『灰と幻想のグリムガル(2016)』著者 十文字青 監督 中村亮介 異世界転生のフォーマットというのは、現代のわれわれが住む郊外の永遠の日常の空間と関係性を、そのまま異なるマクロ環境に持ち込むための装置(1)

灰と幻想のグリムガル Vol.6(初回生産限定版) [Blu-ray]

評価:★★★★★星5つ
(僕的主観:★★★★★5つ)


この素晴らしい世界に祝福を!』  暁なつめ著 金崎貴臣監督  どういう風に終わらせてくれるんだろうか?
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20160313/p2

Web小説ってなんなの? 画一化したプラットフォームの上で多様性が広がること〜僕たちはそんなに弱くもないけど、そんなにも弱いんだろうね(笑)
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20160402/p1


この記事の続きになるんですが、ここでプロの作家の方々がどうも『この素晴らしい世界に祝福を!』をダメだ、と思うみたいなんですね。この野尻さんのtweetがとてもその感覚を集約しています。それで、その反論というか、持った違和感を上記で書いたんです。


けど、同時期に、『灰と幻想のグリムガル』が放映しているのを今さらながらに知って、まぁ、これはなろうの作品ではないですが、作者はこれと同じシェアードワールドでなろうで作品を書いていますし、ドラゴンクエスト風中世世界の異世界転生というフォーマットそのままなので、いいと思うんですが、いやはや、いや、この作品見ればいいでしょう!で話が終わったんだな、と思って自分でもマジで書いてたのが、ちょっと恥ずかしくなってしまいました(苦笑)。これ『この素晴らしい世界に祝福を!』の対極の教養小説ビルドゥングスロマン)でありながら、小説家になろう的な異世界転生のフォーマットそのままですよね。いまの視聴者は、同時にこれを楽しんでいるし、書き手も同時にこういう極を同じフォーマットで創造し続けています。というわけで、やっぱり世界って健全だし、受け手も書き手も、ちゃんとしているよなって、特に声を上げて批判する必要って全くないよなって思うんです。ようは、情報不足なだけなんだな、と。



日本の最前線のエンターテイメントで、いかに多様に作り手も受け手も存在しているかが、よくわかる状況だと思うのです。



以上!!!


この素晴らしい世界に祝福を!  第5巻 [Blu-ray]


と、いいたいところなんですが、なんで、そうそうたるプロの作家が、そんな風に、ナルシシズムに沈んでいて安楽系の癒しをメインにしている作品に強い違和感と批判を感じるのだろうか?っていうのが、僕にはまだ不思議なんですよね。それに、野尻さんにせよ山本さんにせよ、素晴らしいクリエイターさんなんで、もし、彼らが思うダメな作品が一部あっても、なにもそんなことをわざわざ言わなくてもいいだろうと思うんで、何かあるように思えるんですよ。人にもよるんですが、これらの人々が、ただ単に老害的に昔は良かったみたいなことだけで発言するようには思えないんですね。それで、いろいろ、どうしてそう思うのかというのを考えてみました。


この話をすると、たぶん一世代前のクリエイターの人々は、


1)強いオリジナル幻想がある


2)娯楽と癒し以上の何かを作品に求める傾向が強い


というのは、すぐ浮かぶ話なんです。


僕、これずっと昔に、音楽の世界で、小室哲哉さんがミスチルの桜井さんを評していっていた言葉を思い出します。うろ覚えですが、「桜井くんは、どうも音楽のバックグランドにサウンドの歴史のつながりがない」、と。どういう意味かというと、小室さんの世代までは、どの音や表現が、どのような歴史的経緯を経て生まれてきたかということが、ある種の進化論のように、はっきりと構造が自覚されている。なんでこんなサウンドが出てきたかというと、前のこのジャンルの行き詰まりがあって、そのブレイクスルーとしてして出てきた、などなど。シンセサイザーを多用してTMネットワークから始まる新しいジャンルを開拓してきた、歴史の担い手の一人である小室さんのような世代には、その「時系列のサウンドの発達史」の構造が、きちっと自覚的に理解されています。なので、言葉でも説明できるし、ロジカルに分解もできるんです。それは、自分がその時代を生きて、自分が積み上げてきたからだ。しかし、桜井くんぐらいになると、もうその歴史のつながりみたいなものが、まったく自覚されていないので、音楽の背後にそういった構造のようなものがない。なので、自分が好きなものを探しながら、あれをこれをザッピングのように、歴史性や時系列を無視してつまんで、取り入れていって、自分らしさを作り上げていく・・・・と。


この後、音楽の世界がどうなったのかは、社畜生活に入って、音楽をほとんど聞かなくなったぼくには、よくわかりません。ただ、古き良き形の伝統が復活したとは、到底思えないので、そういった音楽が進化してきた時系列みたいなものは、次の世代に継承されなかったと思います。ここでいう継承されなかったというのは、音楽の発達の歴史の蓄積が継承されなかった、というわけではありません。もちろん蓄積は、何層にもわたって、蓄積され利用可能なアーカイブになっています。しかしながら、あまりにその量が大きくなりすぎ、多様になりすぎ、あとから後発で入ってきた新しい世代には、どれらの巨大な塊を層に分けて、時系列を整理して理解することなど、不可能なんですね。なので「自分」というよくわからない曖昧なものをコアにして、自分の感性(論理でも時系列でもない)を軸に、好きなものを、適当につまんで、自分らしさを作り上げていくことになる。そこには、字形れるの発達史の、構造は自覚的に継承されません。ようは放棄されているわけです。なので、みんな好き勝手に音楽を作るようになって、主流となるトレンドや主軸となるメインストリーム、マーケットに参加する作り手と受け手に共通の感覚や教養ともいうべき基盤は存在しなくなります。


小室さんが、ここでいっていたことは、僕は予言のように、なるほどなぁと思っていました。


そういった音楽の進化論の歴史的な構造は、いったん解体されて、それぞれ別々のパーツとして小宇宙の様にバラバラになり、それぞれに優劣も関係もなくし、才能がある個人が、それらのパーツを組み合わせることで、自分らしさを作っていく音楽が主流になるということ。


そして、僕はよくわかりませんが、いまって、たぶん声優の歌の売り上げやAKB48などの売り上げって、凄い大きな部分を占めるんじゃないでしょうか、音楽業界で。それってもう、まったく音楽そのものの進化や優劣とは関係なくなっていると思うんですよね。僕の周りだけなのか、僕がおっさんになったのか、クラシックやJAZZでも、全くどこから出てきたのか不明な全世界の民族音楽やらを楽しむ人も、特に問題なくいますし、そのレベルの濃淡も自由自在、、、、何でもありの自由な時代になっているように僕は思います。たぶん、こういった直接音楽配信が主流になる時代では、必ずしもレーベルや音楽会社や事務所が力を一方的に持つとも限らないし、かといって弱くなったとも思いません。また、コンサートなどリアルな形へのシフトが進んでいることも言えます。ようは、多様化したんですよね。もう、共通の基盤を、クリアーに見通すことができないほどに。


結局のところ、本物と面白いものが残っているんでしょうねぇ。ただし、そこにメインストリームや主軸となる文脈は、存在しません。ただ、それだけなんですよね。



僕の、1)への強いオリジナル幻想があるという部分へのアンサーは、次のようになります。


ようは過去にあった「これはSFじゃない論争」と同じものであって、あるジャンルなどのポータルサイトというかプラットフォームの「立ち上げ初期」にかかわったメンバーには、それが「正しいあるべき姿」と思い込んでしまうようなんですね。けど、そういった立ち上げ初期のころの「アウラ」というような「何か」は、所詮幻想で、自分がオリジナルであれたとか、この体験はオリジナルだ!とかいう幻想に過ぎないんです。


幻想が、無意味で意味がないものだということではありません。そういった「立ち上初期」の、唯一無二の状況にかかわったことから生まれるインプロヴィェーション(一回性)は強いオリジナル感覚を人に与えるからです。けれども、それは、取り戻すことができないものなんです。なので、この回答は、新しくつくるべき!なのであって、過去に戻ったり、過去の状況をを取り戻そうという行為は、ほとんど意味を持たないのだと思います。


僕の前の記事で言うのならば、たとえば小説家になろう的なポータルや、ドラゴンクエスト風中世世界の異世界転生モノという類型が、好きじゃない!と思うのならば、そうではないフォーマットをポータルをプラットフォームを作り出すべきなんです。現状分析したように、フォーマットの中での多様性は非常に深く、敷居を広げて間口を広げている。また、なろうとか以外のジャンルや様々なプラットフォームは多様化しているんで、全体的にはいっさい問題ありません。想像力は、多様化して豊かになっているだけで、衰退しているようには見えません。まぁ、僕の感覚なんで、ほんとかどうかはわからんですが(笑)、、、まぁ、統計取りたいわけでも批評したいわけでもなく、僕の自分の思考の積み重ねを書きたいだけなのですが。でもこのすばとグリムガルが同時にあるのを見れば、ああ、多様だなーと思うと思うんですよ普通。エンターテイメント自体だって、別にアニメや漫画じゃなくても、ボードゲームでもスポーツでもなんでもエンタメは広く豊かになっています。多様化している分だけ、一箇所に集中しにくいので、昔はすぐ生まれた特別感、、、、アウラのような勘違いが成立しにくいだけです(もちろん成立はします。ここの島宇宙では)。


ということで、オリジナル幻想の会話は、まぁそれなりに意味はあるかもしれませんが、射程距離は狭いので、あまり語る意味はないかなーと思います。だって、あーそういう好き嫌いがあるんだーぐらいにしか、もう思えないもの。



しかし、この話には、第三番目の問題提起があって、2)の「娯楽と癒し以上の何かを作品に求める傾向が強い」と関連しているんですが、


3)ファンタジーの世界が非日常ではなく日常になってしまっているのではないか?


これは、敷居さんと海燕さんが指摘しているところです。これは凄い重要な指摘だと思うのです。



ただ、あきらかにオリジナルではありえないことが見え透いた「どこかで見たようなファンタジー」を平然と展開する。

 オリジナリティ・イズ・デッド。

 ですが、だからといって山本さんなり、野尻さんの批判が端的に間違えているということではないと思うのです。

 むしろ、かれらの批判は、かれらの価値観では正鵠を射ている。

 しかし、問題なのは、その価値観そのものが古びて過去のものになってしまっているということです。

 もはや、最先端のファンタジーではその表現の前提となっている「パクリ」は問題視されていない。というか、ほとんど意識すらされていない。

 だからこそ、「どこかで見たようなファンタジー」が氾濫することになっているわけです。

 ただ、ここでひとつ浮かぶ疑問があります。

 オリジナリティがないのは当然として、オリジナルに見せかける工夫すらしなくなった作品のどこが面白いのか?

 いったい読者は何を求めて「現代日本のファンタジーの多く」を読んでいるのか?

 その答えは、奇しくも山本さんが否定的な文脈で使っている「なじみの世界」という言葉にあると思われます。

 そう、「小説家になろう」などの読者はまさに「なじみの世界」を求めてファンタジーを読んでいるのだと思うのです。

 これは考えてみると奇妙なことです。

 異世界ファンタジーとは、「異」世界のファンタジーなのであって、どこかに異質なところ、見なれないところがあることが自然なわけですから。

 しかし、日本でファンタジーというジャンルが勃興してはや30年余り、小説と漫画とアニメと、なによりゲームを通してファンタジーの表現はあまりに拡散し、陳腐化しました。

 もはやファンタジーといえば、だれでもエルフとゴブリンとドラゴンといった世界を連想します。

 ゲーム的なファンタジー世界は「なじみの世界」となったのです。

 そう、読者が心からの安心感を持って旅に出かけることができるほどに。

 もちろん、その世界には退屈な日常を覚醒させるようなセンス・オブ・ワンダー、「発見の喜び」はありません。

 読者なり視聴者は、その世界に出かけて、なんとなくだらだらと状況を楽しむのです。

 いや、たしかになかには破格に娯楽性の高い作品もあるでしょう。

 ですが、たとえば「小説家になろう」で大量に生産されているファンタジーのほとんどは、そこまで独創的な仕事とはいえないと思います。

 そんなものが面白いのか。

 面白いのです。

 もっとも、それは既存のエンターテインメントの面白さとはまた一脈違うものであるかもしれません。

 既存のエンターテインメントが、SFであれ、ファンタジーであれ、灰色の日常を輝かせるセンス・オブ・ワンダーを追求していたとするなら、最近のファンタジーなりウェブ小説が提供するものは、「だらだらした日常の安心感」とでもいうべきものです。



いまどきエンタメ解剖教室
オリジナリティ・イズ・デッド。オタク第一世代による現代ファンタジー批判を考察する。
2016-04-06 23:1131
http://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar1004142


この話を読んだときに僕がとても思い出したのは、レスター伯爵さんと、永遠の日常モノの類型を話しているときでした。過去の記事で読んでいる人はこのあたりの議論の流れが思い出せると思うのですが、永遠の日常類型モノ、、、、これにハーレムメイカーなどの快楽線ばりばりの類型全部を話していると仮定してもいいのですが、これを話しているときに、レスター伯爵と僕の世代、僕は団塊Jrで現在の40台。レスター伯爵の世代は、10年ほど下の世代ですね。1970年代生まれと1980年代生まれ。このあたりの世代からは、どうも感受性がまったく逆になっているんじゃないかという議論しました。このときは、とても抽象的な議論で、団塊Jrくらいの僕らの世代は、物語を見るときに、非日常から入って日常に戻る流れの時間感覚で世界を眺めているみたいなんです。逆に、10歳下ということは1980年代以降の世代は、日常から入って非日常に向かっていく時間感覚をもつようなんですね。


いまいちよくわからないでしょうが、そのときの議論は、ノスタルジーを感じる、もしくは「自分がいる世界との接続感がある」世界や空間がどんなものか?という議論でした。


レスター伯爵が語ったのは、ひとつ前の世代が物語において(共同幻想としてもつ世界のイメージ)において、非日常から「帰るべき場所」として想定される日常世界が、そもそも彼らが生まれて育って、抜けられないと苦しみ、そして喜ぶ世界なんだ、ということだったんですね。ここでは、物語の類型で、永遠の日常と呼べるような時がとまったような、マクロと何の関係もなく、非日常に接続されることもなく、明日が今日と同じように続いていく絶望と諦めとぬるまゆの安心が続くために、ミクロの狭小の「そこにある関係性」だけにフォーカスして戯れるのが、彼らにとっての「普通」であると。なので、彼らの基盤は常に「永遠の日常」にあり、その日常以外はリアル(現実感)に感じられなくなっているんです。この物語類型は『ゆゆ式』で頂点を極めたと、当時の僕は分析していますね。


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ゆゆ式』(2013) 原作:三上小又  監督:かおり 関係性だけで世界が完結し、無菌な永遠の日常を生きることが、そもそも平和なんじゃないの?http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20140504/p1



僕がいつも思い出す例は、ガンダムファーストのアムロレイです。彼は、「帰るべきところがあるんだ」と擬似家族共同体と化したホワイトベースの仲間のところに帰って行くことになります。物語は、すぐ非日常に叩き込まれて、最後には「かえるべき」「帰りたい」場所として、日常の世界や、擬似家族的な小さな手が届く範囲での共同体の関係性が選ばれ、思考されるんです。これは、非常に僕ら団塊Jr以前の完成です。非日常(戦争)から日常(自覚された家族)に戻るんです。

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けど、レスター伯さんが言ったのは、感性が逆だ、といったんですね。なぜならば、彼らがいま現在生きている1980年代以降の郊外世界・・・・ほとんどまったく同じに塗りつぶされて均質化した日本の学校共同体を軸とする「永遠の日常」が展開される郊外空間。高橋留美子さんの『うる星やつら』のあの町のような感じですね。それこそが、そもそも「いま現在いるところ」なんです、と。現実感覚が、そこに有り、なかなか非日常に出て行かない。いけない。また非日常自体がリアルに感じられにくい。


なので、同じ物語類型でも順序が逆なんだということを、いっていたんです。究極のところ人間なので、求めている物語の基本的なフォーマットがくぁるわけではありませんが、感性の順番が逆だ、と。えっとここが重要な部分なんですが、物語世界における『旅に出る(いまいる世界から出て行って、成長して、そして帰ってくる)』という人類の持つ物語のアーキタイプ自体が、別になくなったわけではないんです。別に、エヴァンゲリオンでもガンダムでも、得に何も変わりません。少年がいきなりモビルスーツを動かして、世界を助けるために戦うという原型は、何も変わりませんよね。けれども、昔は、何が事件に巻き込まれて、戦争(=非日常)とかに連れ出されても、特に違和感を感じなったようなんですね。そして、そこで苦しみと成長を遂げて、最も大切な家族という日常(=平和)の元へ帰るという順番でした。それで、特に問題なかった。たぶん、クリエイターの世代の人に、戦争体験者の影が色濃く残っていたり、高度成長期によって社会(家族の在り方)自体が根元から変わっていってしまうような非日常が、その世代の人々にとっては、あたりまえだったからなんだと思います。けれども、1980年以降の停滞期に入った日本社会で育った世代は、もしくはその時代をメインで生きるプロのクリエイターの世代は、戦争とか高度成長による社会の急激な大変革(非日常)が、見たことのない、よくわからないものになったんだろうと思います。彼らの想像力が及ぶ範囲は、いま彼らが生きる世界。それは、1980年代から生まれて、リーマンショックやバブルの崩壊以来、建築という物理的なものですらまったく変化のない、永遠の日常の郊外空間。また彼らのリアルな現実である学校空間。そしてその中で唯一、その日常から脱出できる世界は、ゲームの世界の冒険。それだけなんですよね。

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こを敷居さんの議論の接続させると「なじみのある世界」とは何ぞや?と問うた時に、永遠の日常、学校共同体的な、小さく閉じた関係性の中で戯れていること「そこからどこに出て行かなくても楽しいし」同時に「どこにも出て行くところ、非日常に接続しないであろうという絶望感とあきらめの諦念」がワンセットになっているものなんです。いまの世代が、海外に出て行きたくないと思うのも、非常に納得できるんですよ。彼らの故郷は、永遠にゆるく続く日常であって、それは、たぶん全世界でいま、日本だけしか実現していない空間だからです。多分、僕は郊外空間の開発とセブンイレブン的なもの、、、コンビニエンスストアシステムによって形成される日本的郊外空間というリアルだけではなく、ネットの空間に広がる知的リテラシーの差がほとんどない大衆社会によって形成されるネット社会。。。これも日本的なる永遠の日常世界の一つに僕は思えます。これがワンセットで存在しており、アメリカやヨーロッパのように極端な階級や貧富の差が存在(まだ)していないので、ゆるやかに衰退できるという、非常に安楽な黄昏の世界。これも少しいかえれば、ブログでずっと語ってきた、現在のインドや中国などの新興国の高度成長期が終わって、下り坂が始まった初期社会なんだと思います。同じことを経験した最もはっきりとした先例は、大英帝国ですが、この衰退期の100年ぐらいに、近代のスポーツやエンターテイメントの形式などのほぼすべての類型が、イギリスから生まれていることを考えれば、ようは、いま、日本って、面白いときなんですよ。国は経済的には沈むでしょうが、一瞬で崩壊するほど弱くないし、ストックも複雑にある。やっぱりイギリスみたいなもんです。

イギリス 繁栄のあとさき (講談社学術文庫)


まぁ、そういった細かいことはおいておいて、、、、ようは1980年代生まれ以降の世代が、何にリアリティを、ノスタルジーを感じるか?という話なんですね。



それは、なぜ学園モノや学校空間が隆盛を極めてテンプレートの舞台になるか?永遠の日常系や無菌系などの関係性のみにフォーカスしたフォーマットが感受されやすいのか?というのは、ここにあるんだろうと思います。けどね、グリムガルなどが典型なんですが、べつに説教や教養小説的な自己成長モノや、新世界モノのような厳しい世界認識の話ができないというわけじゃまったくないんですよ。レスター伯さんと話こんでいれば、別に人間が「面白い」と感じることに差があるわけじゃないからです。ただしベースとなる人間関係や世界の時間感覚が、かなりつい前の世代とずれがあるんですよ。この谷を認識できていない人は、かなり勘違いをしてしまうんじゃないかな、と思うんです。


シュバルトゥスマーケンやガンダムオルフェンズ、グリムガルとか、このすばと同時期に、新世界系のかなり厳しい作品が多いよねと書きました。これらの作品どれも、かなり人間関係のミクロの劇に演出や意識を凄い注いでいるように思えます。ガンダムは、そもそも安定したプラットフォームなので、だいぶ自由が効いて、簡単にマクロも同時に描ける「がゆえの」難しさはあるんですが、それでも安定して両方が描けます。グリムガルとかは、僕は非常に、典型的な「いまの時代の物語」に思えます。だって、これ、学校空間とか郊外の友達関係とかの、小さな関係性のがそのままスライドして、その関係性がそのまま継続していますよね。異世界転生のフォーマットというのは、現代のわれわれが住む郊外の永遠の日常の空間と関係性を、そのまま異なるマクロ環境に持ち込むための装置なんですから。なじみある世界、とはそういうこと。彼らの世代が感受できる関係性やあり方をベースにしなければ、何をかたっても??????ってなってしまうだけなんですよ。

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逆を言えば、その基礎を抑えれば、やはり自由自在に物語は作れるんですよ。そうでなくとも、リテラシーというか教養が高まって、様々な物語類型に対するメタ的な意識がある豊穣な世界なんですから、現代日本は。



ただ、この「基礎的なもの」というのは、団塊の世代ジュニア以前には、破壊的というか絶望的なぐらい理解できない世界なんです。そもそも住んでいる、物理的な世界が違う。僕は昔建築を少し勉強していたことがあったんですが、1980年代に、日本の建物って総とっかえのように、かわっているんですね。理由は、高度成長期に建てた建物ががたが来ていたことと、土地バブル、建設バブルがおきて、開発がものすごい進んだからなんですよね。なので、1970年代以前の生まれの人とは、住んでいる物理的な世界が違う。『響け!ユーフォニア』や『耳をすませば』『おおかみこどもの雨と雪』とかの、あの美しい郊外空間は、今現在の日本の郊外空間ですが、これて1980年にすべてリニューアルして作り直されたものです。多摩ニュータウン的なものですよね。それに、マクロ環境がまったく逆になりました。日本がいけいけで拡大していく高度成長期のフロー経済と、衰退に期に入って人口も経済も縮小して行くけれどストックが経済と、環境がまるで逆です。前者は、がんばれば報われたけど、後者はがんばっても報われにくいので、がんばりなんか意味を持ちません。前者は、子供時代はまだかなり貧乏でしたし親の世代はさらに貧乏でしたが、後者は、もう親の世代もファミコンでも何でもふんだんにあってストックでいくらでも、多少お金が少なくてもかなり面白く生きれる世界です。まったく生まれ育ちが違うんですよ。そりゃ、話が合わないはずですよ。だって、僕の小学生時代なんて、カラオケも携帯も、薄型テレビも、インターネットもゲーム機もなかったんですよ!!!。違いというレベルじゃないでしょう!!!(笑)。

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響け!ユーフォニアム石原立也監督  胸にじんわりくる青春の物語
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20150807/p1


まっ、ここは掘るべき価値のある「差異」だと思います。


そして、たぶん、ここの部分の感性のずれが認識されないと、若い世代の感受性が、はっきりとかなり過酷なもの、僕らが言うところ新世界系などを求めている文脈も、とても強いにもかかわらず、いかにも自己を弱くしてナルシシズムに沈むものだけが好まれているような錯覚を持ってしまう人が続出するのでしょう。世代的な分裂が強いとは思うのですが、多分、そうじゃないと思う気がします。見ている風景や置かれている社会的立場によって、かなり見え方が違うんじゃないかなぁとおもいます。


だって、緩やかに沈んでいく社会がそんなに楽なはずはないし、テクノロジーによって社会のあり方が根底から凄い早いサイクルで変わってしまう現代のような時代が、楽なわけないんだもの。



ちなみに、自分の理解できる「なじみの風景と関係性」を、異なる世界にまで持ち込んでしまうことは、真の脱出、真の成長、そんなものがあればですが、ではないという風にいえることはできると思います。ただ、それは現代社会の、「いまここから」の脱出の不可能性という構造を、無視している議論だと思います。フロンティアが存在しない世界なんですよ、僕らが今生きるパラダイムは。だから、閉塞的になっているんです。それは、全世界的な傾向であって、よほどパラダイムの変換、、、、この場合は、テクノロジーによる巨大なブレイクスルーがない限り、このデジタル中世へ向かうような閉塞感は消えないはずです。



そして、永遠の日常とはどういうものか?、そこで生きる時に望まれるものは何なのか?、、、あっ、この話長くなりすぎるので、次に書きます。



そんでもって、グリムガル・・・・・。あっ、作品の話まで行きつかなかったので、この次に、この前提をベースにした、その次に何をするのか?とともに(2)に続きます。