『コクリコ坂から』 宮崎吾朗監督 普通のアニメ制作会社になろうとしているスタジオジブリ

コクリコ坂から [DVD]



評価:★★★★4つ
(僕的主観:★★★★☆4つ半)


視聴終了後、集約して感じたのは、「スタジオジブリは普通のアニメ制作会社になろうとしているんだな」ということでした。


これは悪い意味ではありません。宮崎駿という個人の妄想が時代の文脈を超えてエンターテイメントとして商売として成立してしまう、ある種、化け物的なクリーチーなアニメ制作会社であったスタジオジブリが、まともな制作「集団」になろうとしているんだな、という感じです。


スタジオジブリを語る文脈には、常に「宮崎駿の後継者はできるのか?」という問題提起がいつも存在していました。けれども、さすがに御大の年齢と『もののけ姫』以降のスタジオジブリの作品を見ていれば、宮崎駿という希代のクリエイターは、後にも先にも生まれない「天才」だったんだ、ということが、我々もよくわかってきたんだと思います。時代性を無視してムーブメントを起こす力があり、この分裂する世代が常態化した日本市場で、ファミリー層を網羅するという、ほぼすべての層に対して総動員をかけられるブランド力、訴求力。そういった、家族全員が見れるという作品は、70年代を境にほぼ見られなくなったのはずなのですが、彼の作品だけは、家族が解体され個にバラバラになっていく80年代以降の日本に、特異点を持ち続けてきました。けど、「それ」は、そういうファミリー層を抑える手法があるということではなくて、ほんとうに、宮崎駿という天才による特別なもので、再現できないものなんじゃないかと思うんですよね。いいければ、「スタジオジブリの後継者問題」という問題設定が、実は間違えたものなのかもしれない、と今にして僕は思います。


そのある種の答えとして、僕は、「スタジオジブリは普通のアニメ制作会社になろうとしているんだな」と思いました。



その理由を、作品分析を進めながら、考えてみたいと思います。



この作品を評価するときに、非常に現代的な、そして、いまのアニメや漫画、映画など日本のエンターテイメント業界の主流が2点で構成されているように感じました。それを端的にいえば、


1)ノスタルジーの活用によるファンタジー効果の創出



2)ベタな骨太の物語への回帰


まずは、1)ノスタルジーの活用によるファンタジー効果の創出ということを考えてみたいと思います。このテーマは、物語三昧を追ってくださっている読者には、かなり繰り返している文脈なのですが、あまりなじみのない人のために、大枠をもう一度説明してみます。


この概念は、以前に山崎貴監督の『ALWAYS 三丁目の夕日』と李相日監督『フラガール』を見て、日本映画は、ノスタルジーによって過去の日本を再構成するという鉱脈を見つけたと、考えたことにそのスタートがあります。またもともと、アメリカのディズニーランドのマーケティング手法を大学の時に調べていたときに、あのテーマパークや映画の題材が、ノスタルジーを喚起させることで、世代間で価値観や見る風景の経験が分裂している親子が遊べる場所を作り出すために設計された、ということを知っていて、日本でも同じような手法が、人の動機を喚起するために使えないだろうか?、もしくは、なぜアメリカではノスタルジー喚起型のマーケティングなのに、なぜ日本では同じ題材でファンタジー喚起型のマーケティングになるのか?と思っていたことがベースにあります。ちなみに理由は、アメリカ人にとって、西部開拓の風景とかは、実際に経験した風景なので、当時のおじいさんたちにとってはノスタルジーになったのですが、日本ではそういう経験がそもそもないものなので、異世界ファンタジーとしての効果(=ここではないどこかへ行きたい欲求)としてしか持ち得なかったという、ひどく当たり前の理由です。なぜ、ノスタルジーという視点が出来上がるのか?ということに対して、過去の記事で僕はこう書いています。

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一つの時代が過ぎ去って、その時代を省みる(=客観化できる)時代になると、その時代を「一つの様式」として『いまの自分とは別のもの』として分離する視点が生まれます。だいたい、20〜30年周期で発生するようで、だから世代というものに意味があるんでしょうねぇ。

だから、昭和という時代がノスタルジーを喚起するというのは、「もう二度と元には戻らない」というあきらめと、そのことへの憧憬が、ファンタジー(=いまとは異なる世界に行くこと・脱出願望)と同じ効果を生み出すようになってきたんでしょう。しかも、団塊の世代という金も余裕もある一大市場が形成されつつあります。嬬恋のかぐや姫吉田拓郎のライブに、団塊の世代がたくさん来て涙したというのも、それを思わせます。


これからの日本映画の方向性には、この二つの突き詰めが一つの流れになっていく気がします。なにより、これならば若者も老人世代になる団塊の世代も両方がコミットできる。



フラガール』 李相日監督 いまの日本映画の魅力が凝縮
http://ameblo.jp/petronius/entry-10017996846.html

では、アメリカでは、ディズニーランドという遊園地が出来上がっていく過程は、一世代前(約30年のようです)の風景を実際に作ることで、人を動員した、ということがその出発点になっています。どうも、ノスタルジーマーケティング的な欲望喚起の手法に利用するには、実際に建物を再現する、遊園地やテーマパークのような、空間の再現にその手法の根源があるようなのです。では、このノスタルジーを喚起することで、人を動員させるという手法は、日本では例がないのかな?と考えていたところ、僕は、その時、思い立ったのは、池袋のナムコナンジャタウンです。

http://www.namja.jp/

でも、こういった小さい例はあったけど、実際に、この手法を利用して、大掛かりに人を動員するのって、、、、、と考えているときに、『フラガール』や『ALWAYS 三丁目の夕日』を見つけたのでした。ALWAYSが、特にこの手法には自覚的で、あきらかに昭和30年代の空間を、意識的に作成して見せつけているように感じました。そして、それによって映画がヒットしたのを見て、ああ、これはやはりありなんだなと思いました。アメリカよりかなり遅れたのは、まぁいつものことです。だいたい、30年ぐらいの差があるもんですからね。

僕は、新興の郊外住宅地ばかりを親の転勤で転々したので、開発途中であったその場所は、今では信じられないほど画一的で均質な空間になっている。真新しいけれど、均質で、歴史性のカケラも感じない空間。けれど、まだほんの昭和50年代の間ぐらいは、この30年代の空気というものは少し残っていた気がする。ギリギリこの空気をリアルタイムで、見たような気がする世代なんだと思う。なぜ、こういう話をするかというと、これはノスタルジーというテーマパークであって、この空気を体験しているか、それともまったくの異世界ファンタジーとして見るかで、まったく見方が変わってしまうと思うからだ。正直、このイメージを、異世界としてみるであろう、たとえば、80年代後半以降に生まれた世代の感覚は、僕にはまったく理解しかねる(笑)。とりわけ、80年代は、日本社会の断層期なので、とかく世代間感覚の違いがデカイ。日本社会は、凄まじく急速な高齢化を経験する人類最初の国家で、しかも、現時点では移民を受け入れていないという、若年層よりも老人層のほうが大きい逆ピラミッド型になるのも人類史上初でしょう。だから、日本社会では、人類最初の極端な世代間断絶が強烈に起きる社会なんです。縦の分断ですね。横の分断は、やはりヨーロッパとアメリカでしょう。老人世代が主導権を握る、権力だけではなく人口比において、という意味では凄い興味深い時代です。そんな中で、当然出てくるのが、ノスタルジーです。変化を容認できない世代群は、過去の栄光にしがみつくものです。そうしたメモリアルや仕組みというのは、人類にたくさんあります。たとえば、戦争のメモリアルパークや墓地なんか、まさにそう。ジョンボドナーの『鎮魂と祝祭のアメリカ〜歴史の記憶と愛国主義』なんかに典型ですね。靖国問題も究極そこです。そして、それを資本主義市場の集客力という目的に収斂させたのが、鬼才ウォルトディズニーの『ディズニーランド』です。このノスタルジーを基礎にした集客の方法論は、見事なまでに、映画『マトリックス』を思い出させます。このへんい詳しいのは、能登路雅子さんの『ディズニーランドという聖地』に詳しいです。


ディズニーランドという聖地 (岩波新書)
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つまりはね、ある世代のノスタルジーを空間ごと再現すると、それにその世代の人が逃げ込むように、吸引されるのです。ところが、不思議なことに、このスタイル・様式が確立されると、『体験を持つその世代』だけではなくそれ以外の世代にも強烈な吸引力を発するようなのです。池袋のナンジャタウンなどの昭和の町の再現が典型ですが、テーマパークの基本は、このノスタルジックな感情の再現をどこまで、人に起こさせることができるか、です。ディズニーランドが、見るものに既視感覚を感じさせるように、寸法・空間構成・視線誘導・行動誘導に至るまで、あらゆる面で徹底的に計算されたつくりをしていることは有名です。(正確に言うと、アメリカのDLは、ノスタルジーベースで、日本のDLは実は異世界ファンタジーベースだと思っていますが・・・。)ようはね、人の幻想・ナルシシズムを、一切破らないで、ノスタルジックな感情に浸らせて、お金を落とす仕掛けになっているのです。・・・・マトリックスでしょう?(笑)




『ALWAYS 三丁目の夕日』  山崎貴監督  昭和30年代のテーマパーク
http://ameblo.jp/petronius/entry-10017194528.html


さて、ノスタルジーの効果で人を呼ぶことが、手法的に抽象化できるではないか?という問題意識を僕は持っています。まぁ統計をとっているわけではありません&僕は学者ではないので、これを定量的に指し示すことはできませんが、まぁ経験則からいって、かなり歩留まりのいい仮説モデルだと思っています。ちゅーか、体感的に、そうじゃねぇの?って思いません?(苦笑)。また、アメリカで成立する方法は、日本でも多少変質しますが、まず間違いなく成立します。資本主義の最先進国である、ヨーロッパ、日本、アメリカ、いまならば韓国、台湾の大衆社会の仕組みは、ほぼ同機能を示すと僕は思っています。この辺の国々の状況を追っていれば、世界中の資本主義がある段階に行き着いた大衆社会は、非常に似た構造、似た行動になります。もちろんローカライズされますし、微妙な文化的歴史的要因や、発展段階の差が出ますけれどもね。でも、それはしょせん微妙なレベル。


と、ここまでいってやっと具体的な話に入ると、『コクリコ坂から』のカルチェ・ラタンという部活棟の維持というエピソードのは、まさに、ノスタルジー的なテーマだからです。これって、60年代真ん中を想定すれば、学園紛争など団塊の世代学生運動の要素が色濃く出ているテーマであることが、見ている人は、特にいま60代の団塊の世代は、よっっくわかるはずです。その子供である僕ら団塊のJrには、「匂い」はわかるけど、乗り遅れたし、もうそんな熱いことが意味を失った世代なので、ある種のしらけた、いやな印象しか持たなかったのですが、、、これまでは、、、しかし、自分が30代になり人の親になりと、あの時代から約30年を超えた今の2010年代の視点から見直すと、連合赤軍事件や浅間山荘事件などの学生運動のエピソードが、ノスタルジーとして、少し切り離された冷静な視点で見れるようになってきている自分がいます。ましてや、僕の下の世代にとっては、ああいう「熱い学生運動の時代」は、ほとんど異世界ファンタジーと同じものにしか見えないでしょう。また、このへんの昭和30−40年代は、大正時代に形成された、日本社会の都市生活者や教養層の文化である寮生活などの伝統が色濃く残っていた時代で、この時代を「現在」と考えると、日本のエリート学生の持っていたバンカラ文化というものが、これは団塊のJrの僕にとっても強烈なノスタルジー効果(=実際に見たことも匂いも分からない懐かしいもの)があります。近くの寮と喧嘩するストームとか、そういうの知っています?。この辺のバンカラ風俗が、いまも見れる作品で容易に体感できるのは、なんといっても、大傑作『摩利と新吾―ヴェッテンベルク・バンカランゲン』や、もっと最近だと、かなり現代風になっていますが『ここはグリーン・ウッド』です。僕が何をいっているのか、日本の寮文化や旧制高校の伝統的文化が、どんな匂いがありどんな雰囲気かは、これを読むとすごくよくわかると思います。


摩利と新吾―ヴェッテンベルク・バンカランゲン (第1巻) (白泉社文庫)
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ここはグリーン・ウッド (第1巻) (白泉社文庫)
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すべてが、古き良き日本の伝統を、ノスタルジック補正(=悪い面は見えにくい)がかかって見れます。それが見事に表現されているのが、この『コクリコ坂から』です。たとえば、まぁ見ればみんな思うでしょうが、昭和の日本の「良さ」が、とてもにじみ出ています。たとえば、男性も女性も、すべての人が、ビックリするほど姿勢がいい。主人公が、常に前を向いて背筋をぴんと伸ばしている姿は、現代からすると、すがすがしく美しいのですがはっきりいって異常です(苦笑)。また、挨拶の素晴らしさ。文化系や運動系など、さまざまな種類の部活動を構成する生徒が、全員で一致団結して、教師を寄せ付けないように校歌?を歌い出すなど、学生というエリート集団の「同胞意識」が強くあり、その学生の中に階級があるスクールカースト的な現代の意識は全く見られません。ヲタク的に哲学にはまろう(=将来食べていけないだろ、それ(笑))が、なにをしようが、同じ学び舎で学ぶ仲間=この後、大学進学率が急上昇するまで、そもそも旧制高校や大学に行く層なんてのは、そもそも全国の数パーセントというウルトラエリート層で、おれたちは、どんなことをやっていても「選ばれた選良なんだ!」という、悪くいえばスノッブなエリート主義があり、よくいえば選ばれたものの気概と倫理(ノブレスオブレージと指導者が率先して倫理を守るという意識)があったのです。だから、スクールカーストなんて言う、学校の中の階級はできようがない。だって、日本の、その分野での指導層になるのが決まっているようなものなんだもの。という、大正以来の旧制高校の色が、首都圏の都立高校とか関東圏の高校には、昭和の30年ぐらいまでは色濃くあったんですよ。いやまじで。だからこそ、学生運動の時代には、都立高校(大学じゃないよ!)とかも、凄い自治権獲得の闘争があったんですよ。いま思うと、信じられないくらいに熱い政治色の強い時代ですよねー。


もう少し具体的なエピソードでいうと、生徒会長の男の子(たぶんあれ生徒会長だよね)の、なんというか見事な生徒会長っぷりには、いまの時代から見ると、そこまでカッコつけなくてもいいだろうという物凄いスノッブさがあるんだけど、出てくる登場人物たちが「他者の視線を強烈に内面化している」ので、それが、不思議といやらしさを生まない。全編にわたって、過剰な他者視線の内面化があるんだけど、この自意識過剰感って、ああ、たしかに60年代くらいまでの映画や小説に刻印されている感じだよなーって思いました。他者視線の内面化ってのは、もう少しわかりやすくいえば、「他人に見られているんだ、ということを前提として振る舞いが構築されていて」それが、内面化されているので、周りに実際の他者がいなくても、一人しかいないところでも、振る舞いが他人を見ている前提で行われている・・・・つまり倫理が内面にセットされている状態の話をいっています。この内面の視線拘束「からの自由」を目指すのが、80−00年代の個人主義流れだったので、まさに時代の逆行です。「他者の視線が内面化されている」というのは、日本でいえば、共同体にどっぷりと拘束されていて「自由が存在しない」がんじがらめの生き方、ということですから。ようはムラ社会のムラ人的状況。けど、自由と引き換えに、共同体に視線による拘束は、倫理じゃないや道徳が強く存在するってことですよね。道徳、、、みんなが思う「正しさ」があった時代ということです。だから、人が見ていないところでも、、、、ちゅーか、学校サボっているのに見事に制服を着ているところとか(笑)、挨拶や返事の清々しいまでに(いや最初見ていて気持ち悪いほどに)徹底しているところなどは、学生たちの中に、強烈な道徳的「正しさ」が存在していることを示しています。もう、多様性と個人主義の伸展によって、めちゃめちゃに破壊された後に2010年代の僕らから見ると、もう完全に異世界ファンタジーなんだよねこれ。僕は全は見ていて、強烈な違和感があったが、、、慣れてくると、そうか、「別の世界の出来事」と思えばいいんだ、と思うとすごい肩の力が抜けて、素晴らしい美しい物語に見えてきましたよ。


このノスタルジーを喚起するというの部分が、脚本でも映像でも、強烈に意識されています。ノスタルジーは、分裂する世代間を共有させるといういわゆるファミリー層を抑え込む幅の広さがあります。この手法は、「普通の手法」ですよね。特殊な才能に頼るのではなく、現代の創造の最前線で暗中模索されているオーソドックスな手法。宮崎駿さんの作品は、そのすべてが、完全に異世界を志向した「ここではないどこか」の別の世界の物語空間を構築していたのに比較すると、物凄く普通。僕には、京都アニメーションの開発した日常という文脈のドラマ化など、とって現代性のある設定に思えます。本当は、スタジオジブリは、若手が独立色の強い作品を作ろうとすると、『海がきこえる』(1993)『耳をすませば』(1995)などを思い越せば、現代の創作の最先端をフロントランナーとしてかなりいところまでいっているんですよね。1)ベタな純愛ドラマへの回帰、そして2)背景を精密に描くことで日常をドラマ化するなど、実はいまの物語の最前線の開発を、時代に先駆けて挑戦しているんですよね。ところが、やはり宮崎駿という怪物がいるので、それが、古い王道的な物語に引き戻されて、なかなか現代的なものになりきれない。『ゲド戦記』(2006)なんかは、新しい世代にはありえない大作異世界ファンタジー志向で、時代にも合っていない上に、非常に上滑りしてしまったのは、そもそも宮崎駿の子供の世代の人間に、ああいった骨太の善悪二元論ドラマトゥルギーを料理させること時代が、そもそも無理があったんだと思います。宮崎駿やそれこそクリント・イーストウッドなどの善悪二元論の陳腐さとその発展過程の問題点を知りぬいた人でないと、あの巨大なテーマを、エンターテイメントにするのは不可能なんですよ。ある種、バロックの極致になっているものだから。

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2)ベタな骨太の物語への回帰


さて1997年『もののけ姫』あたりで異世界ファンタジー善悪二元論で人の動機を喚起するというドラマトゥルギーの限界点が示されたころから、エロゲーでも邦画ドラマでも、ベタなソープドラマへの回帰が始まっている気がするんです。その集大成というか、集約地点というのが、『冬のソナタ』(2003-2004NHKで放映)に代表される韓国ドラマブームだと思うのです。それと、邦画でいえば、純愛路線や映画『世界の中心で愛を叫ぶ』(2004)『黄泉がえり』(2003)『いま会いにいきます』(2004)なのです。ゲームでいえば、アージュの『君が望む永遠』(2001)ですよね。日常を劇場化するという視点で描かれた最もエポックメイキングなアニメーションが、『涼宮ハルヒの憂鬱』(2006)、そして漫画が『あずまんが大王』(1999-2002)だと考えると、純愛も日常も、既に『もののけ姫』のかなり前に、ジブリでやっているんですよね。あの方向性が伸ばせなかったことは、残念ですが、、、まぁそもそもあのスタジオが、そもそも宮崎駿という才能を世に出すという目的からすれば、正しかったんだろうと思いますけどね。

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不可能性のロマンチシズム〜韓国ドラマがなぜ面白いのか?
http://ameblo.jp/petronius/entry-10005550854.html

韓国映画・ドラマの見方
http://ameblo.jp/petronius/entry-10004169150.html

君が望む永遠』 その1 BY アージュ この脚本そのままでフジテレビの月9になるよ!
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20110712/p1


純愛路線の邦画、韓国ドラマブームなど、骨太の脚本、、、ベタなロマン主義への過剰なコミットが物語類型の重要な手法として、脚光を浴びるだろうという文脈は、上記辺で語っていたことですよね。ちゃんと書いたところが見つけられなかったのだけれども(自分でも過去何書いているかよく覚えてないんで(笑))、やっぱりベタな物語への回帰をロマン主義復権と見ている文脈は、いまから見返しても、僕は正しいと思うなー。現在では、サイト「小説家になろう」のチート主人公、「俺つえぇぇぇぇ」系(笑)とかも、ようは物語の原初の欲望に戻っているんだよね。宮崎駿の世代が語っていた物語は、物語がバロック化して複雑になりすぎて、問いが非常に感情移入の最初の契機を失うほどに巨大化しているんですよね。にもかかわらず観客を引き込める力があるというのは、ウルトラ天才級でなければならず、、、、、とはいえ、宮崎駿が『千と千尋の神隠し』以降、物語を語り終えるのができなくなって、エピソードの塊のような作品しかつくれていないのも、物語の主軸を作ると、「嘘を言っているような気がする(=ベタな感情移入への逃げ)」と思ってしまうのではないかなと思うんですよ。だって『ハウルの動く城』とか『ポニョ』とか、何がいいたいかわかります?(苦笑)。物語の整合性は、『もののけ姫』の善悪二元論の破綻で、宮崎監督はあきらめているんだろうと思うんですよ。そういう意味では、あの大家にして、時代性に合わせて入るんですよね。でもあれだけ複雑さの極みまで考え抜いた人が、確かに、物語の原初の欲望に戻るのはつらいと思うんですよ(笑)。だって、なろうのサイト見ていると、物凄いシンプルなんだもん。何でもできるチートで強いおれを感じたいとか、別に何の魅力もないのに素晴らしい美少女やかわいい女の子にもてまくりのハーレムを経験したいとか、女性でいえば、王様が(白馬の王子?)が、なんの魅力もない自分だけを実は愛してくれてた!というのを実感したい、とか(笑)。なんというか、社会が下降している文脈で考えると、そんなドーピング(=社会逃避を助長するもの)を描いていいものだろうか、と、ましてや社会的な思想のリーダーである宮崎駿クラスの作家としては、物凄い悩みが生まれると思うんですよ(笑)。たぶんね。


けど、ほんとうは、原初の姿の「荒々しさ」は無視してはいけないものなんだろうと思います。なぜならば、人々が望むものは、そもそも「それ」が原点なんだから。


かつて文壇で「文学で飢えている子供を救えるか?」というような、意味のない(今から考えると)論争がありましたが、そのことに答えを出した中島梓さんの本について

過去に文壇で

『文学は、飢えた子供を救えるか?』

という問いがはやったことがあるそうです。この問いは今でも有効で、食べることが出来ない空想が、役に立つのか?という問題提起です。全てのものを、『役立つか?』という思考に還元するのはどうかとは思うものの、ベトナム戦争やアフリカの飢餓を直面しながら、飽食に飽きる先進国の住民には、誠実な問いだと思います。この問いへの真正面から答えたのは、この本以外には知りません。

解答は、こうです。人間とは、生物としての本能が壊れた生き物であり、その欠落部分を自己幻想欲=物語を生み出すことで、生きている。だから、物語は、飢えた子供を救うことは出来ないが、1日でも飢えを忘れてワクワク過ごすことができる。そして、それは下手をすると一切れのパンよりも、より人間らしく生きるために不可欠なものかもしれない・・・・・。自分の物語のために死を選べるヒトという種族は、食べ物よりもロマンが不可欠なのだ。

彼女の評論は、ある意味冗長だが、その分結論へ至る「思考の過程」を知ることが出来ます。小説家としても大成している彼女が、物語が心の中で生まれてくるプロセスを、微細に事細かに描写していく部分が、とてもエキサイティングです。ある意味現役バリバリの物語作家である自分の心を対象とした分析というのは、かなり貴重なものなんではないかなぁ。

副題に「ロマン革命」とありますが、『文学の輪郭』『ベストセラーの構造』で分析した価値の細分化による共同体の喪失は、物語とロマンの復権を導くだろうと結論付けています。10年も前の作品とは思えませんね。

もう10年どころか、、、、軽く20年以上前の作品ですが、時代の文脈自体は変わっていません。なんというか、これが成熟してきた、ということなんだろうと思います。


やっと、『コクリコ坂』に戻りますが、これの物語の主軸は一つは、1960年代の古き良き日本の学生生活のノスタルジー喚起であり、同時に、ベッタベタな純愛の話です。

コクリコ坂から

まぁ、見たらわかると思いますし、見た瞬間常識的なリテラシーがある人ならわかってしまうので、ネタバレっていうほどでもないのですが、この主人公の女の子と恋仲になりそうになる男の子が、実は兄妹だった!!!という「結ばれない愛」の古典的物語の典型ですね。もうベッタベタの話。しかも、きれいに、お互いの愛を確かめ合った後に、兄妹でないってわかるなど、見ていて恥ずかしくなることすらないくらい、あまりにありがちな話でした。いやまったく妹萌とか、そういう高度な技はいっさいありません(笑)。ストレートド真ん中の直球です。


君の名は 第1部 [DVD]


韓国ドラマの純愛路線も似ていますし、日本の昔の『君の名は』みたいな感じの路線ですね。基本的にこの『コクリコ坂』って、大きく3つのポイントがあって、


1)1960年代の古き良き日本の学生生活・学生運動のノスタルジー喚起

2)ベタな古典的な純愛路線

3)日本と朝鮮戦争に関するかかわりあい


たぶん意見をいうのならば、この3つが、割と分かりやすいポイントだと思うんですよね。3)が、微妙に分かりにくいのですが、主人公の父親が、LSTで死んでいるというのは、LSTとは米軍の戦車揚陸船のこと、Landing Ship Tankのことで、まぁいわれてみれば、そういうのはあるだろうなーと思うのですが、日本人が当時の朝鮮戦争に参加しているって話ですよね。まぁ、その辺の考証は、おかしなものです。だって、こういう話って当時の国民はほとんど知らなかったんじゃないあかな、と思いますしね。それを、さもみんな分かっています!という風な早い理解を示すのは、???って思いました。だって、LSTって後で検索しなければ、僕だって全然わかんなかったんだもん。これ、1)と3)ってつながっていて、ようは日本に盛り上がった学生運動へのノスタルジーを描写するには、「戦争自体があった」ということを、その事実をエピソードに組み込まないと、反戦思想を語るにしても、文脈がわからなくなるからだろうと思います。物語の主題は、古典的な純愛なのに、こういうちょっと、センセイティヴなテーマが軽く顔を出せるというのは、やっぱり過去の戦争が、かなりのレベルで、「過去にあった出来事」として歴史として見れるようになっているんだな、と思います。物語としてはわかりやすいドラマトゥルギーというか動機設定ですよね。自分の父親が戦争で死んだ、だから戦争に反対するって、物凄いわかりやすい反戦じゃないですか。いや動機の設定とか、ほんと物語はベッタベタです。


しかも、僕はこの映画にあふれる、ノスタルジーのイメージにとても感興を感じたので、細部は、多分あまり批判の対象になるわけではないと思うのですが・・・・それでも、やっぱり、じゃあ主軸の恋愛がちゃんと描けているかといえば、1)と2)のどっちが主軸なのか、いまいちわからない、ごった煮の演出で、ヒロインの内面の動きは、僕にはさっぱり理解できませんでした。あそこの少女漫画的にやると、すっごくウンザリしてしまうし、そういう自意識の一人称の内面の表出をすると、凄く現代的になってしまって、この時代のノスタルジー、、、、この少女は、「兄でもいいの抱いてっ!!!」とは、道徳上絶対にならないので(笑)、抑制しないと1)の雰囲気が壊れるために抑えたんだと思います。それは、正しい選択だとは思いますが、恋愛の物語としては、まったく中途半端で????って感じが最後まで僕はしました。何度も見れば、繊細に演出していそうなので、読み取れるのかもしれませんが、ぱっと見の僕にはさっぱり入れませんでした。これをして、脚本や演出が、うまいと言えばいいのか、下手と言えばいいのか、、、正直僕にはよくわかりません。まぁ次作を見ないと、、、って感じです。


ただ言えるのは、面白かったか?と問えば、とても素晴らしく面白かったです。一言でいえば、日本の古き旧制高校の寮文化が色濃くノスタルジーとして出ていて、それがセンスオブワンダー(=今まで見たことないもの!)という感覚を喚起してくれたからです。



これ、ノスタルジー効果があるので、僕の子供から見て、祖父の世代、父親の世代、孫の世代の3世代にわたって、コミュニケーションのツールになるもので、この日同時に、戦隊ものの



仮面ライダーオーズ』劇場版でまさかの暴れん坊将軍マツケン)とコラボ! シュールすぎるww
http://yaraon.blog109.fc2.com/blog-entry-2009.html




これを、子供とも見たんですが、、、、、(笑)まったく、意味不明なんだけれども、おばあちゃんやおじんちゃんが、孫を連れてきているケースがあって、ああさすが、このセグメントのエンターテイメントは、子供とのコミュニケーションを人質に取っている!!!って感心しましたよ。そういう意味で、ファミリー層への効果もあって、渋い作品ですが、昨今のジブリは、宮崎駿異世界にぶっ飛んでいく大作構築の部分ではなく、こうした、抑制のきいた創作の最前線のテーマやツールをきれいに料理しつつあって、とっても小作品っぽいといわれそうですが、『アリエッティ』もそうですが、ああ、才能に頼らない方向に進んでいるなーと思うのです。だって、スタジオジブリって、宮崎駿異世界構築能力を除去すれば、


1)ファミリー層が安心して見れるブランド・流通力


2)背景描写力の圧倒的なレベルの高さ



っていう二つの部分が「強み」なのは間違いないんですよ。京都アニメーションから、萌という記号を抜いた感じかな?。これって、『花咲くいろは』などのPAWORKSなんかも似た志向のテイストであって、僕は、ああ、なんというか普通のアニメ−ション会社になってきたんだなーーーと思いました。繰り返しますが、非常にプラスの意味でいいっていますよ?。つまりは、時代の文脈から外れた、巨大な才能に頼る特殊な創作ではなく、前線に留まって、先もわからんものの中で暗中模索しながら鉱脈を探していくって感じです。とはいえ、それってのは、「みんなと同じ」ことでもあるので、次は、どこで差別化するのか?スタジオジブリ独自の色は何か?というのが問われると思います。上記のノスタルジーやベタ純愛というのは、いまや最先端アニメーションや物語の基本類型ですからね。学生運動反戦の話のノスタルジーは、継続性がありません。なぜならば、その経験者が、年齢的にもう直ぐいなくなってしまうので、ここに「こだわる」作家性は、なかなかないと思うんですよねー。わからんけど。まぁ、などなど思いました。

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