『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』  渡航著 (1)スクールカーストの下層で生きることは永遠に閉じ込められる恐怖感〜学校空間は、9年×10倍の時間を生きる

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。7 (ガガガ文庫)

先日、海燕さんとLDさんと恒例の物語三昧ラジオをしていて、最近僕がはまっている、俺ガイルが、この系統の物語の着実な発展の中で、いいところに踏み出していることを、話しました。その時のテーマは、「友達なってなんなんだろう?」でした。その時の話は、海燕さんが、うまくまとめて展開していますので、こちらもどうぞ。

ニセモノの関係が人生を豊かにする。(1356文字) 海燕のゆるオタ残念講座
http://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar183625

これをもう少し僕的な問いに敷衍してみると、僕の人生でたくさんの友人や知り合いに、「どうしたら友達ができるのですか?」という質問をたくさん受けてきました。特に、彼女になった女の子といろいろ深く話していると、まず、この問題提起が出されます。別にいまのライトノベルの大きな柱のテーマとかそういう文脈とは関係なしに、あらゆる世代、時代の文脈で「ほんとうの友達」というやつを求めているのようなのです。


けど、「ほんとうの友達」ってなんだろう?とずっと思ってきました。


というのは、この質問の履歴を追っていると、そういう友達ができたという「結論」を見たことが僕はないんです。あと、定義もよくわかりません。この定義とか言い出すのは、友達がいない証拠と、俺ガイルの主人公のヒッキーはいっていましたね(笑)。自分が観察し始めて優に20年は立ちますが、僕の周りでついぞ、本当の友達を見つけた!という話を聞いたことがない。そして気づいてきたのは、この彼ら、彼女らが要求する「ほんとうの友達」って、脳内彼女とか脳内彼氏に似たような、妄想なんだってのがわかってきました。そもそも存在しないモノを追っているのですよ。だから到達できない。これはそもそも問題提起の仕方が間違っているので、解決が全然できない典型の無限ループ問題ですね。僕はこの系統の問題設定を、虚偽問題と呼んでいます。マブラヴの記事でこの話は書きましたね。ダイエットとかもそうです。別に痩せたからって、もてたり、人生が素晴らしくなるわけじゃ全然ないんですよ。努力の方向が間違ってるというやつ。

マブラヴオルタネイティヴ』 その6 冥夜があれほど気高く見えるわけ/虚偽問題に騙されるな!
http://ameblo.jp/petronius/entry-10043448983.html

マブラヴ オルタネイティヴ Windows 7 対応版


虚偽問題は、問題設定と解決が結びつかないマッチポンプの永久運動であることさえ自覚して関われば、なかなか豊かに人生が遊べます。しかし、これが解決や結論には全く結びつかない永久運動であることを自覚しないでかかわると、いつまで終わらない地獄となってしまいます。そもそも、物事には解決できないことに満ちており、解決することが正しいというわけでは全くないのですが、とはいえ、出口がないことに解決(=出口を出る)を目指して努力するとへとへとになります。なので、この「ほんとうの友達が欲しい」という要求は、非常に駄目な思考パターンです。このことについては、いろいろ考えたいですが、まずは論を進めましょう。この問題を掘り下げるには、(1)「なぜそういう風に思うようになるのか?」という起源の問題と、(2)「ほんとうのともだち」ということはいったい何を指し示しているのか?、(3)どうすれば、どこを、どこに、抜け出せるのか?という具体的処方箋をまずは考えてみたいと思います。


スクールカーストの下層で生きることは永遠に閉じ込められる恐怖感〜学校空間は、9年×10倍の時間を生きる

ラジオをしていて、きっと、学生もいるだろうと思うし、特にこれらのライトノベルを読むのは中学生〜大学生ぐらいが多いだろうと思い、「彼ら・彼女ら」に、何をメッセージでと届けるべきか?と考えていたら、「いつまでもその地獄は長く続かない」、スクールカーストの地獄にいても、時がたてばさまざまな可能性が未来には広がっているから、その時のための「ため」の時期であっても悪くないんだ、というようなことを言っていました。これは本心です。実際に、40歳近くなった今の僕からすると、スクールカースト、学校空間の空気に支配される牢獄は、約9年間ぐらいしかありません。小学校4年生から高校3年生ぐらいまで。自意識が生まれて、教室に拘束される学校空間という意味では、その9年間ぐらいが、もっとも苦しい時間です。でも、たった9年間!。アラフォーの僕にすると、1/4もない時間です。その後の、さまざまな豊かな時間を知っている僕からすると、そこだけで、命を絶ってしまったり、人生を捨ててしまったり、引き篭もって動機を壊してしまったりするのは、確かにつらい世界であるとはいえ、勿体ないと痛切に思います。たしかに、俺ガイルのヒッキーのような、僕が文系硬派と呼ぶような、人間力が下がるから友達はいらないというような(笑)、自分のこだわりや観察力が鋭くて、なかなか空気のノリに埋没できない種族は、学校空間のスクールカーストは地獄でしょう。文系硬派は、自意識が強いので空転(=空気から逸脱)しやすいからです。またスクールカーストの世界はエコロジカルな生態系になっていて、いつ上下が逆転するかわからない、息苦しいサバイバル、、、サバイバルというよりは、共食いの空間です。その世界の最下位に固定化されて生きるのは、本当に苦しいでしょう。

いじめの社会理論―その生態学的秩序の生成と解体
いじめの社会理論―その生態学的秩序の生成と解体

うまく切り抜ければともかく、ちょっと下手を打てば、徹底的な排除の対象にあいます。その恐怖の中で、息苦しく暮らすのは、本当にしんどいことです。しかし、そこを切り抜ければ、、、、空気に抗う術を知っており、そしてコントロールもできる、特に外から「そこ(=ムラ共同体の牢獄)」を観察している文系硬派の系統の人種は、内圧を心の中に屈折してためて、さまざまな高い内的なポテンシャルや動機を内に込め、それを鍛えぬいていて、その後、自由な関係性に基づく大学や社会の関係性で、非常に魅力的な人間関係を形成して、人生が素晴らしく花開く人がとても多い。だから、いま辛くても、希望を持って生き残れ!、、、と。


いまのアラフォーの自分の立場から、このメッセージには、強い裏付けの感覚があり、実感としても正しいものだと思います。しかし、この言葉を発していて、どうしても違和感がぬぐえませんでした。たしかに「いまの立場」の僕からは、これは事実です。結果として、僕はスクールカーストの世界を生き残り、そこで溜め込んだ内圧を大学以降に爆発させ、幸せな人生を生きています。もちろん人生楽ではないですが、それでも、あのスクールカーストの息づまる学校空間に比べれば、最高に幸せです。だから、過去に戻るとか、学園ものが、僕はまったくシンパシーを感じません。だって「いま」の方が、何倍も幸せだもの。けれども、それは「いまのそれなりに選択肢と可能性を手に入れた」立場の僕だから言えることで、僕の内面にある、スクール―カーストの世界で、誰にも理解されないな、と孤独で苦しんで、、、というよりも孤独であることすら自分が認識していなかった頃の「中学生や高校生の自分」に対して、それを言って意味があるだろうか?その時の自分は納得するだろうか?と考えた時に、ああ、納得するのは無理だな、と思ったんです。


この違和感は、なんなんだろう?と考え続けてたんですが、たぶん、これって「時間に対する認識の違い」なんだろうな、と思います。大きく二つあります。


一つは、全体から見た比率です。40代の立場から見れば、9年は四分の一です。しかも、スクールカーストの学校空間を抜け出して、楽しかった記憶が20年ぐらいあります。過去が過去として、ある種の、ロマンチシズムやノスタルジーの対象になるには、生々しさを失うために、同レベルの時間の積み重ねが必要に僕は感じます。だから、大学が4年とすると、社会人に出て4−5年目で、スクールカーストの学校空間の過ごした約10年を超えます。つまりは、27-8歳を超えた時点ぐらいまで、トラウマは心に聖痕を刻む、ということです。そのへんまで耐え抜いていると、やっと傷が疼かなくなってくるのです。もちろん、ちゃんと成長している人だけがね、、、。


もう一つは、時間の密度です。30後半や40代くらいの時間の密度は、1年がとても短い。極端に言えば、生まれて初めてのことを経験している10代の若者と比較して密度は十分の一です。いいかえれば、中学生や高校生の9年間は、僕らの10倍の密度が、、、そう90年以上あると考えていいと思うのです。この密度の差は圧倒的なものがあります。インプロヴィゼーションと僕が呼ぶ一回性の強度は、悪いこともまた同じように重さと密度を持って人の心にのしかかります。


なんの未来の保証もなく、あと90年・・・・もうそれは、ほぼ永遠です。その時間を、スクールカーストの恐怖の世界でサバイバルをして生き残っていかなければならないのです。そして、そこでそれなりに武器がある、リア充と呼ばれる上位のカーストに位置する階層の人間であれば、まだいいです。しかし、その最下層に位置してしまうと、ほぼ逆転は不可能になります。その地獄を、永遠に等しい時間を、未来の希望を実感できないで、耐えて暮らして、生き抜けって、、、どんだけ無理な要求だよっ!と自分で考えていて思いました。自分の無い目にる「学生の頃の自分」は、僕の大人になった自分のアドバイスを拒否します。拒否というか、それは、理論的にはわかるんだけれど、実感できないし、そのことで動機やプラスのエネルギーはつくりだすことができません。ならばお前(=今の僕)が100年に等しい時間を同じような密度の地獄を耐える勇気を持てるのか?と質問されれば、それは無理だからです。それは、安全な地位から、上から目線での、アドバイスしているだけになってしまいます。



■「なぜ、ほんとうの友達が欲しいと思うようになるのか?」という起源の問題

さて、先ほどの3つ設問に戻ってみましょう。なぜ、「ほんとうの友達」が切実に欲しい、と思うようになるのか?。それは、(2)の「ほんとうの友達」の定義に関わるのですが、これは、いろいろな人の話をずっと聞き続けた結果、絶対的に自分を裏切らない相手という意味だということがわかってきました。僕はいつも、人というのはなぜ、こういうような0と100の極でしか問題を捉えないのだろう?と不思議に思うのですが、レンジで物事を捉えないのですね。「まぁまぁの友達」とかいうのはないんですね、要求事項に。100の絶対的な裏切らない友達というのは何を言っているかといえば、神様を要求しているような「絶対性」を要求しているに等しいです。それって、もちろんのこと100%不可能なことです。これって何を言っているのかというと、僕の勝手な仮説なんですが、地獄のようなスクールカーストの学校空間における、「神様」を生み出している信仰なんじゃないかな、と思うのです。極論過ぎる?(笑)。意味するところは、学校空間という荒涼とした永遠に続く地獄の中で、何もすがるものがなかったので、妄想で神様(=絶対性)を生み出して、それが手に入れば、救われる救済されるという思考のループにはまったんじゃないかな、と思うのです。



■対リア充実に対する憎しみからの解脱は本当に可能なのか?〜海燕さんの言う脱ルサンチマン系はありうるのか?

同じように、ある種の仮想敵を見出して、すべてはそいつらが悪いという陰謀論に陥るのが、モテ敵視とリア充敵視です。敵がいる、悪い奴らがいる、という二元論は、非常に人の心をとらえやすい類型であることは、僕がずっと語ってきたことです。そして、袋小路に陥る非常に不毛な道筋であることも。


いいかげんモテを敵視するのをやめませんか?(1184文字)
http://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar187470


海燕さんが、そろそろ、この学園ものの文脈に流れる、善悪二元論的ラスボス(=リア充・モテ)物語類型に対して、懐疑を感じているんだろうと思うのですが、僕もこの感覚と意見にとても共感します。僕は前回のラジオで、俺ガイルの葉山くんの設定とエピソードがとても共感する、と書きました。あきらかに、モテ・リア充かつスクールカーストの頂点に、その実力で君臨する葉山くんは、圧倒的な存在感を放っています。ぼっちの主人公ヒッキーに比べれば、月とすっぽん。軽蔑の対象となるはず・・・・が、違うんですね、スクールカーストの空気の奴隷という支配くんの外側から外を眺め、外側の力学を使用して、自分が傷つくこともいとわずに内部干渉をするヒッキーに対して、あきらかに、屈折した憧れと共感を持っています。スクールカーストは、三角形のピラミッドで表現できる単純な、権力構造です。しかしながら、違うルールから見た時に、葉山くんは、ヒッキーがとてもうらやましく感じているのだろうと思います。

ガガガ文庫 やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。6(イラスト完全版)

ああ!!素晴らしい、と僕は思いました。これが人生!、これが人間のいきる世界なんだ!と思います。単純な尺度だけで、物事を割り切る二元論は、そのゲームのルール以外のルールもたくさんこの世界にはあるんだ、ということが全く分からなくなっている人々です。リア充対ぼっち、モテVS非モテというのは、そういう軸がないとは言えないでしょうし、スクールカーストなどの様々なヒエラルキーによるトラウマが作り出した事実であるのは間違いないと思います。でも、世界には、そうでないルールもある、ということを、忘れてしまったまま、同じところに、同じトラウマで世界を捉え続けることは、とても悲しいと思います。その人は、スクールカーストによる固定化された自分のポジションのステージを、ついぞ変えることができないまま生きていることになるからです。奴隷は、解放されてもなかなか自分が自分を棄損し、軽蔑する気持ちを捨てられないものだそうです。差別もまたそう。確かに、一度受けたトラウマや傷は、生涯、人を悩ますものです。とはいえ、先ほどの時間の比率と密度の話をしましたが、こつこつその時に必要なこと積み上げて、普通にただ生きているだけで、解放の時はやってきます。同じ世界に固執しないで、前さえ向いていれば。それは単純に比率の問題だからです。だから、時間がすべてを洗い流してしまうものなのです。時は、とても優しくて残酷なものですから。


僕は、この学校空間スクールカーストの生み出すトラウマ・ルサンチマンの問題は、かなりの比率で時間の問題だ、と思っています。時間の切り口で言えば、どの世代にその人が生きていたか?それと、その人が今何歳か?ということに強く依存はすると思います。そういう意味で、たぶん30代になれば、普通に生きていると、このあたりの話は相対化されてくるはずだろうと思います。それと、学園ものの「友達が欲しい系」というのは、『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』『僕は友達が少ない』『ココロコネクト』などから、さまざまに展開していて、一つ金鉱を見つけると、ライトノベルはそのフォーマットをガンガン使い尽くします。そういう意味では、小説家になろうの「異世界ファンタジー」「強くてニューヒーロー」形の物語類型フォーマットの可能性を広げ尽くそうと実験し続ける構造と凄く似ていると思います。それは、ライトノベルの作成がとても速いサイクルの商品投入、プロダクトライフサイクルを描くものだからだろうと思います。

僕は友達が少ない (MF文庫J) ココロコネクト ヒトランダム (ファミ通文庫) 俺の妹がこんなに可愛いわけがない (電撃文庫) 俺の彼女と幼なじみが修羅場すぎる (GA文庫)


そういう意味では、LDさんが、実は友達って必要ないんじゃないか?という意見を言っているのは、長い時間のスパン(上記の比率の話)で考えると、「ほんとうの友達」なんて、そもそもいらないんじゃないか?ということに、読者が気づいてきたのではないかな、と思います。この系統を追っていると、さまざまなフォーマット展開がバロック化するので、全体の構造が浮かび上がってくるんだろうと思います。俺ガイルでは、リア充軍団の頂点の葉山くんが、ヒッキーに屈折した憧れを持つようなピラミッドの逆転構造を描くことが、スクールカーストの絶対固定化ともいえる対リア充ルサンチマンへの、明確な反逆です。だってこれ、革命ですから。もちろん、スクールカーストは革命が起きては、すぐにひっくり返る下剋上の「食うか食われるかの・万人の万人に対する闘争」を行っている内部闘争ムラ社会です。ちなみに歴史的事実で言えば、日本的村共同体が内ゲバを起こすこのいじめの構造は、なんといっても連合赤軍事件の内ゲバです。また、もっとワイドスパンでいえば、中世や戦国時代の「下克上」というのも、このカテゴリーの極大版だろうと僕は思います。「絶対性」が失われて、万人の万人に対する闘争に陥るのは、日本社会の共同体的心性の基本の仕組みです。これは、日本社会が凄く平等で、みんなが自分の意見を曲げないとても個の主張が強い社会だから起きる(凄い通説とは逆説的!!)と山本七平は分析しています。丸山真男も同じこと言っていた気がします。このトップを認めない引きずりおろすの大好きな下剋上社会で権力を握るのは、天皇制の中でその二番手に位置して、二番手グループが共同謀議をして裏から操縦するという絶対性(=仲間をこえた正しさ)が、このムラ社会に、ムラの基準を超える正しさを打ち立てるのには、とてもやりやすい社会工学的なツールなのでしょう。たぶんこれに異を唱えて、本気でやろうとしたのは、日本史上、絶対王政をその手に実力で手をかけていた織田信長だけではないか、、、とかそういう話は、話がずれすぎですね(汗)。


とにかく、この流れで見ると、そもそも友達なんかいらないんじゃないか?という流れに、向っているように見えます。それって、具体的にはなんなんだろうか?。


ちなみに、僕は、いじめの問題やスクールカーストの序列づけの問題、空気の奴隷と化して万人の万人に対する闘争と貸す学校空間というのは、日本社会の縮図でありコアみたいなもので、解決できるとは全く思っていません。もちろん、マクロ的には、不可能とは思えないし、今後のグローバル競争に勝ち残っていくために日本社会自体がそれに適応して教育の制度や仕組みは変えなければならないとは思います。けど、マクロの話とミクロの話は全然違います。ミクロ、、、たとえば、いまスクールカーストの学校空間で生きている男の子や女の子に、僕が何をアドバイスできるかといえば、上記の言ったことを凄く薄めて(そもそも胡散臭いので)ただ単に、時間が過ぎ去って卒業するまで我慢してください!としかいっていないんですね。なにをいっているかといえば、それは、もうどうしようもない、解決する方法がないんです、と言っているんですよ。実際、僕は、ずっと年齢を経て、ずっと俯瞰的に見れるようになって、ミクロ的にこれを解決する方法は思いつきません。とにかく、スクールカーストの低い位置にいたら、永劫ともいえる長期間の地獄に耐え忍ぶしか、道はないんですよね、、、。


けれども、そこに、対リア充た対モテなどという、分断統治そのもののような、二元論を持ち込むと、より救いがなくなる気がするのです。だって、自分がリア中になれない!モテになれない!という強烈なルサンチマンと、本当は、別に敵でもなく緩やかに、そこそこ「知りあい」ぐらいの位置で、バランスよく過ごせる相手との、永久闘争(=ようは、いじめを生み出す派閥抗争)をより激しくしてしまうだけなんだもの。別にリア充だからと言って、幸せなわけでも何でもないよ!とか、モテだからって楽しいわけでも何でもないよ、とか、ほんとうの友達なんかいなくたっていいと思って(事実そうだと思う)、ゆるくダラダラ過ごしていれば、時は過ぎるんだから、そこそこ楽しければ(=裏返せば苦しくなければ)やり過ごせばいいじゃないか!と思うのですよ。そういう戦略もありだ、と思うのです。どうせ日本社会の縮図であるムラ共同体の派閥抗争のサバイバル空間を生き抜かなければならないのならば。


そのファーストステップとして、『そもそも僕は友達なんかいらない!』とかいうライトノベルが読みたいです!!(笑)


ちなみに、この系統の文脈は、『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』がとても追求しています。なぜならば、ぼっちとは、孤独を知るものだからです。そして、ここで孤独を知ることとは、空気の奴隷とならない自立した視点を維持することを意味する孤高だからです。それは、日本的空気の奴隷のムラ社会共同体から独立した、自立した個人って意味だもん。


だから、僕は主人公のヒッキーが大好きです。


自立するのは、おもねらない。空気に逆らう意思も持つものだからです。ちなみに、4巻ぐらいまでは片鱗もないので、ぜひ最新刊まで一気に読んでください(笑)でないと、良さがわからないと思います。

(2)に続きます。

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。4 イラスト集付き限定特装版 (ガガガ文庫)