『フルメタル・パニック!』 賀東招ニ著  いま10巻まで来ました。

フルメタル・パニック!燃えるワン・マン・フォース(新装版) (富士見ファンタジア文庫)

友人に読めと言われて読み始めて、10巻までたどり着きました。もうすぐ終わりに向かっています。


いろいろインスパイアされるものがあるのですが、最も興味深いのは、6−8巻ぐらいから急角度に話が展開していることです。展開というのは、ようは、かなめとテッサとソースケの学園ものというか、ちょっと意匠的には古臭い感じがするのですが(そりゃー古い作品だからね)ようは、ハーレムメイカーとは言わないけど、女の子に好かれて、永遠の日常が続いて、とかそういう「よくある形式」なんですが、ああ、すごいなーと思うのは、6巻ぐらいから、この「物語にとって都合のいいご都合主義」をはっきりと破る話を展開するのが、読んでいて気持ちよかった。


というのは、僕は見ていないいし、良くわからないのですが、たぶんアニメとか、この作品は、永遠の日常的なドタバタコメディをスピンオフ(というかそっちが主軸?)で展開しているので、「マクロの物語を進めてしまう」と、そっちが成立しないというか、その楽園的なドタバタコメディ空間が壊れてしまうのです。けれども、6巻ぐらいからはっきりと、このサガラ・ソースケとかなめの設定を誠実に展開させれば、そんなひと時の楽園状態には無理がある、ということがはっきり自覚されて、物語が展開されていくことです。そりゃーそうだよね。どんなにドタバタコメディをしても、アフガンで育って、三ケタ単位で人を殺し続けている現役の軍人のソースケが、日常で生きるのはそもそも無理がある。ギャグに物語的に回収しているだけで、そんなことは無理だし、あってはならないことなんだ。それに、かなめの持つ物語のドラマトゥルギーも、そもそも、彼女が一般人で生きていくことは、不可能にさせるものだ。「それ」に直面し、「それ」を受け入れて、「それ」と戦わないのは、欺瞞であり、おかしいんだ。この話は、1−5巻くらいまでは、その欺瞞をまだ、偶然ありえたかもしれない「楽園」として描くけれども、再契約的に、それでは成り立たないことが、通説に示されるエピソードが展開していく。


ああ、この構造で、ここにアクセルを踏み込むのは、作者は、とっても誠実だなーと感心しました。まだ11-12を読んでいないのですが、間違いなく、この流れに従ってマクロの、この世界のそもそも設定に隠れた問題点を解決させていくことになるでしょう。それは、作家としての誠実さでもあるし、キャラクターの関係性だけに逃げ込まない、、、ああ、、、、そうか、うんこのフレーズが言いたかったんだ、、、キャラクターの関係性に逃げ込む、というようなマイナスを僕は昨今のライトノベルとか、セラピー的に走るなろうの異世界トリップの文脈に感じてしまうんだよね。やっぱり、物語は、マクロの構造や設定の構造から必然的に「オチに向かっていく解決すべきコア」があって、その主軸のテーマを展開しつつ、そこにキャラクターのミクロの関係性の積み重ねを入れるのが、ほんものだって気がするのだよ。それが正しいというわけではないけれども、それがちゃんとした物語のオーソドックスだと思うのだ。キャラクターの関係性だけというエッジがとがったのも、もちろんありだと思うけど、オーソドックスではないと思うんだよね。まぁ、僕の評価基準だから、それが普遍性があるとは言い切れないけど、、、でも、これって基軸となる基準だと思うっているから、僕は普遍性だとおもっているんだけどね。


もうすぐ最終巻です。

フルメタル・パニック!つづくオン・マイ・オウン(新装版) (富士見ファンタジア文庫)