『ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか』 大森 藤ノ著  最終話まで

「ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか」Vol.7<初回生産限定版> [Blu-ray]


評価:★★★☆星3つ半
(僕的主観:★★★★★星5つ)


いま最終話を見終わりました。小説の、6巻か5巻分までを忠実に映像化した感じですね。物語の持っている伏線というか展開力というかドラマトゥルギーとしては中途半端なはずなんですが、それを感じさせない成長物語として、ぐっとくる終わり方でした。これ、アニメ化した監督さんは思い切りのいいまとめ方でしたね。いま小説の8巻まで読んでいるのですが、この物語の本筋というか中心のドラマトゥルギーは、ベル・クラネルくんが、憧憬の対象であるアイズ・ヴァレンシュタインに追いついて、対等になり、そして英雄となって、この世界の最終的問題点であるクエストを達成することによって、祖父・・・・たぶんこれがゼウスなんだろうね、彼の憧憬のスタート地点である祖父に追いつく、という構造になっています。なので、これ以外は、極端に言えば枝葉末節なんでしょう。けど、8巻分では、この最後のドラマトゥルギーにまで全然足を踏み入れていません。いって見れば未完成な物語で、アニメ化を要求させられたんでしょうが、この未完成の部分・・・・ベル君が、憧憬をベースに前へ進むその途中、というか、最初のルーキーとしての半ばのクライマックスを、12話目のクライマックスにもっていって、そこまでを丁寧に描いたってのは、とてもよかったんだろうと思います。僕はリアルタイムで見ていないし、どれくらい評価されたのか?、どれくらい視聴率があったのか?は、本当にまったくゼロ情報なんですが、とても素直で直球なビルドゥングスロマン・成長物語で、唯一ケチをつければ、まだ物語が始まったばかりじゃないか=いいかえれば、ベル・クラネル=主人公が、デヴューした!というところで物語が終わっていて、それじゃあ完成品としてみればダメだろうといえると思うのですが、2、次のクールがあるかもしれないとかそういうことを考えなくても、僕はこの中途半端さは、いい出来だったと思う。


しかし、この後がまんができなくて、小説もすべて買って読んでいるのですが、これって、極端な話、アニメ監督の手腕というよりは、丁寧に描けば、どこで区切っても、成長物語として非常に各話ごとに完成していると思うんです。僕は文脈読みをするので、ビルドゥングスロマン・成長物語が解体する物語類型の系譜が強く意識してこの10-20年間(1990年ごろから2010年ぐらいまで)を見て来たんですが、ある種、成長物語が、エヴァンゲリオンを一つの転換期として解体されてゆき、、、、というか解体されいくという言い方が悪ければ、この問題意識が主軸にあって様々な物語の文脈が描かれる時代が長く続いてきたのですが、その古さが『進撃の巨人』あたりで、反転し始めるる感触があって、素直に段階的な成長を描くことが、素直に受け入れられる(=ビルドゥングスロマンの解体、自意識の告発といった意識をしないで)という時代が戻ってきたのだなぁ、ということで、このだんまちを評価してしまうのですが、まぁ、それは僕の個人的な「読み」なので、というか、LDさんと話してきた文脈で読むとそうなるんですが、いまアニメを素直に楽しんでいる人、今(2015年に)このヲタク的人生の楽しみにエントリーした人には、あまり関係のない話かもしれません。これは世代的に、高度成長期の時代を生きたり、もしくはその親に育てられた世代(団塊の世代Jr)に強烈に意識される志向性でもあって世代的に偏っている見方でもありますし、作品そのものの議論ではないからですね。あくまで文脈読みと、作品の個別論は別の話なので。とはいえ、僕らが階梯的成長物語と呼ぶ、主人公が順番的に、順序良く試練に打ち勝って、レベルを上げていく形の成長物語が、なんの文脈というか強い類型への販社としての意識なく、素直に楽しめるってのは、僕には驚きでしたって話です。僕のような世代的に強い文脈読みで、永遠の日常、男の子的視点が消去されていく『けいおん』『ゆゆ式』的な世界観への感受、トレーニング、なんというか、そっちへ努力とクンフーでシフトしてきたおっさんの感覚からすると、こんなに素直にビルドゥングスロマンが楽しめる日が来ようとは思いもよらなかったんですよね。この類型は、物凄くスタンダードなので、もちろん、いつの時代にも確固とした需要層がいるし、継続して続いてきています。たとえば、週刊少年ジャンプは、ずっとこれが基本です。別に、ある類型に対する答えをクリエイターらが探していようが、時代の感受性がどこにあろうが、「必要な需要」というのは決してなくならないものだからです。そのベースを基に、何をどう描くのか?それが時代性を反映するのか?ということが見るべきところなんですが、、、、いやーいま、成長物語が素直に戻ってきているターンなんだなと、感じます。


さて、もう少し個別の作品論ですが、僕はこの作品を見て、男の子が普通に頑張って成長すると、自然とハーレムって形成されるものなんだなって(笑)って、驚きを持って見ています。なんというか、ベルくんが、ハーレムを形成していくのが、あまりに自然で(笑)、、、感心しております。これも、文脈読みで、とある魔術のインデックスの上条さんを初めて見たときに、女の子の救済をしてしまって、その子に惚れられて寸止め状態で「その子との物語」を倫理的にとどめるのは、おかしい!と僕は、告発しました。その後、平坂読さんの『僕は友達が少ない』で、それがめっちゃくちゃ告発を受けるところまでこのハーレムメイカーの物語類型は進んでいくのですが、、、、この基本に、やっぱり、ハーレムを作ろうとする物語圧力=売れるためにはいろいろなタイプの女の子を出してチヤホヤされたいという男の子の夢をベースにしないとだめだよね、、、しかしそれって、さすがに気持ち悪くないか?、、、それになんといっても、女の子の視点で見たらそれっておかしいだろ(ヒロインの逆襲の類型ですね)という、問題点の展開がありました。その結果、様々な作品の結論に分岐していくのですが、、、、、


僕は、ベルくんをみていて、、、、なにこの自然なハーレムっぷりは!と驚きました。というのは、何が自然かというと、これっておかしくないよね、と思うのです。これいろいろな友人と話す時に、どんなの時にモテ期が来たのか?という話をしていると、みんな口をそろえて、仕事が最高に油に乗っていて、女の子に興味がなくて、仕事がたしくて仕方なかった時!と答えるんですよ。僕の周りにこの答えの率が多いんですよ。ようはね、上記のハーレムメイカーの、女の子をうっかり物凄い試練の解決のついでに救済しちゃても、それって、「ついで」なんですよね。しかも、目指すべき目的、憧憬があるので、物凄い鈍感になる。この鈍感さは、目的がないところでやられると、物凄い卑怯な野郎になりますが、ベル君のように、憧れの対象に向かって全力疾走している時って、そもそも余裕がないので、周りの人間関係に凄く鈍感になるんです。こういう目的意識で生きている人は、空気を読まないので。空気とは、人間関係の機微と力関係ですからね。しかも、ヴェルフ・ロッゾがすぐ出てくるところから、ちゃんと男の子同士の関係も描かれていて、非常にバランス感覚もいい。ああなるほど、ハーレムメイカーって、この成長物語が持つ、長期的な視点での目的意識がきれいに描かれていないところ(=永遠の日常)で描かれると、非常に卑怯な感じになるんですが、描かれていると、なんか納得するんだなって、これもびっくりした気づきでした。だって、女の子のことなんか、かまってらんないでしょう?仕事が忙しいと(苦笑)。それが、成長期にある少年的世界観なんだだろうと思います。そして、こういう前へ向いている男の子が、もうそりゃーオーラが出るほど魅力的で、別に女の子に限らず、みんなくらっくらしちゃうんですよ。僕、これ見ていて、もっとも、かわいい!!!と思うのは、ベル君ですもん。男の僕が見ても(苦笑)。これ、その他の女神が、彼を自分のものにしたいと思うのは、非常にわかります。こんなダイヤモンドの原石みたいなもの見せられたら、汚したい!!とか、壊したい!!!とか、自分のものにしたいっ!!!とかそりゃおもいますよ。


ただ、それにもまして、おおっ!と思ったのは、ヘスティア様です!。これって前にも書いたんですが、ようは「お母さん」的ポジションなんですよ。というか、もうもうことなき、ママですね。そして、人は、こういう絶対的に自分を守ってくれる安全圏を持って、はじめて、強烈な試練に、なんの確約も準備もできていなくても前に踏み出せるんですよね。このマターなるものの絡め取りの地獄から抜け出すってのは、日本社会に伝統的な物語の類型なので、この話に敷衍することもしたいところですが、今日はそういうマクロの話はやめて、、、、でもね、そうはいっても、ヘスティアさまも、等身大でベル君のことが好きじゃないですか?。このことと、ベル君の憧憬が、女の子であるアイズちゃんと対等になった時、追いついた時に、どちら選ぶか?というのは大きな課題となると思うんですよね。その他のストーリーは、試練の途中で偶然生まれたということにできると思うんですが、、、この二人は、どちらを、どう選ぶか?という点は、物語の根幹にかかわる部分です。特に、母なるものである、ヘスティアをどう関係づけるか?というのは、この物語の柱を成すドラマトゥルギーなので、気になります。お母さんだから、いいよね?ってのは、あんまりじゃない?(笑)って思うんだけど。ちなみに、アイズ・ヴァレンシュタインは、憧憬の対象なんで、これは一度地に落ちる必要があって、それが落ちた後、対等の等身大として関係性を見つめ直して、それでもアイズたんが好きか!という問いに答えて初めて、恋人になるんだよね。こういう話は僕は見たいです。あと、こういう目的に生きている子は、男女問わず生き急いでいるので、自分を手段を楽しむことのできる等身大の幸せがありうるということが見失っているので、そういう子を自分の手元に引きづりおろす話は、とっても見てみたいです(笑)。まぁ、描けるかわかんないけど、こういう子は、やっちゃわないとだめだよ!ベル君!!とか、ちょっと思ってみたりする。


まぁ、まだまだ物語は続きそうなので、小説をコツコツ楽しみます。それに、きっとこれって、悪くなければ、2クール目もありそうだし。


外伝でアイズたんも読んでいます!。

ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか外伝 ソード・オラトリア (GA文庫)