈をきちっと読み込んで、それで意見を言い、判断し、行動する人でありたいな、と思う。思慮深く、物事を透徹して見れる人間でありたい、といつも思います。まぁ、現実に社会に影響会を与えない話に、自分お利害に直接関係ない話は、ほんとうは関係ないんだよ。マクロのことで思い悩むのは僕は無駄だと思う。世界を変えたいのなら、まずは自分と自分も身の回りを変えろ、しかない。まぁ、僕は、とりあえず社会的な役割は少しづつは、まだ大きくなっている人なので、その役割に相応しく自分は成長していってほしいと思っている。正しいステップを通り自分を高めないと、成熟にはいたれないからねー。そんなにがんばって。何が得?。って、それの方が、人生楽しいんだよ。成長や成熟は、年齢や役割、人生のステージに合わせて、「それに追いついて行っている状態」ってのは、とても充実感があるものなんだよ。だって、自分が「できる」ことを「できている」状態って、幸せだろうに?。人生を生きる豊饒さ、そのものだよ。たくさんの深い経験を感得して生きることは。


おっと、これはマクロの話だけれども、ミクロだってそう。他者と関わるとき、自分の大切な人とかかわりを持つときに、最も重要なのは、『もしかしたら背後の文脈は凄く複雑なのかもしれない』と疑問を持ち、その深い森に分け入る覚悟を持つことだと思う。そうしないと、碌な人間関係を築けないと思うんだよ。人間関係を通しての豊饒さってのは「踏み込んで踏み込まれ」の相互なもので、自分が踏み込んでいかなければ、踏み込むわざと経験を持たなければ、空いても絶対に踏み込んでこないものだ。「踏み込む」リスクに見合う価値がない人には、だれも踏み込まないからだ。踏み込みかえしてかえってこない人、ナルシシズムの世界に生きている人は、一目でわかるものなんだよ。そういう人には、一番いいのは、関わらないこと。逆恨みされたり、動物的反射でトラブル持ち込まれたり、いいことないうえに、自分のことしか考えられない人だからね、そういう人は。・・・・そういう人を好きになっちゃったら、、、それは、それで仕方がないね、人生だもの(苦笑)。



・・・話が大きくなってしまったけど、ようは、思慮深くありたいね、どうせ生きているならってこと。動物的な脊髄反射をしていると、それこそ、すっごく下等な生き物っぽくて、なんかさびしいなーと思う。もちろん人間だもの、そういう感情は反射するものだろうともう。けど、理性で、その背後には何があるの?どういう文脈が隠れているんだろう?ということを探せる、感じれる想像力を持ちたいな、と思う今日この頃です。