『ベイビーステップ』 43巻 勝木光著  心のコントロールが、結果に、勝負に、人生に影響を与えていく様を

ベイビーステップ(43) (週刊少年マガジンコミックス)

評価:★★★★★星5つ
(僕的主観:★★★★★5つ)


相変わらず超ド級に面白いんですが、この作品、実は僕驚いていることがあって、もう43巻までいっている超長い作品だってことですよ。なのに、「長い」という感じがしない。それが凄い、と思うのです。


「長い」と感じてしまうのは、いくつかの構造的なものがあって、まず一つには、20巻も越えてくると、密度的にスカスカになってきたり、逆に伏線が複雑になりすぎて、もう一回、見直すのしんどいなとか、全体をとらえるのが「見通せ」無くなって全体感が失われていくからだと思うんです。もちろん何度も読み込んでいるファンならば、そういうこともないのかもしれないのですが、連載が長期にわたって、たぶん3年も越えれば、人生も皆変わってしまうので(中学高校生なら卒業しちゃうほどにね)なかなか同じように物事を見なくなってしまう。そういった中で、この作品は、まったく僕には「長い」という感覚を抱かせない稀有の作品です。


色々な分析ポイントがあるのですが、一番大きなことは「目的(=ゴール)がどこにあるかわからない」ことだと思うんですよ。


これは重要なことで、通常、物語で、イグジット(最終到達地点)がないってことはあり得ないし、そこに向かって構造がつくられないといけないんですよね。なぜならば、その物語が何のためにあるかわからなくなって、だれてしまうので、構造上の到達地点は、必須なんですよね。でも、スポーツものだと、地区大会とか、全国大会とか、そして世界大会とか、要はランキングトーナメントを勝ち上がっていくという「山場」を想定するんですが、それを超えてまた、山が現れて来るうちに、なんか読むのがめんどくさくなってしまうんですよね。ようは同じことの繰り返しか、と。でもこの作品には、その目的によって、山場を作り出して、それで人を物語のダイナミズムに乗せるという典型的なドラマトゥルギーが駆動していないんです。なので、そういう同じパターンの山場の繰り返しによる「飽き」が起きにくい。


最初のころの記事で書いているんですが、えーちゃんってのは、目的に生きていないんですよね。熱い志があって、目指すべき憧れがあって、それに向かって人生をモチヴェーションを駆動するの「のではない」ところにこの漫画の、そしてキャラクター造形の「新しさ」があると僕はいいました。大きなトレンドとして、この「新しさ」が、一つの大きな流れとして存在しているは間違いないと思います。別に書こうと思っているのですがラジオでしゃべったのですが、鶴巻和哉監督の『龍の歯医者』の男の子も女の子も、旧世代の宮崎駿庵野秀明に比較すると、自意識の在り方が、凄い弱い。というか、「運命を受け入れている状態」であることに疑問を持たないという言い方になるんですが、それを「弱い」というかは微妙なところで、強い目的意識を持つ宮崎駿の主人公に対して、それでいいのか?と疑問を持ち悩み続けてすくんで動けなくなっていくのが、押井守庵野秀明という後続のクリエイターの系譜なんですが、その後になると、そういった「疑問自体」を持たないで、あっけらかんと世界に対する姿勢を持つようになるんですね。僕は、『フリクリ』とかの話で、意味を無視する無意味系みたいな言い方をしているんですが、自意識の問い自体をめんどくさいのでやらないという「意味自体を無視する感性」と読んでいます。けど、じゃあ、これを、庵野さんみたいに「逃げ」ととらえて弱者の自意識(シンジくん)としてとらえるかというと、そうではない。『トップをねらえ2!』の主人公ノノが僕は凄く連想するのですが、今回の『龍の歯医者』の主人公の野ノ子もそうなんですが、意味自体がないこの世界を、意味ある(=目的と関連付けられている)物語を生きることではなく、目の前の手ごたえを実感として生きる強度へシフトしている感じ。なので、この世界に意味は目的はあるか?それは正しいか?というような自我の問いを彼女たちは発しません。構造的に、彼女たちは、厳しい世界の不条理の世界に生きていて、運命を受け入れてさえいる矛盾おなかにいて、それが人生を支配しているのですが、そこに、思い悩んですくんで動けなるということがありません。なぜならば、生きるのに意味や目的ではなく、実感の積み重ねを信じているからです。これはこれで、世界の意味の連なりに対しての鈍感さなので、いいとばかりは言えないですが、そんな感性がいい!というのが、鶴巻監督のキャラクター造形ですよね。


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えっと、このラインで考えると、えーちゃんの「目の前の一歩一歩」を克服して解決していくことが、大きな目的へとつながっていく感じでは、そっくりだと思うんです。鶴巻監督が描くようなあっけらかんとした女の子ではなく、少年で、しかも考えすぎな考えるタイプの主人公でありながら、「こういう感性で生きられるのだ」というところに凄さがあると僕は思っています。えーちゃんが、なぜテニスをやっているのかといえば、端的に「楽しい実感」があるからです。その楽しさは、本当に小さく分解されていて、それこそ最初のころはラケットの正しい持ち方で、きれいに打てた!!!というだけで喜びになっていて、そういったこと…手ごたえの、実感レベルのことを「解決」して前に進むこと「そのもの自体」が楽しいというふうになっています。物事を習得して、プロフェッショナルになって、成功していくためのすべてのプロセスはこれで、具体的な「手ごたえ」の次元に分解された小さなステップを極限の繰り返しに耐えうるか?どうかで、これを耐えるのではなく、楽しめる人だけが、遠き道のりを制覇して、レベルを超えて成功へ、勝利へを人生を導きます。僕らがずっと言ってきた、目的や志、動機ではなく、クンフー(=小さなことの積み重ねを極限に繰り返し続けること・飽きることなく、それ自体を楽しみ続けること)を積むという話です。



ベイビーステップ(37) (週刊少年マガジンコミックス)



にもかかわらず、この手ごたえを積み上げていくうちに、テニスによって人生を極めていくことがどういうことか?の構造がたちあらわれてきます。既に、


「フューチャーズ、チャレンジャー、マスターズ、グランドスラム、、、、全部・・・・出たいです」


という風に、既にこの世界にあるすべてのスコープが、えーちゃんの中にはセットされています。でも、これ自体に優勝することが目的でもゴールでもないんですよね。はっきり言っているんですが「テニスをして生きていきたい」と思っているだけなんです。この違いが、全く違うものであることはわかりますか?。例えば就職活動で、三井物産に入りたい!とか、電通でもトヨタでもマッキンゼーでもGSでもいいんですが、ブランドに入りたいっ!とおもうのは、いま長く仕事をしている僕からするとナンセンスなんだなーというのが、よくわかってきました(若い時は、そういうもんですけどねぇ(笑))。そうではなくて、一度しかない人生で、「ずっとやり続けても飽きないで楽しめるもの」そのプロセス、作業、クンフー、日常ってどんなのものか?と問うべきなんです。就職でもね。要は時の長さに耐えうるものは何か、、、そして、その「手ごたえ」のレベルを上げ続けていると、世界がひらかれてくるんです。僕も仕事をしていて、なにが好きかって、そういう分析したり管理したり事業を動かしたりそういったことが好きで、別にお金がそれほど高くなくとも、ブランドがなくとも、出世しなくても、評価されなくても、まぁ、「そのプロセス」自体をやり続ける無意味な(=目的と関連されない)ものであっても、日常は楽しいです。でも、10年とか20年とかやり続けていくと、あれ、、、、これ世界に通用するな?とか、どうせならばもっとハイレベルで、もっと高いテンションでこれをしたいな、とか思ってくるんです。成長というのかもしれないですが、個人的には、自分自身でやったというよりは、何かが訪れてくるというか、開かれてくるというか、偶然落ちてくる降ってくるようなもので、もともと「そこ」にあった存在が、ふとした拍子に視界に入ってくるような感じです。


こうして現れた「目的」には、目的の奴隷になる!というリスクがないんです。


えーちゃんは、一つ一つのステップを現実的にクリアしています。プロになる時に、大学に進学するか(推薦がたちあらわれてきた)、それともテニスのコーチになってとか、人生をずっと続けていく算段を凄くリアルに考えていましたよね。これは、どの段階になっても最優先順位が、目的を達成する(たとえばグランドスラム優勝!とか)ことではなく、テニスを楽しんでいきたいというプロセスへのコミットになっているからです。


長くて飽きるのは、目的の奴隷になっている場合だと思うのです。物語はすべからく人生であって、物語に飽きるというのは、そういう物語は人生に飽きやすい形式のドラマトゥルギーであるとも言えると僕は思うのです。


だから、43巻になって、全然飽きない。そうしたプロセスへのコミットをし続ける充実感を、物語として描くのは、勝木先生、素晴らしいです。だって、」充実感というのは、没入感のことで、それは無時間性のことです。コミットして集中することによって、時間が消失するような感じになる忘我の状態なわけです。しかしながら、物語、という形式は、時系列によって駆動され表現されるシークエンスの連なりなわけで、「時間のつながり」を描かないと物語が進まないんですよね。なので、この忘我な状態との相性がとても悪いのです。それが描けていてバランスがとれているから来い祖、43巻いなってもまだ全然飽きないし、面白いんだと僕は思います。



それとね、これが人生をうまく描けているなーと思うのは、こうしてプロセスにコミットしながら、それを繰り返してくと、壁にぶつかっていくことです。繰り返せば、成功することが保証されているわけでは、もちろんないからです。クンフーをしているだけで、強くなったりはしません。常に工夫と目的意識、生産性が極限までないと、「手ごたえ」を、いまここにあることを充実して楽しむことはできないんです。そして、高いレベルでの充実がなければ、世界は全く開かれないんです。そこにドラマと葛藤が生まれる。


さまざまな生きる時のヒントが埋まっている宝箱のような物語です。


この巻では、ずっと低空飛行で行き詰っていたえーちゃんの積み重ねが、「結果」に結びついていく大会の話です。ワンウェイ戦とかもなのですが、ライバルたちの在り方が素晴らしくいいと思うのです。今の時代、中国人とか韓国人が出てきたら、色々ライバル意識を感じてしまうと思うんですよね。ナショナリズムの時代だし、それ以上に、スポーツというのは戦争の疑似体験みたいなもので、スポーツものは、国別対抗のトーナメント方式になるじゃないですか?。でも、実際は、日本人の選手がほとんどいないというのもあるんですが、テニスのプロでは、僕はアガシマイケル・チャンエドバーグ、レンドル、イバニセビッチなんかがヒーローでした。そこに、ナショナリズムを付与して、ことさらに日本を意識する必要はないんですよね。デビスカップのように国別のナショナリズムを煽るという部分も、全体の大きなテニスというスポーツの世界・生態系の中で、枝葉としてはあります。それによって、自分の出身の国のレベルが上がったり後続の育成があったりといろいろなつながりがあるんですが、それは「枝葉」の一つに過ぎない。錦織くんとか、NYで見ていると、普通に英語でインタヴューしてたり、CMに(アメリカのテレビでね)出ていたりと日本の文脈じゃないところに、自然に溶け込んでいて、もう世界のATPランカー、テニスプレイヤーの一員であって、日本人であり、国を背負うのは、そのワンオブゼムなんですよ。アスペクトの一つではあるんですが。

うーん、、、この感覚伝わる人と伝わらない人がいると思うんですが、僕もアメリカで働いてた経験で、世界がいっきに相対化したんですよね。世界と自分の中心が「日本人であること」ではなくなったんです。グローバルなソサエティの一員、人類の一員の中の一つの「層」or「相」として、日本人である自分がある、みたいな感じ。凄く重要な根っこで、自分のアイデンティティなんですが、それが、最表面まで染まり切らない。だって、テニスの錦織くんとかにとって、幼少期からアメリカで育って、アメリカでテニスのレベルを上げて、ATPツアーのプロである日常の方が、明らかに長く自然なんわけです、彼の人生にとっては。そういう文脈であると、たとえば、中国人である!といっても、ステレオタイプナショナリズムの物語が発動する前に、テニスの世界ツアーを回る同じ村の友達として、ライバルとして、「共通部分」の方が多く見えてくるんですね。そしてライバルとして、敵としての面も、重要なのは「テニスの次元での違い」が見えてくる。うーん、、、うまく言えないんですが、プロツアーを回っている、日本の友人たちも、クリシュナもピートも、なんか日本の漫画で海外の青い目金髪の留学生みたいな「マレビト」ではなくて、フロリダのアカデミーの同級生だし、文脈は日本的なもの(=学校空間的なものとか)とは違うけど、バランスよく背景の物語が埋まっていて、相対化されていってて、国籍は多様性の層の一つになっている気がするんですよね。おお、、、、日本も、ここまで来たのか、、、そして、それを実感できる自分も、なんて世界は変わったんだ、と思うんですよ。『Yuri on ICE!!!』なんかでも思ったんですよね。フィギュアの世界もそうだよなって。グローバルソサエティのプロフェッショナルのコミュニティに日本人が普通に相対化されていることに、何の違和感も感じない(なぜならば事実そういう人たちがたくさんいるという事実がゆるぎないから)。この中では、個性や実力が重要であって、国がどうのこうのは、その「相」の一つにすぎなんですよね。

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話を戻すと、ワンウェイ戦で、重要なテーマになっているのは、非常に似たプレイヤーなんですね、二人とも。その相手をどう切り崩すか、その真剣勝負が、物語の予定調和で描かれない。それぞれに深く思い課題があります。終わった後に、なっちゃんと「逃げないこと」がテーマであったことが離されています。逃げないって、では具体的にどういうことか?というと、「あえて苦しい選択肢」を選ぶということ。これがうまいなーと思うのは、具体的な試合で描かれることなんですが、通常の物語は、これが支配的なテーマになってしまったりするんですが、状況が、試合が、ステージが、相手が変わるたびに全部リセット感じで、毎回シャッフルされている感じがするんですよね。それは、テニスのプロツアーが日常であり、「そこで終わりのランキングトーナメント」一発勝負ではないからだと思う。うーん、うまく文章で表現できなんですが、このあたりは、下に紹介する錦織くんのウェブ日記をまとめたものを読んでいると、よくわかると思うんですよ。えーちゃんの生活と意識と凄く似ている。プロのツアープレイヤーってこういう風に日常を生きているのか、と感心します。


頂点への道


いやはや、テニス、面白くなってきています。USオープンには去年行けたので、その他のグランドスラムも行ってみたいなーと野望を持ち始めた今日この頃です。そういう風に楽しみが深まったのも、この漫画のおかげです。大好きです!。


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