ロマンチックラブイデオロギー解体の視点で恋愛を描いた物語を眺めてみる(1) あなたにキラキラはありますか?

ディアティア

えっとね、これを読んでいる時に、いろいろ思いついたので、、、こういう少女マンガを見る時に、僕の中ですっごく大きな見る視点って、なんだろう?って少しまとめてみました。それは、


「キラキラ」って、どこからきて、どこへいくんだろう?


というテーマです。うんとねーこれって、関係性を見る上で、そして少女漫画を見る上で、それから僕がテーマに見ている「家族」の変遷を見る上で、そして自分の恋愛や家族を考える上で、そのすべての主軸となるアイディアというか「ものの見方」なんです。ちなみに、以下の超長文の記事は、『ディアディア』の話ではありません(笑)。これをよんでいて、いつもおもっていることをインスパイアされて、ちゃんと書き出してみようと思ったんです。


とても長くなりますが(苦笑)。そもそも、


恋愛って何?


ということを、高校生ぐらいに考えたことから始まります(笑)←おまえなんやねん!)。そんで、このころからちゃんと分析の基本を僕はわきまえていたようで、物事を考える時には、縦軸と横軸が必要で、そのうちの縦軸(=時系列の変遷)について考えたのですね?。簡単いい言えば、どっかの歴史の教科書とか社会学の本でも何でもいいから、恋愛の歴史ってないのかな?って。←明らかに頭のおかしい高校生男子です(笑)。普通、そんなこと考えねーよ。


そうするとね、あるんですよ、これが、恋愛=ロマンチックラブってのは、西欧社会で生まれた特殊な概念で、明治期の日本には「輸入」された概念なんだそーです。これは、近代産業社会において不可欠な「個の労働者」を「再生産」させるために作られた「核家族」というものを支えるイデオロギー装置だったことは、ほぼ解き明かされていることみたいです。機能的には、専業主婦による家内の再生産をベースに、外に労働者として働きに出る男性を確保+次の世代の子育てをすることによって社会のサスティヴィナリティするっていう核家族のことです。まーこれがほんとなの?とかそういうことは、学者ではない僕にはわかりませんが、まぁ、思考のベースとして、なるほど、非常に理解しやすい出発点です。アメリカや西欧社会の基本の対人関係性モデルでもあるし。


僕はフェミニストとかではないので、これが故に、これ(=ロマンチックラブイデオロギー)を解体するのが正しい!とか、いやそうでない!とか、そういう論争には全く持って興味がありません。正直、そういうのはどうでもいい。ようは、いかに自分が、楽しく、うまく「生きるためのノウハウ」を考えて、その手掛かりにしたいだけです。この姿勢は、岡田斗司夫さんの『フロン』などの本を読んでいて、とても思ったことです。僕は学者でも思想家にもなる気もなければ、興味もないです。だって、リーマンやってるパンピーですもん。だから思想も、学問も、自分の実生活に直接に「役に立つ」ものでなければあまり意味がありません。なので、別に正しさはどうでもよく、とにかく、今自分が持っているモヤモヤに直接行動の契機を与えてくれたり、もっともらしい解説をくれれば、それでいいのです(笑)。


納得性の方が、事実よりも重要。だって行動の動機にならなければ、意味ないもん。


ちなみに、下記の2冊は、「オカマ・エンジン(=男が少女マンガを理解するための姿勢)」の話や「女性の中にある母親の残像(=女の子が自分で自分を縛る心理機制)」の話など、なんというか、ものを考える「手掛かり」として物凄いベースとなっているので、ちょっと時代的には古いかもしれませんが、おもしろい本なので、ぜひ読んでみるのをお勧めします。しかも「つかえます」よ。usefulです。イデオロギーに堕する学問系や思想系の話は、なんか凄く疲れるし、洗脳されているような気がして、僕は好きじゃないんですよねー。間違っていても、思い込みでもいいから、自分で一歩づつ、ものを読み、考えて、体験して、そうやって積み上げて「わかった(=エウレカ!)」となっていきたいのです。思い込みも間違いも、それもまた、ものを考える醍醐味ですから。思い込みや間違いがあれば、それが解けた時の喜びもまた、素晴らしいので。僕は、


「自分でものを考える!」という趣味をやっているのです。


まぁ、掛け金となっているのは、その「考えたこと」で、自分の人生で試すので、自分の人生です。まぁ、いまん所、僕は人生に失敗していないと思っているので、おおむね考え方は、間違っていないのではないかなーと思って生きています。まぁ、役に立たなくてもいいんですけどね、自分で考えて、だらだら思索するのって、超楽しいもん。

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さて、続けましょう。しかしもう一歩過去にさかのぼると、この「核家族という機能」を成立させるためのコア(=ボンド・接着剤)をどこから持ってくるか?というと、それは恋愛=ロマンティックラブということが必要です。要は家同士などのつながりによって「つがい」って成立していたんですが、リベラリズムの浸透というか、個の確立を推し進めていく近代分業社会の基本原則から、どうしても家庭や地域にビルトインして埋没していた「共同体的個人」を、個人として自由に解き放ってあげなければならず、その自由な個人同士を結び付けるという「原理」を探さなければならなくなりました。それが恋愛=ロマンチックラブだったそうです。


ふーん、、、。なるほど、これはとてもよくわかります。論理的です。


近代が、共同体に埋没している「個人」を再定義し、それをバラバラに独立させて、分業のネットワークにしていく運動だという大本を考えると、そのバラバラになった個人に、「自由選択」で、社会を再生産させる「つがい」を作る仕組みを作るのに、何かしらの装置がいるのは、良くわかることです。絆が、持続性を持って維持されるには、なんかボンド(=接着剤)がなければならないですもん。



じゃあ次の縦軸の分析の質問はすぐわかりますよね?。



それは、そのロマンチックラブ=恋愛って、何処からやってきたのか?



ってことです。社会学の恋愛に関する分析の本でよく言われるのは、それは騎士道(=チルバリー)から生まれてきた、というのがどうも答えのようです。


騎士道ってなんだろう?


というと、まぁ、ようはヨーロッパ中世社会の騎士のあるべき道ってやつですよね。これって、とっても面白くて、騎士道を最も純粋に昇華したといわれるのは、家の次男、三男坊だ、とう言われています。僕がここでいうのは、特に貴婦人への献身などと云われる、宮廷的愛(courtly love)のことですが、どういうものか?というと、身も蓋もなくいってしまうと、停滞している封建社会において、家を継ぐ存在である長男ではない男ってのは、日本でも部屋住とかいって、社会的価値ゼロのごみ的な存在のことです。常に次男以下は、長男のバックアップなだけで、存在の価値が全くないのです。まぁ、虫けら的な存在ですね。『風雲児たち』に出てくる部屋住み立ちの若かりし頃の本当に悲惨な環境は見ていて、胸に詰まるものがありました。桜田門外で暗殺された井伊直弼林子平なんかもそういう存在ですね。もう、いまの世代だとわからんかもしれないが、長男の重みって日本の現代だって残っているところはのこっているかもしれないので、そこから敷衍すれば、さらに「家の存続」や「領土の継承」がすべてであった封建社会が、どのようであったかは想像できると思います。・・・この部屋住みや次男坊以下の存在ってのは、封建制度の世界では、凄まじく悲惨なポジションなんですが、悲惨が故に、、、、どうも歴史上の重要な機能を果たしている気がします。ここら辺は、今後歴史を考える上で、注目すべきポイントだと僕は思っています。

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・・・・そうした中で、まぁなんというのでしょうねぇ?。恋愛漫画とか恋愛で考えると、結婚して、お姫様を「肉体的に所有して」あれやこれや楽しいことがいっぱいできて(笑)、子供までつくちゃってなどの即物的な行為ってすべて長男の権利で、次男以下には結婚する権利もほぼないんですね。

たとえば、幼馴染のお姫様とかがいて、兄と弟がいたとすると、仮に弟とそのお姫様がどれだけ愛し合おうが、お姫様は長男のものなんです。まーそういうケースが多すぎるくらい多かったみたいですねー。というのは、騎士道が発達のしたのは、領主(=長男)の振る舞いが、あまりに酷すぎて、、、、まぁ強姦でも皆殺しでも、とにかく領地ではやりたい放題。戦争なんかあった日にゃーもう、、、、。そういうわがままがすべて許されちゃうのがひどすぎて生まれた倫理なので、この倫理って、ほとんど長男の領主には適応されないし、そんなもん守る人は全くいなかったみたいです(苦笑)。

そういうすべてを所有している勝者であり勝ち組である、領主=長男に向かって、次男以下が何で対抗したかというと、それが「倫理=騎士道」なんですね。ちょっと倒錯的だとは思うのですが(苦笑)、肉体的にすべて所有しているお姫様(長男の嫁)に、無償の献身的愛を捧げきるのです。手も触れない、目も合わせすらもしない、、、、(苦笑)という純粋さで、その純潔を捧げる(って童貞か!)ってのをがんばるんです。ようは、長男が肉体は所有しても、精神的な愛の純粋さでは負けない!!!!ってがんばるんです。これが、宮廷的愛(courtly love)として、様式美化されていくんですね。そしてこの、絶対的な純粋な精神的愛を「ただ一人の人に・無償で捧げ続ける(=見返り=肉体を求めない)」という概念が、ロマンチック・ラブ(=恋愛)の原型として形成されていくようになります。


さらにこのロマンティツク・ラブの概念が、騎士道の物語の説話で広がっていくことで人口に膾炙してゆき、さらに近代活版印刷と小説の普及により、それまで自由な個人の「選択肢」などというものは全く見たことも聞いたこともない世の中の少年少女たち、、、特に少女が、この「物語」を読むことで、どうもロマンチックラブ=恋愛という概念があるらしいということを知っていくのが17−19世紀の出来事だそうです。ここでは説話と小説が重要な機能を果たしたといわれています。


ようは、少女マンガで恋愛の仕方を学ぶようなもんです(笑)。


マッチポンプだったんですね。そういう物語を読んで「私もこんな恋がしてみたい!」ということで、時には似たようなことを実際に起きてしまったモデルケース、、、まぁ貴族や王族がシンボル的でしょうが、それをモデルに、私も!というのが繰り返されて、それが、近代産業社会における「核家族」の形成の流れと結びついた、と言われています。もちろんさらに敷衍すれば、この騎士道の「愛」の概念が、カソリシズムやプロテスタントの「神の愛」や「神との一対一の関係性」にその起源をもつものであるのも、わかると思います。要はキリスト教を基盤とする西洋近代社会の基本構造なわけです。うん、てきとーに、昔の授業で聞いたことをまとめてみましたが、なるほどなー(笑)。よく覚えてるな俺、、、。


ただこういう感覚って、なんか納得です。というのは意外に世界ってびっくりで、だいたい自明(=当たり前)と思われたものは、人工的に作られてきたものが多いんですよねー。そう考えたほうが、へんに常識やパラダイムに騙されて自分の人生を消費してしまわないので、常に、この世界は作られたのだ!!!という陰謀論的意識を持って眺めているのは大事だと思います。(笑)。『マトリックス』のようにね。この世界をゲームと考えれば、ゲームはルールを変えることとか、いろいろなプログラムの変更ができます。そういうのを社会工学っていうんですよね。陰謀論は、無謬にこれを展開すると、なんでもこじつけで物事を考えるので、だめですが。「この世界を作りかえることができる」という風に考える「考え方」は、とてもいいと思うよ。

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ちなみに、社会を工学的に「作り変えることができる」という志向は、いわゆる左翼やリベラリストの共通基盤になっているものの考え方だそうです。ようは、右翼や保守主義の「あるものを受け入れる」ということをまず拒否るんです。「あるもの(=過去から継承されているもの)を認めない!」という感覚は、ならば変えなければならない!いや変えられるのだ!という志向の流れとワンセットなんですね。まぁこういう分け方がいいのかわかりませんが、僕は右翼(=物事を受け入れる)、左翼(=物事を受け入れないで変えようとする)という風に、考えています。右翼は、大いなるものを受け入れる器の大きさと人間なるものの深さを知る良さがありますが、半面、惰性で「過去あるもの」を肯定してしまうので、差別や悲劇に対して非常にクールです。左翼は、差別や悲劇に対して非常に理想主義的に世界を変えられる!苦しんでいる人を救える!!!と考えますが、その反面、極端な世界を作りかえる思想はほとんどの場合はスターリニズムポルポト、大躍進に結びつきます。人間なるものや世界の複雑性を、人の手で管理できる!という傲慢さが、そこに簡単に到達させてしまう。この辺は、難しいもんです。世界って。どっちの気持ちもよくわかりますもん。この辺の、世界を管理しようとする万能科学者の系譜!という左翼の最も理想主義的な到達点は、やっぱり宮崎駿さんの作品群ですよねー♪。彼が、コアな妥協のない(笑)共産主義者だというのは、わかる気がします。

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さて話を戻すと、恋愛=ロマンチックラブに支えられた核家族の形成ってのは、近代数百年の最近の出来事なんですね。日本で言えば、200年たっていない。明治期の「輸入」ですから。これが西洋近代社会及び分業を基礎とする近代リベラリズム社会の基礎構成のブロックとなっているものです。まぁこれだって、本当かどうかはわかりませんが、ものを考えるいい仮説にはなると思います。と、これが縦軸の分析。ふーむなるほど、僕たちが住むこの近代都市社会ってのは、どうもロマンチックラブ・イデオロギーに支えられた核家族がベースで在り方がデザインされていることは、何となくわかりました。この基礎構造がわかれば、いろいろなことが、分析できたり、考えることができます。まず、日本社会にこれを「適用」したとすると、凄い無理があるのがわかります(笑)。150年近く時間が過ぎているので、かなりこの在り方(=ロマンチックラブをベースとした核家族)は浸透していますが、とはいえ、そもそも「家」を重視して、「個」を考えてこなかった日本の共同体優先主義社会や親族構造が、これにすごく適応不全を起こしやすいのはまず当然でしょう、、、とかとか、そういうことです。


まぁそこはちょっとややこしくなるので、まずは、大所を押さえましょう。


っとちなみに、ロマンチック・イデオロギーの凄いところは、これは、アメリカ1960年代のフリーセックス(性別からの解放運動であって、乱交のことではありませんよ!)等を考えるといいのですが、フリーセックスって、ジェンダーフリーなんですが、要はまずは始まりは、性によって役割を規定されている、例えば家に縛られている女性が縛られなければいけない理由ない!(といっても上記の産業資本主義の仕組みからいうと理由はあるんですが…)というリベラリズムの個の解放の考え方に始まり、さらには、黒人×白人とか、要は人種を超えたカップルを肯定しようという話に行き、そして、そもそも男×女だけではなく、女×女でも男×男でもなんでもありじゃやないかって進んでいくんですが、その時に、このどのケースでも、ロマンティックラブ・イデオロギーは親和性があるんですね。それが凄い。極端な例では、男と男や女と女などのゲイやレズビアンであっても、簡単にこれは適用できます。だって、そこに愛があればいいじゃないか!(笑)って言えるじゃないですか。これは、騎士道の基礎を考えれば、そもそもが「純粋で精神的な愛」をイデオロギー化したものなので、肉体や役割に拘束されない概念だからですね。


さて、てて軸の歴史はかなり分かったので、次は「機能の中身」に入ってみたいと思います。ここまで恋愛=ロマンティツク・ラブ・イデオロギーが世界中に浸透したからには、この「機能」ってのは、人間にとって本来的で本王的な部分にすごくフィツトしているから、凄く効果的な力があることだと思うんですよ。


ではそれってなにか?


というと、僕は、「絶対性」とか「キラキラ」とよんでいます。以前に、


Shall We ダンス?』 ピーター・チェルソム監督 妻への本当の愛情
http://ameblo.jp/petronius/entry-10076503891.html

この記事を書いたときに、、、、って、これ、2008年?もしくは7年ぐらいに書いているんですよねー、ここの記事の中でこの配偶者に対しての絶対性を維持したいと思う心理というものと日本社会には、ほぼこれは皆無であるという日米の結婚観の違いを強烈に感じた時のことを思い出しました。。。

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ただ一点だけ、邦画と全く異なる解釈が為されている部分がある。それは、リチャード・ギアスーザン・サランドンの夫婦関係の解釈だ。これはリチャード・ギアも喧伝しており、結構有名な話だが、実際に映画を見ると日米の夫婦関係の違いを非常に強い形で見せられて、非常に興味深かった。これほど見事にツボが違うのは、たぶん米国における家庭・夫婦観と、ものすごく異なっているということだろう。異文化理解にも重要ポイントかもしれない。実は、個人的には『この部分の米国解釈』に僕は、落涙。

ネタバレ(まだ見ていない人は読まないほうがいいかもしれません)

まぁ、というほどでもないので書いてしまうと、そもそも日本版も米国版も日常に飽きている主人公(日本はサラリーマンで米国は遺言処理のサラリーマン弁護士)が、その日常つまらなさからくる心の空洞を、草刈民代ジェニファー・ロペス役のダンス教師というマドンナにほのかな恋心を抱くことから始まり、その恋心が『ダンス』という「非日常のここではないどこか」へ主人公と連れ出してしまうことで、埋めるという脚本構造になっている。


日本版の主人公役所広司の妻はあくまで影の存在であり、脚本のメインはあくまで「主人公のダンス教師への憧れ」である。


いわゆる寅さんシリーズのマドンナのような存在である。そして、包容力のある妻は、そんな男のわがままを影から見守ってあげる、大きな包容力のある存在として描かれている(ように僕には思える)。だから、核家族である家庭を成立させている大きな要因は、夫婦の愛ではなく娘の存在である。そうすると、男性の「日常の退屈さによる脱出願望(=ダンス教師への恋心)」は、妻との関係よりも明らかに上位に来てしまうのだ。もちろん、道徳的に浮気を肯定するのは変だから、ここで解釈としては妻との関係は、「娘がいること=家庭そのものを維持すること」は、しょせん一時の火遊びよりも「もちろん」大事なんですよ、という言い訳が存在する。つまり、妻というより母の包容力という意味だ。


ところが、米国版で主人公であるリチャード・ギアは、そうした自分の「日常の退屈さによる脱出願望」を、妻と一緒に解決できなかった自分を悔いて贖罪意識を強烈に持っている。これは、米国人が持つ夫婦という関係が、一種の絶対性を持っていて、あらゆることより上位に来る価値観であるということではないかと、僕は思ってしまう。


えっ?わからないですか?


よく米国とアジアの違いは、横と縦の違い、と文化人類学的に比較されます。



米国人にとって親孝行(=親や子供を大事にする)という価値観よりも、横(なによりも配偶者と友人たち)が優先するのです。


逆に、日本や韓国、中国などアジア人(実は中身は微妙に違うが)は祖先崇拝感覚が強く、妻(他の氏族)との関係よりもそもそも「イエ」の方が優先するので、親への孝行と子供への関係の方が、重要と長年考えられてきた(らしい)。



ここに西洋文化による騎士道精神から発達したロマンティックラブが微妙にエッセンスされて、米国においては、「配偶者との関係」というものは、強烈な純粋さを持つ「ものでなければならない」という圧力が存在するのだ。




じゃ、なんで離婚が多いの?。




とか突っ込まないでくださ(苦笑)。これは、文化の型を云っているのです。それ以外に近代の女性の経済的自立の問題もありますし、なによりもそういった倫理的基準による圧力が大きいせいで逆に結婚が長続きしないという逆説も存在すると思うので。まぁ難しい話は置いておいて、つまりですね、この話の本質は「日常の退屈さ」に倦む主人公が、はじめは「ダンス教師へ憧れ」にはじまり、その憧れが「ダンス」という非日常へ主人公を連れ出すことにあります。その非日常の中で主人公は癒されるわけですが、リチャードギアのあの後悔溢れた懺悔の演技は、



それを世界で一番大事な妻と一緒にできなかった自分を悔いている、のです。



彼は自分が許せなかったんです。


なんとかっこいい男だ!!!。僕はここで、涙がとまらなかった。(そのとき流れる音楽も、またいい!)それに不器用で言葉では説明しない男性の演技をさせたら、リチャード・ギアは天下一品。

ここで語っているのは、ある種のロマンティックラブ・イデオロギーをベースにした時の結婚観・配偶者に対する感覚の違いを語っています。必ずしもアメリカとか西洋の見方が正しいとかそういうことを言っているのではありません。何度も書いていますが、中国人の「家族」という概念への深さがわからなければ、中国における愛の在り方や、そういったものが生み出すドラマの素晴らしさは全く理解できないでしょう。日本の過去のイエの深さを知らなければ、志賀直哉でも何でもいいですが、文学作品の数々の深みは理解しえないでしょう。そういうことに優劣があるわけではない、と思います。


さて、なんとなく、僕がいっていることの流れや構造がわかってきたでしょうか?。つまりは、人と人を結びつける絆のボンド(=接着剤)として、西欧社会から発生したロマック・ラブ・イデオロギーが基本のコアとなって、近代社会を支える基本単位である、好きあった者同士が形成する「核家族」が、成熟した後期資本制のステージにまで駆けあがる高度成長を支えることになります。その世代が、基本的にベビーブーマー世代となり、そして同時に、この世代から「核家族」というものが壊れ始めます。こういう大きな流れがあって、この「流れ」と「構造」の分岐を見ると、問題が何で、どこからきて、どこへ行くのか、ということがかなりきれいに整理できるようになるのです。


そうなれば、次は処方箋です。具体的にどうするか?。


ロマンチックラブイデオロギー解体の視点で恋愛を描いた物語を眺めてみる(2)

(2)に続きます。