『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。8 』 渡航著 ヒッキー、それは確実に間違っているよ

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。8 (ガガガ文庫)


俺ガイルの8巻を読み終わった。飛行機の中で。いい話だった。ただ、どうだろう?凄いいい話ではあったが、少し難解であった気がする。これは、どれくらい理解されているのだろうか?、もしくは僕の理解の仕方が正しかったのだろうか?とか、気になる。なので、とりあえず、自分の今の理解を書いておきます。


僕は、今まさにこの話を最前線の物語のテーマで受け取りました。まぁ客観的に、ほんとうに最前線か?はわからないが、自分の中でこれまで積み上げてきた話と、それと自分の周りにいるアンテナ高い人々の意識を合わせて、ここが最前線だろう、というのはある。ちょうど『異世界迷宮の最深部を目指そう』でスノウ・ウォーカーについて高野長英(笑)の話と書いたことのやつですね。なんか、わけのわからない比較が、物語三昧クオリティですねぇ。


異世界迷宮の最深部を目指そう』作者:割内@タリサ
http://ncode.syosetu.com/n0089bk/


さて、前回の最深部の記事で書いた話だ。まだうまいキャッチフレーズができていないので、概念を軽く書いてみようと思います。それは「〜からの自由」と「〜への自由」の転換点についての話だ。これを言い換えると、無気力で目的を持たない生き方というのが、どこへ向かうのか?彼らが目的と動機を獲得する方法はどうすればいいのか?というものだ。


さらにこれには、敷衍した問いがあって、


そもそも、動機と目的を持つ生き方が世間一般的にマクロレベルで正しいのだろうか?(資本主義と現代社会に適合的なのは間違いないが・・・・)


また同時に、これと同じ意味だが、動機を持つ生き方が、人の生き方として正しいのだろうか?という問いだ。


こう抽象的に書くと、議論の履歴を見ていない人には、全く意味不明に近いことかもしれないが、順次説明していってみたいと思う(できないかもしれないが・・・・(苦笑))。この抽象的な概念に沿って、今回の話をどう僕が受け取ったかを説明してみます。。。・・・・・ほんとは、LINEで仲間内の話を全て網羅していると、完璧につながるとは思うけど、、、ということを考えると、わかるの海燕さんしかいないかもしれない(笑)。


今回はね、ヒッキーは、初めて明確に間違えていると思う。僕は、実は、7巻までの彼の行動には基本的に、とても賛同するというか肯定的だ。彼の内面での評価とは別に、客観的に言えば、彼の行動は自己犠牲をして周りを助けるという行動を終始している。これは、僕は、彼がボッチ、、、ありていに言えば他者を信頼できないし、実際は共同体にはじかれたいじめにあっているような環境下で、性格を形成してきたにもかかわらず、非常に気高い行為だと思う。また、共同体の外から、共同体のいじめ的な仕組みを叩き潰す技術は、とても有効な技術だと思うのだ。才能といってもいい。そして、彼は、生き方を間違えていない。公共に役に立たないやつは、自分にとっても社会にとっても、未来的に価値も意味もないからだ(それだけでいいのか?という、議論は、また別にすすべきで、ここはあえてこの議論の幅で話をしてみる)。これは彼が家庭環境が恵まれているがゆえに、、、帰るところがある人であったことと、自意識のモンスターになるほど頭が良かったからあり得たことだと思う。海老名さんに告白して自爆したことや、いじめをしている子供にそれ以上の強烈な敵を作って関係性をバラバラにしたり、自分のポジションを破壊するように使って、周りの環境を好転させるというのが、彼の手法だ。


これに対して、平塚先生が言っていることは非常に、示唆的だ。


君のやり方では、本当に助けたい誰かに出会った時、助けることはできないよ。


という言葉だ。これ単純な意味で、ヒッキーが大切にする人、、、たとえば、ここでゆきのんとゆいちゃんを考えてみれば、彼女らにとってもヒッキーは大切な人で、大切な人は、相手にとっても大切な人であることがほぼ当たり前だ。その大切な人が犠牲になって、自分が幸せになることは、関係性を崩壊させているので、相手を救ったことに全然ならない。だから、ゆきのんとゆいちゃんが、終始巻を進めるごとに、ヒッキーに対して疑念を抱いているのは、「自分たちを含めた関係性が深まっている」ときに、ヒッキーの自損的なやり方は、彼女たちとの関係自体も傷つけるので、ヒッキーは、自分、、、「自分」とは、自分と深くかかわる他者との関係性の網の目もまた、「自分」であることであって、それを賭けの料金にあげることは、自分たち(ゆいちゃんにゆきのんにとって大事なモノ、ヒッキーを含む)が積み上げてきた関係性を壊すことに他ならないので、それでは、何も救ったことにならない、、、それが行き過ぎれば、ヒッキーが孤立して、ヒッキーが積み上げてきた他者との関係性の重みも壊してしまう、、、、、それは、ゆいちゃんやゆきのん自身らの思い出や記憶の積み重ねを壊すことと同一になってしまう。

だから、たとえば、どちらと付き合おうが、どちらにとっても、高校時代のかけがえのない青春を共有した思い出をズタズタにするこういう、、、それは、彼女らにとっても「自分」を破壊される行為に他ならない。これが、攻撃になるかといえば、、、、とても悲しいことに、ヒッキー自体が好きであるという前提に立ち、しかもそれで救われるなにがしかがあるとすれば、必ずしも否定できることでもないところが悲しい話なのだ。でも、それでは、究極的に、ターゲットを絞って誰か、、、ゆきのんやゆいちゃんを救うことはできなくなってしまう。もちろん自分も。


なので、このやり方には、行き詰まりがある。


ヒッキーが、他者との関係性を持たない、孤立して孤高である条件がなければ、これは成り立たないからだ。


さて、ヒッキーの側は、これを主観と客観といい方をしている。


これは、僕も実は、黒歴史的だが(笑)学生に時代、しかも中学生の時にとても考え抜いた話と全く似ているので、ああーーーこれって中二病というか、青春の真っただ中で考える話だなーと感心してしまった。なにも子供だと馬鹿にしているのではなくて、人間関係をピュアに見る学校空間においては、これって普遍的な真理なんだろうと思うんだ。主観というのは、ようはね、、、、ヒッキーの側から見ると、これは、自己犠牲の話ではないんだよ。なので、葉山くんにあこがれられたり、同乗されたり、手法的に尊敬を受けるのは、まったく苛立たしいはずなんだ。


ぼっち、、、、、というのは、絶対的な孤高。いいかえれば、他者を当てにしない、自分で何でもできろいうことだ。精確に言うと、僕は、うんとね、、、ぼっちではなかったんだけど、なんというか、物凄い孤独感が中学から高校の学生時代にはありました。
これは、たぶん自意識のモンスターになっていたんだと思うんだけど、、、たぶん、文系の早熟な子供って、こういう孤独感にさいなまれやすいんだと思うんだ。当時の僕は、アホみたいに本を読んで、まぁヲタク趣味もすごかったし、映画もすごい病気なくらいに好きだった、、、、けど、なんでか、そういうオリジナルな自分を出しては、ダメなんだ、学校空間では!というような意識を持っていました。いまでは、バカだったなー、小物だったなー、と思うのですが、脆弱な自己意識を守るためには、学校空間という村共同体のボス山のサル論理が貫徹する日本的な世間空間での、ある意味の処世術だったんだろうと思います。生徒会や部活をやって、そうそうお姉さんの話じゃないけれども、文化祭の実行委員長もやったなー(笑)、なんかまんま。けど、そこで「社会的な役割の自分」と「本当の自分」の乖離がひどくて、それにすごく悩まされていたんだろうと思います。別に、カースト上位の人だったと思うので、何もそんなに自分が孤独でボッチだと思わずに、もっとうまくやっていればよかったんですが、なんででしょうねぇ、、、、。実際に、いろいろそういう生徒会とかしてたけど、いま思うと、まったく友達がいなかった、と思います。精確に言えば、自分が相手を友達だと認識しなかったんだと思う。ひどい話です。。。。事実、あれほど華々しく活躍?したはずの当時の友達は、いまにいたるまでひとりものこっていません。別に会いたいとも思わない、思い出しもしない。本当に、僕にとってどうでもよかったのでしょう。。。。もったいないことです。コミットしない人生は、このように時間が砂を噛むように風景のように過ぎ去ってしまう。バカなことをしたものだ、と思います、、、。一度しかない貴重な青春時代を、、、、。僕にとって、趣味や本当の自分を通しての付き合のある関係性ではなかったので、代替の効くどうでもいいつきあだったんです。なのに、趣味の友達を作る努力をしていないのだから、必然的に独りびっちになる。どんなに人から支持されて、必要とされても、自分がコミットしていないければ、すべては灰色の風景のように、リアルを感じることができない。・・・・剣道ではずっと道場で教えていました、テニスは全力を尽くして部活動しました、文化祭も大成功でした、生徒会も数々の改革をなしました、、、、僕の学生生活は、とってもリア充的でしたが、、、僕にとっては、自分を偽る地獄の空間でした。当時は、息苦しく感じてはいたものの、何がそんない苦しいのか、全然わかっていませんでしたが、いまでははっきりわかります。自分をストレートに出していないからですよ。ほんとうは、それだけの社交的な外交スキルがあれば、もっと自分に都合のいい、自分にとって好きな空間を、自分色にデザインするべきだったのですが、それを、周りの世間が要求する姿、周りがだとだと思う平均値に自分を合わせてふるまって仮面をつけようとしていたんですね。そして、そんなこと(=自分が自分を偽っている)すら、全く気付いていなかった。そりゃ、友達はいないはずです。人にはアホみたいに囲まれていても、自分が全然自分じゃないんだもん。


この時のロジックというのは、、、、自分は、孤独だ・・・・ボッチだという意識があるんですね。誰も助けてくれない。だれも自分のことを必要としてない、というような。まぁ、ほんとうは人間の社会なんて、それが当然なんですが・・・・(苦笑)。それが、無性に怖かった。何もない自分が、凄い怖かった。自信がなかったんですよね。まぁ、自信って、なにでつくのかは、わからんけどねぇ、、、いい大学はいれば!とか、部活でスポーツ優勝すれば!とか思ったけど、そういうのはほとんど意味ないのが、経験的にわかってしまうし、、、、コミュニケーションの強者というか、自分が幸せだ!という自足の感覚を得ることと、外面的なもの、、、学歴とか、みんなに愛されているとか、何かに優勝したりとか、そういうのは、全然関係ないんだよね。そうえいば、、、・・・・・・よう考えれば、、、告白とかされたのに全然付き合わなかったのは、たぶん、仮面をかぶっている自分の赤裸々なものをだしたら受け入れられないって思っていたんでしょうねぇ、、どんだけ中二病的な自尊心なんだ、おれ(苦笑)・・・中学の時に、あんだけ本気で告白してくれた同級生の女の子や、実行委員長に時憧れていましたと告白してくれた下級生のこのことは、今でもよく覚えているんですよね、、、その後自分が告白することができたときに、、、、なんであんなに勇気を奮ってくれた人を、しかも、たぶん、当時僕はその子のことが、ああ、そっちの同級生の子が好きだったんですよね、たぶん、、、、。でもなんか、怖くて付き合えなかったのですよね、、、受験が忙しいので、ごめんとか何とか言って、、、、いま思うと、なんともったいない、、、じゃなかった、、なんと、情けなく、そして不誠実なことをしたのだろうと、涙が出そうです。だって、中学2年生の同級生とか、中学1年生の女の子に告白されたりしているんですよ、おれ???なに、かっこつけて断っているんのおれ、とか今の俺が見たから虫けらのごとく瞬殺して殺しますよ!!っ(笑)。その時のロジックは、、、、人に頼らない、人を信用しないんですね。なぜならば、ぼっちであることの、、、他者に仲良くしてもらえない、受け入れてもらえない自分をきちっとそれでも自尊心を守ろう方法は、自分一人でも生きていけるということを明確に示すことだったのです。だから、部活もできなきゃいけないし、成績も人一倍できなきゃいけない、人に頼られたら何でもできなきゃいけない!ぐらいにおもっていました。きっと、こんなに仲良くしてくれる部活や生徒会の仲間は、敵なんだ、ぐらいに思っていましたよ、、、なんで、あれで、運営を円滑にできていたのか、今でも不思議、、、やっぱ外交というかコミュニケーションスキルは、優れていたんだろうなーとは思いますが、、、。何その偽りまくり?って思いますよ。でも、いまでこそ、なんでもできるようになってきましたが、、、、いやまーねー中学や高校生の男の子にそれは難しいですよ。中学ぐらいではぼろが出なかったのですが、高校とかになるとね、、、、。それで、自分を偽るのが、どんどんできなくなっていって、大学で素直な人になるんですね(笑)。ゆきのんとか、スペック高くて自分で偽れたりすると、どこまでそれが継続してしまうのかもしれませんね。

ああえっと、具体的に書かないと、意味が伝わらないかなーと自分史をつらつらと、、、えっとね、他人を信用していないし、自分が本当の自分は受け入れられないと、ハリネズミみたいになっているので、ひたすら、自分一人で生きていける「能力を示す」ことに強い意欲があったんですね。特に通用する分野では、絶対勝ち抜こうって!。ぼっちじゃないぜ!、ほんとはね、できるんだけど、自分で選んで孤高を生きているんだ!と、おれ、強いし!!とか、きどっていたわけ(笑)。そのくせ、女の子に告白されただけで、、、その子のこと好きな癖にビビっちゃうチキンだったりするわけ(笑)。中学の時は、ほんと中二病。人と付き合うと、弱くなる、とか真剣に考えていた。。。。こわくてたまらないし、寂しくて仕方がないくせに。その時の主観的な意識では、自分が何かで犠牲になっても、それは、「自分が選んでやっていること」なんで、自己犠牲とか、そういうものじゃないんだ!と思っているわけ。そして、なにも誰かとつながりたいとか、友達が欲しい!なんて、弱いこと言っているわけじゃなくて、そんなもの必要ないと思っているので、感謝とか同情とか憐憫とかは、凄いいやなわけ。友達が欲しい!なんて言う自分の弱いところ見たら、世間に殺される!と思っているので(笑)、それは絶対に自尊心として認められないわけ。選んで、孤高でいるわけだから。そして、、、、、この自意識の高さと世間とのマッチッングの悪さは、物凄い大きいので、単純に友達が欲しかったんだね!では、かたずけられないものがあるのですよ。必ずしも、根拠がないことじゃない。自意識が高いというのは、優秀になる可能性が高いということでもあるんですよ。頭の中で考えるエネルギーが高いということですから。僕は、たぶん当時の中学や高校生のコミュニティーで仲良くやるには、自意識が強くてとがり過ぎていた。大学に入って、いろいろやるようになって、同類が周りにいるようになって、やっとほっとしたもの。ほんとやりたいこと何でもやりました。、、自分のやりたかったこと、思ったことができるようになって、やっと、世界との、社会とのチューニングが普通になった、という気がしたもの。あれは、あれだけの肥大化した自己意識をもって、中学や高校で、収まることは無理だったんだろうと思う。当時の僕は、地球生まれの異星人(by中島梓)の異邦人感覚が強く、、、ヒツジの群れの中に放り込まれたオオカミのように、他種族の中で生きる恐怖と孤独をずっと感じていました。そういう、異邦人感覚(=異世界転生感覚、この世界ではないどこかへ行きたい感覚だね!)って誰しもあるだろうと思うのですが、まぁそれがことさら強かったんですよね。ヒッキーの内的ロジックはこれと同じのように僕は思う。なので、葉山に同情されたり憐憫されると、切れそうになる。なぜならば、みんなと仲良くしたくて、友達が欲しくて、自己犠牲になっているわけではないのだ、、、そんな対価を求めるようなあさましいマネと一緒にするな!と、当時の僕なら思うだろう。



長いなぁ、、、、、これってね、もっと、大きな枠で言うと、、、、『〜からの自由』何だろうと思うんですよ。ようは、自分の内面の中にある「肥大化した自意識」というのは、外から世間の目から拘束されることを嫌う、内面の自由のことなわけ。魂の自由というような言い方を、前回の記事で下たけどね、、、そこまでかっこつけて中二病的に言わなくても、ようは、世間の目でこんなもんだろ、と外部から役割を規定されたり、スクールカースト的な序列で自分の役割や価値を固定されることへの強い抵抗意識なんだよね。これが、こじらすと、、、他者の視線を受け入れることができなくなって、、、、ひきこもってしまう。他者の視線というのは、役割拘束の攻撃だからね。それを、利用したり、変えたりではなくて、それがないところにいこう、としているわけ。


前のこの作品の記事でも書いたけれども、ヒッキーは、たぶん大学以降にこそ真価を発揮するような、人だと思う。彼は、中学や高校ではパッとしないけれども、その内面は気高く、そして才能にあふれている。


特に、猜疑心溢れてひねくれているけれども(笑)、すべての言葉とコミュニケーションや出来事に、文脈的な意味を見出すのは、
物凄い頭の良さなんだ。ゆきのんのお姉さんが、君はいいねーーーというのはすごい良くわかる。コミュニケーションが得意だったり、ゆきのんのおねさんのようにスクールカーストの上位的ポジションで美人で外から評価を投げつけられるのに慣れている、
いいかえれば、「定型的なコミュニケーション」に飽きている人は、このヒッキーの頭のよさや鋭さは、よくわかるはずなんだ。
そして、こうしたスクールカーストの世界とは別のレベルの才能は、中学や高校の日本的学校空間では、全く役に立たない害だけれども、大学以降の社会に出ると、それこそがすごい有用な武器になることも、外に出た人には良くわかるはずなのだ。
まぁ、肥大化した自意識でひきこもったり、おかしくなったりもしやすいので、全部が全部いいとは言い切れないけど、可能性は高い。特に、家庭環境が安定しているので、彼には「逃げて帰るところがある」ので、ヒッキーは、こじらせないで、内圧を高めで、自由を未来に得る可能性は高い。



・・・・・・・・と、こう書いてきたんだけれども、ヒッキーに肯定的なのは、実は、ここで分岐点が迎えるのだ。


いままでは、わかった。けど、8巻まで来て、、、、もうすでに彼は、取り返しのつかないことをしてしまっている。それは、もうすでに、彼はひとりじゃない、ということだ。西尾維新化物語で、主人公の暦くんが、友達ができると人間強度が下がる、といっていたのは、まさに、だと思うよ。ぼっちのふりをしても、ひっきーやゆきのん、それに葉山だって、もうここまで内面的にかかわってしまったら、もう関係のない人だっていえないんだよ。なにも奉仕部なんていう、別の社会の窓口につながらなければ、、、そこで実績を積み上げなければ、ぼっちとして、高校生活を貫徹すればよかっただろう。しかし、もうそうではない。そして、、、、、彼は、ヒッキーは、かなりのレベルで、「〜からの自由」はすでに手に入れている。



じゃあ、、、、何をするの?



と問えば、もう〜からの自由の獲得、、、、、逃げてばかりではだめだってことなんだ。


そこには責任が発生している。


なんの責任か?って?


それは、自分が縁で関わってしまって、偶然深まってしまった、ゆきのんとゆいちゃん、、、少し下がって葉山達との関係性に関することだ。


ここではわかりやすく、ゆきのんのお話に的を絞ろう。小説もそこにフォーカスしているからね。


彼女との関係を、恋愛とかというのならば、それは少し違うだろう。彼女との関係性は、自意識との戦いだ。ヒッキーとゆきのんは、お互いの強い肥大化した自意識のため、相容れない。彼女たちとかかわった責任、、、、この責任・・・・「しなければならない」理由はなにか?といえば、それは単純い偶然の縁だ。平塚先生がおぜん立てしたところはあるが、基本偶然だ。偶然が生まれてしまったんだ。これを、マストの〜しなければならないこと、ととるかどうかは難しいところだ。〜からの自由を重要視する視点としては、この責任からも逃げたいものだ。けれども、そうできるのか?とえいば、人間って、関わった他者をなかなか無視できないものだ。

そして、ゆきのんとヒッキーは、特にお互いを無視できない、出会いをしている。この二人はスペックが違いすぎるので、スクールカーストでは、出会うことすらなかったが、奉仕部のせいで出会ってしまった。しかも、スクールカーストの序列ではなく、
他者への奉仕という、なかなかに自由な課題へのソリューションをあたえられて。


そうするとね、、、この二人って自意識が肥大化しているどうし、また社会における自由な課題設定と解決を志向した時に、
どっちも、アプローチは違うけれども、有能なのね。特に、ヒッキーは正統的なアプローチをとらないがゆえに、ゆきのんのような正統派の有能さを持っている人にとっては必須の人材なのね。


するとね、、、、この出会いの縁は、とても「対等なもの」なの。


社会において、深いレベルで対等の出会いや関係性を育むことは稀です。それは、容易に恋愛に転嫁してもおかしくないくらい濃いもので、というか、素晴らしい恋愛は、すべてこれがベースになっていると僕は思う。対等な出会いをして、対等なものをぶつけ合って、結ばれた時の恋愛は、破壊力でかいぜーーー。すげぇ、しあわせ濃度高いよ。ヒッキーとゆきのんは、スクールカースト的な序列では凄い差があるけれども、十分対等でありうるのね、、、、すべては出会いの運なの、こういうのは。たぶん、大学以降ぐらいで二人が出会うと、すばらしい恋愛ができそう、とは昔のラジオで言ったことがあるともいます。まぁ、いまは、そこに変化していないので、対等で、いいや。


でね、、、、そういう特殊な出会いを、特別な、ほんとうの出会いをして、それを育んじゃったので、、、、。


そうすると、もうお互い無視できないの。


僕は、それを責任というものだと思う。


では具体的に、何を?


それは、ずっとこの作品のテーマの一つである、ゆきのんは、何をしたいの?というお話だ。


この作品のメインヒロインであるにもかかわらず、雪ノ下雪乃って、やりたいことも目標もない子なのね。なんでそうなの?というと、ゆきのんが「〜からの自由の次元で」苦しんでいる人だからなのね。それってなに?というと、お姉さんとの確執だ。お姉さんとの比較、家のしがらみは僕もよく読み込んでいないけれども、まぁおおざっぱにいえば、お姉さんとの比較が、家庭内でのポジションが、彼女の自意識を縛っている。


なので、雪ノ下雪乃という人格のドラマトゥルギーの本質、、、本当に求めるところ、を考えれば、現時点では、姉との関係性からの自由だ。そこで初めて、自由になって、、、彼女は、次に何をすべきかを考えることが可能になる。



というのは、彼女に深くかかわれば、一発でわかることなの。


それを、応援する、関わる、というのが、友人としての重要なことだと僕は思う。


それが、責任の原初。


もちろん、ゆきのんから、ヒッキーへもある。ヒッキーは、自分が自己犠牲になるという上記のロジックは、物事を解決する手法としては斬新で優秀ではあるけれども、深くかかわった人がいれば、その人との関係性も一緒に壊してしまうというリスクがあることを、ゆきのんは、そしてゆいちゃんは、痛切に感じている。それは、同情や憐憫ではなく、単純にヒッキーが好きだから。なので、ヒッキーは本来拒否できない。そこを乗り越えなければ、ヒッキーの世界は、ナルシシズムの檻の中にいるだけだ。ナルシシズムが強く、檻の中で凄く閉じこもったがゆえに、強くなったのヒッキーだが、それだけでは、世界は開かれない。


そう、ヒッキーは、ステージの変わり目に来ているのだ。


なんの変わり目か?といえば、


〜からの自由から、〜への自由への変わり目だ。



〜へというのは、ようは、目的をもって生きることだ。目的があれば、人生は制限される。何でも自由にはできなくなり、拘束されることも多くなる。しかしそれは、じゃあ本当に拘束か?と問えば、それは違う。それは「あえて選んだ拘束」だからだ。自分が選んだ目的のもとに、自分が縛られることは、自らが、あえて選んだ自由なのだ。単純に、エーリッヒ・フロムの自由の話そのままですね。


だから、ヒッキーは、この変わり目に当たって、、、、、それは、奉仕部なんていう意味のないものを、クンフーのように続けてきた、時間の積み重ねが、関係性の質を変えたが故に起きたことだ。そこで立ち現われてきた一つの課題が、ゆきのんのお姉さんとの確執だ。この小説で、とっても示唆的なのは、お姉さんは、派手好きなので生徒会をしなかった、という点だ。だから、それに反対を考えれば、ゆきのんは、生徒会長を立候補すべきなのだ、、、というのがお姉さん見解。


これは、僕は正しいともう。



というのはね、ヒッキーは、どこかで、何か問題の立て方をも違えているような気がする、といっているが、これはまさに正しい。


まずは、一色さんが生徒会長をしたくないという依頼が来たときに、まず最初に、そもそも一色さんに生徒会長をしたいという動機を与えるべきでは?ということを途中で思い当たるのだが、これ、非常に正しい流れの問題解決の流れですね。あのね、うまく一色が生徒会長を落選できるようにという依頼が来た時点で、その前提を疑って考えなきゃいけないの。問題解決ってそういうことだと思うんだよなー。言われたことを、そのままやるやつは、社会ではいらない。なぜ、どうして?そういう依頼が来たのか?その前提にどんな仕組みがあるのか?そうして、そもそも問題の構造をよく読み解き、そのうえで、問題を立て直すところから始めるのがソリューションというものだ。なので、ここで一番最初にやらなきゃいけないことは何だったと思う?。それは、一色さんの意見をもっと聞くこと、彼女が本当に何を望んでいるかを、彼女すらも気づいていないレベルの前提を見抜いて探し出すことなんだ。


そして、それは、ヒッキーはできていると思う。この辺は、とっても非凡なアプローチをすると思う。ゆいちゃんもゆきのんも、まったく正攻法しか思いつかなかったことを見ると、彼のアプローチの優秀さが際立っている。搦め手ではあるけれどもね。


けど、途中で出て来たもんだについては、彼は完全に問題解決の順番を間違えている。


全く同じことなのだ。


一色さんが、本当に望んでいること探し出すことと、ゆきのんが望んでいることをちゃんと聞いて聞き出すことは、手法において全く同じことであるにも関わらず、、、、。なのに、ヒッキーは、ゆきのんに、直接対峙して、彼女が本当に望んでいること、彼女自身すらも自分が望んでいるとは気づかないことを、前提を読み解くことをしなければならなかった。


長くなるので、そろそろ巻きます、、、


生徒会長にゆきのんがなることが解決になるかどうかわからない。


けれども、ゆきのんをめぐるドラマトゥルギーには、今この話では二つの前提がある。


それは、彼女も、ゆいちゃんも、ヒッキーも、奉仕部の空間、いいかえれば3人がいる空間を大切に思っていること
そしてそれがまだ、終わりを迎えていない、まだこの3人の関係のドラマトゥルギーが終わっていないと感じていること


2番目は、生徒会というテーマが出てきたときに、ゆきのんのお姉さんとの確執というドラマトゥルギー
とても前に進むこと。特に、ゆきのん自体が(わからないが)どうもやりたがっていたのではないか?ということ



彼女は、ヒッキーが気になると思う。それは、彼女が正統的なアプローチをする人で、搦め手からオリジナルな攻め方をするヒッキーは、人材としてとても補完性があって、一緒にいて凄く楽しはずなのだ。そして、正統的なアプローチをする人は、リーダーに向いているのだ。それも実務のにね。言い換えれば、たしかにお姉さんよりも、生真面目なゆきのんは、生徒会長に向いていたと思うのだ。


という2つの条件を考えれば、めぐり先輩が、いっていたように、ゆきのんが生徒会長で、副会長がゆいちゃんで、庶務がヒッキーであっても、おかしくなかったのだ。


というか、奉仕部でやっている、裏方のことって、まさにこれと同じことじゃないですか。


これが、絶対位唯一の解決方法とは思わないし、それがよかったかどうかもわからないので、
これが正しいとは言えないと思う。


けれども、すくなくとも、ゆきのんが、どうおもっていたのか?は話し合うべきだったと思うのだ。それが、責任、、、、言い方が悪ければ、偶然人生の縁を共有した対等な友人との真摯な対応だったと思うのだ。そこで、人と、他者と本気でぶつからないやつに、リアルは感じられない。


なぜ、一色さんに対して同じアプローチができたのに、ゆきのんにできなかったのかといえば、それは、ヒッキーが、〜からの自由に固執していて、〜への自由へのステージの転換を見誤っているからだと思う。ゆきのんとかかわることは、自分を制限して拘束することだからね。一色さんは、彼にとってはどうでもいい人であって、そういうのには制限されないからだ。


それは、明確な間違いだった、と僕は思う。


いや、物語なので、その間違いをベースにどうするの?ってのは、9巻以降に問われる作者の課題だとは思うが、とはいえ、この後悔のあるリグレットな雰囲気の終わらせ方は、作者がここを課題に思ってて、そしてその課題の解決に失敗したヒッキーに対しての視線が垣間見える。まっ、話し合って、生徒会長になって、奉仕部が表の舞台になったら、学園お気楽生徒会ものになってしまうので、それはできなかったんだろうね。あと、ここで話し合ってうまく解決してしまうと、エロゲ的な(笑)ゆきのんルートに入れないし、、、というか、壁がなくなっちゃうので、ゆきのんと関係性が安定化しちゃう。二人が付き合うのは、やっぱり大学以降になってしまう。ラブコメ的には、ゆいちゃんの話もあるし、もう一波乱作るには、この物語設計しかなかったんだと思う。


まぁ、次巻楽しみです。



とまぁ、こういう構造だと、僕は、思ったわけですよ。

それは「〜の自由」と「〜への自由」の転換点についての話だ。
これを言い換えると、無気力で目的を持たない生き方というのが、どこへ向かうのか?彼らが目的と動機を獲得する方法はどうすればいいのか?というものだ。
さらにこれには、敷衍した問いがあって、
そもそも、動機と目的を持つ生き方が世間一般的にマクロレベルで正しいのだろうか?(資本主義と現代社会に適合的なのは間違いないが・・・・)
また同時に、これと同じ意味だが、動機を持つ生き方が、人の生き方として正しいのだろうか?という問いだ。

こう書いたのだけれども、ヒッキーのドラマトゥルギーは、この「〜からの自由」と「〜への自由」という自由の違いのステージの転換点を間違えると、自分の内発性、自分が本当に何がしたいのか?を見誤る、ということを言いたかったのです。


ヒッキーは、ほんとうは、正統派のゆきのんのような上司を持つととても輝く人なんですよ。ヒッキーはひとりで生きていけるので、必要ないといえばないのですが、しかし、世界はそういう人がアンカーになって回っている部分も大きいのだ、ということを知ることは彼にとって、計り知れない価値があるはずなんです。正統派のアプローチを、正統派で積み重ねて、物事を回しているからこそ、通常の秩序が回るのだ、ということ。搦め手からの、非正統派アプローチは、正統派がいてこそ輝くのだ、ということを。

ナルシシズムの檻、自意識の肥大化をヒッキーはこじらせて、「それがゆえに」彼はとても有能になりました。彼が、女の子に振られてひどいめにあって人間不信になったからこそ、物事にすべて意味と文脈を際銀深く読み取るようになって、世界の深さがよく見える人になったんです。人間万事塞翁が馬で、何が善きことかはわからない。そういうイレギュラーがなければ、パンピーのヒッキーくんいは、ゆいちゃんやゆきのんと出会うことも、対等になることもなかったでしょう。彼が、強い自意識をばねに、自分を押さえつける世間のスクールカーストや序列ランキングを、はねのけて一人で生きる!(=からの自由)と強く思ってそれをこなしたからこそ起きたことでした。


でも、次には、そこから違う形のものを、ステージの違いを意識して、勇気ある一歩、、、、、それは過去の自分の手法の全否定。過去はまちがっていなかったが、ステージの違いでは、それは間違いになること理解して、一歩踏み出さなければ、彼は「自分が内発的に何がしたいのかが分からなくなってしまう」と思うのです。それは、大事な対等な友人である、ゆきのんが何をしたいのかわからなくなぅていることと、シンクロします。相手のことが、、、、周りの関係性のおいて、なにが「ほんとうのこと」なのか、を問う心を失えば、必ずそうなります。自分とは、自分一人ではなく、自分と深くかかわる関係性の網の目だからです。


なぜ、ステージの違いが生まれたか、、、それは、端的にえば、奉仕部という「場」が生まれたからです。


平塚先生の思い込みと、それと、まぁそれにコミットする、最初の一歩、そして、、、偶然自分と似たドラマトゥルギーを持つ
ゆきのんやゆいちゃんとであって、関係性が深まるイベントが生まれたこと。


なぜか?といえば、来る返しですが、偶然です。



なので、内発性が生まれるには、何が必要か?といえば、少なくともここで観察する限りにおいては、運です。偶然です。


しかし、ログホライズンの最新話で、オンラインゲームの廃人となった、ギルドマスターのウィリアムが、おれにはこれしかなかった!と叫ぶ時の誇らしさ、そして、その声に集う仲間たちの掛け声をきとくに、僕は熱く涙が出ました。それは、「場」を守ること、好きな「場」にコミットすることが、絆を作り、偶然が必然となり、おおきなうねりとなって仲間との絆の履歴が記憶を作り、、、、ということが見えるからです。


http://ncode.syosetu.com/n8725k/61/


そう、場に選ばれること、運よくそこに行くこと、そこに参加した時に、参加するに意味があるドラマトゥルギーや能力を自分が持つこと、これらはすべて、運です。偶然です。


けど、それは必然でもあります。


物語の種は、思いもよらないところに転がっています。また物語は、物語が挫折することによぅって、大きな物語が生まれていることもしばしばです。ヒッキーが、中学時代、ぼっちで徹底的にひどい目のあって地獄を見なければ、おいおい、こんな美少女たちとのライトノベル学園モノなんか発生しないんだよっ!て思いません?(笑)。そこで、それが、ステージの違いが、自分がコミットする物語が生まれているときに、何もないマイナスの自分を抱えて、前へ飛ぶこと、コミットすること、、、、



なので、上記で上げた、、、内発性はどこから生まれるのか?の構造は、少しずつ分かってきた気がします。ヒッキーとゆきのんが、まだまだなのは、彼らはまだ、自分の好きなこと、を見出していない。ほんとうは、それが生徒会や奉仕部であってもいいんですけどね。


なんでもいいのです。


けど、「〜への自由」とは、役割を固定して、目標を決めて、その他の可能性を捨て去って、目的にむかってたたかうことです。ログホライズンで、ギルドマスターの野戦司令官ウィリアムが、通常の人生をすべて捨て去って、オンラインゲームに没入して
いたように。それは、社会的には、平均値の社会的には、あやまったダメな行為かもしれません。


しかし、おれには、おれたちにはこれしかない!と叫ぶ彼らの熱い思いを見るときに、そこに自由はないですか?社会に出たらカーストの最下位?そんなものは、あの熱い絆の、熱い思いの共有になんか関係あるんですか?人との紐帯、仲間との本当の想いの共有は、役割を外から押し付けられていることで自分をごまかしたり、逆にただ役割を拒否する碇シンジくん的な生き方では、絶対にわかりません。また、物質がある程度行き着いた、永遠の日常が続く沈みゆく先進国の超成熟社会の中では、多少の中産階級であることよりも、絆を構築して、好きなものを軸にアンカーとなってネットワークを、、、人の間で生きるリアルと実感を感じられるものを持つ方が、はるかに勝者になります。金や地位が相対的に重みをなくしていく時代だからです。


まぁなにも、そこまで極端に走る必要はないとは思いますが、ようは、こういう内発性が生まれる原初にどんな構造があるか?ってことに、少し思いをはせた今日この頃でした。



最初に上げた抽象的な話のテーマと、少しずれるし、もう少し敷衍しないとつながらないのですが、この問題意識が、最近の物語の最前線だと感じるので、そのへんを読み解く、ベースとなるかなーと思います。



ちなみに、ちょっと補足しておくと、最後に、ヒッキーが、選択肢を間違えたかもしれない?というのは正しくて、本当に「守るべきもの」は、奉仕部ではなかったんですよね。守るべきは、3人のドラマトゥルギー、、、3人の関係性を守るべきだった。関係性を「今のままに固定する」というのは、実は、一番の破壊行為です。だって、出会いと偶然が積み重なって、3人のそれぞれのドラマトゥルギーは、動き出しているのだもの。特に、今回は明確にゆきのんのターン。それが発展して、変わっていけるために必要な場を3人で考えるべきが正しかったんだ。それは、3人で生徒会をやるでもいいし、なんでもよいんだけれども、意思をもって、自分を取り巻く関係性をドラマトゥルギーを開いて、自分自身を変えていこうという意思を持たなければならなかった。


目的を、積極的に、人生をコントロールする意思を持てなかったのが、ミスなんだよね。



さて、、、次は、どうなるのでしょうか、、、、。