どうしたって救いようのないものを救えるのか、それを描く価値はあるのか?という問いからちょっと考えてみる

無職転生 〜異世界行ったら本気だす〜 2 (MFコミックス フラッパーシリーズ)


先日、無職転生が、最終回を迎えました。感無量です。ずっとずっと追っていたものなので、いやー感無量です。リアルタイム性っていうのは、この深い感慨と、終わった時の喪失感がたまりませんよねー。こればかりは、最前線で、リアルタイムで追っていないと味わえない、なにがしかのものだと思うのです。なろう的にもダントツの長期一位の作品が、こうして長き果てに完結するというのは、特にえたるものが常套化している昨今、いやー凄いことだと思います。Webサイト「小説家になろう」にて2008年から『魔法科高校の劣等生』が連載していたこととか、もうなんちゅーか歴史ですよね。まぁ、そんなこと知っていて、リアルタイムで経験していたからって何か、意味があるのか?お金になるのか?といえば、そんなことはないのかもしれないですが、やっぱ歴史をリアルタイムで抑えているのは、この領域で生きる!と決めた人にとっては、うれしいことです(笑)。


それと漫画の2巻が出ましたね。凄い長い物語なので、どこまで漫画化できるのかわからないのですが、これフジカワユカさんはまりですねー。主人公のキモオタニートのおっさんは、もうそれだけでかなりグロテスクで下品で気持ち悪い設定なんですが、きっとこれを、男性漫画家の視点で書いたら、ちょっと感情移入が厳しいぐらいな感じになったんだと思うんですよ。小説も、あれは小説で画像がないから上品に抑えられて医らのであって、設定的には難しいものだったと思うんですよ。でも、フジカワユカさん、、、いや名前では判断付かないかもですが、この人女性ですよね?。とっても上品にしあがっていて、見ていて物凄く心地よいです。漫画もめっちゃくちゃ上手いですし。エピソードの拾い方が秀逸。これ、漫画だけ見ても、十分わかると思うんですよね。素晴らしい出来です。特に、エリスの家庭教師編は、僕は大好きだったので、凄いグッときます。エリスめっちゃかわいいしー。ツンデレ類型のいい物語っすよね!。野生の獣をてなづけるのって、好きです。それ「デレ」は金で買えない!など、あまりにわかっている作者の名言は、ほんとうにいいっす。

無職転生 - 異世界行ったら本気だす -』  理不尽な孫の手著 異世界転生の日常やり直しセラピー類型の、その先へ
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20131105/p1

なので、日常をやり直す、というポイントにドラマトゥルギーの起伏をつけるとしたら一つか論理的には思い当たりません。それは、前世で失敗した人生の失敗をどれだけ噛みしめるか、ということです。それなくして、人生をやり直しても、それは安全な繭の中にいるだけの妄想でしかありえず、どこかで行き詰ってしまうからです。しかし、それはすなわち、この『人生をやり直す』=高見から失敗しない方法をすでに知っている高みからの視点の放棄、ということでもあります。とてもなろう的フォーマットでは、矛盾しているし、そもそも選べない選択肢なので、相当の傑作にしか選べない道筋です。


さて、、、、終わってみて、、、、はーーーと感慨深かったのは、やっぱりこのへんのクリエイターのテーマって、重なるものがあるんだなーっていう感じでした。孫の手さんが、そういう意識で書いていたのかはわからないのですが、僕は見ていて思い返すと、やっぱりこの物語って、ラジオで当時云っていた「どうしたって救いようのないものを救えるのか、それを描く価値はあるのか」ってテーマに重なるよなーって思うんですよ。青井硝子さんが、このことをおっしゃっていて、そうかーみんな気にするんだなーってなんか実感したんですよね。


これは、『無職転生』全編読めば、みんな感じると思うんですよね。ルーデウスくんの存在って、たぶんこの無職転生の世界の物語的に言うと、「どうでもいいこと」だったんだろうとおもうんですよ。ただ単に偶然で間違って、この世界に転生しただけで、選ばれているわけでも、主人公ですらなかった。明らかにそういう描写ですよね、この無職転生の物語のマクロ的な位置づけでは。けれども、僕の上記の思ったことで、


日常をやり直す、というポイントにドラマトゥルギーの起伏をつけるとしたら一つか論理的には思い当たりません。それは、前世で失敗した人生の失敗をどれだけ噛みしめるか、ということです。


このへんを転生系、人生やり直しのチート系の物語で、ここをポイントに置くというのは、当時の記事を読んでいただければわかると思うのですが、やっぱり、人はだれでも堕ちる可能性がある、けれども落ちたそこから救済されるにはどうすればよかったのか?を思考実験することになると思うんですよね。無職転生は、セラピー系の物語が人生やり直しの転生系には多いよね、とある種批判を込めて言われることへの、構造的なアンサーになっていて、それでぼくは上記の記事を書いたんですよね。いいなーって。なにがいいかって、もし、ボタンの掛け違え(偶然)があったとしたら、なにがかわったのか???ということです。きっかけはどっちの流れに物事が進むのかの小さな差ですが、ルーデウスがその後転生で間違えなくて人生を「全うすること」ができたのかを考えれば?、わかると思うんですよ。彼は要所要所の人生のポイントで、様々な「決断」をするんですが、それがすべて過去の反省が反映しているんですね。異世界行ったら「本気」を出す、、、というように、その本気は、最初のころはとても小さく、それが人生の年齢が減るごとに重く難しくなっていきますが、その決断の積み重ねが、彼の次の重い決断を支え、正しく導くことになっていきます。人生というのはこういうものですよね。そして、いったんプラスの方向へ積み重ねのクンフーのフィードバックが、はじまると、それはもう余人には到達できないような深さ重さになっていきます。なので、途中から見ると、もしくはかなり積み重なってしまった後の姿を見ると「そんなことおれには出来っこねぇ」的に感じるでしょう。でも、人生全体を通すと、偶然に始まり、小さな積み重ねが大きくなっていくことになります。もちろん、ルーデウスは、かなり最初の時点から、素晴らしい両親に、魔法の才能に問チート的には恵まれていたかもしれません。でも、あの程度はチートでは僕はないと思うんですよね。結局、その程度のものを生かすも殺すも、その時々の小さな判断の積み重ねだったからです。


無職転生 〜異世界行ったら本気だす〜 6 (MFブックス)



これって、転生前の惨めなニートとの対比だと、凄い鮮やかに感じると思うんですよ。



そして、これって、結局、その人の人生の差は、その人が積み重ねる小さな判断の差が大きく積み重なっているんだ、ということが実感できる物語になっています。僕はそう感じました。もちろん、正のフィードバックに入るか、それとも負のフィードバックに入るかは、偶然に支配されますし、自覚亡き幼少期に訪れるものなので、そこが苦しい!おかしい!不公平だ、と駄々をこねて文句をいうこともいえると思うんですよ、この説得のパターンでは。そこは、やはり偶然でどうしようもない。結局は、本人の自覚の問題だというのは、同じクズな人生を送ったルーデウスの前世が、それほど性格は変わらないのに、自覚を持ったことによって、様々な人生の困難に打ち勝っていく、受け入れていく姿を見れば、、、また、幼少期からフルセットで見せられると、僕は、ああ、これは普通の人にだって難しいことではないって思えました。ようは、自覚の有無で、こんなにも人生は変わるんだ!!!って僕は凄い切実に思いました。構造的には、偶然の連鎖から抜けられないのでチートな物語だという批判はかわせませんが、このルーデウス君の全編の人生のクロニクルを読んで、しょせんチートだろ!という人は、僕は素直さが足りないと思うのです。


というのは、父の死や、心が折れそうな英雄との絶望的な戦いの中で、彼は何度も心が折れかかりながら、鼻水を垂らしながら、何とかそれを乗り越えていきます。勝負所で、すべて逃げていないですよね。勝負所とは、勝負に勝つことではないと思うんです。父の死を受け入れる時、たとえ物凄い強い敵と戦っていて勝てないことがわかった時、、、それでも人生の分岐点で、ここで逃げたらたぶん人生が終わってしまうだろう、、、自分の好きな人の期待に応えられないだろう、、自分の大事なものを守れないだろう、とするならば、ここは勝ち負けには関係なく殉じなければいけない!と腹をくくるシーンがたくさんこの作品には出てきます。僕は、そのルーデウスくんの生き様に、ぐっときます。その彼の悩みと決断は、彼のものであり、本物であり、そしてチート設定によってもたらされたものではないと僕は思うからです。そこには自由意思があって、けっして、単純にチートだから正しい選択ができたというようなご都合主義ではない物語の内在性が僕には感じられます。難しくいっていますが、自分が感情移入して、自分の身になってみれば、この決断って、才能があったり、能力があったり、恵まれていたとしても、簡単にできるものではないよな、って思うんです。物事の決断の時は、万人に訪れます。そのマクロの裁きを受けるときに、結局は、人ひとりとしての裸の魂の決断が要求されると思うんです。小さな嫉妬を脇にやって自分を捨てられるか、とか。怖くて泣きそうなときにも、自分の大切なものを考えて、自分を捨てられるか?とか、、、。決断の時は、だれもが徒手空拳でなんのチート的なものがないところで、試練が試されます。それに小さく、小さく答えていくときに、それが積み重なって、大きな力となっていき人生の物語を紡いでいくのだと思います。


そして、この無職転生の物語は、先ほど書いたように、ルーデウスの人生は、どうでもいい無駄な偶然でした。しかし、彼がただ、彼の人生を、ちゃんと生きる、、、それを成し遂げたことによって、彼自身の人生は特に変わるわけではなかったのですが、後のこの世界全体のマクロに影響世を与え、ヒトガミの支配する世界の仕組みを打ち破ることになるわけじゃないですか。ルーデウスは、英雄でもなければ、この物語の本当の主人公でもない脇役でした。けれど、この物語は、「それ」がなければ、この物語の本筋の物語が、本筋として成立しないわけです。世界ってこうだよな、と僕は思うのです。そして、自分の人生をまっとうに生きるということは、こういうことなんだって思うんですよ。たとえ英雄じゃなくとも、主人公じゃなくとも、自分を全うして生きることは、僕は素晴らしいことだと思いました。いや本当に素晴らしい物語でした。ちなみに、この英雄になれなくても、主人公になれなくても、人生を精いっぱい自分を主人公として生きようとするとどういうご褒美があるか?って話なんだと思うんですよねー。素晴らしい人生でしょう?。物語的には、マクロ的には成し遂げた結果も見れないし、意外にしょぼい(くみえる)ルーデウス君の人生ですが、本人全く大満足で、なにひとつ愚痴がないでしょう、最後の最後の人生で。素晴らしいなった!って思いました。



「どうしたって救いようのないものを救えるのか、それを描く価値はあるのか」この問いに即して言うのならば、やはりこれは自助努力系の答えなのですが、救えないということはない、自分が一歩踏み出せば、ボタンのかけ違いをこのように変えることができるのだ、という話だと思うんですよ。物語としては、最高級の、素晴らしい物語で、僕には納得性も物凄いあると思います。けれども、抽象的に言えば、やはり本人の努力によります、という答えと変わりません。そこは、典型的といえば典型的な王道の答えで、その他はないのか?とは思うんですよ。


えっと、まーそれと、このテーマって、いろいろ意識されているのだなって思うんですよ。


『異自然世界の非常食』 青井 硝子著 めっちゃグロテスクで目が離せません(笑)。これ、凄いSFですね。
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20150418/p1


ここでも書いたんですが、この方ははっきり意識して書かれているようですが、僕は、この問いかけから来る物語構造やキャラクターの在り方はとても似ていると思うんですよね。もちろん設定が全然違うので、全く違う物語になりますが、、、、引きこもりで社会に順応出来ない主人公が、異世界に飛ばされてもう一度人生をやり直すという設定は、とてもパターンでしょう?。これが、主人公の成長物語になるだけではなく、書き手のルサンチマンへのセラピーになるというのも、構造的です。そして「そこ」が受けるし共感される、入り口になるというのも、とてもエンターテイメント的です。




これ、まぁtwitterで公開されているので引用してもいいかって思うので引用するんですが(笑)、僕は、『異自然世界の非常食』読んでいて、感心したんですが、、、、なんでそこでもうひと踏ん張りしないかな!と思うような転機が訪れるときに、そん時に「こそ」ベットにこもって主人公は引きこもるんですね(苦笑)。


僕は、まだうまく文脈に位置づけられないんですが、たしかに、本当に人生失敗してしまった時とか、自分の気力を根こそぎ壊される時ってのは、あるもんなんですよ。。。。僕は運よく生き残っているし、人生にも失敗しませんでしたが、長く生きていればそういう時はあるものです。それが人間だと思うんです。そして、そういう時に、「がんばれ!!!、おまえならできる!!!」とかいうポジティヴな励ましって、物凄く有害なんですよね。ね??ね???そう思いません。いまでもぼくは、自分が打ちひしがれている時に、大丈夫だよ!とか言われるの嫌いです。だって、何を根拠にそんなこと言うのだ!!!と怒り狂いそうになりますもん。何度か記事に書いているんですが、ポジティヴな意思とか励ましって、たいてい有害だよなって僕は思っています。論理的には、長いスパンで考えると、そんなに間違っていないし、正しいのですが・・・・これ、言われると腹が立ちません???(笑)。僕は、ドーピング自己決断ナポレオンヒル的勝つこと至上主義思考停止脊髄反射(テキトーです、いま考えた)とか、よく呼んで蔑んでいます。だいたい、本当の励ましって、その場にいてくれるだけでいいことも多いし、、、、もっと行くと、とにかく一人にしてほしいって感じになるんですよね。なので、ぼくは一人でこもってアニメ見るか寝ます。いま風邪でボロボロなので、部屋に引きこもって、ふて寝しながらなろう読んでいました(笑)。そうすると、少しづつ心が復活する気がするんですよね。


なので、僕、この主人公のこの行動は、見境なしにコントロールできないでやっているので、ああ人生失敗するだろうなぁ、、、とは思いますが、人としてはとても共感します(笑)。別に僕も変わりません。ただ、どこで引きこもって内発性をカットして心をバリヤーするかと、逃げてはいけないとき、とのうまく組み合わせているだけです。このような自己コントロールは、そうとう大人になっていろいろな体験をしないと、なかなかできるものではありません。20代ぐらいまでは不可能だといってもいいと思います。だから人生が、いろいろ波乱万丈に動くんですよ、若い時は。

異自然世界の非常食 1


えっと、僕は上記の記事で、この問いに対して生態系の一部として、ヒューマニズムを放棄することで打開策を見つけちゃうというSF的ドラマトゥルギーの構造を見ました。また、どうもセラピーとしては、内発性のカット!!!(これ物凄い有用な概念で、大発見です!!僕的に)という概念をお話していて見つけ出しました。


実は、、、、この「どうしたって救いようのないものを救えるのか、それを描く価値はあるのか」ってテーマってのは、僕はとても興味深い展開を見せている気がするんですよ、、、、ってのは、僕の心の中で(笑)。


ってどういことかというと、LDさんとのラジオを聞いてくれている人は、数年前に、僕がこのテーマに結論を出したのを覚えていると思うんですよね。今年のラジオでもいっていると思うんですが、それは、少なくと現代(2010年代)の「救いようのないもの」を考えたときに、もう社会的には切り捨てられるだけで、もうまったく省みられないので語るだけ無駄だ、と。自分で自分を助けるしかないのだから、無駄な語る暇があれば、どうやってそこから抜け出すかを考えるだけです、と。ようは、社会、マクロの側に「その層」を助ける動機や理由はなくなってしまっているので、マクロ的な構造変化が訪れない限りそこは確実に無視されるであろうという分析をしたんですね。


この結論は、いまも全く変わりませんし、まさにその通りだなと自分でも確信しています。時代はまさに、そうなっています。


そんで、、、いま、風邪でボロボロで引きこもっていたので本を読める!と思って、下記の大前研一さんの本を読んでいたんですが、、、、


稼ぐ力: 自分の仕事に「名札」と「値札」をつけられるか (小学館文庫)


・・・・・なにも疲れ切って凹んでいる時に読みやすいからといって、こんな、よけい凹むような成長至上主義な本読むなよおれ、、、とか思うんですが(笑)、たぶん、反対のものがほしくなっちゃうんですよね、僕って。難儀な性格です・・・・。そんでね、この本を読んでいると、もう、、、自分みたいなパンピーは生き残るのに、家族を守るのに必死にならなきゃ生きていけないな、、、って心胆寒くなったんですよ。もうガグブルですよ。別に韜晦ではなく、本当にマジで、怖くなりました。こんなんできねーよって、、、。なんかねー、、結果だけ見ると、僕もいまけっこういい身分な気がするんですが、自分が凄いとはどうしても思えないんですよねー。風邪ひいて熱出すと、こうやってひきこもってなろうとか読み続けちゃうし(苦笑)。なんか、いつもなんか起きたらやばいんじゃねぇ?みたいな感じがするんですよねー。やっぱり普通の人は、コツコツ頑張らないとやばいって、凄い思ったんですよ。それくらいしかできねーもん。そしてね、、、、僕ぐらいそれなりに頑張って生きている人間が、それでも世界って怖い!、がんばらなくちゃって!!!心底頑張るんですよ、たぶん。そりゃーね、、、内発性カットしている人とか、勝てるわけないと思うんですよね(笑)。そんで、こういう次元で世界のマクロを眺めると、そりゃー内発性なくて社会に参加動機ない人間を、社会が助ける方向にはそんなに動かないよなって思うんですよ。なので、上記の僕の、もう切り捨てられるしかないという結論は正しい分析だと思うんです。


・・・・・・・・でもね、これ面白いことに、そうして腑に落ちて、納得したんですが、、、、納得して腑に落ちた後、、、少したって、もうこんな設定自体も忘れ去って、どうでもいいことだって、切り捨てきった後に、、、、あれ、、、なんか、ここ重要な気がするぞ???って思い始めたんですね。最近。言っていることが伝わるでしょうか?。つまりですね、ある種の区切りがついて、もうそういう事実が世界には端的にあるんだな、グランドルールなんだなと思って、それが心に定着して少し経ったときに、もしかして、その先があるんじゃないのか?って思えてきたんですね。そんで、クリエイターの友人たちと話してると、みんながみんな切り捨て説にはほぼ賛成するんですけど、同時に、でも何とか救えないか?って話になるんですよ。これ僕も不思議で、、、このわかるよ!!・・・・けど、、、という論理展開はなぜ起きるんだろう?って思っていたんです。社会的に意味がないので、たぶん物語のテーマにならないのはわかっているんですよ、けど、そこが重要という、ダブルバインドな意見。これはなんだろうって?。



これって、たぶん、いったん、こういして納得して、もうその話は終わったので、この話はどうにもならないのだ!という絶望を感じないと、この話ったダメなんじゃないかって僕は思うんですよ、最近。実はこのへんの心理の動きは、昨今(今2015年)の物語の最前線と凄くリンクしていて、僕はいくつか具体例が思いうかぶのですが、その説明は今度に譲りましょう。ただ、これは重要なポイントだと僕は思っているのですが、、、この「どうしたって救いようのないものを救えるのか、それを描く価値はあるのか」という設定の問いには、甘えがあるようなんですよ。そして、甘えがあるうちは、この問いはほとんど無残に切り捨てられるようなんですよね。世界には、限界があって、予算があるわけで、何でも救えるわけではないからです。ようは、この問いには、どっかに救済があるんじゃないか?、誰かが助けてくれるんじゃないか?という甘えがあるようなんです。その甘えは、一切切り捨てられる問題設定なんですね、これ。


たとえば、青井さんの作品は、生態系の下位に自分を位置づけちゃうってのは、もう人間として救済されるのをあきらめちゃっているってことなんですよ。だって、寄生蜂に食べられて苗床になってもいいって受け入れは、もう人間的な救済をあきらめているでしょう?(苦笑)。そして、この物語もそうですが、物語は「そこ」から始まるのですよ!。どうもこの問題設定には、甘さがあって、そこを乗り越えたところでしか、次のドラマトゥルギーが発生しないようなんですね。なので物語作るときに、この絶望をどう描くかは、橋渡しには必須になってくるような感じがします。また、最近の最前線の物語は、もうこの絶望は前提として、進むものも多いような気がします。言い換えれば、この問題設定は、既にもうかなり古くなっているんだと思います。ニートとか、そういう社会的弱者をどうのこうのとかいう話が、既に社会のマクロの変化で違うステージになってしまっているように。



そんなことを思った今日この頃でした・・・・・・全然風邪が治らなくて、のどが痛いです(涙)。



と言いつつ、こんな記事書いている、僕はアホです。わかっているんです(苦笑)。。。。。