『メアリと魔女の花』(2017 日本)米林宏昌監督 宮崎駿の後継者ではなくジブリアーカイブの後継者としてファミリー層の空白に答える

メアリと魔女の花 ビジュアルガイド

評価:★★★★4つ
(僕的主観:★★★☆3つ半)

宮崎駿の後継者ではなくジブリアーカイブの後継者としてファミリー層の空白に答える

ファミリー層向けの映画としていい出来だった。子供と行きたい作品ですね。ジブリの後継的ポジションで、ファミリー層を狙うというマーケティングのはっきりとした目的に、きちんと答えた作品。これまであったジブリのパーツを再利用、再構成してある一定したレベルを超えようとして、それは十分に成功している。スタジオポノック初作品として、プロデューサー西村義明さんと米林宏昌監督が目指したことは、僕はほぼ獲得されていると思う。興行成績がどれくらいかわからないが、個人的には、大ヒットは無理でも、そこそこまで行ってほしいと思う。なぜならば、宮崎駿庵野秀明級のメガトンの映画が10年に一回出るのではなく、2年に一回くらいの淡々と秀作が出るようなジブリテイストのファンタジー作品が量産されるのは、産業としてとても価値があることだし、そういう場があってこそ、様々なチャレンジができるようになり、裾野が広がると思うのだ。宮崎駿ではなく、スタジオジブリアーカイブの後継者として、頑張ってほしと思う。どういうイメージかというと、ドラえもんの大長編映画のイメージなんです。ポケモンでもいいのですが。藤子・F・不二雄先生脚本のような超ド級の魔法クラスが連発しなくても、その「場」があることは、これからの未来の子供たちにとっても、生産者にとっても、楽しいことだし、新たな傑作が生まれる基礎になると思うんです。そういう意味で、僕は、プロデューサー西村義明三の構想力にとても期待しています。これはもう監督の才能よりも、プロデュース力が勝負のものだと思うのです。

そんな中、旧ジブリのスタッフを中心として設立されたスタジオポノックは、自分たちがジブリの後継者であることを高らかに宣言した。
本作の「魔女、ふたたび。」というキャッチコピー、主人公の横顔を意匠したスタジオのロゴは、明らかにジブリを連想させるし、西村プロデューサーは、製作発表記者会見で「ジブリの血を引いた作品」と語っている。
要するにポストジブリの時代に、すっぽりと空いたままの旧ジブリのポジション、正確に言えば宮崎駿が担ってきた大衆エンターテイメント路線のポジションを、客層ごとそのまま引き継ごうという訳だ。
結果的に、その目論みはまずまずの成功と共に、呪縛をもたらしていると思う。


ノラネコの呑んで観るシネマ
メアリと魔女の花・・・・・評価額1550円
http://noraneko22.blog29.fc2.com/

何かを評価する時の基準はいろいろあります。この場合、西村さんが米林さんが構想したことにどれだけミートしているかを評価の軸に置くと、まずまず成功していると僕は思うのです。あとは売り上げだけ。子供に見せるに価値ある作品だと思うので、ぜひとも成功してほしい。実際、十分面白いし。ただし、やはりジブリアーカイブは、大きく、なかなか一筋縄ではいかないなと思う。呪縛、というのはいい表現だと思います。



宮崎駿のオリジナル性を希釈したアーカイブ仕様と、米林宏昌監督の持つオリジナル性の対比で見てみる

しかしながら、正直言って、自分自身の視点からすると残念だった。『思い出のマーニー』や『借りぐらしのアリエッティ』を見れば一目瞭然だが、監督は内面描写を繊細に追うのが得意であって、彼の良さが十全に出たわけではなかったので、見ている時は、かなり面白いが、読後感に残るものが弱い。それ故に、逆説的に宮崎駿のオリジナル性がどれだけ凄かったのかを、まざまざと見せつけられた気がした。脚本の完成度や物語としての終息度合いなど、米林さんの方が宮崎駿に勝っている。ジブリの破綻した作品の破綻ぶりは凄いからだ。なので、今回の『メアリと魔女の花』は、僕は評価は高い。ちゃんと物語が完成しているからだ。ただ、しかしそうした脚本の安定性を求めた結果、自分自身のオリジナルの狂気の追及が弱くなってしまったと思う。宮崎駿の破綻は、すべては自分のオリジナル性のエゴの部分を少しでも深め、積み上げ、なにかをぶっ飛ばしてやるという狂気から生まれている。なので、何度見ても意味不明だが、物語としての予定調和ををぶち壊すほどの「何か」が常に伝わってくる。

具体的に言うと、いろいろ視点があるのだが、今回のジブリアーカイブのパーツとして利用されている狂気のマッドサイエンティストの造形。マンブルチュークとドクター・デイという教育者が、ふとしたことで夜間飛行というエネルギーを手に入れ、人間性を失い暴走していく様は、まさに原発事故のメタファーで、ジブリ路線だ。けれども、宮崎駿の射程距離は、こうした表面の簡単に看破できるメタファーではありえないところが、凄まじいところなのだ。原発は危ないから悪いとか、欲望によって人間性を失うのは悪いといったレベルの一段低い人間理解や世界理解では、宮崎駿が常に到達している部分に触れえない。宮崎駿はその全作品で、兵器や戦争を嫌いながら、偏愛する兵器や武器マニアであり、キレイごとの原発反対などを叫びながら、だれよりも人間の近代へ駆り立てる狂気への深い愛と理解があり、それらの世界を救おうとする狂気の科学者たちとして描いてきている。こうした射程距離の遠さ、そして矛盾することへの深い振れ幅があってこそのマッドサイエンティストなのだ。明らかに宮崎駿は、世界をすこうとして原発など科学の闇や狂気に駆り立てられる人々に深い「共感と愛情」があって、自身を重ね合わせている。口では、それらはだめだ!ときれいごとでしゃべったところで、作品を見れば一目瞭然だ。その深い矛盾に引き裂かれているからこそ、キャラクターに破綻がありながらも、信じられない深みを与えてきたのだ。

さて『ハウルの動く城』に戻ろう。僕は、この作品の爆撃機による絨毯爆撃のシーンを見て、このシーンの、、、、なんというか「美しさ」というか魔力に魅了されました。作品としては、言いたいことがわからないイメージの奔流なので、特に見返したいとも思わないし、心にも残りませんでしたが、何か「その部分」だけはいつも違和感というか、引っかかりが存在していました。そして、戦争というマイナスでネガティヴなものへのなぜか感じてしまう美しさの憧憬もよくわかりませんでした。そう、、、それは美しいのだと思うのです。近代という名の魔力の美しさ。スペインの爆撃を描いたゲルニカは、ピカソが衝撃を受けて書いたものですが・・・僕は、やはり美しいと思いました。湾岸戦争の最前線の爆撃の映像出凄まじい爆撃がされている光が美しかったように。それは、マイナスのものであっても、人類の力だからです。そして人間の叡智が結集された技術の光だからです。近代のこの魔力の美しさを感じない人は、この部分は、嫌悪する部分でしょうね。たとえば、リーフェンシュタールの『民族の祭典』。これは大学の授業で、大画面で見ましたが、、、胸が震えるほど感動しました。しかし、、、これって、ナチス礼賛のために造られた映画なんですよね。。。。基本的に、巨大な構築物、建築物や、大衆の動物的脊髄反射を高揚させるマス演出などなど、、、近代に特徴的なテクノロジーとマスにライトアップを浴びさせるものは、人類の「凄さ」ってのを感じさせるんだろうと思います。そして、その「凄さ」ってのは、善悪の彼岸の力なので、非常に影の部分もまた色濃いんですよね。こういう美しさと陰惨さの組み合わせを持ったモダン特有の美と力は、いまだ人類を支配する大きな力でありエネルギーだと僕は思います。文脈的には、ナチス・ドイツドイツ第三帝国のモダンカルチャーがどうしてもその基盤になってしまいやすいので、なかなか肯定的には出せないものですけれどもね。

宮崎駿は、その本質で、モダニストです。WW2以降である我々は、単純なオポチュニストのモダニスト(=近代主義者)ではいられない屈折を持ちますが、彼は、その原初のスタート地点であるモダニストの、美しさ、気高さ、面白さ、凄さを十分い知りつくし、描き続けてきました。彼の壮大な物語の世界観は、常にこの究極のモダニストたちが、肯定であれ否定であれ、確固としたポジションで存在し続けます。このモダニストの美しさへの狂気と、それへの深い悔恨の組み合わせこそが、彼のコアの一つだと僕は思っています。以前に書いたことがありますが、『未来少年コナン』のブライアック・ラオ博士、『もののけ姫』のエボシ御前が、そのシンボライズされるキャラクターです。漫画版風の谷のナウシカにでてくる墓所を創りだした科学者たち、ラオ博士の科学者グループ、そのどれもが、科学の人類の英知で、世界を変えることができると信じたモダニストの究極の姿です。


風立ちぬ』 宮崎駿監督 宮崎駿のすべてが総合された世界観と巨匠の新たなる挑戦
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130802/p1

この設計主義的なるものに魅了されてきた近代の科学者の系譜は、宮崎駿の理解の重要なパーツとして僕はずっと書いているのですが、この文脈と射程があってこそ、マッドサイエンティストの深みが「宮崎駿的なもの」になるのですが、そのキャラクターの記号だけが利用されていては、僕には、まぁ、そりゃそうなんだけどね、としかいいようがなかった。人体実験をして、自分たちの生徒を殺してでも、それでも到達したかった理想は何なのか?ということへの愛と理解と、狂おしいほどの憧憬がなければ、単なる善と悪を分ける二元論に陥ってしまう。悪を倒せばいいとする善悪二元論は、それは多分、最悪の物語で且つ教育にも最高に悪い、と思います。狂気に走りながらも人類の最前線を駆け抜ける人々がいたからこそ、後の世代の人間の領域や権利は拡張してきたからです。その矛盾を描かずして、人間と世界は語れない、と僕は思う。



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■メアリがとても子供らしくかわいかった〜子供が本当に子どもらしく繊細に

様々な着目点はあるが、最も良かったと思える点は、主人公のメアリがとてもかわいかったこと。ほぼ宮崎駿スタジオジブリのパーツを再構成している中で際立って異なるのはそこ。どうかわいかったかというと、メアリが驚くほど短絡的で先のことが考えられていない。ある意味、物語の主人公とは思えないダメさ。これは、宮崎駿にはない、ルサンチマン(自分の赤毛を嫌っていて、ネガティヴな感情が動機の中核をなしているのは、宮崎作品にはあり得ない)を持つ性格設定と並んで、マイナスのように見える。けれども、それがたまらなく、かわいかった。オタク的な視点で萌えるとかそういうのではなく、何なのだろう?と思っていたのだが、これは自分が娘を見る時の視点だ!と途中で思いいたった。ようは、本当にメアリが等身大の子供なんだと思う。いいかえれば、子供の感情移入ポイントに、等身大に寄り添っているのだと思う。それが故に、たぶんそれなりに年齢がいっている人が見たら、ストーリーの力不足、キャラクターの魅力不足に感じるかもしれない。しかし、これを子供向けのファミリー層用ととらえると、悪くないと思う。気高く一貫性のある軸を持つ宮崎駿の主人公たちの、物語的ではあるが、まったく等身大ではない、子供らしくないキャラクターと比較すると監督資質の違いを感じる。たぶん、米林宏昌監督の資質からいって、メアリの内面をもっと丁寧に追ったほうが良かったと思う。この人は、内面の描写に才能がある人に感じます。それを無理やりマーケティングの路線にあわせて冒険活劇にしているのだろうと思う。アリエッティの時も思ったのだけれども、本当に少女が等身大の少女なのだ。メアリも、赤毛の自分が嫌でたまらないのだが、学院で赤毛をほめられているうちにすぐその気になってしまうところなど、とても子供らしい。ノラネコさんが言及しているように、内面を丁寧にリリカルな演出にしたほうが、米林監督の作家性が出てよかったと思う。けっこう激しく転んでスカートの中身が見えるんだけど(笑)、ちゃんとスパッツはいていて、監督が上品さにちゃんと基準を設けている感じがひしひし伝わって、それもよかった。目線が、本当に子供の目線。良くも悪くも、非常に上品で繊細な監督な気がする。ここで、パンツが見えないような恥じらいの動きを出すのも、そうすると年齢が上になってしまう。スパッツをはいているのが、妥当なのだ。この辺の思春期の微妙なラインが、凄い計算されている感じがするのは、米林監督は好きなんだろうなこのあたりの内面描写が、と思う。ただし、少年が全く描けていなかったなーとは思う。少年というか、この人は、そもそもがもっとネガティヴで、穏やかで、落ち着いた性格がそもそも好みなんだろうと思う。少年も、その感じが凄くするのに、冒険活劇のヒロインの相方にならなければいけないので、バランスを崩していた感じがする。

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■冒険活劇などのエンターテイメント路線の追及には常に善悪二元論に落ち込んでしまう罠がある

全体的に、完成度は高いし、ファミリー層をターゲットとするジブリアーカイブの後継者としての完成度は高いと思う。けれども、米林監督の作家性がうまく出し切れていなかったこと、宮崎駿的冒険活劇のエンターテイメント路線とのうまい接続点が見出されていないことなど、まだまだ課題も多い作品に思えた。けれども、課題があるということは伸びしろがあるわけで、ポノックの次回作品も楽しみだと思う。いやしかし、宮崎吾郎監督の『ゲド戦記』でも思ったのだが、エンターテイメント路線を追求して、かつ物語をある程度まとめようとすると、本当に簡単に善悪二元論に堕してしまいやすいんだなと、しみじみ思った。『ゲド戦記』はそれで酷いことになっているし、この作品にしても、やっぱり「そこ」の底の浅さは、目も当てられない。これは、監督や演出家の能力の問題なのではなくて、このエンターテイメント路線で、だれもがわかりやすい大きな舞台やテーマを選ぶと、どうしても物語を終わらせるために、善悪二元論で、悪が悪いというまとめをするしか方策がなくなってしまうのではないか?と思う。宮崎吾郎監督も最初のゲド戦記で僕は酷評したが、その後の作品をみると、意外や意外かなりの能力を持った監督であって決して基礎的なものが低いわけでは全然ないとわかった。けれども、そもそもが大きな物語を大衆エンターテイメント路線でまとめること℗の難しさが、あまりに大きかったんだろうと思う。

映画『聲の形』Blu-ray 通常版

そして、新海誠監督の『君の名は。』、山田尚子監督『聲の形』、片淵須直監督『この世界の片隅に』など近年の長編劇場アニメーションには、凄まじい傑作が生まれているが、考えてみると、どれもが内面の描写と日常を描くところからスタートしているか、そのものズバリそれだ。『君の名は。』が大ヒットしたのは、この日常と内面の丁寧な描写で主観から見る視点で、かつダイナミックな物語に絶属することが出来たからだろう。宮崎吾郎監督も振り返ると、『コクリコ坂から』のような日常を切り取るほうがはるかにうまくまとめて来ている。これは、時代性なのだろうと思う。


ゲド戦記』 宮崎吾郎監督 演出の基礎能力不足とセンスオブワンダーのなさ
http://ameblo.jp/petronius/entry-10015338663.html

コクリコ坂から』 宮崎吾朗監督 普通のアニメ制作会社になろうとしているスタジオジブリ
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20110826/p2


ゲド戦記 [DVD]