物語の物語、やっと通販開始します。在庫これしかないので宜しくです。

f:id:Gaius_Petronius:20190104061114p:plain
物語の物語1


1.神話とアーキタイプ~少年は竜を殺し、少女はシンデレラの夢を見る

2.善悪逆転の物語~勧善懲悪のヒーローが人類終末論にたどり着くまで

azukiarai.booth.pm


f:id:Gaius_Petronius:20190123062239j:plain

azukiarai.booth.pm

3‐1.竜退治の彼岸~ガンダムからエヴァに至るロボットアニメの戦史

3‐2.竜退治の彼岸~ガンダムからエヴァに至るロボットアニメの戦史

f:id:Gaius_Petronius:20190123062253j:plain
物語の物語3

4.変身ヒロインの系譜~魔法少女から『セーラームーン』の彼方へ

5.美少女カンブリア爆発~ラブコメからハーレム、そして女の子しかいない世界

azukiarai.booth.pm


やっと、'18冬コミの同人誌をBOOTHにて販売開始しました。我らがLDさんの壮大な物語の物語。僕も海燕さんももちろん記事を寄稿しています。サークル、プロジェクト物語三昧改め?AzukiArai Academia(アズキアライアカデミア)で。ちなみに、海燕さん、ペトロニウス、LDさん、でこぽんまぎぃさんの4人のサークルです。HPのリニューアルとか、新しいYouTubeのアカウント設置とか、みんな忙しすぎて(みんないいとししたおっさんなので(笑))遅々としか進みませんが、まぁ僕らクンフーやめないので、着実に進むと思います。ぜひとも。前回は、僕のところでは、宣伝し忘れて、申し訳なかったです。1巻も増刷しましたので。


HPはまだあまりリニューアルできていないのですが、まぁ今年中には少しいじりたいなぁ。とか。なんでも、コツコツです。

www.azukiarai.net


ちなみに、全講義9章を既にYouTubeでは公開しています。生の講義なので、本ほど読みやすく話ですが、続きがどうしても気になる!という人は、すべて公開されています。同人誌には、吉宗綱紀さん、津田彷徨さんなど、ロヒキアさん、レスター伯爵さんなど、様々な人に寄稿してもらっています。今後も、もっと充実させていくつもりです。読んでも聞いても面白いですが、広大なマップで戦後日本エンターテイメントを鳥瞰しているので、マップを見ながら、作品解説を見ながら本で読むほうが、理解しやすいと思います。次章以降は下記ですね。9章までを、あと1-2年くらいかけて本にしていくつもりです。

6‐1~3.セカイ系の台頭~エヴァとアンチエヴァ、ループ、悪を為す事

7.脱セカイ系としての日常系~『あずまんが大王』と無菌系、ふたたび竜退治へ

8-1~3.脱英雄譚~ガンダムのテーゼと“彼岸“のさらに先の物語

9.新世界系の登場~新たな竜退治へ


www.youtube.com


www.youtube.com


ちなみに、僕らは、物語三昧ラジオ、今後は、小豆洗いじゃなかったアズキアライラジオに名前を変えますが、一月に一回のペースでさまざまな作品の文脈を話し合っています。もう10年近くやっている気が、、、(笑)、なので、実は、この公開講義の9章の以降の新しい文脈、次世代の物語など、様々なテーマが最前線で出てきています。まとまっていないので、聞きにくいと思いますが(笑)、でも、文脈わかると、めちゃくちゃ面白いですよ。その一環で、グリッドマンの作品分析も位置付けられるのです。ちなみに、LDさんは、最近凄まじいVtuberへの狂いっぷりで(笑)、昨年2018年のオフ会講演会での分析はすごかったなー。まぁその辺もだいぶラジオになっているので、見ていただけると面白いかもです。


www.youtube.com



1巻読んでいない人は、いまなら在庫あります。予算限って、作っているので、これ売り切れたら、新しく今年2019の夏の時は作れないかもなぁと思うので、ほんとに欲しい人は、早めに買っておいてください。1巻は、こんな感じですね。


f:id:Gaius_Petronius:20190104061428j:plain
物語の物語1-2

「心の問題をアダルトチルドレン的にセンシティヴに読み解いていく」時代の終わりとしての『SSSS.GRIDMAN』

p-shirokuma.hatenadiary.com

シロクマ (id:p_shirokuma)さんや海燕さんが反応してくださって、なんだか久しぶりに、はてな村的な楽しさを感じました。

ブログというメディアには利点が幾つもあるけれども、ひとまとりの意見が読めること、それとリンクを張ることで意見のネットワークみたいなものが作れるところだと思う。
 
今回、アニメをよく愛好してらっしゃるペトロニウスさんが『GRIDMAN』について面白いことをリンク先で書いていたので、重複をおそれず、自分の『GRIDMAN』観を書きとめたくなった。


『GRIDMAN』を平成オタの葬送として眺めた

こういうの、いつも思うのですが、いいよなぁ、と思うんですよね。ブログの良さ。ツイッターのコメント等は、「いいね」「だめだ!」の感情の好悪を、どちらにせよ捨てセリフ的に表現するのはできるのですが、それって、気持ち的な支持か不支持かということ以上の意味を感じないんですよね。というのは「どれだけちゃんと買いたいことを理解してくれているか?」とか「相手がどれだけ自分の頭で塊として意見を持っているか?」とか、コミュニケーションの濃密さが、ツイッターだとほとんどわからないし、要は捨て台詞の敷居が低くて、よかったか悪かったか?という感情の好悪以上の情報交換以上に発展しない感じがするんですよね。ツイッターは、あまり信用ならん(笑)。楽しいんだけどね。で、いつも、昔のはてな村的な雰囲気とかよかったなーと、おっさん回顧しちゃうんですよねぇ。


とはいえ、そもそもブログメディアの旬というか、アーリーアダプターが高い意識もってやる時期は過ぎたとおもうので、もう、こういう面白さ(ブログ同士で意見のネットワークがつながって、考察みたいのが深堀されていく感じ)はほとんどないよなーと思っています。なんというか、そういう時期は過ぎたのであって、もう戻ることは、よほど新しいテクノロジーとか出てこない限り、昔に戻ろうことはないよなぁと、おもっえいるので、懐かしむというか、「そういう良い時代もありました」ぐらいでいました。まぁ、僕は趣味で書いてて、それ以上は、蛇足というか余技というか、別に読んでもらう必要もないぐらいなので、あまり気にせず、コツコツ書き続けるてて(もう10年以上コンスタントに書いているし)、昔の方がよかったとは思いません。あまり、そういうコミュニケーションの楽しさに依存すると、続かなくなるので、僕はただただこつこつアウトプット出せること自体に喜びを見出そうと、おもってはいます。。。


とはいえ、時々、こういう共時的に、話がつながったり盛り上がったりすると、やっぱり楽しいなーとしみじみ思います。自分が、それにこたえるだけの余裕と時間があることが前提なんですけどね(笑)。というか、ちょっとびっくり。シロクマさんは、ずーーーーーーーーーーーと、それこそ、10年近く、さすがだなーと、横目でちらちらブログ面白いので見ていた方なので、まさか取り合えげてもらえるとは、驚いたんですよねー。めちゃめちゃうれしいですねー。あまり考えたことがなかったですが、同じ40代のアニメ好きに当たるんだなーと、いまさらながら、そうかー同士はいるんだなー(笑)、となんだかうれしくなってしまいました。40代になっても、僕もますます盛んになりこそすれ、めちゃアニメ見てますんで。しかも語っちゃうし(笑)。


p-shirokuma.hatenadiary.com


ちなみに、関連ないんですが、↑上の記事素晴らしかったー。



さて前回の記事は、ベジータ問題という言い方で、罪と罰の構造について話したんですが、実際には、僕自身のメインの感想は、「古臭さ」と「新しさ」の違いはどこにあるんだろう?というものでした。しかも、凄い同感なんですが、僕も、最終話の最後の10分は、爆笑とまでいかなかったですが、ニヤニヤ笑ってしまいました。というのは、これ『エヴァンゲリオン劇場版 まごころを君に』のアスカにキモイといわれたり、観客を映し出したりする、受け手の心の問題に対して切り込んでくる手法と同じだと思うのですが、当時、あんなに、心を揺さぶったテーマが、なんか、半笑いしちゃうような感じがして、、、ああ、受け手の受け取り方は、凄い変わったんだなーとしみじみしたんです。その問題がなくなったわけではないのですが、いまさらその話蒸し返しても、、、という意味の半笑いです。

劇場版 NEON GENESIS EVANGELION - DEATH (TRUE) 2 : Air / まごころを君に [DVD]

これには、「世代的にもうそんなものは受けてはいない」という世代的な受け手全般を語るポイントと、自分自身が40台になって大人になって責任ある立場になると、いちいちこんな心の問題みたいな、そんな暇あれば仕事しろよ(もしくは、遊べ!)という回答以外考慮しなくなった心のおっさん化というか磨滅化問題(笑)、と組み合わせであるとは思うんですが、にしても、既に「心の問題をアダルトチルドレン的にセンシティヴに読み解いていく」ことに対して、世代的(2019年の今の空気)と自分自身(40代のおっさんの自分)の両方ともに、古典的で、古臭い、と笑い飛ばしてしまう感受性があるんだなーと思ったんですよね。まさに、シロクマさんのタイトルは、素晴らしくそこを射抜いている。『GRIDMAN』を平成オタの葬送として眺めた、という。平成30年も今年で終わるのですが、その中心にあった感性が、既に終わりを告げているのだなーと、しみじみ思ったんです。エヴァンゲリオンの新劇場版の評価で、あのアダルトチルドレンのシンジ君が、心の問題ではなく、ちゃんと行為に足を踏み出しいかなきゃだめだというラインで再構成されている、とかつての僕は書きました。でも、だからといって、そのころでは、まだ、この古典的テーマを見て、苦笑したり、古すぎて、、、、というような感慨はなかったと思うんですよねぇ。でも、2019年の今は、はっきりと、あーこれは、古いなと思うんですよ。


petronius.hatenablog.com


もちろん、そもそも論として、アニメーションや物語を見るときに、「スタイル」というか中身の皮の意匠を見るか?、それとも脚本の評価をするか(文脈を読むか?)という、「読み方・見方の違い」というのはあると思うんです。どっちが、正しい見方というわけでもないんですよね。文脈読みをしがちな、僕のようなおっさんは。いかにも文脈的な、少し引いて観るがかっこいいふうに語りますが、それはまったくちがいます。シロクマさんは、のど越しさわやかというような言い方をされていますが、キャラクターがかわいいから、雰囲気がきれいだから見たい、で十分なんだろうと思います。というか、そもそも、本来は、中高生向けのレンジの物語を、それでも40とか超えて見続けるというのですから、どうしても「見方にひねり」が入ってしまうのは致し方がない(笑)のであって、エンターテイメントの消費は、それが楽しいか楽しくないかで、もちろんいいんですよね。ただ、文脈を読むというような見方「も」あるよ、という感じ。



ここで語られている町山氏の映画評論的なものが「サブカル的な愛好家」の視聴スタイルであり、ここでいう「メッチャ作中だけが作品世界なのダみたいな若いころの純血主義」のほうが私のルーツに近いと感じる。


『GRIDMAN』を平成オタの葬送として眺めた


ここでシロクマさんやmatakimikaがおっしゃっている視点は、なるほどなーと思いました。僕は、こういう文脈読み、メタ的に眺める、作品同士の関連性を強くこだわる見方をする人なんですが・・・・同時に、作品単体に集中して、その世界を具体的にこだわって積み上げて評価する友人のLDさんやルイさんらの分析というか見方がとても尊敬するというか、かっこいいと思ってきたんですが、どっちの楽しみ方もできると、さらにおいしいよね、という感じなんですが、どちらにもよさと悪さがあるんですよね。メタ的に作品を外から眺めると、作品自体とは関係ないところに話が行ってしまいやすい。かといって個別具体論だけをテーマにすると、好きか嫌いとか解釈の幅が狭くなってしまったり、、、。どっちもできるような、人間になりたいと思う今日この頃です。


でも、こうした見方がハイブリッドに複雑に教育された消費者・受け手(要はお年寄り(笑)?)からすると、どうしても、いろいろ考えちゃう(笑)。その辺のモヤモヤを、いろいろ考察しながら、読み解けると、それはそれも面白いかなぁと思うのです。この作品の「座りの悪さ」は、やっぱり文脈で考えると古典的なテーマをやっているのに、しかしながら、テーマの消化としては、「心の問題」に対して、めちゃくちゃ後退しているし、本気で対峙していないんだと思うんですよね。いや、それが悪いというのではなくて、「そういうもの」について、全く重きを置いていない。なので、アカネちゃんの救済問題は、いや、全然救われてないし、なにがポイントで彼女の心の中の翻意(=現実に帰ろう!と突然言い出す)も丁寧に語られない。けど、それは、そもそも「このアニメーションのイシューではないので、考慮しません」とした潔さが、いやいや、最後観ててあっぱれって思ったんですよね(笑)。なので、テーマ読みする傾向のある僕としては、最悪点をつけてもいいはずなのに、凄い評価高く楽しめてしまった。こういうアニメが、2019年(平成30年)に、出てくるというのは、ああ、一時代が終わったんだなーとしみじみさせました。



sakasakaykhm.hatenablog.com

tyoshiki.hatenadiary.com


この辺の話も、とても面白かった。他の人の受け取り方がわかると、作品が一粒で二度おいしい感じになるので、いいですねー。ちなみに、海燕さんも長文記事を書いてくれたんですが、僕、アメリカに住んでいるので、ヘブンズフィール見る方法が限られてて、まだわからんですー。早く見たい、、、、。日本のアニメも時々上映があるんだけど、けっこう期間と場所が限定されちゃうんだよなー。ベジータ問題は、別にこの作品に限らず、物語類型としては、重要なものなので、今後も色々な評価で出てくると思いますので、コツコツ検討しましょうかー。僕も、つい最近LDさんに教えてもらって、おお、こういうのがあるかーと思ったものなので。


とはいえ、ひさびさに「みんなといっしょに考える」「つながる」お祭りみたいなものを感じて、楽しかったです。取り上げてくださったシロクマ (id:p_shirokuma)さんや海燕さんらに感謝を。


『SSSS.GRIDMAN』Japan 2018 雨宮哲監督 ベジータ問題(罪と罰の応報関係からみる物語構造)-モブをどれだけ殺しても、人がそれを許してしまうのはどうしてなのか?

SSSS.GRIDMAN 第1巻 [Blu-ray]


評価:★★★★4つ
(僕的主観:★★☆2つ半)


海燕さんのおすすめで、視聴終了。出来は、とてもいい。しかも、これは人気あったんじゃないかな、、、支持されるアニメだと思う。もともとのグリッドマンの設定を、ちゃんと強い意志のもとに統合して料理していて、ある特定のシナリオで料理しなおそうとしたこと、それをポップな方向でなし、実際に成功していることで、これは作品としての出来は素晴らしい。なので、★4。けど、僕としては、たぶん二度と見返さないな、と思うこと、それと、やはり究極的なところで脚本や主人公たちの動機の構造が主軸ではなく、デザインと雰囲気、空気感がスタイリッシュなことに主軸がある作品で、そういう作品は、あまり好きに離れないので、★2つと主観評価はとても低い。まだ言葉が足りないが、ある意味、アカネと六花がかわいいだけ(ではないんだけど、どうしてもそれが残ってしまう)の物語だよね、というのが視聴終了後の感触。でも、もともとの制作陣の意図は完全に成功していて、人に愛されると思うから、悪くはない、悪くはないのですよ、、、、、しかし、、、、

1月の物語三昧(アズキアライアカデミア)ラジオで、詳しく解説しています。今回は、作品単体に集中して、分析できたし、幅広く様々なものに接続できたので、いいラジオでした。僕は約二日間で12話ワンクールを見たんですが、正直、なんというか、最後まで見れたんで、面白かったんだけど、何が面白かったのか、、、それの割には「だけど…」という風に留保というか、まぁもう一度見稼ことはないな的なマイナスもつきまとっていて、どう評価していいかが言葉になっていなかったんですよね。それが、おしえて!LD教授!の質問をしたところ、ドラえもんの四次元ポケット張りに、見事な答えが帰ってきたので、せっかくなので、まとめておきます。ちなみに、いつも書きますが、ネタバレです。


グリッドマンの解説に置けるキーワードというか視点は、二つ。一つは、


(1)新条 アカネちゃんが男だったら誰も救いたいとは思わないだろう、お前ら?問題-結局、人は、物語はかわいいが正義なのか?


(2)ベジータ問題(罪と罰の応報関係からみる物語構造)-モブをどれだけ殺しても、人はそれを許してしまうのはどうしてなのか?


の2つで、この作品を読み解くと、この作品の全体の構造がどうリデザインされているかがわかるという話でした。いやはや、ラジオを聞けばわかるんですが、LDさんは、全くこの作品を見ていないで、ツイッターの情報とかだけなんですよ、、、、それ何にこの見事な分析とか、どういう頭の構造をしているんだろう、とほんと、震撼します。では、メモ的に始めてみます。


そもそも、僕がこのアニメを、あまり自分お好みではないのに見ようと思ったのは、Twitterで新条アカネと宝多六花が、よくイラストでかかれていて、キャラクターがとても愛されている感じがしたんですよね。けれど、どうも脚本構造自体は、ほとんどの人がわかっていない???な感じで、最終話に至っては、とても意味不明で「さっぱりわからなかった」という感じなんですね、ネット民の皆さんの感覚が。要は、脚本が意味不明、と。普通はこの感じだと、ネットやツイッターで、アンチというか批判がいっぱい出る流れなんですが、あんまりみないんですよね。「でも」、尊いじゃないですか、アカネちゃんと六花は、というふうにみんな好意的。これがなぜか知りたかったんですよね。たしかに、アカネちゃんのキャラクターは、とても現代的で、「今っぽくて」かわいいので、愛されるのはわかるけど、なんか、脚本がダメであってさえも、それでも尊い的なこの、ギャップが僕にはよくわからなくて、、、、。で、海燕さんが進めていたこともあって、見てみようと。予算策定の忙しくて追い詰められているのに、思わず。夜の3時まで。。。期末の前に銀英伝を一気読みしてしまう中学生的なノリで。


そしてみてみると、古典的な脚本で、「夢オチ」というか「内面世界に閉じ込められたところからの脱出劇」のセカイ系で一世を風靡した典型的なものでまとめられていて、正直2019年のいまでは、一つ前の流行で、今更それをやるのか、という感じだったんですよね00年代ぐらいの10年のはやりですね。力技でまとめているので、古典的な脚本なので、意味は分かるけど、、、まぁリアルタイムで見ている中高生では、ほとんどわからないかもなぁ、と思ったんです。『灰羽同盟』とか押井守さんの『天使の卵』『うる星やつら ビューティフルドリーマー2』、村上春樹の『1Q84』とかのやつですね。。この系統は、時代感覚がずれていると、説明がとても必要で、もちろん過去の作品を大量に見ている、それなりの年齢のオタクというかアニメファンには、細かい説明しなくても、わかるでしょうが、それは物語としてはあまりに不親切で、積み上げが丁寧ではないと思う。

灰羽連盟 Blu-ray BOX

うる星やつら2  ビューティフル・ドリーマー [デジタルリマスター版] [Blu-ray]

1Q84 BOOK1〈4月‐6月〉前編 (新潮文庫)


なので脚本も、古臭いし、シンプルに描いてはいるけど、これ単体で分かるほどうまく表現でいていないし、、、要は出来が良くないように思えるんですよね。けれども、たしかに、新条アカネと宝多六花を見ても、尊いというのはわかるんですよ。とても現代的に洗練されていて、ポップな感じで、、、いい出来だ、という感じがしています。なんでだろう?というのが僕の疑問は、深まるばかりでした。されにこの大きな疑問に接続されて前話見た後の質問というか疑問は、アカネが、いきなりグリッドマンの「何とかビーム!」を浴びたら、自分の過ちを自覚して、現実に戻ろう!と12話の最後でいきなりなるんですが、この理由が、全然納得いかなかったんです。



教えて!LD教授!!!



LDさんにの解説するところでは、これは1993年の円谷プロの『電光超人グリッドマン』の構造を、どうリデザインしているかという差異の視点で見ると、よく理解できるとのことなんです。


電光超人グリッドマン Blu-ray BOX


この作品の新条アカネ/アレクシス・ケリヴのポジションは、藤堂武史/魔王カーンデジファーにあたります。ここで、大きな違いは何かというと、アカネちゃんが、かわいい女の子になっていることです。ようは、藤堂武史は、自己中心的なコンピューターおたくの男で、なんですが、この場合、同じことを、男がしたら、みんな許さないでしょう?、と。でも、かわいい存在だとみんな許せちゃう。このアニメーションの肝は、アカネちゃんを、かわいい女の子にして、「みんなが救いたい!」と思わせたところに、そのポイントがある。そして、それが成功している限り、TRIGGERの企画意図は成功している、というんです。



しかし、このかわいい存在ならみんな救いたいでしょう?許せるでしょう?といったときには、罪と罰の問題が生まれるんです。これを、ベジータ問題と、LDさんは呼んでいます。用語解説(僕の理解なので、LDさんの理解とはずれるかもですが)にですが、ベジータ問題というのは、ドラゴンボールの続編の超(こんなのるんです!知らなかった。息子が盛り上がっていて、初めて知りました)では、フリーザとか何となく仲間っぽく味方になっているんですよ。でも、これ、常に物語の構造的に、問題点が生まれちゃう話なんです。だって、フリーザ、あんなに大殺戮をして、罪もない人を殺しまくったのに、味方になったら、それは許されるの?という話。


ドラゴンボール超 1 (ジャンプコミックス)



そんなに「人を殺しまくった敵」を味方になったからと言って、許せるんだろうか?問題(笑)。


つまりね、ベジータとか、かつての敵だった奴が、味方になったからと言って、過去に行った殺戮など、許しがたい罪が生産されるかどうか?ということなんですよ。グリッドマンでいえば、アカネちゃんは、明らかに殺人を犯しているわけです。大きく脚本としては、2つのポイントを明確に作っているくらい。一つは、気に食わないからと、存在を抹消してしまった友人(というか知り合い)。もう一つは、実際に、主人公の響裕太くんを、こっちは物理的に刺していますよね。裕太は殺すことはできなかったですが、これは明らかな殺人未遂ですよね。


これ、許されるの?ということです。


物語の中で、ドラマトゥルギーとして、アカネちゃんには、あきらかに、自分が作った世界の中であるとはいえ、「他者を殺害して、その存在を踏みにじっている」これを、許していいの?という問いです。この問題が内在的に、彼女のこういうに付きまとっているのは、脚本が、明らかに物理的に裕太を刺すシーンを作っていることから、間違いないと僕は感じます。



で、ベジータ問題というのは、何を指すかというと、明らかにみんな(受けても、中の登場人物たちも)許しちゃっているね!ということです。



つまり、大量殺戮や殺人が、簡単に許されちゃっている。。。。。これ、「味方になったら許される」というロジックだけではなくて、モブ(=物語の作中で、積み上げがない記号としてのわき役)を何人殺そうが、受けても登場人物も、ほとんど問題ないということなんです。いや、確かに、よくよく考えると、これ、すげぇおかしな話じゃない。論理的にも、倫理的にも、これって、、、、、。でも物語的には、これは事実。


ちなみに、海燕さんの指摘で、このアカネちゃんの他者の殺害の罪を無効化する手法の一つとして、この世界が彼女の内的世界であるという「箱庭世界」的に描写することで、これは現実ではないんだ、と読者に印象付けることによって、罪を無力化するという手法もあるのではないか、という指摘がありました。これは、テクニカル的には、僕もそう思ったので、なるほど、と思いました。罪を薄めるのには役に立つ。でも、、、、内的世界でも、その世界が存在したら、それはもう他者だと思うんですよね。それを、ずたずたに破壊していることが、罪ではないとは思えない。なので、これは、なんというかドラマトゥルギーの展開のパターンとしては、もともとの問題設定(罪と罰)に、正しく呼応して答えていない。箱庭世界は、現実ではないから、人間じゃないので、殺しまくってもいいです、は答えになっていない。人間とは何か?、その人にとっての他者とは何か?という議論を招きますが、でも、アカネちゃんの他者破壊の罪が消えるわけではない。もちろん、箱庭世界とは、すなわち、セラピー、、、、ここではアカネちゃんの精神を救うためだけの目的に設定された世界なので、そのために彼女が、トライ&エラーをするのは、いいじゃないかという考え方もあります。これは、物語自体が、何を目指しているかによって評価が変わってしまうでしょうね。


とはいえ、個別の枝葉ではなく、本論に戻りましょう。ベジータ問題。許されない罪を犯した奴が、味方になったからとか、改心したからと言って、許されるのか?という物語内在のロジック。



これにはっきりと答えた大傑作があります。



これを最もうまく作った作品で思いつくのは、神戸守監督の『エルフェンリート』(2004)です。この作品は、この物語類型を語るときの頂点に立つ見事な物語なので、これから何度も指摘すると思いますので、ぜひとも見ていただけると。これ、本当に素晴らしい作品ですよ。以下、当時の記事で、僕は下記のように書いています。

■人間を人間としてみないこと、そして人を愛することが同時に存在すれば・・・・

物語が始まると、第一話から、人類を殺戮するために生まれた主であるディクロニウスであるルーシィがガンガン人を殺しまくるんですが、そのシーンを見た瞬間に、この物語は「罪と許し」の物語なんだな、と思いました。この「エル・グレコのイエスの手」は、罪が犯される時、ということを指示す有名な象徴ですよね。この作品は、基本的にすべてこの「読み」に沿って解釈するといい作品だと思うんですよね。つまり、人類を殺すために生まれてきた主であるディクロニウスのルーシーには、その種としての本能を持つと同時に、その本能を正当化してしまうような人間の内面の汚さや残酷な差別意識を幼少時に経験するんですよね・・・またその後の人体実験動物としての過酷な生活は、人類を滅ぼす動機を正当化してしまう。けれども同時に、ルーシーは、人の子として生まれて、人を愛したり友達に出会ったりしてしまうんですね・・・。そうすると、彼女は、自分が殺すべきただの「モノ」として人間をみなすのか、それとも自分と同族の共感の対象としてみなすのか、という部分で揺れてしまうんです。そして、彼女が、人間を、いやもう少し狭く言えば、コウタという一人の男の子を好きになってしまえば、彼に受け入れてもらう必要が出てきてしまうんですよ。けど、彼女自身は、凄まじい人間を殺戮し続けており、そしてその中にはコウタの家族も入っているんですよね・・・コウタが彼女を許し受け入れた時が、ルーシーにとっては実は最も過酷で苦しい時なんです。なぜならば、罪が許されるということは、これまでのすべての罪が罪だということで確定してしまい、コウタが許してくれたとしても、彼女自身が、その罪を許せなくなるからです。


言っている意味が分かるでしょうか?
(僕は、文章が冗長で誤字脱字が多すぎる上に、日本語ヘンなので(笑))


この作品は、最初の初手、数分(笑)で、もう既にルーシーが救われること、救済されることは「できない」と構造化しちゃっているんですよね。個人として、人を殺すこと、人間をモノとしてとらえるということは、そういうことを意味します。この手の作品の基本路線は、すべてこうです。つまりは、許されざる罪を抱える時、人はどうあるべきか?というといです。まぁ非常にキリスト教の現在的な発想と親和がある考え方だなーと思うのです。人類の抹殺やハルマゲドン的なものは、どうしてもこの罪と赦しの構造をとりやすいのでしょう。


petronius.hatenablog.com


これは何を言っているかというと、救済はされない、犯した罪のレベルが激しすぎて、救済しようがなくなった構造(=現実)において、最もつらいことは、本人が罪を罪だと認識することだ、といっているのです。


ちなみに、どうしても許されない存在を、許すか許さないか?のキワで揺れ続けた作品で、結局許しちゃうという構造の力学が読み取れる作品で、LDさんは、下記の作品をあげています。



特攻天女 1 (少年チャンピオン・コミックス)





さて、さらにもう一つ前の問題的に戻りましょう。



アカネちゃんは、許されるのですか?と僕が思って、ということです。これ、彼女が、許されるという構造には僕はないと思う。「しかしながら」、自分も含めて、彼女を許して、救いたいと思っている。


なぜか?


答えは、かわいいから。


そのように、脚本は設定されていると僕は思う。


新条 アカネちゃんが男だったら誰も救いたいとは思わないだろう、お前ら?という話です(笑)。というのは再度最初の、LDさんの指摘に戻れば、アカネちゃんは、『電光超人グリッドマン』の藤堂武史/魔王カーンデジファーに当たるんじゃないかな、と考えると、


なぜ、わざわざ、かわいい女の子にキャラクターを変換したの?という意図を考えちゃいますよね。


さて、結論です。僕は、あまり好きになれなかったし、主観評価も低い。けど、このアニメーションは、見事な出来だと評価できると思う。それは、『電光超人グリッドマン』というかこの作品を、アニメーションで作り直すときに、過去の脚本の本質を、どのように料理するか?作り手が吟味して、上記の構造で、人々に支持されるように作り直すという明確な意図をもって作っていて、それが成功しているからだ。もちろん、文学的に、罪と罰の問題、ベジータ問題という「視点で評価」するならば中途半端な作品かもしれないし、僕自身、そこが突き抜けていて、本質に応えていないので、もう一度見る気はない。あまり好きとは言えない。でも、それは、「その視点」からの評価だけにすぎない。そして、『電光超人グリッドマン』の藤堂武史が行った罪のドラマツゥルギーを、内面世界からの脱出を、いいかえれば心のセラピーをめぐる話にして、その場合には、確実に、むさい男だと視聴者に愛されない(笑)ので、愛されるようにキャラクターに魂を吹き込んだこと、、、その魂が、僕が言う形の罪と罰の本質に応えていないとしても、十分に受け手の人に愛されて「救いたい」という気持ちを喚起させた、という点で、この脚本は、完成している。なので、ツイッターで、僕は何となく好意的で、かつたくさんの立花やアカネの尊い絵が描かれていたんだろうと思うのです。


これで、最初に、直感的に僕が思った、なんで、ツイッターに、意味が分からないというのに、好意的な絵がたくさん上がるのだろう?。視聴後が面白かったけれども、何となく釈然としないで、もう一度見る気は起きないのに、アカネちゃんと六花はかわいいなとか素直に思ったのはなぜだろうという、ばらばらで抽象的な疑問に、すべて応えられていると思う。すげぇ、LDさん。


もう少し細かい解説は、ラジオでやっていますので、そちらでー。



物語三昧ラジオ




10.6(土)~スタート!新番組『SSSS.GRIDMAN』放送直前PV!