『スキップとローファー』高松美咲原作 出合小都美監督 通常であればつながらなかった友達が絆を結んでいくところに現代最前線を感じます

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評価:★★★★★星5つ
(僕的主観:★★★★★星5つ)

6月14日。金曜日の夜に、唯一ある自分の自由な時間で(笑)、P.A.WORKS、出合小都美(であいことみ)監督の『スキップとローファー』(2023)の12話を一気に見てしまいました。もう、ずっと胸がむずむして、小躍りしたいほど、いいアニメーションでした。終わって、すぐにマンガ全巻買って(大人買いができる!自分が嬉しい!)最新刊の10巻まで読みました。大好き。原作も神ならば、アニメーションも素晴らしい出来。それだけではなく、OPのダンスシーンの素晴らしさは、こんなの見たことねぇ!と感心するほと、素敵で泣けてきます。出合小都美監督という方は、知らなかったんですが、素晴らしい才能ですね。僕は、知らなかったのですが、この方の他の作品も見てみたいです。ちなみに、2024年の6月の今は、芦原妃名子さんの『セクシー田中さん』問題がずっと話題になっているのでメディアミックスというのは、とても難しいのだなと考えさせられることが多いので、こういう幸せ中作品を見ると、ああ、すごいなって思います。

シナリオの打ち合わせには高松先生もほぼ毎週出ていた

febri.jp

ちなみに、導入部の演出について、ネガキャンになってしまうのですが、Netflixの『好きでも嫌いなあまのじゃく』のアニメ映画があまりに酷くて、そのひどさのせいで、自分の「受け取る感受性」が下がったのかなとまで、ダメージ受けていたんですが(笑)、こういう素晴らしい物語を見ると、そして原作の意図を考え抜いて演出されている導入部を見ると、ああやっぱり、あっちが酷かったんだなと安心します。ひどい言いようですが、やっぱり「その世界に入れない」という拒絶感は、とても苦しいんですよね。ものによっては、「自分が受け付けない」という問題点もあるので、悩んでしまいます。今の時代、なかなかひどい作品に出会いにくいので。


アニメーションの1話の一気に引き込まれて、素晴らしかった。導入部が、本当に、全ては大事なのです。「物語」がはじまらないものは、物語じゃないからです。


主人公の岩倉 美津未(いわくら みつみ)に引き込まれるシーンは、高校の入学式の首席による宣誓のシーン(11分目ぐらい)。


ここは、漫画原作の本質を掴んで、アニメーションならではの遥かに見事なシーンに昇華されていて、ここでノックダウンでした。原作と比較してみればわかるのですが、この美津未(みつみ)という主人公の、人間性が、初見の僕にはわからないんですね。田舎から出てきた女の子というのは伝わりますが、それ以外に彼女を示すエピソードはないし、この後で説明したいんですが、はだしで入学式に間に合うように走り出すことからも、田舎の、素直で真面目でちょっと鈍臭い子というイメージ以外は何もない。


そこで、入学式に、全力で間に合うように走っている意味が、わかるんですね(ここが約8分目くらい)。首席で、新入生代表だから、間に合わないと困るんです。そして、宣誓書の紙を忘れる。このぼんやりとした、だいぶ生活力としては残念な美津未という女の子としては、見ている側は、あーーーという納得しかないです。


しかし、一瞬の間をおいて、彼女の中でスイッチが切り替わる。


暗唱を始めるんですね。このシーン、しびれました。ほんと、素晴らしかった!!!!。声が聞こえること、間が取られていること、さまざまな視点から、マンガよりも遥かに素晴らしくマンガで描こうとしたいとがアニメで演出されています。このことで、美津未が、生活力は鈍臭くて天然ではあるけれども、とびっきり頭が良くて、いざ勝負どきに胆力を発揮できる、人間力が凄まじく高い子なのが、ど直球で伝わってくるんですね。このキャラクターがエモーショナルに伝わってくることなくして、この作品の伝えたい本質が、はじまらないんです。いやはや、見事です。監督。


そして、この前のシーンで、志摩 聡介と岩倉 美津未の出会いのシーンが描かれています。靴を脱いで、靴下も脱いで裸足で、「そこまで頑張る必要もないこと」と聡介が感じている入学式へ全力でかけていく美津未の姿を見て、聡介が感化されているの伝わってきます。ここの演出も、この子が、運動はまるでダメで、体力が全然ない鈍臭い子なのが仕草や動きで強く伝わります。「にも関わらず」彼女は駆け出すんです。全力疾走で。


ただ「これだけ」では、聡介と美津未の出会いに重さが生まれないんですね。そういう小動物が頑張っている姿を見て微笑むような気持ちは、動物の癒し動画を見れば、いつでも味わえます。この後に、上記の暗唱のスピーチ事件があるから、


物語がはじまる


んです。これが、ドラマトゥルギーの種です。聡介が、基本的には何らかの理由で、スペックが高いけれども、やる気がないというドラマの種があります。でもこのドラマの種に触れることができる人はいないんですよ。そこに、ただの小動物では、食い込めないんですよ。聡介の内面が、走っているシーンをで、ジワジワ変わっていくのが、伝わる。


素晴らしいです。原作がもちろん素晴らしいのですが、その意図を寸分なく誤解せず、素晴らしい演出力で演出する能力はさすがでした。



🔳異なる立場のつながりと絆を描いていくところは、時代文脈的に最前線

文脈的に、通常であればつながらなかった友達が絆を結んでいくところに現代最前線を感じます。ええとですね、江頭 ミカ(えがしら ミカ)、村重 結月(むらしげ ゆづき)、久留米 誠(くるめ まこと)四人の仲良し女子の話が、アニメや5巻までのメインですね。


それぞれが、タイプが違いすぎて、「仲良くなるのが難しい」子達なんですね。この子達が、ミツミを通して、繋がって、友達になっていくところが、その「あり方」がとても現代的。


僕には、学校空間の地獄という文脈的なテーマがあって、それはどういうことかと言うと、2010年代の頃のライトノベルで、特に『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』(俺ガイル)が、典型的だと思うのです。けれども、学園ラブコメのテーマの場所として、当然学園ですから、学校であるわけです。その中で同調圧力の地獄の空間が広がっていて、ハイカーストとローカースト、この場合は、陽キャのグループとオタクとかコミュ障の下層のグループが、まるで最終戦争張りに対立していて、お互い嫌い合っていると言う構図がありました。労使対立みたいなものですね。その中でどうやって生き抜いていくのかというのが常にテーマとしてあったような気がします。

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これは三宅香帆さんの『なぜ働いていると本が読めなくなるか』の話の時に話をしたんですけれども、やはり2000年代からの新自由主義的なサバイバルのあり方のパラフレーズだったのではないかと思っています。僕らアズキアカデミアが、新世界系という名で読んできた、目的が。常に生き残ることだけになっている世界。

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日本は戦争しているわけではありませんので、この苦しさというのが学園物の学校空間で展開されたと言うふうに僕は考えています。そこではいくつかのサブテーマが存在しているんですけれども、特に大きなのがスクールカーストの上下対立、それと同調圧力の地獄です。


2000年代からの約20年ぐらいのテーマは、この地獄からどのように抜け出すのか?というのが大きな文脈的なテーマとして存在していたと思っています。


俺ガイルが展開してきたこのテーマの道筋と言うのは、僕がブログでかなり細かく各巻ごとの展開を分析しているので、それもぜひ見ていただきたいと思います。特に大きいのは、ハイカーストとローカーストの上下の対立が解消していく過程です。いわゆる、リア充死ね、という言葉に代表されるようなオタク的な種族が、スクールカーストの上層部に抱くリア充と言う敵対的な意識。しかし、実はお互いを理解していくと、どちらも苦しいというのがわかってきて、実は共同戦線を貼ることも可能なんではないのかと言うような、対立の解消が行われてきたと言うふうに僕は思っています。俺ガイルの主人公の比企谷八幡葉山隼人の関係とドラマは、まさにこれそのものだと思います。このこのポイントが、スキローで特に現れているのが、岩倉 美津未(いわくらみつみ)のクラスメイトである村重 結月(むらしげゆづき)の話だと思っています。彼女は典型的な美人で、頭が良く、性格も良く、育ちも良く、さらに言えば、帰国子女といった属性までついているハイカーストのに分類される種族の人になります。だけれども、彼女の恵まれている属性が、むしろ彼女が生きていくのに非常にマイナスになっていると言うエピソードが何度も何度も語られます。

特にマンガの6巻以降のところで、学年が上がることで、もう一度新しいクラスで友達を作り直さなければならないという1巻のステージが戻ってくるわけですが、中学で非常に人間関係で苦しんでいた、また同じことが彼女の身に降りかかるわけです。結局これは何を言っているのかと言えば、俺がいるで描かれていたように、スクールカーストの上位の種族であろうが、イケメンや美女であろうが、つまり、ルッキズムの最上位にいたとしても、その生きづらさというのは変わらない(むしろもっと厳しい)のだと言うことを明確に示しているのだと思います。彼女のエピソードが等分(コミュ障とかルッキズムの強者でない他のキャラクターのエピソードと比較して同量にあるという意味)に描かれると言うのは、言い換えれば、生きるのがしんどい、苦しい、と言うのは、どの属性の人でもまた同じである。と言う話をしているのだと思います。『かぐや様は告らせたい〜天才たちの恋愛頭脳戦〜』の子安つばめ先輩の話はまさにこれでしたね。

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これは、俺ガイルで最終的に描かれた結論(ハイとローのカースト同士で共同戦線を組むべき!)が、もうすでに一般化して前提となっていることを表していると、僕は考えています。では、このように、同じ内面的な苦しさを、学校空間の地獄の中での生きづらさを抱えたときには、その生きづらさを軸として、絆を構築して、友達となっていくと言うことには、とても価値のある意味のある美しいものになります。そしてそれは、かなり偶然に左右されるものだと言うことも、前提として描かれており、だから、すなわちクラス替えがあった瞬間に元に戻ってしまったりするのです。この辺の、繰り返し、人間関係の再構築を求められる人間社会のしんどさだなーと思います。クラス替えとか、ほんとしんどいですよね。これは赤坂アカさんのかぐや様は告らせたいのエピソードと非常に似ていると思いますこの辺のメタ構造について、ものすごく意識的な作家者であるので、赤坂アカさんは本当にうまいと僕は思っています。赤坂アカさんが、かぐや様で描いていた話では、ルッキズムの上層部にて、かつコミュニケーション能力が下手な場合は、そうでない人よりも、はるかに生きるのが地獄であるということが描かれていて(子安つばめ先輩や大仏 こばちのエピソード)、このことがものごとの前提として描かれるようになると、リア充死ねという言葉のメッセージ性が解体されてしまうことになっていると思っています。

では、その中で友達となること、言い換えれば絆を構築していくと言うのはどういうことなんだろうか?、それがこのスキローでは描かれていると言うふうに僕は思っています。僕が、よく言及する『その着せ替え人形は恋をする』は、この前提が当たり前になった世界での話になっているので、新しい、新しいといっているんですよね。

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🔳ダンスシーンの秀逸さ

昨日癒されたくて(笑)、『スキップとローファー』のアニメを見たんですが、止まらなくて全部見ちゃった。このOP素晴らしすぎて、何十回も繰り返してみてる。このダンス、なんだよ!もう!って胸が熱くなるーーー。やはりこの部分は、注目している人も多くて、解説がいくつもあって、素晴らしかったです。

アニメのオープニングやエンディングでキャラクターがダンスを踊る作品は数多くありますが、そのほとんどはキャラクターがカメラ目線で踊るもの。しかし、「メロウ」のこのダンスにはカメラ目線が一度もないことで、キャラクターの心の底からの笑顔や素の表情を視聴者が覗き見ているような感覚になります。

スキップとローファー OP・ED主題歌を徹底解説 - Part 2


このようなみつみの姿は、まさにそこにカメラも撮影者もいないからこそ出てくる自然なものだと言えるでしょう。そしてその自然体の2人の幸せそうな姿にこそ、我々は心を動かされるのです。

そしてこれは同時に、演出上の工夫の賜物とも言えます。意図された振り付けとは異なるナチュラルな仕草を随所に取り入れることで、通常のダンスシーンでは描けないような、等身大のキャラクターの姿を描き出すことに成功しているわけです。言うなればドラマのNGシーンのような、隙が見えるカットをあえて完成版で使っているという感じでしょうか。

また、カメラの存在を空間から排除したことで、スキローのOPでは従来固定されることの多かった(せざるを得なかった)視点を何の制約もなく動かすことができています。これによって先述のような、キャラクターの生き生きとした表情を自在に切り取ることに成功しています
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このダンスシーンでのみつみちゃんのかわいらしさは、とんでもないと思います。明らかに美人として描かれているゆづきと比較すれば、三白眼で、けっして美人として描かれているわけではないのですが、魅力がめちゃくちゃ溢れてて、ああ、かわいい子だなーと心揺さぶられます。だって、これで頭いいんだぜ。。。いい感じ、全然しないけど(笑)。


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🔳何歳になっても人間関係の出会いと構築は、辛くしんどく、そして愛おしく美しい

えっと、話を戻しますというか、スキローの本質は何かというと、やっぱり友達の絆の話だと思うんですよね。2000-2010年代というのは、人間関係の絆がバラバラになって個に解体されていった時代なんだなぁと思います。でも、偶然でできる共同体=絆というのは、「個のあり方の多様性を抑圧する同調圧力の地獄」なんですね。普通に長い近代で作られる共同体って、村社会とか、会社共同体とか、家族の家父長主義とか、、、そういうのって、上手く回れば美しいかもしれないんですが、かなり多様性を抑圧して、少なくとも個人の自由は皆無の関係性だと思うんですよね。だから、僕らの社会は、一度個人に分解されて、バラバラになって、「個人として生きていくとは?」ということを体験しないと、多様性は獲得できないんだろうと思います。個がバラバラならになった世界で、しかも経済も高度成長が終わり、低位安定の時代になると、その世界はある意味地獄です。だって、階級が定まって、下層の人間が、いつまでもそこから抜け出せなくなるわけですから。これ、僕が、2010年代を代表する傑作として『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』を解説した時の話ですね。

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この時の結論は、階層が固定化して、物質的に全てを奪われると人間だどういうふうに生きることになるのか?という問いでした。経済が成長しない、地獄の最下層で、「何者にもなれずもなれずに死んでいくだけ」のカスのような存在に成り果てて、バラバラならになった(=連帯ができない)個々人が、全てを奪われてもできることが一つだけありました。それは、

明日を約束すること

だったんですよね。オルガと三日月は、互いのために生きること、死ぬこと、信じることを「約束」することだけはできたんです。そして、ただそれだけで、世界はキラキラしたものに変わるんです。たとえ、カスのように死のうととも、それは、価値と意味のあるものになる。だから、すべてを奪われても、人は絆を作ることだけはできるというのが、、、、、それどころか、「ほんものの絆」を作る条件の最初が、「何も持っていないこと」、だったことがわかるわけです。ここで描かれたのは、人間が、何も持っていない物質的なものを全て奪われた「希望」のない世界に生きていても、必ずしもMADMAX的な北斗の拳的な、暴力が支配する無秩序空間になるわけではない!ということだと思うんですよね。

2024-0615【物語三昧 :Vol.216】『マッドマックス:フュリオサ』世界が滅びた後の北斗の拳的なヒャッハー無秩序万歳の世界観をどう見るか?-224 - YouTube

とはいえ、何もここまで(オルフェンズやマッドマックス的なもの)いかなくとも、、、、というか、仮に日本の先進国の中産階級の世界であっても、学校空間の同調圧力の地獄という生活空間が、それよりもマシな世界であるとは限りません。とても愛されて育ったみつみを除けば、ミカ、誠、結月の生きづらさというのは、決して劣るものではないと思ういます。物質的に貧しくないからといって、精神的な苦しさが地獄でないかどうかなんてのは、本人にしか分からない問題ですから。それぞれの「生存戦略」・・・生きるための課題というのは、重いのです。


こう考えると、岩倉 美津未、江頭 ミカ、村重 結月、久留米 誠の四人の属性って、一昔前ならば、対立してお互いを嫌い合うエピソードばかりが積み重なる関係じゃないですか。


とくに、ミカは、明らかな悪役ポジション。でも、彼女からの世界の風景が丁寧に描かれると、彼女が美津未や結月を嫌ってしまう、いじめたくなってしまう気持ちは痛いほどわかります。彼女は彼女で、自身の生存戦略でサバイバルしてこの世界を生き抜いてきているので、自分の生き方を変えたりするのはとても難しいんです。とても人間臭くて、生々しくて、そうだよなーと思います。

ウルトラコミュ障の誠と美人で洗練されている結月とでは、そもそも嫉妬が発動しやすすぎて、相互理解も見ている世界が違いすぎて、本当に難しい。。。けれども、「難しいからこそ」、あなたを理解したいという誠から結月へ話しかけるシーンは、ボロボロに泣きながら見ていました。