日本の巨大ロボット群像 ―巨大ロボットアニメ、そのデザインと映像表現―@横須賀美術館に行ってきました。

『日本の巨大ロボット群像 ―巨大ロボットアニメ、そのデザインと映像表現―』@横須賀美術館に、友人と行ってきました。メカは、あんまり強くないのだけれども、素晴らしい展示だった。アメリカにいる時にずっと残念だったのは、こうした日本でしか見れない系の展覧会などのイベントに行けなかったこと。日本語で解説が見れて聞けて、友人と行けるというのは、とても贅沢。こういうレベルの高い展覧会が、行ける範囲でガンガンあるのは、大都市圏の文化レベルの高くて良いなと思う。ここのところそれなりの頻度でいろんなところに行けていて、なかなか充実している。

開演少し前に行ったので、外で軽く並ぶ。外が広々としていて、気持ちが良かった。花粉は、どんどんキツくなったけれども、晴れて良かったです。ドラマ『沈黙の艦隊 シーズン1 ~東京湾大海戦~』を見たばかりだったので、なんとなく、あそこをシーバットが、とか思い出してニヨニヨしていました。基本的に、それなりの年代の男性、40歳以上ぐらいが多かった感じがします。まぁ世代的に、そうですよね。先週行った永野護展は、休日で人が多すぎて、腰が痛い年寄りの僕には、なかなかしんどかったのですが、ここは都心から遠いからか、そこまで人がいなくて、とても快適に展示物を見れました。


とにかく全体を通してのコンセプトが素晴らしかった。巨大ロボットというものの登場、展開、発展、そして収束の歴史が、流れで特に頭を使わずに観ていても、大掴みでがっちり感じられる。僕自身はメカに興味があまりない人なのですが、そうは言っても、マジンガーZくらいから永野護のファイブスターなどまでの時系列は、自分の子供時代とリンクしているので、とても興奮しました。

はじまりは『鉄人28号』。等身大の大きさから、巨大化へ。最初期のドラマは、着ぐるみみたいな大きさなんですね。ここからどんどん巨大化していく。

1960年代から始まって、さまざまな展開を遂げます。お台場や横浜のガンダム機動警察パトレイバーイングラムなど、実物大が製作されたりしている流れ多います。日本の巨大ロボットのデザイン、造形の歴史は、多様で豊穣ですね。お台場の等身大のガンダムは、アメリカに住んでいるときに、日本に遊びに行くんだけれども、どうやって行けばいいとか、よくアメリカ人に聞かれました。子供をポケモンのお店に連れて行って、自分はガンダムが見たいってよく言われる組み合わせでした。

最初の流れでは、ゲッターロボ/ゲッターロボG永井豪石川賢)による「合体」の概念の登場を、説明します。3機のゲットマシンの合体によって完成して、ポジションを変えることで別々の機能を発揮できます。当時は、リアリティの制限がないので、自由な想像力で、合体するので、どう考えてもそんな形にならないだろ!という変形も、これが合体の概念の登場だと思うと、なかなか興味深い。マジンガーZや超電磁ロボコンバトラーV、鋼鉄ジーグなどこの辺りは、まさに僕の子供時代どストレートにあたって、超合金のおもちゃを買ってもらった記憶と結びついていて、懐かしかった。こうやってパネルにして見せてくれると、当時のマジンガーZの光子力研究所とか、素晴らしいデザインセンス。1970年代のロボットアニメブーム。

主催者の方が、非常によくわかっているのだなーと思うのは、「スタジオぬえ」が、これらのメカのデザインの大きな流れの基礎にあることをちゃんと理解して、この展示を組み立てているのがわかる。まぁ、友人に教えてもらったんですけどね(笑)。こういうとき知識を持っている人がアテンドしてくれると強いですね。何気ない一言が、深い。とても勉強になる。どこかへ行ったり、見ることは、背後の知識があるとなしとで面白さが全然違います。

それぞれのロボットの大きさを体験できるように随所に描かれているところが、とても良かった。というのは、鉄人28号からはじまって、巨大化していくロボットは、合体という概念を経て、どんどん小さくなっていくんですよね。その途中にいるのが、マクロスガンダム。デザインも、少しづつリアル志向になっていきます。ガンダムのデザインやコンセプトは、この40年の時間の中で変容していきますが、この展覧会では、初期の「大きさ」の演出を感じられるように組み立てられていました。ボトムズダグラムなどの大きさが、70年代の巨大ロボットからかなり小さくなって行っているのがわかります。これは、リアル志向の意識とも繋がっているように感じます。

宮武一貴、加藤直之による伝説のパワードスーツのデザイン画。日本のSFの大きな流れをつくったデザインですよね。当時、ハインラインSF小説『宇宙の戦士』の表紙で描かれたもの。この機動歩兵のデザインは、のちにモビルスーツの原点となったと言われています。ちなみに、当時のSFマガジンがあったのだが、関係ないですが、最初の小説は栗本薫の『イリスの石』です。ちょっと時代を感じて感動してしまった。

最初期の、中身がどうなっている、意味不明なものから、中身の詳細を書こうとする、リアル思考の意識が広がっていくことと連携して、サイズが小さくなって行ったのだなと感じます。この辺りの中身を詳細に書いているものを見ると、永野護だけが、関節の動きなどを意識して、この機能には、この機能がいるよねというテイストが入っているのがよくわかります。エルガイム等で、ガンガン大抜擢されていくのですが、そもそもコンセプトが、他のデザインと一線を画しているのがわかります。

この流れで、永野護のデザインを位置付けるのか!とエウレカでした。こういうふうに文脈で考えると、デザインの歴史の中でどう位置付けられてるか一目瞭然で素晴らしく理解できます。いわゆる美術史でいうバロックかというやつ。最初は均整を保っていた表現が、徐々に過剰なものになっていくことを言うんですが、このデザインのリアル思考、大きさの等身大化、機能をベースに考える内部の設計への意識が、永野護のデザインで頂点に達するんですよね。そして、急速にロボットものが飽きられて、黄金期が終わっていく。

petronius.hatenablog.com

巨大ロボットってある意味オワコンなカルチャーなんでしょうけど、一回人気が低迷してる一つの黄金期が終わっているんですよね。このあとの、作品は、リアルロボット路線が、再度、スーパーロボット路線の昔のマジンガーZのようデザインへと回帰しています。こうして様式美として歴史になってワンセットで見れる。そうすると、全体が俯瞰できるので、とてもわかりやすい。こうした様式美になって、過去のデザインのれ歴を俯瞰できると、リブートされたりするんですよね。たぶん、2020年代は、このリブートや過去を様式美として見直そうというフェイズ。長く生きていると、サイクルのように、ブームがきて、バロック化して、そして萎んで消えていき、そしてまた原点位戻ってを繰り返していくのが見れますね。


いやはや、素晴らしい展覧会でした。